2011年6月21日火曜日

"Law is a battleground of political conflict"


 「法とは政治的闘争の戦場である」というこの言葉は、NYUが最初の一歩として行うIntroduction to U.S. Lawの授業の課題図書の1つに挙げているLAW101:Everything You Need to Know About American Lawのかなり冒頭の部分に書いてある言葉である。多くの人間には多分どうでもいい言葉かもしれないが、実は俺にとっては重要な言葉である。
 一般的には法律は、「衡平・公正」といった理念に基づいて行使されるべきだとされており、「妥協・打算」といった政治的闘争とは距離があるべきだと(建前では)されている。しかし、この課題図書に頻繁に登場する堕胎の問題など、いわゆる「ハードケース」と呼ばれる問題群に遭遇した際、法は「衡平・公正」といった理念では対処できない政治的闘争の現実に直面してしまう。1つの「公正な」基準で堕胎の可否を判断できるのか?胎児の生きる権利と母親の生むことを選択する権利はどちらがより手厚く保護されるべきなのか?堕胎に対する不処罰が半ば黙認されている日本では考えられないことであるが、アメリカではこの問題をめぐる政治的闘争の結果、殺人事件まで発生している。
 俺がまだ法学部の学生だった頃に出会ったブラウン判決やロー判決を通じて見たのは、まさにこうした「法とは政治である」という現実であり、今やっている「移行期の正義」など、この現実を踏まえなければ考察することすら難しい問題である。上述した法が本来「有しているべき」理念に従って移行期の正義を論ずれば、おそらくほとんど全ての事例を許容できないものとして批判できるだろう。そこで観察される事実は、まさに「政治的闘争の結果としての法」、「政治的闘争の結果としての正義」だからである。自分の親を殺した人間、自分を少年兵にして最悪の人生を歩ませた人間、自分の手足を切断して陰惨な拷問を加えた人間と、「共存」、あるいは「和解」をせざるを得ない、一見してろくでもない現実の中で、過去の不正義を「正義に基づいて」どう処理するかということを考察しなければならない。まさに「神を作り出すような作業」である。
 俺をここまで進ませた言葉に5年ほど経って再び出会うというのは非常に感慨深い。これがあるから学問は止められねぇなと思う。そしてまた、この言葉から俺の学問の始まりである。

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