2015年8月27日木曜日

FFXIV 蒼天のイシュガルド 感想

 FFXIV初の拡張ディスクである蒼天のイシュガルドのメインストーリーをようやく終えた。またいつか書くかもしれないが、俺は新生エオルゼアはメインストーリーを終えて真イフリートに行く前に課金を止めて以後、1年近く起動していないような状態だったので、正確に言えばイシュガルドに行く前にもかなりやることがある状態であった。いわゆる「復帰勢」というやつである。
 今回の感想はイシュガルド到着後のものに絞って書くが、いつも通りかなり適当なあらすじを書くと、あらぬ疑いをかけられて指名手配された主人公と、指名手配される過程で崩壊した「暁」のアルフィノと共にイシュガルドで暮らし始め、やがてイシュガルドにおける1000年に及ぶ人間と竜との戦争に巻き込まれ、戦争の真実を知った後、帝国だろうが竜だろうが召喚するのに1000年もかけた蛮神だろうが、全員ぶっ飛ばしまくって、やがて敵側にすら引かれてしまうほどの戦闘力を手に入れてしまう・・・という話である。敵が可哀想になってくる
 今回のストーリーは新生エオルゼアよりも「戦争」というテーマを全面に出しているので重量で比較すると重い。ファイナルファンタジーシリーズはしばしば勧善懲悪ではないし、仲間も(フェニックスの尾やレイズでも不可逆な)死を迎えるのだが、今回のシナリオでもファイナルファンタジーっぽい展開で人が死ぬ。蒼天のイシュガルドへの導入の段階から腕を失った人が居たりアジトを失ったりしていたが、今回も失うのである。そしてややゴリ押し気味の猫耳女は視力を失って服やら杖やらジョブやら全部白くなる。是非サンクレッド君も復帰する際にあの冴えない短剣を新調してやって欲しい。
 今回のストーリーでピンポイントで良かった点は、「歴史のある戦争」という状況が種族設定を踏まえて説得的に解釈されていた点である。上記した通り今回は竜と人が戦争している状況があるのだが、戦争の根本的な原因になったのは月並な人間の強欲であった。しかし、月並な人間の強欲を謝罪することが戦争の解決にならないことが明示される。なぜなら、竜の寿命は1000年を超えるものであり、人間の戦争経験が世代交代で風化して二次的にも三次的にも四次的にもなっていくのに対し、竜の戦争経験は直接的で、常に一次的なものであるからである。常に当事者の記憶として戦争経験を保持する以上、そもそも戦争に対する捉え方がまるで違う。人間は寿命上二次的な歴史資料と宗教に依拠して戦争経験に対して共感しなければ、戦争の相手側に対する憎しみを1000年継続して抱くことができないのに対し、竜側は常に憎しみを直接的な原因に関する経験から再生産し続けることができ、戦争への強い動機を掴むまでの距離が人側に比較して近いのだ。
 このような憎しみへの距離の違いは、たとえエスティニアンのように家族を竜に殺された、という直接的な経験に基づく憎しみに依拠する場合でも例外ではない。結局は100年以内に寿命が尽きて大体の人間は死んで二次的な媒体に経験は埋没してしまうので、戦争に人間を継続的に動員するためには強い宗教で縛るしかなく、物理的な理由で軽薄な生でしかない人間の言葉は1000年生き続けて恨み続けている竜にとっては軽薄でしかなく、戦争の解決手段にはならない。イシュガルド国教と皇王の存在や彼の言葉は、一見イロモノめいて政教分離もない危ない国という印象を受けるが、上記の理由により終わりない戦争を演出して終わりない竜の恨みと攻撃から国を守らないと国を維持できない状況だったため、今回のシナリオにおいては説得力があった。
 なお、今回の拡張ディスクのみがもたらした状況ではないものの、日本で有数のギスギスの名所だったFFXIVの旧エンドコンテンツも、ILの上昇と詩学入手の緩和により、CFでも十分クリア可能なので、別に拡張していない人間もちょっと触ってみても良いかもしれない。

2015年8月2日日曜日

リーシーの物語 感想

 スティーヴン・キングの「リーシーの物語」を彼女から借りて読んだ。上下巻なので1日一冊だと2日はもつ。
 いつも通り適当なあらすじを書くと、作家(ピュリツアー賞とか受賞しているので大作家と言った方が良いかもしれない)のスコット・ランドンの妻であるリーシーは、夫の死後2年ぐらい夫の作業場の片づけが出来ておらず、ようやく姉のアマンダと一緒になって片づけようかとしていた際に、カスッドボディら、「インカン族」の黒太子なる変態野郎ジム・ドゥーリーに襲われたり、アマンダが永遠の海賊乙女になりにあっちの世界に行ったりして大変な中、その対処法として、実はスコットが「ブーヤ・ムーン」なる素晴らしい別世界へ飛ぶことができる能力者だったことを思い出し、その変態野郎やら、姉の問題やらを別世界の素晴らしいパワーで解決する話である。
 現実のクソを非現実のパワーで解決するという点、女性が変態野郎(今回は「ジュニアハイスクールのダンスパーティーで男の子たちに触らせなかったような部分」を痛めつけたい病のクソ)をぶっ飛ばす点などは、例えば「ビッグ・ドライバー」や、「ローズ・マダー」でも同様の展開があり、特に異世界に引きずり込んで殺す点で「ローズ・マダー」に近いものを感じる。しかし、今回は夫婦の関係が鍵になっている点、異世界の描写がより詳細に描かれている点で、キングの過去作とは異なる部分がある。
 個人的には特に「ローズ・マダー」では俺が本当に個人的に問題視していたデウス・エクス・マキナ的な非日常が、今作では唐突に感じられず、むしろ物語をより深くするために用いられていた点で素晴らしいと思った。そのような差異をもたらした要因は、やはり非日常的な異世界を日常に「近づけた」ことにあると考えられる。
 「ローズ・マダー」では、問題解決をもたらした異世界は、(1)主人公の力が及ばないものであった、(2)物語の後半で急に登場した、(3)現実世界では人を殺す以外に利益をもたらすようなものではない、という点で、(ある意味自然なのだが)異世界は現実世界の視点からすれば違和感の強いものとして描かれていた。結果として、異世界登場から現実世界からの退場後の描写について、俺は「日常と非日常の帳尻を合わせる」という表現で批判している。
 しかし、今作ではこの帳尻合わせが必要性を持っている。問題解決をもたらした異世界は、(1)主人公がある程度自発的に「行く」ことができる、(2)物語の前半からフランクが抱える病気のようなものとして登場していた、(3)現実世界では人を殺す以外に(最終的にキングの世界では登場人物にとって価値のある)傷を癒す利益をもたらす、という点で、異世界は現実に非常に近い。より正確な表現を使えば、今作の異世界は別次元の非現実ではなく、「現実が裏返った場所」に過ぎない。
 これらの点から、今作では異世界「ブーヤ・ムーン」は、物語にとって必要とされるポジションを占めている。今作では大きく分けて3つの回収しなければならない伏線があり、(1)変態クソ野郎の始末、(2)アマンダの問題の解決、(3)スコットによる「リーシーの物語」の発見がそれぞれ該当していた。正直紙片上回収可能なのかと不安に思っていたが、最終的には「ブーヤ・ムーン」というデウス・エクス・マキナ化を回避した世界を軸として、パズルが嵌るように全て回収されることとなった。物語として完成している作品と言える。
 最後に完全な余談だがスコットの死因は「おおかみこどもの雨と雪」の父親の死因ぐらい個人的なまぬけ感を感じた。完全な余談で申し訳ないがあの部分に異様なまぬけ感(「なんでそこで普通の病院に行かずに変なもん無理して拾い食いすんのかなあ~?」という感覚)があるものの、まあスコットのバックグラウンドの描写で彼が様々な業を背負って成長した人間で既に限界に達していたという可能性、実は病気が深刻だった可能性等を考慮して、「いや、スコットは自分の運命を知っていたんだよ・・・」と月並みな反駁を勝手にしておくとする。現実はラルフである。

2015年7月28日火曜日

姫路に行ってきた話

しろまるひめ

 この前彼女と一緒に姫路に行ってきた。姫路と言えば城である。

虎棒
 しかし、俺たちは動物園マニアなので、初日に城に行かずに姫路セントラルパーク(姫セン)というサファリパークへ行った。セントラルパークまではバスで30分ぐらいだった。姫路の良い所は都心部から観光地までが近いことである。

ライオン。なお姫センのパンフレットではなぜか虎とチーターのみ触れられていたが、ちゃんとライオンもワシントン条約の保護対象である。

 姫センでは動物にしか興味が無いというのに30分以上待ってやっと猛獣バスに乗れた。動物にしか興味が無いというのに。待っている間場末(としか形容のしようがない)遊園地をぶらぶらしていて暑かった。
 その後、猛獣バスに乗ってサファリパークをやっと観たのだが、何分暑すぎたため、動物たちのほとんどは木陰で上記の写真の虎のような状態であった。しかし、俺はこの棒のような虎が好きである。

姫路城

 結局1日目は姫センのみを観て回り、城に行ったのは2日目だった。
 しかし、俺たちが無知であったため、城に行くと(午前10時ぐらいだったが)既に天守閣へ入るのに1時間待ちの状態になっており、「いやいや、流石に整理券システムで、待ってる間にいろいろ観て回っても良いんじゃないか」と思ったら長蛇(としか形容のしようがない)列ができていて、絶望した。

あの右側のちょっとした城みたいなのが結局謎のままである・・・。

 そして、天守閣に登ることを諦めることにした。9時に開城後すぐにあの場所まで行かないと無理らしい。
 しかし、姫路城は広かったため、天守閣以外にも、お菊井戸や西の丸、千姫化粧櫓など、様々観るところがあり、やろうと思えばそこで1日潰せるようなコンテンツが盛りだくさんであった。姫路は正直ぱっとしない印象だと思うが、行ったら案外面白い場所だと思う。

2015年7月4日土曜日

京都水族館の話


大音量のBGMと映像によって強調されたクラゲゾーン

 この前彼女と京都水族館に行っていた。京都まで行って神社仏閣に何も関心を示さずにただ京都水族館のみを観る、という水族館好きしか成しえないことをやってきた。水族館好きなので何の問題も無い。実際さぞかし人は居ないんだろうと思っていたが、開館前に着くと既に家族連れが並んでいたし、何の問題も無い。
 京都水族館の全体的な感想としては、とにかくこの小規模の水族館の武器を活かそうという設計が施されていた。具体的には、上記した写真のように実際は大したことが無い展示物であっても展示の方法に工夫をこらしたり、内部で食べられるカフェ等をかなり現代的な感覚でアレンジしたりなどである。都市部の水族館の戦略としては非常に妥当な方法だと思う。
 特に目玉という展示物は、実際のところ少ないが、特にオオサンショウウオに関心がある人は入ってすぐのオオサンショウウオコーナーに気を引かれると思う。子供の頃は将来オオサンショウウオになりたいと思っていた時期が一時期あった筆者にとっても関心があるコーナーであった。ちなみにその前は「はぶくつかん」の館長になりたいと思っており、その前は卵焼きになりたいと思っていた。

2015年6月25日木曜日

酔って候 感想

 一か月ぐらい前に司馬遼太郎の「酔って候」という素晴らしい中編集を読んでいたので感想を書く。実は読んで気づいたのだが、「酔って候」は前に感想を書いた「幕末」と対になっているような作品であり、「幕末」で登場してきた維新の「実行部隊」より、延長線である戦争をさらに遡って、より政治的な駆け引きを行っている人々として、「幕末の四賢候」の姿が描かれている。「賢候」と言うがタイトルから分かる通りこいつらが別に異様に賢いわけでもない。というか、島津久光自体は「賢候」ではなく「賢候」だった斉彬の兄弟である。
 いつも通り適当に四編のあらすじを書くと、生まれる時代を間違えたかのような酒豪である土佐の山内容堂の姿を描いた表題作「酔って候」(維新後は飲酒を原因とする脳溢血で死亡)、利用されまくり西郷との仲も悪かった薩摩の久光を描いた「きつね馬」、宇和島藩で蒸気船の開発を市井の天才にさせた伊達宗城が登場する(主役ではない。「天才」の方が主役)「伊達の黒船」、多分四編の中では一番賢い松平春嶽を描いた「肥前の妖怪」から成る作品である。
 「燃えよ剣」の近藤勇などと同じく、司馬遼太郎は無骨な文体で馬鹿とみじめな人間をとことん馬鹿でみじめに描く。今回は上記した島津久光がそのターゲットであった。人間というのはどの時代も自分の外に自分の世界を無理やり作ろうとするとみじめで滑稽に映るらしい。
 

2015年5月25日月曜日

天才数学者の最期

 俺が物語を通じて関心を持ったばかりの天才数学者の最期は交通事故だった。享年87歳。明日俺も交通事故で死ぬかもしれないので、やっぱり好きなように生きた方が良いと思う。

2015年5月10日日曜日

幕末 感想

 司馬遼太郎の「幕末」を読んだ。最近読んだ短編集の中では一番良い。全然本を読んでいないのだが。
 いつも通り適当にあらすじを書くと、1860年に発生した桜田門外の変を皮切りに、幕末の日本で発生した倒幕運動の中で行われた暗殺事件を取り上げた作品である。文脈が共有されているので、斎藤一など、自然と司馬遼太郎の他の作品で取り扱われた登場人物が出てくる。
 司馬遼太郎が言うように、暗殺という行為は、ほとんどの場合は無駄に終わる。世直しが目的でも全然世の中はそれだけで良くならないし、政権転覆が目的だったとしても全然「転覆」と言えるまでの変化が起こらなかったり、転覆した直後にまた別の勢力に転覆させられたりする。しかし、日本でも他の失敗国家の歴史が抱えているような血で血を洗う殺し合いが幕末に発生していた。特に京都はやばい。テロ集団が雑居していたようなものである。当時の住人からすれば今の観光地の姿はあまり想像できないと思う。
 さて、本短編集の中で最も印象に残ったのは初代総理大臣となった伊藤博文の若かりし頃を描いた「死んでも死なぬ」と、桜田門外の変から8年後、幕末も幕末にイギリス行使を襲撃した三枝蓊らを描いた「最後の攘夷志士」であった。前者と後者は時代の変節というものが残酷であることをうまく対比させている。前者については、維新を成す殺人として正当化され、殺人者どころか権力を担う者となったのに対し、後者については謀反人として斬首され、「永遠の罪」を背負わされている。前者については、日本の初代総理大臣が歴とした殺人者であったことを描いている点でも面白いのだが、この対比が1860年以後の約10年間の日本の激変をうまく表現していると思う。「ほんの数ヵ月前なら、かれらは烈士であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は、叙勲の栄があったであろう。」という一文が、三枝ら報われなかった維新志士を表している。血に塗れて誕生した大日本帝国は、その後50年以上外国人と自国民の血を洗ったので、次は宇宙人とかゾンビとかの血を洗うようにならないで欲しいと願うばかりである。