2012年4月28日土曜日

ファイナルファンタジータクティクス 感想

今までプレイしてきたRPGの中でも「最も好きなもの」を選べと言われたら、俺は間違いなく「ファイナルファンタジータクティクス(以下FFT)に決まってる」と言う。俺はこのRPGが今まで世界に存在したRPGの中で「最も優れている」とは思わない。ゲームとしての問題は誰が見ても沢山あると言わざるを得ない。しかし、俺はこのRPGが一番好きなのだ。一番好きな小説と同じで、技術においてはヘミングウェイやトマス・マンの方が断然上手いと思うのだが、それでも一番好きな作家がドストエフスキーで、一番好きな小説が「カラマーゾフの兄弟」だというのと同じである。「カラマーゾフの兄弟」もFFTも未完成(前者は明示的に第二部の構想があり、後者は黙示的に描写不足である)の作品なのだが、それでも好きなのである。
 いつも通りあらすじを超簡略して書くと、ガリランド王立士官アカデミーに通う貴族の名門ベオルブ家の末弟ラムザ・ベオルブと、「親友」であり共にアカデミーに通う平民出のディリータ・ハイラルが、イヴァリースという国家の覇権をめぐる内戦「獅子戦争」に巻き込まれ、やがてラムザはその中で戦争を裏で操る存在と戦っていく・・・という話である。
 俺がこのRPGをプレイしたのは小学校6年生の頃であった。使われている漢字の範囲は大体漢検3級~準1級に行くかいかないかだし、文章にルビも振られていないので、(俺は漢字は相当分かる方だったのだが)分からない漢字(枢機卿など)も沢山あった。しかも俺の友達は皆FF7やマリオカート64等が好きで、一緒に遊ぶ時に俺が面白いからやろうとか言いだすと意味分かんないから勘弁してよというリアクションが常に返ってきていた。なので皆がゴールドソーサーのスノボーやマリカーの対戦が面白い面白いと言う中、俺1人がこのRPGに熱中していた。文字通り熱中である。
何がそんなに面白かったのかと言うと、物語である。クロノ・クロスも突出していると思うのだが、FFTも別のベクトルで突出している。FFTにおいては身分による差別、宗教の問題等、具体的な社会問題はかなり鋭く(劇的に)描かれているのだが、より抽象的なレベルで(1人の小学生の視点から)「人が生きるってどういうことなんだろう」と考えさせる物語だった。
 まず差別の問題についてであるが、アルガスという「貴族原理主義」と呼べるまでの徹底した貴族と平民の差別を強調する輩による「家畜に神はいないッ!」 という台詞があまりにも有名である。その時はアメリカに来て今のように奴隷制についてまともに勉強する機会があるとは思わなかったのだが、今のように現実として知っていなくてもかなり衝撃的な台詞だった。もちろん人間が他の人間を差別する現実があることは当時の段階で既に知ってはいたが、それはあくまで「社会のある1つの形」であって、個人の精神にまで踏み込むようなものではないと思っていた。アルガスはそれを貴族の視点から完全否定したのである。つまり、平民=家畜には、神という絶対的な存在の前での「弱者としての人々の平等」という、「救い」そのものが根本から無いのだ。宗教は「人間」である貴族のために用意されたものであり、人間ではない「家畜」である平民は、現実世界の外に救いを求めることすら許されないという考え方である。
 何が悲劇だったかと言うと、(アルガスの台詞自体の問題よりも)主人公であるラムザはこの段階ではまだ「『親友』である平民のディリータの前でアルガスの考えを否定する言葉を持っていなかったこと」である。「親友」ならすぐにアルガスをぶん殴ってやらなければならなかった。逆に言えばやはり差別という問題はラムザやディリータ個人の感情だけでは対処できないほど根が深すぎる問題であり、チャプター1のジークデン砦における別れはこの段階で、もっと言えば彼らがイヴァリースで生まれ落ちた段階で運命付けられていたのである。後で触れるようにこの物語は「悲劇」なのだが、正史の中で「英雄王」になったディリータがイヴァリースに民主制を敷いたという事実が言及されていないこともまた、この問題の深さを示唆している。
 次に宗教の問題だが、リオファネス城でのラムザと神殿騎士ウィーグラフの一騎打ちの中でのウィーグラフの台詞が印象的だった。「所詮、”神の奇跡”などそんなものだ・・・。その時々の執政者たちが自分の都合の良いように歴史を改ざんしているだけ。だがな、その行為のどこに問題があるというのだ?彼らが責められる理由は何もない。なぜなら”神の奇跡”を臨むのはいつでも民衆だ。何もせず、文句ばかり言い、努力はせず、他人の足を引っ張る・・・それが民衆というもの・・・そうした民衆が望むものを執政者たちが用意する・・・。歴史などその繰り返しにすぎん。たしかに執政者たちはそうした民衆の弱い心を利用していたかもしれん・・・。だが、民衆もまた、利用されることに満足しているのだ・・・。”神”なんぞ、人間のもっとも弱い心が生み出したただの虚像にすぎん・・・。それに気づいていながらその”ぬるま湯”に甘んじている奴らがいけないのだよ・・・。弱い人間だからこそ”神の奇跡にすがるのさ・・・。」という台詞である。プレイヤーとしてはリオファネス城における一騎打ちは、その後のルカヴィ戦を含めてこのゲームにおける最難関のポイントなので、台詞をいちいち気にしている場合じゃないのだが、台詞の内容は極めてラディカルな主張である。あらゆる宗教行為に身を投じている人々の感情を真正面から逆撫でするこの台詞に衝撃を受けた。日本人だからこそ書ける台詞だなと思う。
 他方で、このウィーグラフの台詞は主張というより自虐に近い。ウィーグラフという、反政府勢力を率いて革命のために奔走していた一人の青年が、自分が抱いていた展望(彼が台詞の中で馬鹿にしている「民衆」の希望)を捨ててしまったことの結果である。なので、ゲームにおける彼の物理的な強さに反して、実は戦う前からラムザに彼は負けてしまっているのだ。もっとも彼の人生ははっきり言って苦難しか無かったので、(後に異端者として世界に追われる存在になったとはいえ)最初からアドバンテージを与えられているラムザを公正に擁護できるわけでもない。ウィーグラフもディリータもそうなのだが、「持たざる者はどこまで行っても持たざる者だった」という事実は、この作品の悲劇性を高めている。
 最後にチャプター4の内容に触れたいと思う。実はここまでで触れてきた宗教や身分差別の問題自体は、小学校6年生の自分にとっては確かにある程度は衝撃的だったものの、この感想の冒頭で触れているような「人が生きるってどういうことなんだろう」と考えさせるほどではなかった。最も大きな影響を持ったのは、やはりチャプター4「愛にすべてを」におけるラムザとディリータの異なる二つの人生の結末である。俺は(いつぞや書いたD. Gray-manの感想以外)商品のAmazonレビューとして感想を書いているわけではないので、基本的にネタバレ等は無視しているのだが、この作品の結末にはほとんど救いと呼べるものが無い。「異端者」ラムザは獅子戦争を裏で操っていた者と「誰か困っている人のために戦う」という自分の信念に従い戦って行方不明となり、「英雄王」ディリータは「自分からこれまであらゆるものを奪ってきたこのイヴァリースという世界にいかなる手段を用いても復讐し、自分が今度は彼らから奪う側に立つ」という自身の野望に従って王となったが、本当に愛していた(彼はオヴェリアに対しては本心から愛情を抱いていたと考えられる)オヴェリアに短刀で刺され、即座にオヴェリアから奪った短刀で彼女を絶命させた。「・・・ラムザお前は何を手に入れた?オレは・・・」という、彼の台詞でこの物語は幕を閉じる。
 実は俺はFFTをプレイしてから長い間、ラムザのような自己犠牲が、ディリータの野望に比較してより強い正当性を持っていると考えていた。最後の台詞をディリータに喋らせていたこともあり、このFFTという物語は、「自身の『義』に従って、自分のためではなく、誰か他の人のために戦ったラムザこそが真の英雄だった」という物語だったと思っていた。しかし、本当にラムザやディリータのどちらかに、どちらかの生き方がより優れていると言わしめるだけの正当性というものがあるのだろうか?ラムザの「自己犠牲」がなぜ我々にとってより強い価値を持つと感得させるのか?
 ラムザの「自己犠牲」の正当性について説明する1つの方法として、彼が「自分が本来得るはずだった利益を差し出し、あるいは捨て去り、自分にとって最終的には不利益にはなるが、それでも自分以外の者に対しては利益となる選択肢を選んでいるからだ」という説明の仕方があるだろう。すなわち、ラムザは「本来ならベオルブ家の末弟として、イヴァリースという絶対的に自分たち貴族にアドバンテージを与える社会で、自分たち貴族の利益のみを追及して安寧な生活を送ることが約束された地位にいたにも関わらず、自分たちのみならず平民をも含んだイヴァリース全土に被害を及ぼしかねないルカヴィという悪魔と、自分の命と引き換えに戦ってこの危険=不利益を取り除いた」結果、彼獲得した「利他性」故に我々は彼の行為を正しいとするのである。
 しかし、ディリータの野望もこのようなラムザの「正しさ」とは別の意味での「正しさ」を持っている。ディリータの野望の正当性は、ラムザとは異なり、「利他性」ではなく、「公正」の概念で説明することができる。ディリータの野望は、「彼がこれまで被ってきた社会における「貴族」と比した場合の不均衡な利益の配分に対し、彼に配分されなかっただけの利益を取り戻し、あるいは奪い、均衡にして、結果を公正なものにしているからだ」と説明できるだろう。すなわち、ラムザと異なり本来的にこの世界で利益を得ることができない状態=「貴族」と比して不均衡な「平民」を前提として配分されていた利益と、殺されたティータのようにこの前提により「是」とされた奪われた利益に見合った、自身の被ってきた不利益と均衡するだけの(「不利益を贖う」)利益である「英雄王」という地位を得たことにより、我々は彼の野望を正しいとするのである。
 より詳細な考察を加えると、上記したこの物語の最後の文脈を抜きに、客観的にラムザとディリータの人生をながめれば、両者が共に比較不可能な正当性を有していることが分かる。比較を不可能なものにする最も大きな壁は、「ラムザが持つ者であり、ディリータが持たざる者であった」という事実に他ならない。例えば、面白い思考実験として、ラムザとディリータの結末を反対だったと想定する。その場合、ラムザは最初から自分の利益だけを追及し「順当に」「英雄王」となり、不利益は最小化し、利益が最大となる。ディリータは反対に、最初から最後まで何も得られないばかりか、自分の命を含めた全ての自己利益を失い、不利益が最大化する。この場合、両者の結末は正当性の点で問題を抱える。ラムザはあまりに大きすぎる利益を得たばかりに不均衡な結果を生み、ディリータは大きすぎる不利益を生じさせたばかりに、自己犠牲によって得られるはずだった他者の利益によって得られた「利他性」が持つ正当性を、自らに生じた不利益が大きく減じてしまう。このように考えると、FFTにおけるラムザとディリータの「持つ者と持たざる者」の違いは、それぞれの人生が比較不可能なものとして正当性を主張するための必要な前提だったのだと考えられる。だからこそ、余計に救いが無い。最初からこの物語において彼らの人生に出口など無かったのだ。
 これらのことを考えさせるRPGがFFTだった。下手な道徳教材よりよっぽど勉強になるRPGである。ここでは物語に偏重した感想を書いたが、こんな小難しいことを考えなくても(最初に述べたとおり問題はあるにはあるが)純粋にゲームとしてもFFTは面白い。(俺の彼女は途中で投げ出してしまったが)せっかく生きてるのならやってみるべきゲームである。

2012年4月25日水曜日

うまかっちゃんに感謝

彼女にうまかっちゃんやら醤油やら(俺はやたら料理に醤油を使うのだが、アメリカの一般マーケットで売っているSoy Sauceは量が少ないのに高い)送ってもらったので1年ぶりぐらいにうまかっちゃんを食べてうまかっちゃんに感謝した。日本のインスタントラーメンの質は世界一だと思う・・・と思ったらインドネシアに負けていてしかもうまかっちゃんはランクインすらしていない・・・。しかし今日は「ドラえもんのび太の日本誕生」で雪原で倒れているのび太にラーメンの汁を与えて復活させるタイムパトロールを思い出した。あの状況でラーメンの汁だけってお前・・・とか思っていたが、あながち間違っているわけではないのかもしれない。

2012年4月12日木曜日

あーよく分かんねえけどまたくっそやる気出てきた。

不思議なことを書くが今日朝目が覚めるとやっと論文について考えることが楽しくなっていた。いつもこんな感じなのだが、俺は論文を書き始めるまでにすごく時間がかかる。なぜなら、書き始める前は論文を書く行為が嫌いだからだ。嫌なのだ。しかし、不思議なことに、論文について真面目に考え始めると論文を書くことを楽しく感じる。書く前は「うわーこんなんやってらんないわ。モンハンでもしよう」とか思っているのだが、書き始めると「何これ面白い。アイデアが死ぬ程湧いてくる。アカデミック・ハイだわ俺。モンハンなんかやってる場合じゃない」みたいな感じになるのだ。普段適当な感じでも結局論文を書いてるのはこのせいだと思う。

2012年4月7日土曜日

クロノ・クロス 感想

理由は知らないが最近クロノ・クロスのことばっかり思い出すので今更クロノ・クロスの感想を書こうと思う。なんかここ1年?ぐらいにPSストアでゲームアーカイブスとして800円で配信されたらしい。
 さて、クロノ・クロスは発売される前は誰もがクロノ・トリガーという、もしかしたら50年に1本ぐらいの伝説の大作の続編として期待されていたが、蓋を開けてみれば全然違っていたという作品である。それも個人的にはいい意味で違っていた作品だったと思う。今世界に存在するRPGの中には「ファイナルファンタジータクティクス(PS版に決まってんだろ)」、「ヴァルキリープロファイル」、「ゼノギアス」、「マリオRPG」、「クロノ・トリガー」といった全てがおそろしく完成度が高い作品(これらについてもいつか思い出したら感想を書きたい)があるが、クロノ・クロスもまぎれもなくこれらに列する1本である。50年に1本とは言わないが、10年に1本あればいい方の作品かもしれない。BGMも設定もシステムも良いのだが、とりわけストーリーの奥深さについては他の同レベルの作品の中でも突出している。
 めちゃくちゃ簡単にストーリーを説明すると、アルニ村という漁村で育った主人公セルジュが、ふとしたきっかけでほとんど同じだが少し違う世界、いわゆるパラレルワールドへ行ってしまい、やがて両方の世界(HomeとAnother)を行き来する星の命運をめぐる戦いに巻き込まれていく・・・という話である。
 しかし、上記したように、クロノ・クロスは単にクロノ・トリガーの続編というわけではない。もちろん登場する用語や人物の中にはクロノ・トリガーと同一の設定を持った人、物も多くあるのだが、それは「クロノ・トリガーの続きの世界」を意味しない。正確にクロノ・クロスとクロノ・トリガーの関係を描写するなら、両者は互いにコインの表と裏の関係である。クロノ・トリガーが表ならクロノ・クロスは裏である。つまり、同一平面上で決して交わることは無い。クロノ・トリガーをやった後にクロノ・クロスをやると、前作で思い入れのあるキャラクターの扱いに不満を覚える人も居るかもしれないが、それはお門違いである。なぜなら、同一平面上で地続きに交わることが不可能な世界にある以上、クロノ・トリガーで登場した人々はその世界で登場する「同じような人々」とは別のものであり、たとえクロノ・クロスの世界でろくな扱いをされていなくても、それはクロノ・トリガーの世界とは(直接的には)関係ないからである。つまり、クロノ・トリガーで星の命運をラヴォスから救った主要キャラクターは、クロノ・クロスとは決して交わることの無い別の世界で全く問題なく暮らしているということだ。
 より正確に言えば、「コインの表と裏」の関係は事象を単純化しすぎているだろう。クロノ・クロスの設定に従えば、それは単なる二面性ではなくむしろ多面性の中で理解されなければならない。交わることの無い世界が多元的に存在していて、その多くの世界の面のうちの1つの表と裏がクロノ・トリガーとクロノ・クロスだったということである。HomeとAnotherはクロノ・クロスにおけるパラレル・ワールドだが、よりメタフィジカルな次元でクロノ・トリガーとクロノ・クロスもパラレルな関係を持っているのである。この意味で、クロノ・トリガーが時間を超える冒険だったとすれば、クロノ・クロスで重視されているのは空間を超える冒険である。
 このようなクロノ・クロスという裏が生まれたのは、表であるクロノ・トリガーにおいて主人公達が本来滅びるはずだった世界を救って(1つの滅亡という運命を抹殺して)別の救済という運命に書き換えたからである。つまり、ラヴォスから星を救うという行為は、クロノ・トリガーにおける「救済された世界」をもたらすものであったが、同時に「滅びたはずの世界」という、客観的には等価値の正当性を有する可能性を否定するものだった。そしてクロノ・トリガーで否定された可能性は、クロノ・クロスというクロノ・トリガーの裏の世界で自身の正当性を主張したのである。セルジュ達の冒険は、この否定された正当性を主張しクロノ・クロスの世界に滅びをもたらそうとする「クロノ・トリガーで否定された可能性」=滅ぼされたラヴォスの意思=時喰い=サラを「救済」し、滅びの運命の連鎖から解放するために行われた。「救済」というのが味噌で、実は仮にセルジュ達が再び「クロノ・トリガーで否定された可能性」を否定すると、再び「クロノ・クロスの裏」を生みだし、延々と「等価値の正当性を持つ可能性」間の争いが繰り返されることになる。ラスボス戦で暴力によって否定するのではなく、クロノ・クロスという、心に働きかける7番目のエレメントで、否定された可能性の顕現である時喰いを癒す必要があるのは、この問題を解決するためだと考えられる。 これらを含めて、クロノ・クロスにおけるテーマは、やはり共に正当性を持つ表と裏の世界・可能性の関係であり、クロノ・クロスというエレメントが愛だけではなく、愛と憎しみ両方のかけらを必要とするのも、それら一方では正で他方では負とされる事柄の両方が世界にとって共に「正当な」ものだということを示しているのだと思われる。
 俺がクロノ・クロスをプレイしたのは中学校3年生ぐらいの時だったと思うのだが、純粋にクロノ・クロスの世界に引き込まれた。最初のOPに流れる「CHRONO CROSS~時の傷痕~」という現存するRPGのBGMの中で1位、2位を争うほどの素晴らしい音楽にかなり惹きつけられた。この最初に流れるBGMでは様々な10種の楽器の音がやがて1つに交わっていくのだが、今思えばそれはラスボス戦で6つのエレメントが持つ音をクロノ・クロスで1つにする行為そのものを表しているかのように思われる。この一貫した演出は素晴らしいと言わざるを得ない。もちろん「キャラクターが多すぎて1人1人の存在感が薄い」、「戦闘がやや面倒」等の問題もあるのだが、それらを含めたとしても死ぬまでに1度はプレイするべきゲームであることには疑いが無い。

2012年4月2日月曜日

また生き残るしかねぇんだよ。

最近ちょっと思ったのだが、また俺は多くの荷物を抱え過ぎていて、全身全霊全力全開で生き残るしかないことが分かった。アメリカに来てから理由は知らないがずっとこんな感じである。頼むから全力でぶっ飛ばしてくれ俺、と自分で思う。思うしかない。やっぱり「NYU生活編」とか「NYUリア充編」とか名付けて「wwww」とか「♪」とか「^^」とか文章に付けまくって「wwwうwwwはwwwwダンキンドーナツうめえww」とか「大学の隣にあるお気に入りのスタバでいつも勉強しているんですよね♪」とか「フレに呼ばれたので失礼しますね^^」とかじゃなくて「NYU激闘編」であってた。そしてリア充というかリア重でリア終でリア修でリア囚だった。まあよく考えたら前期も後期もNYUに全然関係ないことで勝手に死にそうになっているんだった。じゃあ「NYU激闘編」は正しくは「NYU(に通っているというか住んでいるというかまあ仕事以外は引き籠ってて時々非実在害獣を狩猟してはにやにやする人の)激闘編」と読む。次こういうのは「星霜編」とか付けてキャラクターの顔が変になっていきなり過去編を始めて顔の十字傷のこととか話し始めようかと思う。

2012年3月26日月曜日

猫物語(白) 感想

(あり得ないが)俺が仮に西尾維新の「物語シリーズ」のみで読書感想文を書けという課題を解く場合、俺は迷わず「猫物語(白)」を選ぶ。いつも通り俺の勝手な評価だが、今まで読んだ中では「猫物語(白)」が「物語シリーズ」において最も優れていると思う。少なくとも「猫物語(黒)」や「偽物語」や「鬼物語」に千円以上払う価値ははっきり言って無いが、この「猫物語(白)」には千円ほどは払って読む価値があると思わされた。
 いつも通り極めて簡単に「猫物語(白)」のあらすじを紹介しておくと、私立直江津高校3年の羽川翼という「本物」の才女が、夏休みが明けて学校へ行く途中に虎の怪異と出会い、「自分の家」が火事で全焼して知り合いの家を転々とする内に、その虎の怪異が火事の元凶で、しかも障り猫と同様自分が生み出した化物だと言うことを知る・・・という話である。
 俺が「猫物語(白)」を優れているとする理由は、単純にこの本が羽川翼という1人の人間を描くことに純粋に向き合っているからに他ならない。一応他の「群像劇中における劇的な人々による喜劇」でも、それぞれ主要人物の背景等は描写されているのだが、今作ではいわゆる語り部が描写されるべき当人になっている点と、おそらく本来は作る予定の無かった「第2シリーズ」を能動的に作った結果、自然に今までより目的的に文章が構成されていることでメリハリがある点が要因になっているのだと思われる。千石撫子を語り部とした「囮物語」よりも優れているとしたのは、羽川翼の本シリーズへの登場回数から分かる通り、おそらく作者自身が羽川翼という登場人物を千石撫子よりもより良く理解していて、その分「羽川翼を描く」という今回の物語の展開が至極まっとうでフェアだからだと言える。より具体的に言えば羽川翼という人間が作られた文脈の描写(家族、主人公との関係、他の「劇的な登場人物」との関係、外部との関わり)がこちらの方が手厚く、説得力を持っている。
 さて、本編の感想であるが、何より羽川翼という「化物語」の世界では特異なキャラクターに言及しなければならない。本編では何度も「本物」という言葉で彼女が描写されている通り、彼女は天才として描かれている。「めだかBOX」や「戯言シリーズ」を読めば分かるのだが、西尾維新は(劇的な登場人物による物語を書くので自然と)天才や異能者を物語に登場させることが多い。これほど天才を多彩に書き分ける作家も珍しいと思うのだが、彼の物語にはやたら天才やらアブノーマルやら人類最強やら最終やらが登場する。むしろ「群像劇中における劇的な人々による喜劇」を書いている以上登場させる必要があると言っていい。羽川翼もはっきり言って他のシリーズにおいてすら天才の1人として理解されても良い存在で、他の作品であれば別に「猫物語(白)」で「問題」として扱われている彼女の「問題」は、天才であるが故の「個性」として処理されていたかもしれない。
 この羽川自身の天才性を「問題」としたのが彼女の境遇である。簡単に言えば彼女はネグレクトされていた。彼女は(どこまで行っても括弧付きの意味でしかない)「家族」からほとんど他人のように15年以上扱われていた。しかし、これは彼女にとって何の「問題」でもなかった。彼女の天才性がそれを「問題」とさせなかったのである。戦場ヶ原ひたぎの言う「闇に鈍い」というのは、客観的に見れば(他の「普通」の人々からすれば)問題であることを、自身の能力としての許容範囲の広さから羽川翼は「問題」とせずに生きてきた結果作られた彼女の性質であった。彼女は自身の天才性を遺憾なく発揮し、ネグレクトや恋によって生じる感情的なストレスを自身の他の人格に押しつける方法を確立したのである。その結果障り猫はネグレクトと恋を、苛虎は「両親」への嫉妬をそれぞれ彼女に代わって代弁するものとして生み出された。
 個人的には正直怪異が存在しなければこれはやはり「問題」ではなく「個性」として処理されうる行為だなと思う。「物語シリーズ」は劇的な登場人物が怪異との遭遇を通じて成長する物語なので、こういった自身の感情に潜む「不正」、「ずる」といったものを実は登場人物のほとんどが行っているとされている。具体的に言えば、戦場ヶ原ひたぎは母親との確執から逃げ、神原駿河は戦場ヶ原ひたぎへの想いから逃げ、千石撫子は自分の夢から逃げ、阿良々木火憐は偽善から逃げ、そして羽川翼もまた自分のストレスから逃げていた。「逃げ物語」である。このように考えると「物語シリーズ」のキャラクター設定が案外安易だったという気もしないでもない。俺は自分の本心から逃げる行為が絶対的に悪かったり未熟なことだとは個人的には思わないし、はっきり言って個人の性格が持つ差異の一部だとしか思えないのだが、青少年が成長する物語として「逃げている自分と向き合う」というのは妥当な帰着点なのかもしれない。そう考えると羽川を描いた「猫物語(白)」は、その帰着点へと辿り着く純粋さにおいて、同シリーズの他の作品より秀逸だったと言える。「囮物語」+「恋物語」や「花物語」と比較すれば分かりやすいのだが、羽川翼がここで言う「帰着点」に辿りつくまでの道のりは、千石や神原のそれと比べて明確で合理的なのだ。千石撫子や神原駿河が「問題」を抱えるのは文脈的な必然性を有さないが、羽川翼が「問題」を抱えるのは十分過ぎるほどの理由がある。実際彼女は主人公と同様、傷物語という最初の話からほぼ出ずっぱりなので、彼女が「おかしい」という描写は他の人間に比べて自然と多くなっている。
 翻って考えてみれば、なぜ彼女の描写が他の劇的な登場人物より多くならなければならなかったのかというのも自然と分かる。なぜなら、貝木のような明確な「悪」よりも、羽川翼という「絶対的な正しさ」こそが「物語シリーズ」における阿良々木暦という主人公の対となる存在だからである。おそらく作者自身も「傷物語」で羽川翼を主要登場人物にした段階で既に考えていたことだと思うのだが、羽川翼と阿良々木暦は戦場ヶ原が指摘するように同一カテゴリーに属しながら対照的な存在である。阿良々木が何の不自由もない家庭で育ち、家族が居て、自分の本心と向き合い、怪異関連以外は能力的に平凡で弱いキャラクターであるのに対し、羽川翼は自分の部屋も無いような家庭で育ち、家族がおらず(「家族」しか居ないと言った方が良いのかもしれない)、自分の本心から逃げ続け、怪異を必要としないほどの力を持つ能力的に非凡で強いキャラクターだった。羽川翼と阿良々木暦は互いに互いの影と光だったのである。「こよみヴァンプ」で最初に吸血鬼に出遭う主要登場キャラクターが羽川翼だった場合、おそらく彼女は阿良々木が抱えた問題を「問題」とすることなく吸血鬼の眷族になる道を選んだのではないかと思う。
 ついでだが、おそらくこういった対の関係にある以上、なぜ阿良々木暦は羽川ではなく戦場ヶ原を選んだのかと思う人も多く居るかもしれない。恋愛感情と言うものは究極的には火憐や月火の言う「なんとなく」だと思うので、最初に告白したのが戦場ヶ原だったということで阿良々木にとってすれば十分な説明になっているのかもしれない。他方で、戦場ヶ原や羽川サイドにとってすれば、戦場ヶ原が羽川翼に本当に阿良々木暦のことが好きだったのか聞いているように、おそらく阿良々木暦に対する感情には差があったのではないか(作者としてはそう位置づけているのではないか)と思う。つまり他人との繋がりそのものが無かった戦場ヶ原にとって阿良々木の存在が唯一無二だったのに対し、羽川翼にとってすれば「助けてくれる誰か」でしかなかったのかもしれない。もっともこの辺はそれほど明確に描き分けられているわけではなく、結局羽川翼を助けに来るのも主人公だし、「帰着点」に辿りついた後も主人公のことが好きだった結果告白しているわけなので、両者の恋愛感情に実質的な差があったのかという点は不明瞭ではある。俺個人としては誰かを好きになる感情というのは、設定上の論理性を超越した特別枠にあって問題無い心情だと思うので、最初に戦場ヶ原が告白して主人公側も「なんとなく」好きになったということで良いとは思う。

2012年3月21日水曜日

偽物語 感想

西尾維新作の偽物語の感想を書こうと思う。感想と言っても最近日本で放映されたアニメの方ではなく、原作の方である。いつも通り死ぬほど簡単にあらすじを書いておくと、私立直江津高校3年の主人公阿良々木暦の妹である火憐が詐欺師をぶっ飛ばしに行って返り討ちに遭う話と、その下の妹である月火が実は不死身の怪異だったことが分かる話の上下巻2本立てである。一冊千円を超えるのでどう考えても中高生をターゲットにしている割には高い。
 そう言えば西尾維新の小説について感想を書くのは初めてなので原作者についても言及しておこうと思う。俺は今までに明白なる彼の代表作である「戯言シリーズ」を彼女から借りて全部読んでいるのだが、彼の作風を一言で言えばキャラ設定が上手いことに尽きる。物語に許されていて現実世界で許されないことの1つに「キャラが被らない」ことが挙げられると俺は思う。実は現実世界ではあり得るようであり得ないのだが、他人とキャラが被らないような人間というのはそれほど多くない。日本人なんて実際は似たり寄ったりのことを似たり寄ったりの境遇の奴が考えていることの方が多いし、似たり寄ったりの髪型で似たり寄ったりの格好をしていることの方が多いのだ。西尾維新がやっていることはその真逆で、極めて物語を劇的にするために似たり寄ったりの性質を持ったキャラクターを本筋に登場させることはかなりの場合避ける。それも消極的に避けるというよりは、積極的に差異化を図って徹底的に避ける。もちろん他の多くの物語も作り話を短時間で分かりやすく伝えるため、多かれ少なかれ「しっかりしたキャラ設定」という名目でキャラの差異化を図るのだが、彼の場合は名前から口癖まで丁寧に差異化しようとする場合が多い。彼の作品において劇的ではない登場人物にはそもそも登場の機会そのものが限定されているのである。
 一言ではなくなるのだが、あと1つ付け加えるとすればいちいち「ここが劇的な部分ですよ」ということを文章中の表現で説明しようという点だろうか。例えばヘミングウェイ等に見せれば怒られそうな表現の仕方なのだが、物語が盛り上がる部分で―や同じ言い回しやそのパラフレーズを繰り返すのが常套手段になっている。「そこが重要な部分ですよ」というのを読者にはっきりと分からせる手法で、鼻に付く人はとことん鼻に付く方法だなと思う。逆に時間が無い人にとっては分かりやすくてありがたいのだろうが。今まで読んだどの本も主人公の独白がそんな感じなので、編集者に言われてやっているというわけでもないらしい。俺などは何度生まれ変わってもそういう書き方が絶対にできないなと思う。ちなみに俺の勝手な想像だが、彼?が自分自身のパーソナリティを投影して作ったのは間違いなく「戯言シリーズ」のいーちゃんで、おそらく彼は日常的にはいーちゃんのように物事を心の中で考えていても、おそらくその振る舞いは思っているようにはできていないんだろうなと思う。思っていることを外面に出したのが多分いーちゃんで、「新本格魔法少女りすか」の供犠創貴や「化物語」の阿良々木暦などは明確にそのオルタナティブだと思う。つまりいーちゃんに限らず他の作品の主人公もれっきとした「戯言遣い」の場合が多く、彼の作品ではある程度「戯言遣い」であることが主人公の資格として要されるらしい。
 さて、偽物語の本編についてであるが、作者はあとがきでこれ自体でも楽しめるといったことを書いているが、俺は前作から読んだ方が良いと思う。もちろん阿良々木火憐・月火という、化物語であまり中心人物ではなかった者に焦点が当てられているので、表面的にはぱっとこの作品で出てきた者の話という感じはするが、実際は彼の作品は「群像劇中で極めて劇的な人々による喜劇」なので、化物語で登場した「極めて劇的な人々」の描写が、この作品の中での主要人物である妹達を自然な形で凌いでしまっている。つまり、シリーズものの続編としては順当な作品だが、これ単体をある意味「読み切り」として楽しめるかと言えばそれは保障できない。都合の良いことに「極めて劇的な人々」は大半が十代で、怪異への遭遇をある意味口実として彼らが人間として成長する姿を見ることが、「物語シリーズ」としての偽物語の価値だと俺は思うので、偽物語においても「主要登場人物」と言える前作の登場人物達の未熟さが描かれていた化物語は、偽物語を読む前に読んでおく方が良いだろう。少なくともその方が楽しめるだろう。
 また、肝心の妹等を含む新キャラについてだが、実はこの作品で最もキャラクターとして秀逸な登場人物だったのは上記した妹達ではなく詐欺師の貝木泥舟だと思われる。なぜなら彼は「極めて劇的な人々」の中ではほとんど唯一と言っていい明確な「悪」であり「黒」であり「影」だからだ。これまでの主要登場人物は結局のところ正当な理由をそれぞれ抱えて悩んだり戦ったりしていたが、この貝木泥舟は作者によって劇的な悪として主人公達と全く反対の価値観を持った存在として描かれている(もっと言えば明確に「戯言シリーズ」の西東天のオルタナティブである)。なので必然的に彼は「成長」から外れた大人でなければならなかったし、怪異の存在を認めない者でなければならなかった。この意味で、実は火憐や月火の代わりは他の「主人公サイドの」主要メンバーでも良かったが、貝木泥舟の代わりは誰も居ないのである。なので俺は偽物語で一番価値のある描写は貝木泥舟の描写だったと思っている。普段西尾維新にうんざりしている人でも貝木の描写だけは耐えられるかもしれない。