文庫版になっていた村上春樹の「東京奇譚集」を(また彼女に薦められる形で)読んだ。またお前は村上春樹の本を読んでいるのか、いい加減ハルキストとか自称して「ノルウェイの森」とかに感銘を受けた、やばい、ハワイに住みたいとか嘘を並べたらいいんじゃないのか、と思うが、前書いた通り人から(ほぼ100%彼女から)薦められないと全くと言って良いほど今では本を読まなくなったので、村上春樹の本が多くなるのは俺のせいではない。
「東京奇譚集」は、多分1度読んだとか思っていたが、読み終わったあと多分「~奇譚集」とか、別の本のタイトルだったかもしれん・・・ということが判明した短編集だった。いつも通り「短編集」という形式になった段階で今の俺にとっての本への誘引力が3倍ぐらいになる。
内容としてはまずいつも通り1本目の短編で主人公はセックスします。(原作:村上春樹、絵:矢吹健太郎とかにして、とにかく特定の主人公がモテまくる内容でジャンプで連載すれば良いんじゃないか。性描写が出てくるのでヤンジャンとかになるかもしれない)。書かれていなかったが、この類の主人公は多分長編になったらジャズも聴いているだろうし、お酒も飲んでいると思う。
途中までこんな感じで別に引っかかりも何もなく、「ああ、(村上春樹が書きそうな)短編小説だな」と思っただけだったが、最後の品川猿という、記憶を盗み(かつ人語を解する)猿の話が、良い意味でリアルとかフェアとか度外視して珍しくただ不思議系の面白い話を書こうとしたんだな、と思わせる内容だった。村上春樹の作品で、SF(すこし、不思議)要素が出てくる場合、大体はSF(すこし、不思議)の元凶になっている本体そのものは見せない、あるいは本体そのものと対峙させない感じになり、あくまで「現実世界の中目立たない闇の部分」みたいな感じになるのだが、この品川猿では上記した不思議な猿がそのまま不思議な猿として登場するので、世界観そのものがやや非現実的になっている。まあ「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」みたいに、そもそも世界全体が非現実的な場合も昔はあったのだが。
それでもまだ「品川猿」は「品川」と名前が付くように、「東京」の話なので、普段あまりに鼻につく主人公の設定と言動にうんざりしている方も、この珍しい不思議系の話だけは読んでみると良いかと思う。もっとも、内容そのものを「村上春樹」から切り離した場合は特段の価値は見いだせないのだが。
2015年2月21日土曜日
2015年1月12日月曜日
また京都に行って伏見稲荷神社に初詣に行った話
| 時間が経つと更に人間の数が増大していった |
また彼女と京都に行った。今度は伏見稲荷神社に初詣するという目的のためである。
| 有名な千本鳥居。いや千本はないでしょとか思っていたが、ここから延々延々鳥居があり続ける。 |
伏見稲荷神社はトリップアドバイザーの「行ってよかった外国人に人気の日本の観光スポット2014」で1位になったらしい。確かに千本鳥居とかを見てしまうとそう思う。他にもおもかる石などのアトラクションめいたものが点在していて、飽きさせない作りになっている。
| お稲荷様。左に鍵、右に玉 |
肝心の初詣であるが、俺が引いたおみくじは大吉で、とにかく全てを手に入れることになるらしい。よって今年も俺は俺が書きたいことを書くだろうし、YPPと戦うだろうし、ちゃんと税金を納めると思う。
2015年1月6日火曜日
淵の王 感想
何か最近本屋で日本人作家の本が何も面白そうではなく、少数の面白いことを知っている司馬遼太郎などの作品は軒並みまだ読んでいないのが長編しかなく、長編は疲れるので読みたくなく、どうしよう、困った、と思って真面目な顔をして本屋を去っていたのだが、また彼女に舞城王太郎が『新潮』2015年1月号に掲載した「淵の王」という新作を薦められたので、読んだ。読むことになった。
いつも通り適当な概要を書いておくと、3人の主人公がそれぞれの人生を過ごしながら、西尾維新の『鬼物語』で出てきたような「くらやみ」に遭遇して、2人目まで負けて、3人目で勝ったと思われる話である。いつも通りこの作者の作品の概要を真面目に書くと意味が分からないが、こんな話である。また、今回はそれぞれの主人公の1人称ではなく、それぞれの主人公と共にある文字通り「スタンド」みたいな存在の独白が、語り部の役割を果たす仕組みになっているので、正確には6人の主人公が「くらやみ」に遭遇して、5人目と6人目で「くらやみ」の正体と対決してなんとなく結末に至る話であった。
実はこの「淵の王」を読む数日前に、半年前に買った文庫版の『イキルキス』に収められている「アンフーアンフー」と、「無駄口を数える」という書下ろしの短編を今更読み、「イキルキスもアンフーアンフーも正直面白くないが、『無駄口を数える』という短編については良いな。特に錯乱した主人公の友達が突然悪意によって主人公の子供を窓から投げ捨てる所の描写が優れている」と思っていたのだが、この「淵の王」も、共通する部分で秀逸だと思った。
最近この作者は日常をぶっ壊して読者を焦燥させるのが上手くなっている、と思う。『煙か土か食い物』や『暗闇の中で子供』などの昔の作品は、「積み上げた日常で生み出すことのできる安心感をぶっ壊す」のではなく、「最初から最後までぶっ壊しまくる」という感じであった。ところが、最近はちゃんと人間の人生を常識的な範囲でちゃんと描くようになり、登場人物は必要な手段を講じ、努力をして、仕事をして、恋愛をして、セックスをして、結婚をするようになり、その上でぶっ壊されるようになった。今回の作品では、(5人目と6人目は物語を終わらせるために作られているので別にして)特に1人目と2人目、3人目と4人目はきっちり学生の頃からの成長の様を描き、「人生を歩んでいる姿」を描写した上でそれぞれの人生をぶっ壊す様を描く作業が行われている。その結果、「くらやみ」という人間の悪意に「敗北」した1人目と2人目、3人目と4人目の壊れる様は、非常に儚く、自然に残念に思える作りになっていた。
また、5人目と6人目でおなじみの福井県警とか出てきて、またどうでもいい謎解き要素が描かれるのか、と思ったが、そういったことは全くなかった点も良かったのではないか。今回はどうでもいい謎解きを主人公がすることで勝利するのではなく、キング的な超自然的な手段を講じて、超自然的な対象を撃破する物語であった。
いつも通り適当な概要を書いておくと、3人の主人公がそれぞれの人生を過ごしながら、西尾維新の『鬼物語』で出てきたような「くらやみ」に遭遇して、2人目まで負けて、3人目で勝ったと思われる話である。いつも通りこの作者の作品の概要を真面目に書くと意味が分からないが、こんな話である。また、今回はそれぞれの主人公の1人称ではなく、それぞれの主人公と共にある文字通り「スタンド」みたいな存在の独白が、語り部の役割を果たす仕組みになっているので、正確には6人の主人公が「くらやみ」に遭遇して、5人目と6人目で「くらやみ」の正体と対決してなんとなく結末に至る話であった。
実はこの「淵の王」を読む数日前に、半年前に買った文庫版の『イキルキス』に収められている「アンフーアンフー」と、「無駄口を数える」という書下ろしの短編を今更読み、「イキルキスもアンフーアンフーも正直面白くないが、『無駄口を数える』という短編については良いな。特に錯乱した主人公の友達が突然悪意によって主人公の子供を窓から投げ捨てる所の描写が優れている」と思っていたのだが、この「淵の王」も、共通する部分で秀逸だと思った。
最近この作者は日常をぶっ壊して読者を焦燥させるのが上手くなっている、と思う。『煙か土か食い物』や『暗闇の中で子供』などの昔の作品は、「積み上げた日常で生み出すことのできる安心感をぶっ壊す」のではなく、「最初から最後までぶっ壊しまくる」という感じであった。ところが、最近はちゃんと人間の人生を常識的な範囲でちゃんと描くようになり、登場人物は必要な手段を講じ、努力をして、仕事をして、恋愛をして、セックスをして、結婚をするようになり、その上でぶっ壊されるようになった。今回の作品では、(5人目と6人目は物語を終わらせるために作られているので別にして)特に1人目と2人目、3人目と4人目はきっちり学生の頃からの成長の様を描き、「人生を歩んでいる姿」を描写した上でそれぞれの人生をぶっ壊す様を描く作業が行われている。その結果、「くらやみ」という人間の悪意に「敗北」した1人目と2人目、3人目と4人目の壊れる様は、非常に儚く、自然に残念に思える作りになっていた。
また、5人目と6人目でおなじみの福井県警とか出てきて、またどうでもいい謎解き要素が描かれるのか、と思ったが、そういったことは全くなかった点も良かったのではないか。今回はどうでもいい謎解きを主人公がすることで勝利するのではなく、キング的な超自然的な手段を講じて、超自然的な対象を撃破する物語であった。
2015年1月1日木曜日
2015年の標的
1.自分が書きたいものをちゃんと書く
結局何かまじめな文章を書いて世に出したが、今年も結局ちゃんと文章を書く。ブログすら最近は書けない感じが続いているが、また何か書こうとしたいと思う。
2.YPPとの戦いの継続
もう年中行事みたいになってきたが、良い修行の口実であり、また目的でもあるという存在なので、とりあえず俺の人生においては付き合っていく。
3.ちゃんと金を稼いで税金を払う
国家という存在を手段として信奉し続ける限りは、お金を稼いで税金を払う。国民を茶番の選挙に行かせる国家は決して優れているとは思わないが。
結局何かまじめな文章を書いて世に出したが、今年も結局ちゃんと文章を書く。ブログすら最近は書けない感じが続いているが、また何か書こうとしたいと思う。
2.YPPとの戦いの継続
もう年中行事みたいになってきたが、良い修行の口実であり、また目的でもあるという存在なので、とりあえず俺の人生においては付き合っていく。
3.ちゃんと金を稼いで税金を払う
国家という存在を手段として信奉し続ける限りは、お金を稼いで税金を払う。国民を茶番の選挙に行かせる国家は決して優れているとは思わないが。
2014年12月6日土曜日
今年の大会も終了の件 2014
今年の国連YPP試験の筆記試験部分が終わった。昔は手書きで5時間ぐらい延々書かされ続けるのが大変とか書いていた気がするが、この前受けてみたらもう何も感じなくなっていた。
今年分かったことは、とにかく地球温暖化が洪水を起こしまくり、病気の原因になり、作物も獲れなくなり、住居を奪い、彼女もできなくなり、勉強もできなくなり、給料も減り、なんかやる気もなくなり、まあ諸悪の根源なので、とりあえず解決策として電車を使ったりしよう!ということである。また、「路上での睡眠を禁止する法律」も、個人の政治的権利及び経済的・社会的・文化的な権利を脅かす諸悪の根源なので、Special Rapporteurを派遣してThematic Reportを書かせたり、UPRで取り上げて徹底的に叩き潰そう!ということであった。
今年分かったことは、とにかく地球温暖化が洪水を起こしまくり、病気の原因になり、作物も獲れなくなり、住居を奪い、彼女もできなくなり、勉強もできなくなり、給料も減り、なんかやる気もなくなり、まあ諸悪の根源なので、とりあえず解決策として電車を使ったりしよう!ということである。また、「路上での睡眠を禁止する法律」も、個人の政治的権利及び経済的・社会的・文化的な権利を脅かす諸悪の根源なので、Special Rapporteurを派遣してThematic Reportを書かせたり、UPRで取り上げて徹底的に叩き潰そう!ということであった。
2014年11月29日土曜日
2014年の国連YPP試験について
全然書いてないが今年はHuman Rightsで呼ばれている。毎度毎度特に何もせずに呼ばれるので、案外この世界大会じみた試験は日本では全く人気が無いのかもしれない。一応国連職員というのは最高水準の能力を持っていないといけないことになっているので、毎回提出を求められるあの仰々しいアプリケーションへの審査などザルみたいなもので、世界中の勘違い野郎共をとにかく集めようという魂胆なのかもしれない。
今年の特徴は俺がやるHuman Rightsの過去問が無いと明言されている点である。世界中の勘違い受験マニアの人々は「傾向も対策もないじゃん!!ふざきんな!!111」と言いたくなると思う。
そもそも「人権」が飯を食うのに役立つ、というのも多くの日本人にとって不思議なことだろう。「あんた将来どうするの?」「俺?はぁ?ヒューマンライツオフィサーに決まってんじゃん。まあP3ぐらいには普通になっときたいよね」とか母親に言うと多分心配されることだろう。おそらく子供が将来なりたい職業ランキングの1位には永遠になりません。
まあしかし他の国だとそうはいかない。なぜなら他の国は「人権」の巨大化に最も貢献するであろう人と人との違いが人種の違いとして日本より明確に表れているからである。これは個人的な見解だが、人と人の違いほど権利の主張という行為の動因として強いものはない。あの人は腕があるが私には腕が無い、あの人は男だが私は女である、あの人は金持ちだが私は貧しい、あの人の肌は白いが私の肌は黒い、あの人には家族が居るが私には家族が居ない、これらは全て「持たざる者」側が「持つ側」と対等にゲームをするための条件としての前提的なカード=人権を作りだす動因となった。そして、いつか書いた通り日本には他の国より「あの人の肌は白いが私の肌は黒い」などの動因が見えづらかった状況が長く続いたため、こんなカード創りを要求する背景が生まれにくかったのである。「いやいや、肌が黒くても何かを『持たざる』というのはおかしいだろ」というのは井戸の中の正論で、井戸の外では「肌が黒かったら『持たざる者』になる特定の流域が存在していた」という偶発した事実を見ていない。
人権を商売にする、ということは、簡単に言えばこのカード創りに加担することである。上で述べた人と人との違いは、違う点が大きくなればなるほどカード創りを要する。腕が一本なくても片腕があれば野球はできるし守備もできる。しかし、両腕がなければバットは握れなくなる。両腕に加えて片足もなければ走塁は遅くなるし、四肢がなければバッターボックスには「立て」ない。「持たざる者」が「持つ者」と一緒にゲームをそのままさせられた場合、「持たざる者」は常に負け続けることになるだろう。そこで、人権というカードが必要になるのである。
「じゃあもう全員にカードを配れよ」と思うかもしれないが、実際はカードを作るためにも原材料が必要なので、残念ながら全員にカードを配ることはできない。つまり、上で述べた「持たざる者」には、必ずしも全員にカードが平等に配られるわけではない。しかも、権利は特権とは区別されるので、既に「持っている者」に「持たざる者」と同じカードを配ると、結局ワンサイドゲームになる。人権を商売にするというのは、カードがある基準に則して適正に配られているか、奪われていないかをチェックし、場合によって新しいカード創りを提案する仕事だと言える。
よって、Human Rightsの試験対策は、(1)カード創りの基準(e.g. 世界人権宣言、市民的及び政治的権利に関する国際規約)、(2)カード配給の監視(e.g. UPR、Special Procedure、)、(3)カードを取り返す方法(e.g. 人権裁判所の取り組み)、(4)新しいカード創り(e.g. 環境の権利、開発への権利)に精通することである。
今年の特徴は俺がやるHuman Rightsの過去問が無いと明言されている点である。世界中の勘違い受験マニアの人々は「傾向も対策もないじゃん!!ふざきんな!!111」と言いたくなると思う。
そもそも「人権」が飯を食うのに役立つ、というのも多くの日本人にとって不思議なことだろう。「あんた将来どうするの?」「俺?はぁ?ヒューマンライツオフィサーに決まってんじゃん。まあP3ぐらいには普通になっときたいよね」とか母親に言うと多分心配されることだろう。おそらく子供が将来なりたい職業ランキングの1位には永遠になりません。
まあしかし他の国だとそうはいかない。なぜなら他の国は「人権」の巨大化に最も貢献するであろう人と人との違いが人種の違いとして日本より明確に表れているからである。これは個人的な見解だが、人と人の違いほど権利の主張という行為の動因として強いものはない。あの人は腕があるが私には腕が無い、あの人は男だが私は女である、あの人は金持ちだが私は貧しい、あの人の肌は白いが私の肌は黒い、あの人には家族が居るが私には家族が居ない、これらは全て「持たざる者」側が「持つ側」と対等にゲームをするための条件としての前提的なカード=人権を作りだす動因となった。そして、いつか書いた通り日本には他の国より「あの人の肌は白いが私の肌は黒い」などの動因が見えづらかった状況が長く続いたため、こんなカード創りを要求する背景が生まれにくかったのである。「いやいや、肌が黒くても何かを『持たざる』というのはおかしいだろ」というのは井戸の中の正論で、井戸の外では「肌が黒かったら『持たざる者』になる特定の流域が存在していた」という偶発した事実を見ていない。
人権を商売にする、ということは、簡単に言えばこのカード創りに加担することである。上で述べた人と人との違いは、違う点が大きくなればなるほどカード創りを要する。腕が一本なくても片腕があれば野球はできるし守備もできる。しかし、両腕がなければバットは握れなくなる。両腕に加えて片足もなければ走塁は遅くなるし、四肢がなければバッターボックスには「立て」ない。「持たざる者」が「持つ者」と一緒にゲームをそのままさせられた場合、「持たざる者」は常に負け続けることになるだろう。そこで、人権というカードが必要になるのである。
「じゃあもう全員にカードを配れよ」と思うかもしれないが、実際はカードを作るためにも原材料が必要なので、残念ながら全員にカードを配ることはできない。つまり、上で述べた「持たざる者」には、必ずしも全員にカードが平等に配られるわけではない。しかも、権利は特権とは区別されるので、既に「持っている者」に「持たざる者」と同じカードを配ると、結局ワンサイドゲームになる。人権を商売にするというのは、カードがある基準に則して適正に配られているか、奪われていないかをチェックし、場合によって新しいカード創りを提案する仕事だと言える。
よって、Human Rightsの試験対策は、(1)カード創りの基準(e.g. 世界人権宣言、市民的及び政治的権利に関する国際規約)、(2)カード配給の監視(e.g. UPR、Special Procedure、)、(3)カードを取り返す方法(e.g. 人権裁判所の取り組み)、(4)新しいカード創り(e.g. 環境の権利、開発への権利)に精通することである。
登録:
投稿 (Atom)