司馬遼太郎の「幕末」を読んだ。最近読んだ短編集の中では一番良い。全然本を読んでいないのだが。
いつも通り適当にあらすじを書くと、1860年に発生した桜田門外の変を皮切りに、幕末の日本で発生した倒幕運動の中で行われた暗殺事件を取り上げた作品である。文脈が共有されているので、斎藤一など、自然と司馬遼太郎の他の作品で取り扱われた登場人物が出てくる。
司馬遼太郎が言うように、暗殺という行為は、ほとんどの場合は無駄に終わる。世直しが目的でも全然世の中はそれだけで良くならないし、政権転覆が目的だったとしても全然「転覆」と言えるまでの変化が起こらなかったり、転覆した直後にまた別の勢力に転覆させられたりする。しかし、日本でも他の失敗国家の歴史が抱えているような血で血を洗う殺し合いが幕末に発生していた。特に京都はやばい。テロ集団が雑居していたようなものである。当時の住人からすれば今の観光地の姿はあまり想像できないと思う。
さて、本短編集の中で最も印象に残ったのは初代総理大臣となった伊藤博文の若かりし頃を描いた「死んでも死なぬ」と、桜田門外の変から8年後、幕末も幕末にイギリス行使を襲撃した三枝蓊らを描いた「最後の攘夷志士」であった。前者と後者は時代の変節というものが残酷であることをうまく対比させている。前者については、維新を成す殺人として正当化され、殺人者どころか権力を担う者となったのに対し、後者については謀反人として斬首され、「永遠の罪」を背負わされている。前者については、日本の初代総理大臣が歴とした殺人者であったことを描いている点でも面白いのだが、この対比が1860年以後の約10年間の日本の激変をうまく表現していると思う。「ほんの数ヵ月前なら、かれらは烈士であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は、叙勲の栄があったであろう。」という一文が、三枝ら報われなかった維新志士を表している。血に塗れて誕生した大日本帝国は、その後50年以上外国人と自国民の血を洗ったので、次は宇宙人とかゾンビとかの血を洗うようにならないで欲しいと願うばかりである。
2015年4月16日木曜日
ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡 感想
数学者ジョン・ナッシュの半生を描いた「ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡」を呼んだ。「やっと読んだ」と言う方が正しい。なぜかこの本を読むのに1年かかったからだ。別にその間俺の読むスピードが極端に落ちて1日1ページ読むのがやっとだったとか、忙しくて全く本も読めない状態だったというわけではない。確かに本は昨年1年間極端に読まなくなったが、他の本についてはまあ読んでいた。おそらく俺の数学嫌いが影響したのかもしれない。嘘だが。
いつも通り適当なあらすじを書くと、この本はジョン・ナッシュという、数学分野で「天才的」と呼ばれる業績を持つ学者が統合失調症に罹った話を描写した作品である。「天才数学者の半生」には特に価値は無いかもしれないが、この天才が統合失調症という、思考が要される学者にとって致命的と言える精神の病に罹り、そこから復活したことを描写している点で、この本には読む価値がある。
ところで、俺は数学が嫌いである。もっと言うと、数の計算に関わるあらゆることに全く価値が見いだせない。面白くないのである。今は昔と違って「学問的な興味」みたいな、学問好きが持つフィルターみたいなものを通して数学を見ることができるようになったため、俺は数学を他の学問分野と同様に「尊重」して捉えることができるのだが、それは「好き」であることとは違う。小学3年生の頃に半年ぐらい俺は小学校に行かなくなったが、それはいじめや勉強ができないというのではなく、本当にピンポイントで「算数が嫌い」だったことが原因だったほどである。算数ドリルやワークブックという、全く価値の見いだせないクソのために「がんばり学習」とかで夕方4時ぐらいまで残され、あれができていない、これができていない、こんなのもできないの?とクソ教師(俺が付けたニックネームだと「眼鏡ババア」)に言われるのが我慢ならなかった。「うるせぇクソが!俺(様)を残すんだったら他の面白い理由で残せ!」と言いたかったが、(まだ)言えない小心者だったので、やらない、という選択をした。理由がピンポイントだったので、別に算数ができなくても俺を残さなくなった先生になった小学4年生以後のクラスでは、「何事も無かったかのように」学校に行くようになっている。
このような筆者であったが、特にこの本に価値があると思わされたのは、前半部分のナッシュのよく「天才」にありがちな傲岸不遜と呼ばれる行動様式と、それでもやることはやって成功しましたという感じの描写ではなく、やはり後半部分の統合失調症の罹患状態と、そこからの回復にある、と思われる。
とりわけ、「ノンフィクションもの」なので、半分歴史学的なリサーチが要される作業だったと思うが、各精神病院の施設状況や特徴まで、詳細な描写がされていて、それがナッシュが直面した絶望の描写を際立たせている。途中のカフカの作品や彼の作品を使ったナッシュの状態の描写の部分については、カフカ好きの人間からすれば的外れ感があったのだが、それ以外の後半の描写にはリアリティがあった。統合失調症からのナッシュの回復が、劇的にもたらされたものではなく、「なんとなく」治ったということ、そこからノーベル経済学賞受賞という学者にとっての最高の栄誉もまた、彼自身の生活に劇的な変化をもたらしたわけではなく、彼の学問的態度が継続した点に変わりがない、ということについては、かなり現実味のある書き方がされていると思う。俺のように数学や算数ができなくても、この本には読む価値があるだろう。「眼鏡ババア」も読んでいたら算数ドリルができないというどうでもいい理由で俺を残さず、さっさとお互い家に帰ってもっと生産的なことに時間を使えたかもしれない。
いつも通り適当なあらすじを書くと、この本はジョン・ナッシュという、数学分野で「天才的」と呼ばれる業績を持つ学者が統合失調症に罹った話を描写した作品である。「天才数学者の半生」には特に価値は無いかもしれないが、この天才が統合失調症という、思考が要される学者にとって致命的と言える精神の病に罹り、そこから復活したことを描写している点で、この本には読む価値がある。
ところで、俺は数学が嫌いである。もっと言うと、数の計算に関わるあらゆることに全く価値が見いだせない。面白くないのである。今は昔と違って「学問的な興味」みたいな、学問好きが持つフィルターみたいなものを通して数学を見ることができるようになったため、俺は数学を他の学問分野と同様に「尊重」して捉えることができるのだが、それは「好き」であることとは違う。小学3年生の頃に半年ぐらい俺は小学校に行かなくなったが、それはいじめや勉強ができないというのではなく、本当にピンポイントで「算数が嫌い」だったことが原因だったほどである。算数ドリルやワークブックという、全く価値の見いだせないクソのために「がんばり学習」とかで夕方4時ぐらいまで残され、あれができていない、これができていない、こんなのもできないの?とクソ教師(俺が付けたニックネームだと「眼鏡ババア」)に言われるのが我慢ならなかった。「うるせぇクソが!俺(様)を残すんだったら他の面白い理由で残せ!」と言いたかったが、(まだ)言えない小心者だったので、やらない、という選択をした。理由がピンポイントだったので、別に算数ができなくても俺を残さなくなった先生になった小学4年生以後のクラスでは、「何事も無かったかのように」学校に行くようになっている。
このような筆者であったが、特にこの本に価値があると思わされたのは、前半部分のナッシュのよく「天才」にありがちな傲岸不遜と呼ばれる行動様式と、それでもやることはやって成功しましたという感じの描写ではなく、やはり後半部分の統合失調症の罹患状態と、そこからの回復にある、と思われる。
とりわけ、「ノンフィクションもの」なので、半分歴史学的なリサーチが要される作業だったと思うが、各精神病院の施設状況や特徴まで、詳細な描写がされていて、それがナッシュが直面した絶望の描写を際立たせている。途中のカフカの作品や彼の作品を使ったナッシュの状態の描写の部分については、カフカ好きの人間からすれば的外れ感があったのだが、それ以外の後半の描写にはリアリティがあった。統合失調症からのナッシュの回復が、劇的にもたらされたものではなく、「なんとなく」治ったということ、そこからノーベル経済学賞受賞という学者にとっての最高の栄誉もまた、彼自身の生活に劇的な変化をもたらしたわけではなく、彼の学問的態度が継続した点に変わりがない、ということについては、かなり現実味のある書き方がされていると思う。俺のように数学や算数ができなくても、この本には読む価値があるだろう。「眼鏡ババア」も読んでいたら算数ドリルができないというどうでもいい理由で俺を残さず、さっさとお互い家に帰ってもっと生産的なことに時間を使えたかもしれない。
2015年3月15日日曜日
東京奇譚集 感想
文庫版になっていた村上春樹の「東京奇譚集」を(また彼女に薦められる形で)読んだ。またお前は村上春樹の本を読んでいるのか、いい加減ハルキストとか自称して「ノルウェイの森」とかに感銘を受けた、やばい、ハワイに住みたいとか嘘を並べたらいいんじゃないのか、と思うが、前書いた通り人から(ほぼ100%彼女から)薦められないと全くと言って良いほど今では本を読まなくなったので、村上春樹の本が多くなるのは俺のせいではない。
「東京奇譚集」は、多分1度読んだとか思っていたが、読み終わったあと多分「~奇譚集」とか、別の本のタイトルだったかもしれん・・・ということが判明した短編集だった。いつも通り「短編集」という形式になった段階で今の俺にとっての本への誘引力が3倍ぐらいになる。
内容としてはまずいつも通り1本目の短編で主人公はセックスします。(原作:村上春樹、絵:矢吹健太郎とかにして、とにかく特定の主人公がモテまくる内容でジャンプで連載すれば良いんじゃないか。性描写が出てくるのでヤンジャンとかになるかもしれない)。書かれていなかったが、この類の主人公は多分長編になったらジャズも聴いているだろうし、お酒も飲んでいると思う。
途中までこんな感じで別に引っかかりも何もなく、「ああ、(村上春樹が書きそうな)短編小説だな」と思っただけだったが、最後の品川猿という、記憶を盗み(かつ人語を解する)猿の話が、良い意味でリアルとかフェアとか度外視して珍しくただ不思議系の面白い話を書こうとしたんだな、と思わせる内容だった。村上春樹の作品で、SF(すこし、不思議)要素が出てくる場合、大体はSF(すこし、不思議)の元凶になっている本体そのものは見せない、あるいは本体そのものと対峙させない感じになり、あくまで「現実世界の中目立たない闇の部分」みたいな感じになるのだが、この品川猿では上記した不思議な猿がそのまま不思議な猿として登場するので、世界観そのものがやや非現実的になっている。まあ「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」みたいに、そもそも世界全体が非現実的な場合も昔はあったのだが。
それでもまだ「品川猿」は「品川」と名前が付くように、「東京」の話なので、普段あまりに鼻につく主人公の設定と言動にうんざりしている方も、この珍しい不思議系の話だけは読んでみると良いかと思う。もっとも、内容そのものを「村上春樹」から切り離した場合は特段の価値は見いだせないのだが。
「東京奇譚集」は、多分1度読んだとか思っていたが、読み終わったあと多分「~奇譚集」とか、別の本のタイトルだったかもしれん・・・ということが判明した短編集だった。いつも通り「短編集」という形式になった段階で今の俺にとっての本への誘引力が3倍ぐらいになる。
内容としてはまずいつも通り1本目の短編で主人公はセックスします。(原作:村上春樹、絵:矢吹健太郎とかにして、とにかく特定の主人公がモテまくる内容でジャンプで連載すれば良いんじゃないか。性描写が出てくるのでヤンジャンとかになるかもしれない)。書かれていなかったが、この類の主人公は多分長編になったらジャズも聴いているだろうし、お酒も飲んでいると思う。
途中までこんな感じで別に引っかかりも何もなく、「ああ、(村上春樹が書きそうな)短編小説だな」と思っただけだったが、最後の品川猿という、記憶を盗み(かつ人語を解する)猿の話が、良い意味でリアルとかフェアとか度外視して珍しくただ不思議系の面白い話を書こうとしたんだな、と思わせる内容だった。村上春樹の作品で、SF(すこし、不思議)要素が出てくる場合、大体はSF(すこし、不思議)の元凶になっている本体そのものは見せない、あるいは本体そのものと対峙させない感じになり、あくまで「現実世界の中目立たない闇の部分」みたいな感じになるのだが、この品川猿では上記した不思議な猿がそのまま不思議な猿として登場するので、世界観そのものがやや非現実的になっている。まあ「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」みたいに、そもそも世界全体が非現実的な場合も昔はあったのだが。
それでもまだ「品川猿」は「品川」と名前が付くように、「東京」の話なので、普段あまりに鼻につく主人公の設定と言動にうんざりしている方も、この珍しい不思議系の話だけは読んでみると良いかと思う。もっとも、内容そのものを「村上春樹」から切り離した場合は特段の価値は見いだせないのだが。
2015年2月21日土曜日
2015年1月12日月曜日
また京都に行って伏見稲荷神社に初詣に行った話
時間が経つと更に人間の数が増大していった |
また彼女と京都に行った。今度は伏見稲荷神社に初詣するという目的のためである。
有名な千本鳥居。いや千本はないでしょとか思っていたが、ここから延々延々鳥居があり続ける。 |
伏見稲荷神社はトリップアドバイザーの「行ってよかった外国人に人気の日本の観光スポット2014」で1位になったらしい。確かに千本鳥居とかを見てしまうとそう思う。他にもおもかる石などのアトラクションめいたものが点在していて、飽きさせない作りになっている。
お稲荷様。左に鍵、右に玉 |
肝心の初詣であるが、俺が引いたおみくじは大吉で、とにかく全てを手に入れることになるらしい。よって今年も俺は俺が書きたいことを書くだろうし、YPPと戦うだろうし、ちゃんと税金を納めると思う。
2015年1月6日火曜日
淵の王 感想
何か最近本屋で日本人作家の本が何も面白そうではなく、少数の面白いことを知っている司馬遼太郎などの作品は軒並みまだ読んでいないのが長編しかなく、長編は疲れるので読みたくなく、どうしよう、困った、と思って真面目な顔をして本屋を去っていたのだが、また彼女に舞城王太郎が『新潮』2015年1月号に掲載した「淵の王」という新作を薦められたので、読んだ。読むことになった。
いつも通り適当な概要を書いておくと、3人の主人公がそれぞれの人生を過ごしながら、西尾維新の『鬼物語』で出てきたような「くらやみ」に遭遇して、2人目まで負けて、3人目で勝ったと思われる話である。いつも通りこの作者の作品の概要を真面目に書くと意味が分からないが、こんな話である。また、今回はそれぞれの主人公の1人称ではなく、それぞれの主人公と共にある文字通り「スタンド」みたいな存在の独白が、語り部の役割を果たす仕組みになっているので、正確には6人の主人公が「くらやみ」に遭遇して、5人目と6人目で「くらやみ」の正体と対決してなんとなく結末に至る話であった。
実はこの「淵の王」を読む数日前に、半年前に買った文庫版の『イキルキス』に収められている「アンフーアンフー」と、「無駄口を数える」という書下ろしの短編を今更読み、「イキルキスもアンフーアンフーも正直面白くないが、『無駄口を数える』という短編については良いな。特に錯乱した主人公の友達が突然悪意によって主人公の子供を窓から投げ捨てる所の描写が優れている」と思っていたのだが、この「淵の王」も、共通する部分で秀逸だと思った。
最近この作者は日常をぶっ壊して読者を焦燥させるのが上手くなっている、と思う。『煙か土か食い物』や『暗闇の中で子供』などの昔の作品は、「積み上げた日常で生み出すことのできる安心感をぶっ壊す」のではなく、「最初から最後までぶっ壊しまくる」という感じであった。ところが、最近はちゃんと人間の人生を常識的な範囲でちゃんと描くようになり、登場人物は必要な手段を講じ、努力をして、仕事をして、恋愛をして、セックスをして、結婚をするようになり、その上でぶっ壊されるようになった。今回の作品では、(5人目と6人目は物語を終わらせるために作られているので別にして)特に1人目と2人目、3人目と4人目はきっちり学生の頃からの成長の様を描き、「人生を歩んでいる姿」を描写した上でそれぞれの人生をぶっ壊す様を描く作業が行われている。その結果、「くらやみ」という人間の悪意に「敗北」した1人目と2人目、3人目と4人目の壊れる様は、非常に儚く、自然に残念に思える作りになっていた。
また、5人目と6人目でおなじみの福井県警とか出てきて、またどうでもいい謎解き要素が描かれるのか、と思ったが、そういったことは全くなかった点も良かったのではないか。今回はどうでもいい謎解きを主人公がすることで勝利するのではなく、キング的な超自然的な手段を講じて、超自然的な対象を撃破する物語であった。
いつも通り適当な概要を書いておくと、3人の主人公がそれぞれの人生を過ごしながら、西尾維新の『鬼物語』で出てきたような「くらやみ」に遭遇して、2人目まで負けて、3人目で勝ったと思われる話である。いつも通りこの作者の作品の概要を真面目に書くと意味が分からないが、こんな話である。また、今回はそれぞれの主人公の1人称ではなく、それぞれの主人公と共にある文字通り「スタンド」みたいな存在の独白が、語り部の役割を果たす仕組みになっているので、正確には6人の主人公が「くらやみ」に遭遇して、5人目と6人目で「くらやみ」の正体と対決してなんとなく結末に至る話であった。
実はこの「淵の王」を読む数日前に、半年前に買った文庫版の『イキルキス』に収められている「アンフーアンフー」と、「無駄口を数える」という書下ろしの短編を今更読み、「イキルキスもアンフーアンフーも正直面白くないが、『無駄口を数える』という短編については良いな。特に錯乱した主人公の友達が突然悪意によって主人公の子供を窓から投げ捨てる所の描写が優れている」と思っていたのだが、この「淵の王」も、共通する部分で秀逸だと思った。
最近この作者は日常をぶっ壊して読者を焦燥させるのが上手くなっている、と思う。『煙か土か食い物』や『暗闇の中で子供』などの昔の作品は、「積み上げた日常で生み出すことのできる安心感をぶっ壊す」のではなく、「最初から最後までぶっ壊しまくる」という感じであった。ところが、最近はちゃんと人間の人生を常識的な範囲でちゃんと描くようになり、登場人物は必要な手段を講じ、努力をして、仕事をして、恋愛をして、セックスをして、結婚をするようになり、その上でぶっ壊されるようになった。今回の作品では、(5人目と6人目は物語を終わらせるために作られているので別にして)特に1人目と2人目、3人目と4人目はきっちり学生の頃からの成長の様を描き、「人生を歩んでいる姿」を描写した上でそれぞれの人生をぶっ壊す様を描く作業が行われている。その結果、「くらやみ」という人間の悪意に「敗北」した1人目と2人目、3人目と4人目の壊れる様は、非常に儚く、自然に残念に思える作りになっていた。
また、5人目と6人目でおなじみの福井県警とか出てきて、またどうでもいい謎解き要素が描かれるのか、と思ったが、そういったことは全くなかった点も良かったのではないか。今回はどうでもいい謎解きを主人公がすることで勝利するのではなく、キング的な超自然的な手段を講じて、超自然的な対象を撃破する物語であった。
2015年1月1日木曜日
2015年の標的
1.自分が書きたいものをちゃんと書く
結局何かまじめな文章を書いて世に出したが、今年も結局ちゃんと文章を書く。ブログすら最近は書けない感じが続いているが、また何か書こうとしたいと思う。
2.YPPとの戦いの継続
もう年中行事みたいになってきたが、良い修行の口実であり、また目的でもあるという存在なので、とりあえず俺の人生においては付き合っていく。
3.ちゃんと金を稼いで税金を払う
国家という存在を手段として信奉し続ける限りは、お金を稼いで税金を払う。国民を茶番の選挙に行かせる国家は決して優れているとは思わないが。
結局何かまじめな文章を書いて世に出したが、今年も結局ちゃんと文章を書く。ブログすら最近は書けない感じが続いているが、また何か書こうとしたいと思う。
2.YPPとの戦いの継続
もう年中行事みたいになってきたが、良い修行の口実であり、また目的でもあるという存在なので、とりあえず俺の人生においては付き合っていく。
3.ちゃんと金を稼いで税金を払う
国家という存在を手段として信奉し続ける限りは、お金を稼いで税金を払う。国民を茶番の選挙に行かせる国家は決して優れているとは思わないが。
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