2013年10月16日水曜日

ビッグ・ドライバー 感想

 何かちょっと隙があるので本当はモンハンがしたいのだがスティーヴン・キングの「ビッグ・ドライバー」の感想を書くことにする。「ビッグ・ドライバー」は以前感想を書いた「1922」と日本語訳版では姉妹本になっている作品で、以前紹介したものと同様に「救いのない状況で救いを求めて行動する人々」を描く中編集である。
 「ビッグ・ドライバー」の方に収められている作品についていつも通り適当あらすじを書くと、まず表題作になっている「ビッグ・ドライバー」では、道に迷った女流作家がレイプされて屑としか形容のしようがない犯人に復讐する話が描かれている。次の「素晴らしき結婚生活」では実はシリアルキラーであることを隠して長年結婚生活を送っていた屑としか形容のしようがない夫の裏の顔を知った妻がその夫をぶっ殺す話である。つまりこの本には屑としか形容のしようがない人間を殺さざるを得ない心境に陥った他者が殺す話が2本収められている。「1922」と明確に違うのは「ビッグ・ドライバー」で殺される側の人間は「ローズ・マダー」の夫と同様、目の前にデスノートがあったら8割以上の人は名前を書くであろう存在だという点であろう。「1922」では他人面で立派な消費者らしく主人公たちの行動を糾弾できたかもしれない人々が、「ビッグ・ドライバー」では糾弾するのに困難を覚えるかもしれない。
 個別の作品の感想について、まず「ビッグ・ドライバー」の方は、キングの人間を描く能力が良く活かされた作品だと思う。舞城王太郎の作品に関する感想を以前書いた時には指摘しなかったのだが、舞城王太郎が本当に男だと仮定した場合に、スティーヴン・キングと共有し得る部分は、異性(女)を描写するのが上手いという点だと思う。舞城王太郎についてはこの点に関する俺と俺の彼女の見解は同じなのだが、キングに関してはこれまでそれほど女性を書くのが上手いという点は俺の中で意識されていなかった。しかし、今作で改めて俺は気づかされたのだが、このスティーヴン・キングというモダン・ホラーの巨匠(兼薬物中毒者)は、女性を描くのが上手い。女性を書く行為そのものが上手いのか、それとも人間を描く能力の延長線上に位置づけられるのかは明確ではないが、多分「ビッグ・ドライバー」の展開と女性の心理に共感する人々は多いのではないか、と思う。
 「ビッグ・ドライバー」も女性が主人公だが、実は「素晴らしき結婚生活」の方も女性が主人公である(だから余計「女を書くのが上手いな」と思ったのかもしれない)。年齢はこちらの方が上で、初老の夫婦の内、妻の方がシリアルキラーである夫の正体に気付き、彼を殺す。
 本作に収められている作品2点に共通し、かつかなり作品の本質的な部分に触れるような感想を書くと、人間にとって「正しさ」とはどのように決められるのか、それを考えさせる作品だったと思う。人間は経験したことしか理解はできても納得はできないので、どこまで行っても他人の「正しさ」を経験できない以上、他人事なのだ。他人だからこそレイプ犯への復讐や身内のシリアルキラーを殺すことは「犯罪」だと糾弾できるし、実際苦痛と不正を経験しなかった者が多数派だったという単純な事実によって、人間社会は人が人を殺すことを正当化しなくてよくなり、不正を不正で贖うことを間違っていると見せかけることに成功していると個人的には思う。
 しかし、このように社会で示されている「正しさ」に関する人間の対応が「真実」かどうかは、問われるべきだろう。あとがきでキングが珍しく真面目な話をしているのは、この意味での「真実」性を物語が放棄するべきではないという内容だと解釈できる。物語という手法は、嘘であるからこそ社会で示されている嘘を嘘と偽ってそのまま表現しなくても良いのだ。「ビッグ・ドライバー」で避妊もされずに殴られながらレイプされたテスの存在も嘘だし、「素晴らしき結婚生活」で殺人依存症に陥り他者を食い物にしているボブの存在も嘘なのだ。しかし、だからこそ物語は社会で正当化されている見せかけの正義に正当性を持たせて、個々の登場人物が抱く個別の「正しさ」という真実から逃げなくても良いのだ。現実世界では糾弾すべき行動であっても、その糾弾の根拠となる「正しさ」は、苦痛と不正を味わった個人の感情にとって本当の正しさではない。嘘である物語だからこそ、人間が抱く真の感情をそのまま伝えることができるのであり、そこから逃げた時、物語は価値を失うのだと思う。

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