2010年4月21日水曜日

祖母について

 個人的な都合により数日ほど実家で過ごしていたため、ブログの更新が滞っていたが、そこで明らかになった事実は、やっぱり俺は実家に帰れないという事実である。何より個人的に許せなかったのはキッチンで犬を飼育しているという事実であり彼(彼女?)のすさまじい動物的な臭いがする中で自分の口に入れるものを作る姉とその配偶者の神経が理解できなかった。憎しみというよりは、「あはは。絶対無理」といった類の感情を抱かざるを得ない。無理である。色々な意味で。
 俺の実家は大往生した祖母が独力で資産を集めて土地を購入し、建築したものである。役所で入手できる土地に関連する書類には、全てにおいて所有者として祖母の名前が記されている。祖父は割合有力な人間であったらしいが、俺の母親がまだ小さい頃に死去したため、祖母は独力で生きなければならなかった。時代が時代なので大変である。祖母は学校を出ておらず、文字の読み書きや計算能力などはほとんどそなえていない。それ故、家や敷地、数多くの田畑の売買に要される大金を蓄えるためには、それこそ「人間力」をフル動員したとしか言えない。おそらく若い頃は田中角栄に近いパーソナリティを持っていたのであろう。
 今でこそ客観的に祖母のすさまじい(ある意味充実していたと言っていいかもしれない)人生に対して、俺は敬意を払うことができるが、俺は祖母が小学3年生ぐらいから嫌いであった。小学3年生の時、俺の家に遊びに来ていた友達の前で祖母は裸(どうでもいいが祖母と俺の母親は姉と違って巨乳である)で出て、友達に自分の背中へサロンパスを貼らせようとしたのだ。今の俺なら笑って許したかもしれないが、当時は俺の思春期の心情の影が見え隠れする年代に差し掛かっていたため、祖母に関する嫌悪感が形作られてしまった。これは俺にとってある種の原体験に近いものとなり、それ以降は物理的にも精神的にも祖母と距離を置くこととなった。
 こういった体験以上に、俺と祖母の間を隔てたのは、俺の歪んだ自立心の発達と祖母の過度な老婆心の了解不可能な価値観の対立だったと言える。俺はかなり他人を怖がった。1人で物を買いに行くことなどできない状況だったのだ。俺の行動力の無さを補うかのように、母親や祖母は俺を甘えさせた。しかし、今考えれば、これは単に俺の消極性を補うという俺以外の者の意思の力のみが働いたものではなかったかもしれない。これまでの人生で出会ってきた大人、特に俺より年上の女性は、小学校や保育所の先生から、フルブライトやノースウェスタンの女性の面接官まで、俺をいい意味で差別してきたからだ。祖母や母親も例外ではなかっただろう。これについては、あと10年後ぐらいに書きたくなればもっと詳しくどこかで叙述するかもしれない。こういった状況(より正確に言えば自分自身)に嫌気がしていた俺は、自分のキャパシティやパーソナリティを越えて、何でも自分で行おうとするようになった。1人で物も買いに行けない人間には土台無理な話である。『ダークタワー』のローランドの言葉を借りれば、「自己欺瞞はプライドの裏返し」だ。
 俺が高校を卒業して大学で様々な価値観に触れるまでの自立心は歪んだものであったが、着々と大きくなっていった。一方で、祖母(や母親)の老婆心は、彼女達の人生に訪れたいくつかの致命的と言っていい喪失から、拍車がかかっていった。祖母が俺を愛するほど(「すがる」という表現が妥当かもしれない)、俺は祖母を不必要なまでに否定していった。祖母は俺が生まれた段階で既に自分の人格を確固たるものにしていたため、俺が自分の人格を変化させることでしか、両者が歩み寄ることはありえなかったのだと、今なら言えるだろう。
 祖母は94歳まで生きた。俺には彼女が得たものが喪失したものより大きかったのか分からないが、少なくとも遺影は笑っている。それ以上の悲哀を知る姉と俺の願いが投影されたのだろう。
「自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。」(村上春樹,『回転木馬のデッドヒート』)
 

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