2012年4月28日土曜日

ファイナルファンタジータクティクス 感想

今までプレイしてきたRPGの中でも「最も好きなもの」を選べと言われたら、俺は間違いなく「ファイナルファンタジータクティクス(以下FFT)に決まってる」と言う。俺はこのRPGが今まで世界に存在したRPGの中で「最も優れている」とは思わない。ゲームとしての問題は誰が見ても沢山あると言わざるを得ない。しかし、俺はこのRPGが一番好きなのだ。一番好きな小説と同じで、技術においてはヘミングウェイやトマス・マンの方が断然上手いと思うのだが、それでも一番好きな作家がドストエフスキーで、一番好きな小説が「カラマーゾフの兄弟」だというのと同じである。「カラマーゾフの兄弟」もFFTも未完成(前者は明示的に第二部の構想があり、後者は黙示的に描写不足である)の作品なのだが、それでも好きなのである。
 いつも通りあらすじを超簡略して書くと、ガリランド王立士官アカデミーに通う貴族の名門ベオルブ家の末弟ラムザ・ベオルブと、「親友」であり共にアカデミーに通う平民出のディリータ・ハイラルが、イヴァリースという国家の覇権をめぐる内戦「獅子戦争」に巻き込まれ、やがてラムザはその中で戦争を裏で操る存在と戦っていく・・・という話である。
 俺がこのRPGをプレイしたのは小学校6年生の頃であった。使われている漢字の範囲は大体漢検3級~準1級に行くかいかないかだし、文章にルビも振られていないので、(俺は漢字は相当分かる方だったのだが)分からない漢字(枢機卿など)も沢山あった。しかも俺の友達は皆FF7やマリオカート64等が好きで、一緒に遊ぶ時に俺が面白いからやろうとか言いだすと意味分かんないから勘弁してよというリアクションが常に返ってきていた。なので皆がゴールドソーサーのスノボーやマリカーの対戦が面白い面白いと言う中、俺1人がこのRPGに熱中していた。文字通り熱中である。
何がそんなに面白かったのかと言うと、物語である。クロノ・クロスも突出していると思うのだが、FFTも別のベクトルで突出している。FFTにおいては身分による差別、宗教の問題等、具体的な社会問題はかなり鋭く(劇的に)描かれているのだが、より抽象的なレベルで(1人の小学生の視点から)「人が生きるってどういうことなんだろう」と考えさせる物語だった。
 まず差別の問題についてであるが、アルガスという「貴族原理主義」と呼べるまでの徹底した貴族と平民の差別を強調する輩による「家畜に神はいないッ!」 という台詞があまりにも有名である。その時はアメリカに来て今のように奴隷制についてまともに勉強する機会があるとは思わなかったのだが、今のように現実として知っていなくてもかなり衝撃的な台詞だった。もちろん人間が他の人間を差別する現実があることは当時の段階で既に知ってはいたが、それはあくまで「社会のある1つの形」であって、個人の精神にまで踏み込むようなものではないと思っていた。アルガスはそれを貴族の視点から完全否定したのである。つまり、平民=家畜には、神という絶対的な存在の前での「弱者としての人々の平等」という、「救い」そのものが根本から無いのだ。宗教は「人間」である貴族のために用意されたものであり、人間ではない「家畜」である平民は、現実世界の外に救いを求めることすら許されないという考え方である。
 何が悲劇だったかと言うと、(アルガスの台詞自体の問題よりも)主人公であるラムザはこの段階ではまだ「『親友』である平民のディリータの前でアルガスの考えを否定する言葉を持っていなかったこと」である。「親友」ならすぐにアルガスをぶん殴ってやらなければならなかった。逆に言えばやはり差別という問題はラムザやディリータ個人の感情だけでは対処できないほど根が深すぎる問題であり、チャプター1のジークデン砦における別れはこの段階で、もっと言えば彼らがイヴァリースで生まれ落ちた段階で運命付けられていたのである。後で触れるようにこの物語は「悲劇」なのだが、正史の中で「英雄王」になったディリータがイヴァリースに民主制を敷いたという事実が言及されていないこともまた、この問題の深さを示唆している。
 次に宗教の問題だが、リオファネス城でのラムザと神殿騎士ウィーグラフの一騎打ちの中でのウィーグラフの台詞が印象的だった。「所詮、”神の奇跡”などそんなものだ・・・。その時々の執政者たちが自分の都合の良いように歴史を改ざんしているだけ。だがな、その行為のどこに問題があるというのだ?彼らが責められる理由は何もない。なぜなら”神の奇跡”を臨むのはいつでも民衆だ。何もせず、文句ばかり言い、努力はせず、他人の足を引っ張る・・・それが民衆というもの・・・そうした民衆が望むものを執政者たちが用意する・・・。歴史などその繰り返しにすぎん。たしかに執政者たちはそうした民衆の弱い心を利用していたかもしれん・・・。だが、民衆もまた、利用されることに満足しているのだ・・・。”神”なんぞ、人間のもっとも弱い心が生み出したただの虚像にすぎん・・・。それに気づいていながらその”ぬるま湯”に甘んじている奴らがいけないのだよ・・・。弱い人間だからこそ”神の奇跡にすがるのさ・・・。」という台詞である。プレイヤーとしてはリオファネス城における一騎打ちは、その後のルカヴィ戦を含めてこのゲームにおける最難関のポイントなので、台詞をいちいち気にしている場合じゃないのだが、台詞の内容は極めてラディカルな主張である。あらゆる宗教行為に身を投じている人々の感情を真正面から逆撫でするこの台詞に衝撃を受けた。日本人だからこそ書ける台詞だなと思う。
 他方で、このウィーグラフの台詞は主張というより自虐に近い。ウィーグラフという、反政府勢力を率いて革命のために奔走していた一人の青年が、自分が抱いていた展望(彼が台詞の中で馬鹿にしている「民衆」の希望)を捨ててしまったことの結果である。なので、ゲームにおける彼の物理的な強さに反して、実は戦う前からラムザに彼は負けてしまっているのだ。もっとも彼の人生ははっきり言って苦難しか無かったので、(後に異端者として世界に追われる存在になったとはいえ)最初からアドバンテージを与えられているラムザを公正に擁護できるわけでもない。ウィーグラフもディリータもそうなのだが、「持たざる者はどこまで行っても持たざる者だった」という事実は、この作品の悲劇性を高めている。
 最後にチャプター4の内容に触れたいと思う。実はここまでで触れてきた宗教や身分差別の問題自体は、小学校6年生の自分にとっては確かにある程度は衝撃的だったものの、この感想の冒頭で触れているような「人が生きるってどういうことなんだろう」と考えさせるほどではなかった。最も大きな影響を持ったのは、やはりチャプター4「愛にすべてを」におけるラムザとディリータの異なる二つの人生の結末である。俺は(いつぞや書いたD. Gray-manの感想以外)商品のAmazonレビューとして感想を書いているわけではないので、基本的にネタバレ等は無視しているのだが、この作品の結末にはほとんど救いと呼べるものが無い。「異端者」ラムザは獅子戦争を裏で操っていた者と「誰か困っている人のために戦う」という自分の信念に従い戦って行方不明となり、「英雄王」ディリータは「自分からこれまであらゆるものを奪ってきたこのイヴァリースという世界にいかなる手段を用いても復讐し、自分が今度は彼らから奪う側に立つ」という自身の野望に従って王となったが、本当に愛していた(彼はオヴェリアに対しては本心から愛情を抱いていたと考えられる)オヴェリアに短刀で刺され、即座にオヴェリアから奪った短刀で彼女を絶命させた。「・・・ラムザお前は何を手に入れた?オレは・・・」という、彼の台詞でこの物語は幕を閉じる。
 実は俺はFFTをプレイしてから長い間、ラムザのような自己犠牲が、ディリータの野望に比較してより強い正当性を持っていると考えていた。最後の台詞をディリータに喋らせていたこともあり、このFFTという物語は、「自身の『義』に従って、自分のためではなく、誰か他の人のために戦ったラムザこそが真の英雄だった」という物語だったと思っていた。しかし、本当にラムザやディリータのどちらかに、どちらかの生き方がより優れていると言わしめるだけの正当性というものがあるのだろうか?ラムザの「自己犠牲」がなぜ我々にとってより強い価値を持つと感得させるのか?
 ラムザの「自己犠牲」の正当性について説明する1つの方法として、彼が「自分が本来得るはずだった利益を差し出し、あるいは捨て去り、自分にとって最終的には不利益にはなるが、それでも自分以外の者に対しては利益となる選択肢を選んでいるからだ」という説明の仕方があるだろう。すなわち、ラムザは「本来ならベオルブ家の末弟として、イヴァリースという絶対的に自分たち貴族にアドバンテージを与える社会で、自分たち貴族の利益のみを追及して安寧な生活を送ることが約束された地位にいたにも関わらず、自分たちのみならず平民をも含んだイヴァリース全土に被害を及ぼしかねないルカヴィという悪魔と、自分の命と引き換えに戦ってこの危険=不利益を取り除いた」結果、彼獲得した「利他性」故に我々は彼の行為を正しいとするのである。
 しかし、ディリータの野望もこのようなラムザの「正しさ」とは別の意味での「正しさ」を持っている。ディリータの野望の正当性は、ラムザとは異なり、「利他性」ではなく、「公正」の概念で説明することができる。ディリータの野望は、「彼がこれまで被ってきた社会における「貴族」と比した場合の不均衡な利益の配分に対し、彼に配分されなかっただけの利益を取り戻し、あるいは奪い、均衡にして、結果を公正なものにしているからだ」と説明できるだろう。すなわち、ラムザと異なり本来的にこの世界で利益を得ることができない状態=「貴族」と比して不均衡な「平民」を前提として配分されていた利益と、殺されたティータのようにこの前提により「是」とされた奪われた利益に見合った、自身の被ってきた不利益と均衡するだけの(「不利益を贖う」)利益である「英雄王」という地位を得たことにより、我々は彼の野望を正しいとするのである。
 より詳細な考察を加えると、上記したこの物語の最後の文脈を抜きに、客観的にラムザとディリータの人生をながめれば、両者が共に比較不可能な正当性を有していることが分かる。比較を不可能なものにする最も大きな壁は、「ラムザが持つ者であり、ディリータが持たざる者であった」という事実に他ならない。例えば、面白い思考実験として、ラムザとディリータの結末を反対だったと想定する。その場合、ラムザは最初から自分の利益だけを追及し「順当に」「英雄王」となり、不利益は最小化し、利益が最大となる。ディリータは反対に、最初から最後まで何も得られないばかりか、自分の命を含めた全ての自己利益を失い、不利益が最大化する。この場合、両者の結末は正当性の点で問題を抱える。ラムザはあまりに大きすぎる利益を得たばかりに不均衡な結果を生み、ディリータは大きすぎる不利益を生じさせたばかりに、自己犠牲によって得られるはずだった他者の利益によって得られた「利他性」が持つ正当性を、自らに生じた不利益が大きく減じてしまう。このように考えると、FFTにおけるラムザとディリータの「持つ者と持たざる者」の違いは、それぞれの人生が比較不可能なものとして正当性を主張するための必要な前提だったのだと考えられる。だからこそ、余計に救いが無い。最初からこの物語において彼らの人生に出口など無かったのだ。
 これらのことを考えさせるRPGがFFTだった。下手な道徳教材よりよっぽど勉強になるRPGである。ここでは物語に偏重した感想を書いたが、こんな小難しいことを考えなくても(最初に述べたとおり問題はあるにはあるが)純粋にゲームとしてもFFTは面白い。(俺の彼女は途中で投げ出してしまったが)せっかく生きてるのならやってみるべきゲームである。

2012年4月25日水曜日

うまかっちゃんに感謝

彼女にうまかっちゃんやら醤油やら(俺はやたら料理に醤油を使うのだが、アメリカの一般マーケットで売っているSoy Sauceは量が少ないのに高い)送ってもらったので1年ぶりぐらいにうまかっちゃんを食べてうまかっちゃんに感謝した。日本のインスタントラーメンの質は世界一だと思う・・・と思ったらインドネシアに負けていてしかもうまかっちゃんはランクインすらしていない・・・。しかし今日は「ドラえもんのび太の日本誕生」で雪原で倒れているのび太にラーメンの汁を与えて復活させるタイムパトロールを思い出した。あの状況でラーメンの汁だけってお前・・・とか思っていたが、あながち間違っているわけではないのかもしれない。

2012年4月12日木曜日

あーよく分かんねえけどまたくっそやる気出てきた。

不思議なことを書くが今日朝目が覚めるとやっと論文について考えることが楽しくなっていた。いつもこんな感じなのだが、俺は論文を書き始めるまでにすごく時間がかかる。なぜなら、書き始める前は論文を書く行為が嫌いだからだ。嫌なのだ。しかし、不思議なことに、論文について真面目に考え始めると論文を書くことを楽しく感じる。書く前は「うわーこんなんやってらんないわ。モンハンでもしよう」とか思っているのだが、書き始めると「何これ面白い。アイデアが死ぬ程湧いてくる。アカデミック・ハイだわ俺。モンハンなんかやってる場合じゃない」みたいな感じになるのだ。普段適当な感じでも結局論文を書いてるのはこのせいだと思う。

2012年4月7日土曜日

クロノ・クロス 感想

理由は知らないが最近クロノ・クロスのことばっかり思い出すので今更クロノ・クロスの感想を書こうと思う。なんかここ1年?ぐらいにPSストアでゲームアーカイブスとして800円で配信されたらしい。
 さて、クロノ・クロスは発売される前は誰もがクロノ・トリガーという、もしかしたら50年に1本ぐらいの伝説の大作の続編として期待されていたが、蓋を開けてみれば全然違っていたという作品である。それも個人的にはいい意味で違っていた作品だったと思う。今世界に存在するRPGの中には「ファイナルファンタジータクティクス(PS版に決まってんだろ)」、「ヴァルキリープロファイル」、「ゼノギアス」、「マリオRPG」、「クロノ・トリガー」といった全てがおそろしく完成度が高い作品(これらについてもいつか思い出したら感想を書きたい)があるが、クロノ・クロスもまぎれもなくこれらに列する1本である。50年に1本とは言わないが、10年に1本あればいい方の作品かもしれない。BGMも設定もシステムも良いのだが、とりわけストーリーの奥深さについては他の同レベルの作品の中でも突出している。
 めちゃくちゃ簡単にストーリーを説明すると、アルニ村という漁村で育った主人公セルジュが、ふとしたきっかけでほとんど同じだが少し違う世界、いわゆるパラレルワールドへ行ってしまい、やがて両方の世界(HomeとAnother)を行き来する星の命運をめぐる戦いに巻き込まれていく・・・という話である。
 しかし、上記したように、クロノ・クロスは単にクロノ・トリガーの続編というわけではない。もちろん登場する用語や人物の中にはクロノ・トリガーと同一の設定を持った人、物も多くあるのだが、それは「クロノ・トリガーの続きの世界」を意味しない。正確にクロノ・クロスとクロノ・トリガーの関係を描写するなら、両者は互いにコインの表と裏の関係である。クロノ・トリガーが表ならクロノ・クロスは裏である。つまり、同一平面上で決して交わることは無い。クロノ・トリガーをやった後にクロノ・クロスをやると、前作で思い入れのあるキャラクターの扱いに不満を覚える人も居るかもしれないが、それはお門違いである。なぜなら、同一平面上で地続きに交わることが不可能な世界にある以上、クロノ・トリガーで登場した人々はその世界で登場する「同じような人々」とは別のものであり、たとえクロノ・クロスの世界でろくな扱いをされていなくても、それはクロノ・トリガーの世界とは(直接的には)関係ないからである。つまり、クロノ・トリガーで星の命運をラヴォスから救った主要キャラクターは、クロノ・クロスとは決して交わることの無い別の世界で全く問題なく暮らしているということだ。
 より正確に言えば、「コインの表と裏」の関係は事象を単純化しすぎているだろう。クロノ・クロスの設定に従えば、それは単なる二面性ではなくむしろ多面性の中で理解されなければならない。交わることの無い世界が多元的に存在していて、その多くの世界の面のうちの1つの表と裏がクロノ・トリガーとクロノ・クロスだったということである。HomeとAnotherはクロノ・クロスにおけるパラレル・ワールドだが、よりメタフィジカルな次元でクロノ・トリガーとクロノ・クロスもパラレルな関係を持っているのである。この意味で、クロノ・トリガーが時間を超える冒険だったとすれば、クロノ・クロスで重視されているのは空間を超える冒険である。
 このようなクロノ・クロスという裏が生まれたのは、表であるクロノ・トリガーにおいて主人公達が本来滅びるはずだった世界を救って(1つの滅亡という運命を抹殺して)別の救済という運命に書き換えたからである。つまり、ラヴォスから星を救うという行為は、クロノ・トリガーにおける「救済された世界」をもたらすものであったが、同時に「滅びたはずの世界」という、客観的には等価値の正当性を有する可能性を否定するものだった。そしてクロノ・トリガーで否定された可能性は、クロノ・クロスというクロノ・トリガーの裏の世界で自身の正当性を主張したのである。セルジュ達の冒険は、この否定された正当性を主張しクロノ・クロスの世界に滅びをもたらそうとする「クロノ・トリガーで否定された可能性」=滅ぼされたラヴォスの意思=時喰い=サラを「救済」し、滅びの運命の連鎖から解放するために行われた。「救済」というのが味噌で、実は仮にセルジュ達が再び「クロノ・トリガーで否定された可能性」を否定すると、再び「クロノ・クロスの裏」を生みだし、延々と「等価値の正当性を持つ可能性」間の争いが繰り返されることになる。ラスボス戦で暴力によって否定するのではなく、クロノ・クロスという、心に働きかける7番目のエレメントで、否定された可能性の顕現である時喰いを癒す必要があるのは、この問題を解決するためだと考えられる。 これらを含めて、クロノ・クロスにおけるテーマは、やはり共に正当性を持つ表と裏の世界・可能性の関係であり、クロノ・クロスというエレメントが愛だけではなく、愛と憎しみ両方のかけらを必要とするのも、それら一方では正で他方では負とされる事柄の両方が世界にとって共に「正当な」ものだということを示しているのだと思われる。
 俺がクロノ・クロスをプレイしたのは中学校3年生ぐらいの時だったと思うのだが、純粋にクロノ・クロスの世界に引き込まれた。最初のOPに流れる「CHRONO CROSS~時の傷痕~」という現存するRPGのBGMの中で1位、2位を争うほどの素晴らしい音楽にかなり惹きつけられた。この最初に流れるBGMでは様々な10種の楽器の音がやがて1つに交わっていくのだが、今思えばそれはラスボス戦で6つのエレメントが持つ音をクロノ・クロスで1つにする行為そのものを表しているかのように思われる。この一貫した演出は素晴らしいと言わざるを得ない。もちろん「キャラクターが多すぎて1人1人の存在感が薄い」、「戦闘がやや面倒」等の問題もあるのだが、それらを含めたとしても死ぬまでに1度はプレイするべきゲームであることには疑いが無い。

2012年4月2日月曜日

また生き残るしかねぇんだよ。

最近ちょっと思ったのだが、また俺は多くの荷物を抱え過ぎていて、全身全霊全力全開で生き残るしかないことが分かった。アメリカに来てから理由は知らないがずっとこんな感じである。頼むから全力でぶっ飛ばしてくれ俺、と自分で思う。思うしかない。やっぱり「NYU生活編」とか「NYUリア充編」とか名付けて「wwww」とか「♪」とか「^^」とか文章に付けまくって「wwwうwwwはwwwwダンキンドーナツうめえww」とか「大学の隣にあるお気に入りのスタバでいつも勉強しているんですよね♪」とか「フレに呼ばれたので失礼しますね^^」とかじゃなくて「NYU激闘編」であってた。そしてリア充というかリア重でリア終でリア修でリア囚だった。まあよく考えたら前期も後期もNYUに全然関係ないことで勝手に死にそうになっているんだった。じゃあ「NYU激闘編」は正しくは「NYU(に通っているというか住んでいるというかまあ仕事以外は引き籠ってて時々非実在害獣を狩猟してはにやにやする人の)激闘編」と読む。次こういうのは「星霜編」とか付けてキャラクターの顔が変になっていきなり過去編を始めて顔の十字傷のこととか話し始めようかと思う。