2011年6月24日金曜日

路面電車にて (終)

 中電前の電停で巧は路面電車を降りて行った。純子はあのような老人がさも当然のようにICカードを使って電車料金を清算したことに可愛らしさを覚えた。
 純子はがたがた音を立てる電車に揺られながら、窓から見える景色を見つめていた。

 市役所から中央郵便局に向かう道を着慣れていないスーツを着た若い女が歩いている。彼女は4回目の企業説明会へ向かうところだ。手に鞄を提げて無表情のまま早足で会場へ向かっている。ストッキングをぱっちりと履いた足は寒そうな印象を与える。彼女には人に言える夢が無かった。英語は分からないし、資格を持っているわけでもなかった。しかし彼女は現在付き合っている彼氏との生活を守るという漠然とした理念に従って先を急いでいた。彼氏の大阪の企業への就職は失敗してくれれば良いと思う。
 彼女とすれ違うようにしてベビーカーを引く女が歩いていた。長くなった髪を後ろに結い、ベビーカーの中の自分の娘を気にすることもなく、真っ直ぐ表情を緩めずに前を向いて歩いている。彼女は姑と二人きりになるのが嫌だった。夫は娘が生まれる前に姑の貯金で買ったエスティマでいつも通り早朝に家を発った。今日彼に持たせた弁当には冷凍食品のから揚げが入っている。姑の嫌いな冷凍食品が。彼女は朝亡霊のようにむっくりと姿を表し、夫の弁当を見て渋面を見せていった女のことを歩きながら思い出していた。平和記念公園で姑が手芸教室へ出かけるまで時間を潰すのが習慣になりつつある。
 鷹野橋へと曲がる道にはいつも通りタクシーが数台連ねるようにして停車していた。この時間にタクシーを利用する客はあまり居ないが、彼らにとってみればここに停車することは商売ではなく1つの習慣になっているのかもしれない。あのタクシーが純子の朝を構成する要素の1つであるように、タクシーの運転手にとっても、この時間純子が乗る路面電車が通ることは朝の景色の1つなのかもしれなかった。
 突然、大きな風が路面電車を揺らした。大き過ぎると言った方が良いかもしれない。路面電車は急停車し、純子は前のめりに路面電車の床に叩きつけられた。
 外のタクシーは風で歩道に乗り上げていた。運転手がドアに手をかける暇も与えず、強さを増した風は車体を持ち上げてそのままひっくり返した。運転手の視界は揺れながら反転した。
 スーツを着た女は市役所の出入り口の辺りまで吹き飛ばされていた。プリントアウトしたGoogleマップと筆箱などが入った鞄が風に奪われた。彼女はとっさに携帯電話をポケットから取り出そうとしたが、空にある大きな光が彼女の注意を奪い、網膜を黒く焼いた。刺すような顔の痛みと、びゅうびゅうとした風の音が彼女の意識に残った。
 ベビーカーを引いていた女は路地の曲がり角を曲がった場所で道路に前のめりにつっ転ばされた。彼女の手から離れたベビーカーはおもちゃのように赤ん坊を乗せたまま空を飛び、彼女から離れて行った。ベビーカーが彼女の手から離れた瞬間、彼女は一瞬の驚愕を覚えつつ、朝見た姑の顔を思い出し、大きな解放感を感じた。すぐに背後から巨大な熱さが体が覆い、彼女の世界は電源を落としたテレビの画面のように暗く塗り潰された。
 
 純子は県病院前のアナウンスが聞こえたのでジーンズの尻ポケットにある財布から小銭を取り出した。向かい側を眺めると、明るさを増した建物と車が行き交う道路が見えた。朝始発電車で乗り合わせた面々の姿はいつの間にか消え、違う乗客が自分の前には座っていた。純子はじゃらじゃらとした小銭で清算を行った。彼女はゆっくりと乗降口を降り、いつもの業務を行うため、歩いて仕事場へと向かった。

(了)
 

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