2014年2月5日水曜日

山月記 感想

 高校の教科書以来だが、最近山月記を読んだので(今更)感想を書く。
 いつも通り、作者の中島敦はこのブログで初登場となるので、作者について書いておく。中島敦は、その作風から大体推察できるように、漢学塾を営んでいた家庭に生まれた。「漢学」とは漢文で書かれた書籍を紐解き、そこから物語中に込められた思想などを学ぶ学問である(らしい)。このブログの筆者と世界が違い過ぎるので「漢学者」と呼ばれる人々が毎日何をして過ごしているのかは完全に想像の世界の産物だが、まあ漢字(それもちょっと難しい)で書かれた文書を読み漁る生活を送っているのだと思う。
 このような家庭に生まれたたため、自然と中島敦の文学作品のモチーフとなったのは漢書である。中でも「山月記」は、真面目に学校に通って真面目に現国の授業が面白くなくなった場合に多くの人間が先取りして読む作品かと思う。一応中島敦は大学院に真面目に進学した(漢学がモチーフだったので作家の中でも当時のアカデミズムに迎合しやすかったのかもしれない)。33歳という若さでこの世を去っている。
 いつも通り(いつもに比べて更に適当な)あらすじを書くと、唐の時代にぱっと公務員試験を受験して主人公は公務員になったが、「俺はこんなところで終わる人間じゃねぇ」と一念発起し、妻子が居るのに公務員を辞めて、詩人デビューするも、鳴かず飛ばずで思い描いていた理想からはほど遠い生活を強いられてしまい、再度公務員に戻るものの、昔同期で役人になった自分より馬鹿な連中が順調に出世していて、そいつらに顎で使われるのに耐えられなくなったために虎になって野山を駆け巡る生活を送るようになった、という話である。普通の人間は「顎で使われるのに耐えられなくなった」ことで発狂して虎という別の哺乳類になることは無いが、この主人公はなった。しかも伊達直人のようにマスクをかぶるわけではなく、「ブレス・オブ・ファイア」の虎人のように自在に人間に戻れるということでもなく、不可逆的に虎として生きる運命を享受したのが主人公である。この作品の一番良いところは短いところだと思う。
 一応この作品の主題めいたことを書くと、この主人公は自尊心が高く、他者と競合して傷つくのが嫌だった(もっと言うと「本当は才能ないじゃんお前」とか判明してしまうのが嫌だった)ため、もともと自分が持っていた非凡な詩人としての才能を磨くことができないまま、中途半端に俗世の生活を選んでしまい、寂寥とした気持ちを抱いたまま虎になった=人間を害するものになった、ということを伝える話である。簡単に言うと、人類の宝を生み出す可能性を持った者が、人類を害する者になってしまった話である。現代的な感覚からすれば「言うほど不可逆的な変化で完全に人の生き方として間違いか?」と思ってしまうが、まあそういう感情を抱くことができるのも古い作品を読む意義だと思う。
 なお、そもそもこのように自尊心が高い男がどのように告白して妻を得たのかが気になるが、妻の方から「この人は将来すごい人になる」と思って声をかけてきた可能性もある。
 上で述べたものと同じく、現代的な感覚からすれば「最後の詩もいい感じだったみたいだし、いっそのこと短期でもいいから虎としてデビューしろよ」と軽薄な気持ちを抱いてしまうと思うのだが、中島敦がこの作品を書いた1942年当時は「人外の者になる」というのはショッキングな変化として受け入れられていたのだと思う。この種の話を人類の歴史上、一番直截簡明なタイトルで表したカフカが「変身」を書いたのが1912年である。
 (俺の想像の中では)「変身」に登場する虫はでかいゴキブリなのだが、あの虫になったグレゴール・ザムザは人語もまったく話せなかったためリンゴやらをどすどすぶつけられて「辞世の句」めいたものも残せずに唐突に死ぬ。このような違いを認識すると、やはり海外作品の変身ものの話の方が「寂寥」、「寂寞」といった後に引く感情を抱かせずにさっぱり終了できるのかもしれない。もっと言うと感情を描くのではなく、事実を描く点で違いがあるのかもしれない。ザムザ君の家族も「友を想って泣いた」りせず、何かそれぞれの新しい「虫」の居ない生活にガンダム00二期後期のOPの最後みたいな感じで歩み出すわけだし、人外になった奴が居なくなってさっぱり読み終えたいなら「変身」を、夜風呂に入ってから寝るまで延々べっとりした寂寥感を味わって芋焼酎でも飲みたい人は「山月記」を読んだら良いかもしれない。インセクター羽蛾のような人は別にして。

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