2012年3月21日水曜日

偽物語 感想

西尾維新作の偽物語の感想を書こうと思う。感想と言っても最近日本で放映されたアニメの方ではなく、原作の方である。いつも通り死ぬほど簡単にあらすじを書いておくと、私立直江津高校3年の主人公阿良々木暦の妹である火憐が詐欺師をぶっ飛ばしに行って返り討ちに遭う話と、その下の妹である月火が実は不死身の怪異だったことが分かる話の上下巻2本立てである。一冊千円を超えるのでどう考えても中高生をターゲットにしている割には高い。
 そう言えば西尾維新の小説について感想を書くのは初めてなので原作者についても言及しておこうと思う。俺は今までに明白なる彼の代表作である「戯言シリーズ」を彼女から借りて全部読んでいるのだが、彼の作風を一言で言えばキャラ設定が上手いことに尽きる。物語に許されていて現実世界で許されないことの1つに「キャラが被らない」ことが挙げられると俺は思う。実は現実世界ではあり得るようであり得ないのだが、他人とキャラが被らないような人間というのはそれほど多くない。日本人なんて実際は似たり寄ったりのことを似たり寄ったりの境遇の奴が考えていることの方が多いし、似たり寄ったりの髪型で似たり寄ったりの格好をしていることの方が多いのだ。西尾維新がやっていることはその真逆で、極めて物語を劇的にするために似たり寄ったりの性質を持ったキャラクターを本筋に登場させることはかなりの場合避ける。それも消極的に避けるというよりは、積極的に差異化を図って徹底的に避ける。もちろん他の多くの物語も作り話を短時間で分かりやすく伝えるため、多かれ少なかれ「しっかりしたキャラ設定」という名目でキャラの差異化を図るのだが、彼の場合は名前から口癖まで丁寧に差異化しようとする場合が多い。彼の作品において劇的ではない登場人物にはそもそも登場の機会そのものが限定されているのである。
 一言ではなくなるのだが、あと1つ付け加えるとすればいちいち「ここが劇的な部分ですよ」ということを文章中の表現で説明しようという点だろうか。例えばヘミングウェイ等に見せれば怒られそうな表現の仕方なのだが、物語が盛り上がる部分で―や同じ言い回しやそのパラフレーズを繰り返すのが常套手段になっている。「そこが重要な部分ですよ」というのを読者にはっきりと分からせる手法で、鼻に付く人はとことん鼻に付く方法だなと思う。逆に時間が無い人にとっては分かりやすくてありがたいのだろうが。今まで読んだどの本も主人公の独白がそんな感じなので、編集者に言われてやっているというわけでもないらしい。俺などは何度生まれ変わってもそういう書き方が絶対にできないなと思う。ちなみに俺の勝手な想像だが、彼?が自分自身のパーソナリティを投影して作ったのは間違いなく「戯言シリーズ」のいーちゃんで、おそらく彼は日常的にはいーちゃんのように物事を心の中で考えていても、おそらくその振る舞いは思っているようにはできていないんだろうなと思う。思っていることを外面に出したのが多分いーちゃんで、「新本格魔法少女りすか」の供犠創貴や「化物語」の阿良々木暦などは明確にそのオルタナティブだと思う。つまりいーちゃんに限らず他の作品の主人公もれっきとした「戯言遣い」の場合が多く、彼の作品ではある程度「戯言遣い」であることが主人公の資格として要されるらしい。
 さて、偽物語の本編についてであるが、作者はあとがきでこれ自体でも楽しめるといったことを書いているが、俺は前作から読んだ方が良いと思う。もちろん阿良々木火憐・月火という、化物語であまり中心人物ではなかった者に焦点が当てられているので、表面的にはぱっとこの作品で出てきた者の話という感じはするが、実際は彼の作品は「群像劇中で極めて劇的な人々による喜劇」なので、化物語で登場した「極めて劇的な人々」の描写が、この作品の中での主要人物である妹達を自然な形で凌いでしまっている。つまり、シリーズものの続編としては順当な作品だが、これ単体をある意味「読み切り」として楽しめるかと言えばそれは保障できない。都合の良いことに「極めて劇的な人々」は大半が十代で、怪異への遭遇をある意味口実として彼らが人間として成長する姿を見ることが、「物語シリーズ」としての偽物語の価値だと俺は思うので、偽物語においても「主要登場人物」と言える前作の登場人物達の未熟さが描かれていた化物語は、偽物語を読む前に読んでおく方が良いだろう。少なくともその方が楽しめるだろう。
 また、肝心の妹等を含む新キャラについてだが、実はこの作品で最もキャラクターとして秀逸な登場人物だったのは上記した妹達ではなく詐欺師の貝木泥舟だと思われる。なぜなら彼は「極めて劇的な人々」の中ではほとんど唯一と言っていい明確な「悪」であり「黒」であり「影」だからだ。これまでの主要登場人物は結局のところ正当な理由をそれぞれ抱えて悩んだり戦ったりしていたが、この貝木泥舟は作者によって劇的な悪として主人公達と全く反対の価値観を持った存在として描かれている(もっと言えば明確に「戯言シリーズ」の西東天のオルタナティブである)。なので必然的に彼は「成長」から外れた大人でなければならなかったし、怪異の存在を認めない者でなければならなかった。この意味で、実は火憐や月火の代わりは他の「主人公サイドの」主要メンバーでも良かったが、貝木泥舟の代わりは誰も居ないのである。なので俺は偽物語で一番価値のある描写は貝木泥舟の描写だったと思っている。普段西尾維新にうんざりしている人でも貝木の描写だけは耐えられるかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿