2016年9月18日日曜日

ドクター・スリープ 感想

 彼女から借りていたスティーヴン・キングの「ドクター・スリープ」を前日の昼ぐらいから読み始め、今読み終えた。久し振りにぶっ続けで読みたくなる長編であり、こういう本があると、やはり人生を使って本を読むということは、それ自体が良いものだと思わされる。酒を飲むのと同じである。読まずにいられない。
 そして、今Googleで検索して、「ドクター・スリープ」が映画化されることになっている情報を目にして、安堵した。当たり前である。これを映画化せずに何を映画化したら良いのだろう。俺がワーナー・ブラザーズの企画担当とかだったら、これを読んで1日後には上司に熱烈な企画書を書いて提出している。
 いつも通り適当なあらすじをまず並べると、「シャイニング」で“かがやき”を持つ少年として、オーバールックの惨劇と喪失を経験したダン・トランスは、ろくでもないアル中に育って各地を泥の中を這いずり回るように転々としていたが、やがてティニータウンの「リヴィングトン館」なる、終末医療の本部のようなホスピスで勤務し、“かがやき”を使って死の淵に至った者に、その淵を安らかに超えることを「ドクター・スリープ」として手伝っている内に、自分よりも更に強い“かがやき”を持つアブラという少女と出会い、やがて、アブラなどの“かがやき”を持つ少年少女の命気を狙い暗躍する「真結族」との闘いに身を投じていく・・・という話である。以上の造語を見ただけでキングの長編っぽい匂いしかしない。つまり面白そうな匂いしかしない。
 この作品についてはキングの長編が好きならほぼ確実に好きになるし、ぶっ続けで読みたくなるであろうことに疑いが無い。敵側が少し弱い、というよりダンとアブラの“かがやき”を持ったコンビが強過ぎるが故に、途中で敵側を応援したくなるぐらいだったが、その他の点では(あれほど書き尽くした)「シャイニング」で語られなかったことが丁寧に回収され、単に回収するだけではなく、それ自体が物語にとって必要だったと思わされる措置が施されていたと思う。「シャイニング」であれだけの思いをして喪失し、「その後の人生」を獲得した前作主人公であるダンが、かがやくどころか、アルコールの闇の中でのたうち回っていた、というのは、素直に残念な気分にもなるだろうが、それが物語の筋として正しい、ということも十分分かるのだ。
 余談だが、キングが創造した特殊能力の形容である“かがやき”(シャイニング)という言葉は、俺がもの凄く好きな特殊能力の形容の仕方である。これほどセンスに溢れた造語は無いというぐらいセンスに溢れていると思う。言ってしまえば超能力なのだが、“かがやき”と表現することで、読者は色を想起して能力を闇やホレス・ダーウェントなどの「怪物」と対比することができ、一辺倒ではない能力の揺らめきを明滅の如く感じ取ることができるのだ。
 もちろん、登場人物は別に「ククク・・・俺の“かがやき”(シャイニング)を喰らえ!!」とか言ったりしないのでそこは安心して欲しい。「シャイニング」も「ドクター・スリープ」もそんな安い表現の彼岸の彼岸と呼べる場所に位置している本である。

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