2015年8月2日日曜日

リーシーの物語 感想

 スティーヴン・キングの「リーシーの物語」を彼女から借りて読んだ。上下巻なので1日一冊だと2日はもつ。
 いつも通り適当なあらすじを書くと、作家(ピュリツアー賞とか受賞しているので大作家と言った方が良いかもしれない)のスコット・ランドンの妻であるリーシーは、夫の死後2年ぐらい夫の作業場の片づけが出来ておらず、ようやく姉のアマンダと一緒になって片づけようかとしていた際に、カスッドボディら、「インカン族」の黒太子なる変態野郎ジム・ドゥーリーに襲われたり、アマンダが永遠の海賊乙女になりにあっちの世界に行ったりして大変な中、その対処法として、実はスコットが「ブーヤ・ムーン」なる素晴らしい別世界へ飛ぶことができる能力者だったことを思い出し、その変態野郎やら、姉の問題やらを別世界の素晴らしいパワーで解決する話である。
 現実のクソを非現実のパワーで解決するという点、女性が変態野郎(今回は「ジュニアハイスクールのダンスパーティーで男の子たちに触らせなかったような部分」を痛めつけたい病のクソ)をぶっ飛ばす点などは、例えば「ビッグ・ドライバー」や、「ローズ・マダー」でも同様の展開があり、特に異世界に引きずり込んで殺す点で「ローズ・マダー」に近いものを感じる。しかし、今回は夫婦の関係が鍵になっている点、異世界の描写がより詳細に描かれている点で、キングの過去作とは異なる部分がある。
 個人的には特に「ローズ・マダー」では俺が本当に個人的に問題視していたデウス・エクス・マキナ的な非日常が、今作では唐突に感じられず、むしろ物語をより深くするために用いられていた点で素晴らしいと思った。そのような差異をもたらした要因は、やはり非日常的な異世界を日常に「近づけた」ことにあると考えられる。
 「ローズ・マダー」では、問題解決をもたらした異世界は、(1)主人公の力が及ばないものであった、(2)物語の後半で急に登場した、(3)現実世界では人を殺す以外に利益をもたらすようなものではない、という点で、(ある意味自然なのだが)異世界は現実世界の視点からすれば違和感の強いものとして描かれていた。結果として、異世界登場から現実世界からの退場後の描写について、俺は「日常と非日常の帳尻を合わせる」という表現で批判している。
 しかし、今作ではこの帳尻合わせが必要性を持っている。問題解決をもたらした異世界は、(1)主人公がある程度自発的に「行く」ことができる、(2)物語の前半からフランクが抱える病気のようなものとして登場していた、(3)現実世界では人を殺す以外に(最終的にキングの世界では登場人物にとって価値のある)傷を癒す利益をもたらす、という点で、異世界は現実に非常に近い。より正確な表現を使えば、今作の異世界は別次元の非現実ではなく、「現実が裏返った場所」に過ぎない。
 これらの点から、今作では異世界「ブーヤ・ムーン」は、物語にとって必要とされるポジションを占めている。今作では大きく分けて3つの回収しなければならない伏線があり、(1)変態クソ野郎の始末、(2)アマンダの問題の解決、(3)スコットによる「リーシーの物語」の発見がそれぞれ該当していた。正直紙片上回収可能なのかと不安に思っていたが、最終的には「ブーヤ・ムーン」というデウス・エクス・マキナ化を回避した世界を軸として、パズルが嵌るように全て回収されることとなった。物語として完成している作品と言える。
 最後に完全な余談だがスコットの死因は「おおかみこどもの雨と雪」の父親の死因ぐらい個人的なまぬけ感を感じた。完全な余談で申し訳ないがあの部分に異様なまぬけ感(「なんでそこで普通の病院に行かずに変なもん無理して拾い食いすんのかなあ~?」という感覚)があるものの、まあスコットのバックグラウンドの描写で彼が様々な業を背負って成長した人間で既に限界に達していたという可能性、実は病気が深刻だった可能性等を考慮して、「いや、スコットは自分の運命を知っていたんだよ・・・」と月並みな反駁を勝手にしておくとする。現実はラルフである。

2015年7月28日火曜日

姫路に行ってきた話

しろまるひめ

 この前彼女と一緒に姫路に行ってきた。姫路と言えば城である。

虎棒
 しかし、俺たちは動物園マニアなので、初日に城に行かずに姫路セントラルパーク(姫セン)というサファリパークへ行った。セントラルパークまではバスで30分ぐらいだった。姫路の良い所は都心部から観光地までが近いことである。

ライオン。なお姫センのパンフレットではなぜか虎とチーターのみ触れられていたが、ちゃんとライオンもワシントン条約の保護対象である。

 姫センでは動物にしか興味が無いというのに30分以上待ってやっと猛獣バスに乗れた。動物にしか興味が無いというのに。待っている間場末(としか形容のしようがない)遊園地をぶらぶらしていて暑かった。
 その後、猛獣バスに乗ってサファリパークをやっと観たのだが、何分暑すぎたため、動物たちのほとんどは木陰で上記の写真の虎のような状態であった。しかし、俺はこの棒のような虎が好きである。

姫路城

 結局1日目は姫センのみを観て回り、城に行ったのは2日目だった。
 しかし、俺たちが無知であったため、城に行くと(午前10時ぐらいだったが)既に天守閣へ入るのに1時間待ちの状態になっており、「いやいや、流石に整理券システムで、待ってる間にいろいろ観て回っても良いんじゃないか」と思ったら長蛇(としか形容のしようがない)列ができていて、絶望した。

あの右側のちょっとした城みたいなのが結局謎のままである・・・。

 そして、天守閣に登ることを諦めることにした。9時に開城後すぐにあの場所まで行かないと無理らしい。
 しかし、姫路城は広かったため、天守閣以外にも、お菊井戸や西の丸、千姫化粧櫓など、様々観るところがあり、やろうと思えばそこで1日潰せるようなコンテンツが盛りだくさんであった。姫路は正直ぱっとしない印象だと思うが、行ったら案外面白い場所だと思う。

2015年7月4日土曜日

京都水族館の話


大音量のBGMと映像によって強調されたクラゲゾーン

 この前彼女と京都水族館に行っていた。京都まで行って神社仏閣に何も関心を示さずにただ京都水族館のみを観る、という水族館好きしか成しえないことをやってきた。水族館好きなので何の問題も無い。実際さぞかし人は居ないんだろうと思っていたが、開館前に着くと既に家族連れが並んでいたし、何の問題も無い。
 京都水族館の全体的な感想としては、とにかくこの小規模の水族館の武器を活かそうという設計が施されていた。具体的には、上記した写真のように実際は大したことが無い展示物であっても展示の方法に工夫をこらしたり、内部で食べられるカフェ等をかなり現代的な感覚でアレンジしたりなどである。都市部の水族館の戦略としては非常に妥当な方法だと思う。
 特に目玉という展示物は、実際のところ少ないが、特にオオサンショウウオに関心がある人は入ってすぐのオオサンショウウオコーナーに気を引かれると思う。子供の頃は将来オオサンショウウオになりたいと思っていた時期が一時期あった筆者にとっても関心があるコーナーであった。ちなみにその前は「はぶくつかん」の館長になりたいと思っており、その前は卵焼きになりたいと思っていた。

2015年6月25日木曜日

酔って候 感想

 一か月ぐらい前に司馬遼太郎の「酔って候」という素晴らしい中編集を読んでいたので感想を書く。実は読んで気づいたのだが、「酔って候」は前に感想を書いた「幕末」と対になっているような作品であり、「幕末」で登場してきた維新の「実行部隊」より、延長線である戦争をさらに遡って、より政治的な駆け引きを行っている人々として、「幕末の四賢候」の姿が描かれている。「賢候」と言うがタイトルから分かる通りこいつらが別に異様に賢いわけでもない。というか、島津久光自体は「賢候」ではなく「賢候」だった斉彬の兄弟である。
 いつも通り適当に四編のあらすじを書くと、生まれる時代を間違えたかのような酒豪である土佐の山内容堂の姿を描いた表題作「酔って候」(維新後は飲酒を原因とする脳溢血で死亡)、利用されまくり西郷との仲も悪かった薩摩の久光を描いた「きつね馬」、宇和島藩で蒸気船の開発を市井の天才にさせた伊達宗城が登場する(主役ではない。「天才」の方が主役)「伊達の黒船」、多分四編の中では一番賢い松平春嶽を描いた「肥前の妖怪」から成る作品である。
 「燃えよ剣」の近藤勇などと同じく、司馬遼太郎は無骨な文体で馬鹿とみじめな人間をとことん馬鹿でみじめに描く。今回は上記した島津久光がそのターゲットであった。人間というのはどの時代も自分の外に自分の世界を無理やり作ろうとするとみじめで滑稽に映るらしい。
 

2015年5月25日月曜日

天才数学者の最期

 俺が物語を通じて関心を持ったばかりの天才数学者の最期は交通事故だった。享年87歳。明日俺も交通事故で死ぬかもしれないので、やっぱり好きなように生きた方が良いと思う。

2015年5月10日日曜日

幕末 感想

 司馬遼太郎の「幕末」を読んだ。最近読んだ短編集の中では一番良い。全然本を読んでいないのだが。
 いつも通り適当にあらすじを書くと、1860年に発生した桜田門外の変を皮切りに、幕末の日本で発生した倒幕運動の中で行われた暗殺事件を取り上げた作品である。文脈が共有されているので、斎藤一など、自然と司馬遼太郎の他の作品で取り扱われた登場人物が出てくる。
 司馬遼太郎が言うように、暗殺という行為は、ほとんどの場合は無駄に終わる。世直しが目的でも全然世の中はそれだけで良くならないし、政権転覆が目的だったとしても全然「転覆」と言えるまでの変化が起こらなかったり、転覆した直後にまた別の勢力に転覆させられたりする。しかし、日本でも他の失敗国家の歴史が抱えているような血で血を洗う殺し合いが幕末に発生していた。特に京都はやばい。テロ集団が雑居していたようなものである。当時の住人からすれば今の観光地の姿はあまり想像できないと思う。
 さて、本短編集の中で最も印象に残ったのは初代総理大臣となった伊藤博文の若かりし頃を描いた「死んでも死なぬ」と、桜田門外の変から8年後、幕末も幕末にイギリス行使を襲撃した三枝蓊らを描いた「最後の攘夷志士」であった。前者と後者は時代の変節というものが残酷であることをうまく対比させている。前者については、維新を成す殺人として正当化され、殺人者どころか権力を担う者となったのに対し、後者については謀反人として斬首され、「永遠の罪」を背負わされている。前者については、日本の初代総理大臣が歴とした殺人者であったことを描いている点でも面白いのだが、この対比が1860年以後の約10年間の日本の激変をうまく表現していると思う。「ほんの数ヵ月前なら、かれらは烈士であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は、叙勲の栄があったであろう。」という一文が、三枝ら報われなかった維新志士を表している。血に塗れて誕生した大日本帝国は、その後50年以上外国人と自国民の血を洗ったので、次は宇宙人とかゾンビとかの血を洗うようにならないで欲しいと願うばかりである。

2015年4月16日木曜日

ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡 感想

 数学者ジョン・ナッシュの半生を描いた「ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡」を呼んだ。「やっと読んだ」と言う方が正しい。なぜかこの本を読むのに1年かかったからだ。別にその間俺の読むスピードが極端に落ちて1日1ページ読むのがやっとだったとか、忙しくて全く本も読めない状態だったというわけではない。確かに本は昨年1年間極端に読まなくなったが、他の本についてはまあ読んでいた。おそらく俺の数学嫌いが影響したのかもしれない。嘘だが。
 いつも通り適当なあらすじを書くと、この本はジョン・ナッシュという、数学分野で「天才的」と呼ばれる業績を持つ学者が統合失調症に罹った話を描写した作品である。「天才数学者の半生」には特に価値は無いかもしれないが、この天才が統合失調症という、思考が要される学者にとって致命的と言える精神の病に罹り、そこから復活したことを描写している点で、この本には読む価値がある。
 ところで、俺は数学が嫌いである。もっと言うと、数の計算に関わるあらゆることに全く価値が見いだせない。面白くないのである。今は昔と違って「学問的な興味」みたいな、学問好きが持つフィルターみたいなものを通して数学を見ることができるようになったため、俺は数学を他の学問分野と同様に「尊重」して捉えることができるのだが、それは「好き」であることとは違う。小学3年生の頃に半年ぐらい俺は小学校に行かなくなったが、それはいじめや勉強ができないというのではなく、本当にピンポイントで「算数が嫌い」だったことが原因だったほどである。算数ドリルやワークブックという、全く価値の見いだせないクソのために「がんばり学習」とかで夕方4時ぐらいまで残され、あれができていない、これができていない、こんなのもできないの?とクソ教師(俺が付けたニックネームだと「眼鏡ババア」)に言われるのが我慢ならなかった。「うるせぇクソが!俺(様)を残すんだったら他の面白い理由で残せ!」と言いたかったが、(まだ)言えない小心者だったので、やらない、という選択をした。理由がピンポイントだったので、別に算数ができなくても俺を残さなくなった先生になった小学4年生以後のクラスでは、「何事も無かったかのように」学校に行くようになっている。
 このような筆者であったが、特にこの本に価値があると思わされたのは、前半部分のナッシュのよく「天才」にありがちな傲岸不遜と呼ばれる行動様式と、それでもやることはやって成功しましたという感じの描写ではなく、やはり後半部分の統合失調症の罹患状態と、そこからの回復にある、と思われる。
 とりわけ、「ノンフィクションもの」なので、半分歴史学的なリサーチが要される作業だったと思うが、各精神病院の施設状況や特徴まで、詳細な描写がされていて、それがナッシュが直面した絶望の描写を際立たせている。途中のカフカの作品や彼の作品を使ったナッシュの状態の描写の部分については、カフカ好きの人間からすれば的外れ感があったのだが、それ以外の後半の描写にはリアリティがあった。統合失調症からのナッシュの回復が、劇的にもたらされたものではなく、「なんとなく」治ったということ、そこからノーベル経済学賞受賞という学者にとっての最高の栄誉もまた、彼自身の生活に劇的な変化をもたらしたわけではなく、彼の学問的態度が継続した点に変わりがない、ということについては、かなり現実味のある書き方がされていると思う。俺のように数学や算数ができなくても、この本には読む価値があるだろう。「眼鏡ババア」も読んでいたら算数ドリルができないというどうでもいい理由で俺を残さず、さっさとお互い家に帰ってもっと生産的なことに時間を使えたかもしれない。