2013年6月3日月曜日

グレート・ギャツビー 感想

 読み直したいと言っていた「グレート・ギャツビー」を早速読んだ。俺としてはまともに自分で買って本を読んだのは(論文等を「確認」したのを除けば)実に数か月ぶりのことである。6年ぐらい前に買って読んだ本をもう1度買いなおして読むというのも不思議なものである。あと何度この作品を俺は死ぬまでに買いなおすのであろうか。
 いつも通り、まずスコット・フィッツジェラルドという不幸な男の話をしておかなければならない。まあ、まともな作家などは大体不幸なのだが。フィッツジェラルドはプリンストン大学を出て軍に入隊し、その後NYでコピーライターとして生計を立てながら小説を書いた。今回取り上げるグレート・ギャツビーは、彼の非凡な能力が注目を浴びていた、1925年に出版された作品である。この時期が彼の人生で最も輝いていたと言っても過言ではない。「移動祝祭日」という、ヘミングウェイの作品の文庫版としては新しい方に入る短編集でも言及されている通り、フィッツジェラルドの人生は貧困や妻の統合失調症などにより、苦行のようなものだった。偉業を残す人間は恵まれない境遇に生まれている、とか、世間では言われることがあるのだが、そんなことは他人事かつただの消費者だから言えるだけである。
 さて、その苦行の連続であった男が人生の絶頂期に書いた作品が「グレート・ギャツビー」である。いつもの簡略あらすじを書いておくと、イェール大学卒の主人公ニックは、証券会社で働くためにニューヨークへ出てくるのだが、そこで隣の家で毎晩のようにパーティーを開いているジェイ・ギャツビーと出会い、彼との交流を通じて、既にトム・ブキャナンと結婚しているデイジーという女性へのギャツビーの思いを知る・・・という話である。
 「グレート・ギャツビー」は一見名前からして華やかそうな話であるが、悲劇である。FFタクティクスの感想を書いた時と似たような感想だが、この作品も例外なく「持たざる者」ギャツビーのための出口などどこにも用意していない。自分の全てを偽物で塗り固めて二度と取り戻せない高尚な理想を追い求めるギャツビーも、自分の本物の成功者の地位を利用して低俗な現実を維持するブキャナンも、破局へ突き進んでいく。
 上記した簡略あらすじだと、一見ギャツビーの恋物語のように見えるが、それは違う。この物語でギャツビーが追いかけていたのは、過去に交際した良家(で例外なく浅薄)のデイジーという女性ではなく、彼女に投影している二度とやり直せない自らの過去という理想である。ギャツビーは、デイジーを手に入れることで、彼女に現在の夫のブキャナンを「愛したことはなかった」と言わせることで、自分が理想としてきた自分の人生が再構成されると思い込んでいるのだ。単純に自らの快楽のために愛人を囲っているブキャナンとは対照的である。悪い言い方をすればブキャナンは「大人」で現実しか見ていないが、ギャツビーは「子供」で、理想しか見ていない。
 しかし、この一見愚かな行いは、単に愚かだと否定されるべきものではないだろう。作者が語り部たる主人公を通じてギャツビーを褒め称えたように、嘘で塗り固められたこのギャツビーという男の自らの成功への理想へかける一途さは本物で、高尚だったからである。愚かさと偉大さは両立できるのだ。

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