この前彼女と一緒に「劇場版銀魂完結編 万事屋よ永遠なれ」を観に行った。公開初日に行くという、別に単行本を一冊も買ってない者(彼女含む)としては極めて殊勝な心掛けであった。ジャンプ本誌とたまに観るアニメぐらいしか接点がないのだが、それでも印象に残るのが銀魂の良いところだと思う。
今回の「完結編」の中身をいつもの適当あらすじで書くと、場末の映画館でバイトしていた銀時一行は、「No More 映画泥棒」の謎の力によって銀時のみ未来へ飛ばされるが、なぞのウィルスのせいでろくでもない未来になっていて、万事屋も解散していたので未来世界の巨乳に育った神楽さんと中二に育った眼鏡と一緒に万事屋を再結成し、世界再建の戦いへ身を投じる・・・という話である。
最初に言っておく必要があるのは、今作は別に紅桜編やかぶき町四天王編のような真面目な長編というわけでもなく、登場人物総登場のラストにふさわしいサービス精神溢れる長編になっているので、泣ける部分より笑える部分の方が多いということである。銀魂特有の感動できる長編を期待して観ると(銀魂が好きだったらこの作品の両側面も好きだと思うのだが)裏切られるかもしれない。
個人的に一番面白かったのは圧倒的に5年後のアル中になったマダオだった。この映画に関しては俺はそれが全てだった。今作では珍しく近藤さんも脱がないしモザイクも無かったが、それ以上に映してはいけないものを映していたので、テレビ放送だと完全にマダオの姿だけカットかマダオだけモザイクがかけられるかもしれない。まあどうせ放送するのはテレビ東京なので問題無いが。
また、上述した通りシリアスな長編というわけでもなかったので、銀魂の良いところである丁寧なバトルシーンの描写も紅桜編やかぶき町四天王編の方が上である。まあ一応「完結編」なのでやっぱりある種のファンサービスと捉えて観るのが良いのではないだろうか。連載が終わったらまたアニメ放送をやりそうだし、「やっぱり完結編じゃありませんでしたー」とか後で言い出しても許される作品ではあるのだが。
最後に、親と一緒に観に行っている少年少女については、上述したマダオとか、銀時がティッシュ箱を持ってトイレに消えるシーンとか、5年後のお通ちゃんのDVDパッケージとか、触れるな。無心でスクリーンだけを凝視し続けろ、と祈らずにいられません。
2013年7月9日火曜日
2012年11月26日月曜日
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO. 感想
この前彼女と一緒にエヴァの新作映画を観に行った・・・のだが、当日予約をしていなかったらもう一杯になっていて当日に観ることができなかった。「こんなヲタクの象徴みたいな社会で虐げられてきたコンテンツにそんなに人集まらないだろ」と言っていたが、間違いだったらしい。「依然としてヲタクの象徴として虐げられているものの、ヲタク自体の社会的認知度と総数が高まったことにより逆説的に社会的地位が上昇したコンテンツ」になったらしい。
あれだけ旧劇場版で作品自体がヲタクを叩きまくったのに皮肉な事態である。どうやら庵野監督が本当に引きこもったヲタクの息の根を止めてまっとうな公務員やら、会社員やら、バイト店員やらにするためには、アスカを食べさせて登場人物をジュースにして皆殺しにするだけではなく、より徹底してヲタクの願望を根絶するために、登場人物を徹底的に貶めて、辱め、惨殺するか、徹底して意図的な駄作を作るか、今回の作品中であったように碇シンジを罵倒し、貶めるセリフを30分ぐらい長々流しまくるしかないらしい。もっとも金を持ったヲタクを集客しないとコンテンツ自体の市場価値が無くなってしまうため、旧劇場版自体ある種の炎上商法みたいなもので、意図的にパラドックスが引き起こされてしまっていたのだが。
さて、このような旧劇場版に存在した「パラドックス」を払拭するような流れが序・破共にできつつあったのだが、今回のQは再びシンジ君の努力と作品中での価値を否定することで、大きな「葛藤めいたもの」を意図的に発生させている。作品の名前が「序・破・Q」とあったことで、観客は新劇場版の試みは「三段構成」だ、と思わされていたが、今回のQの展開と告知された「シン・エヴァンゲリオン」の存在でそれは破壊された。もっとも、今回のQを観ればおそらく上述した「ヲタク」にとっては良い意味で破壊されたのだと思う。もし「三段構成」だったら、結局「エヴァンゲリオン」というコンテンツはある種の悲劇でしかなかった、という評価で終わっていたのだが、序破急の仮面を被った起・承・転・結の4段構成だと再定義されたことで、今回のQは単なる「転」であり、「主人公が全否定されても、登場人物が悲劇的で(かつほとんど無価値に見える)死を迎えても、説明が全く存在しない不親切な文脈に沿って物語が進行しても、中盤が単なる『綺麗なホモアニメ』」だったとしても、大いなる「結」へ至るための「意図的な蹉跌」なのだ、と解釈できれば、Qの内容を前向きに捉えることができる余地はある。
ここまで書いていて一見「形式的なネタバレ」は無いように見えて、「実質的なネタバレ」をしているのだが、不思議と「エヴァンゲリオン」というコンテンツの価値を損なっているように見えない。これは、実のところQの内容である「意図的な蹉跌」は、文字通り「意図的」であるだけでなく、観客である俺という一人の「ヲタク」がある意味「期待」していた展開だったからかもしれない。碇シンジは全てを可能にするヒーローにはなれなかったし、世界は救われなかったし、大切な人も守れなかったし、登場人物は14年経っても不親切で自分のことだけで精一杯だったし、世界は徹底的に破壊された閉塞感の塊だったが、おそらくこのような描き方でしか感じさせることのできないリアリティと世界観を、俺は「エヴァンゲリオン」というコンテンツに無意識的に期待しているのだと思う。ただの14歳は14歳の小僧でしかなく、取り巻く大人も聖人君子ではないが、それは「現実」の位相の1つには違いないのだ。いつもと違って全く感想に「クソ適当あらすじ」を書かなかったが、エヴァンゲリオンに関してはこれで十分だと感じる。
あれだけ旧劇場版で作品自体がヲタクを叩きまくったのに皮肉な事態である。どうやら庵野監督が本当に引きこもったヲタクの息の根を止めてまっとうな公務員やら、会社員やら、バイト店員やらにするためには、アスカを食べさせて登場人物をジュースにして皆殺しにするだけではなく、より徹底してヲタクの願望を根絶するために、登場人物を徹底的に貶めて、辱め、惨殺するか、徹底して意図的な駄作を作るか、今回の作品中であったように碇シンジを罵倒し、貶めるセリフを30分ぐらい長々流しまくるしかないらしい。もっとも金を持ったヲタクを集客しないとコンテンツ自体の市場価値が無くなってしまうため、旧劇場版自体ある種の炎上商法みたいなもので、意図的にパラドックスが引き起こされてしまっていたのだが。
さて、このような旧劇場版に存在した「パラドックス」を払拭するような流れが序・破共にできつつあったのだが、今回のQは再びシンジ君の努力と作品中での価値を否定することで、大きな「葛藤めいたもの」を意図的に発生させている。作品の名前が「序・破・Q」とあったことで、観客は新劇場版の試みは「三段構成」だ、と思わされていたが、今回のQの展開と告知された「シン・エヴァンゲリオン」の存在でそれは破壊された。もっとも、今回のQを観ればおそらく上述した「ヲタク」にとっては良い意味で破壊されたのだと思う。もし「三段構成」だったら、結局「エヴァンゲリオン」というコンテンツはある種の悲劇でしかなかった、という評価で終わっていたのだが、序破急の仮面を被った起・承・転・結の4段構成だと再定義されたことで、今回のQは単なる「転」であり、「主人公が全否定されても、登場人物が悲劇的で(かつほとんど無価値に見える)死を迎えても、説明が全く存在しない不親切な文脈に沿って物語が進行しても、中盤が単なる『綺麗なホモアニメ』」だったとしても、大いなる「結」へ至るための「意図的な蹉跌」なのだ、と解釈できれば、Qの内容を前向きに捉えることができる余地はある。
ここまで書いていて一見「形式的なネタバレ」は無いように見えて、「実質的なネタバレ」をしているのだが、不思議と「エヴァンゲリオン」というコンテンツの価値を損なっているように見えない。これは、実のところQの内容である「意図的な蹉跌」は、文字通り「意図的」であるだけでなく、観客である俺という一人の「ヲタク」がある意味「期待」していた展開だったからかもしれない。碇シンジは全てを可能にするヒーローにはなれなかったし、世界は救われなかったし、大切な人も守れなかったし、登場人物は14年経っても不親切で自分のことだけで精一杯だったし、世界は徹底的に破壊された閉塞感の塊だったが、おそらくこのような描き方でしか感じさせることのできないリアリティと世界観を、俺は「エヴァンゲリオン」というコンテンツに無意識的に期待しているのだと思う。ただの14歳は14歳の小僧でしかなく、取り巻く大人も聖人君子ではないが、それは「現実」の位相の1つには違いないのだ。いつもと違って全く感想に「クソ適当あらすじ」を書かなかったが、エヴァンゲリオンに関してはこれで十分だと感じる。
2012年8月12日日曜日
帰りの機内で観た映画の感想
実は何も書いてないがもう日本に帰って来た。日本は素晴らしい。料理が安くて美味い。帰りの飛行機でモンハンもしたが2本映画を観たので感想を書いておこうと思う。
1.スタンド・バイ・ミー
世間的にはグリーン・マイルと並んで「スティーヴン・キングと言えばこの映画」とされている作品。少なくともクージョやミストやミザリーよりは誰か他の人と観に行ってもいい映画だと思う。このブログとしては今まで散々キングの作品の感想を書いてきたわけなので、この「恐怖の四季」にゴールデン・ボーイ(元ナチのおっさんを従属させてホームレス狩りをする作品)などの面白い短編と共に収められている作品の感想を別個に書くべきかと思うのだが、まあ世間的にはスタンド・バイ・ミーは映画であって小説の(「死体」としての)認識は薄いかと思うので映画の感想を書いておこうと思う。ちなみになぜか日本語字幕も吹き替えもなかったので、俺は英語でこの映画を観ざるを得なかった。
いつも通り適当にあらすじを書いておくと、キャッスル・ロックという、キングの作品を知っている人が「僕はキャッスル・ロックという田舎町で生まれた」とか聞くと、「何こいつ真面目に架空の町の話しちゃってんの?」とか思ってしまう町で育ったゴーディら、4人の少年達が行方不明となっていた人の死体を探しに行く・・・という話である。こんな話なのでキングは原作を「死体」と名付けている。
本作の見どころは子どもたちのどうでもいい冒険と、その最中に暗示させる「映画を観ている良識的な大人の願い」とは相反するろくでもない彼らの未来である。この作品は表面的には(初代ポケモンの主人公の家のテレビで流されていた意図そのままに)「子どもたちが自らの力だけで冒険をする話」で、まともに話を知らない人は特徴的な歌と線路を子どもが歩いている情景として理解していると思う。しかし、実際の所は上記した「まだ他の人と観に行ってもいい映画」方面の価値をキングによって半ば意図的に壊された作品である。冒険は日常から遠ざかる意味での彼らと「映画を観ている良識的な大人の願い」の理想であり、冒険を浸食している、彼らがキャッスル・ロックで体験している迫りくるろくでもない大人としての自分たちの姿こそがこの物語の価値だと思う。
とりわけ俺は4人の少年のリーダー格であったクリスこそが「アメリカの子どもたちの現実」を上手く体現したキャラクターとして位置づけられていたと思う。彼は有能で勇敢でどこまで行ってもリーダーなのだが、育った家庭は底辺中の底辺で、彼は(たとえゴーディより有能であっても)親友であるゴーディと共に進学コースに進むことはできない。彼にとって、この死体を探しに行くという冒険は、そういった「映画の中の大人たちが付きつけるろくでもない現実」から逃げるための手段であった。一見人間としてはテディという4人のうちの1人の少年の方が問題がありそうだが、設定上はクリスの方が悲劇的である。そしてこの設定こそが作者が付きつけたかった1つの「リアル」であり、「映画を観ている良識的な大人の願い」に対する確信犯的なアンチ・テーゼなのだ。普通の日本人がどこまで重くクリスの家庭背景を捉えるか分からないが、普通のアメリカ人にとっては多くの場合「重い」と思う。なぜならクリスのような状態で育った場合、多くの場合は(FFTの感想で用いた表現を使うと)出口なんて無くなるのだから。底辺は底辺を再生産し続けるのだから。彼は彼の物語として、キャッスル・ロックで延々酒と暴力と絶望にのたうちまわる生活を続けさせられるのだから。そして何よりそれを10代で理解させられてしまうのだから。だからこそ作者は大人になって(奇跡的に)ロースクールを卒業して弁護士となったクリスを無造作に殺害したのである。彼に出口を見つけられては困るのだ。
この映画(というか物語)が素晴らしいのは、そういった後の現実をくどくど描かずに、彼らが行っている12歳という限られた時間限定の冒険に限定して彼らを描写している所だと思う。だからこそ、彼らの冒険にはかけがえのない理想が体現されていると思わせることができるし、彼らの将来にはどうしようもない現実が待ち構えていると思わせることができる。他のキング原作の糞映画にうんざりさせられた人が観るべき映画だったと思う。
2.塔の上のラプンツェル
全然面白くなかった映画。一応この映画のあらすじを書いておくと、塔の上で永遠の若さと治癒を与える魔法の髪を持つ女の子が閉じ込められていて、よくある設定の男が偶然その塔に忍び込んで、一緒に塔の外へ彼女が見たいと言っていた祭りの行事みたいなものを見に行って、素晴らしい魔法の髪とご都合主義と悪役の接待プレーによってラブラブになって永遠幸せに暮らし続ける・・・という話である。
観ながら「いつ切ろうか」と考えさせられた。ご都合主義の連続、相変わらずの気持ち悪いキャラデザイン、ありきたりな展開、何より(悪意があったとは言え)育ての親をぶっ殺した後に主人公達がラブラブな情景をすぐさま繰り広げるという完全に理解不能な描写を展開してくれた。子ども会や中学生同士のデートとかで観に行けば「外す」ことは無いかもしれない。残念ながら俺はその会は途中で「つまんねぇから帰るわ」と言って大人達をうんざりさせてしまうだろうし、デートの場合は俺が女だったら相手の男を「つまんねぇ奴・・・」とか思ってしまうだろうが。
1.スタンド・バイ・ミー
世間的にはグリーン・マイルと並んで「スティーヴン・キングと言えばこの映画」とされている作品。少なくともクージョやミストやミザリーよりは誰か他の人と観に行ってもいい映画だと思う。このブログとしては今まで散々キングの作品の感想を書いてきたわけなので、この「恐怖の四季」にゴールデン・ボーイ(元ナチのおっさんを従属させてホームレス狩りをする作品)などの面白い短編と共に収められている作品の感想を別個に書くべきかと思うのだが、まあ世間的にはスタンド・バイ・ミーは映画であって小説の(「死体」としての)認識は薄いかと思うので映画の感想を書いておこうと思う。ちなみになぜか日本語字幕も吹き替えもなかったので、俺は英語でこの映画を観ざるを得なかった。
いつも通り適当にあらすじを書いておくと、キャッスル・ロックという、キングの作品を知っている人が「僕はキャッスル・ロックという田舎町で生まれた」とか聞くと、「何こいつ真面目に架空の町の話しちゃってんの?」とか思ってしまう町で育ったゴーディら、4人の少年達が行方不明となっていた人の死体を探しに行く・・・という話である。こんな話なのでキングは原作を「死体」と名付けている。
本作の見どころは子どもたちのどうでもいい冒険と、その最中に暗示させる「映画を観ている良識的な大人の願い」とは相反するろくでもない彼らの未来である。この作品は表面的には(初代ポケモンの主人公の家のテレビで流されていた意図そのままに)「子どもたちが自らの力だけで冒険をする話」で、まともに話を知らない人は特徴的な歌と線路を子どもが歩いている情景として理解していると思う。しかし、実際の所は上記した「まだ他の人と観に行ってもいい映画」方面の価値をキングによって半ば意図的に壊された作品である。冒険は日常から遠ざかる意味での彼らと「映画を観ている良識的な大人の願い」の理想であり、冒険を浸食している、彼らがキャッスル・ロックで体験している迫りくるろくでもない大人としての自分たちの姿こそがこの物語の価値だと思う。
とりわけ俺は4人の少年のリーダー格であったクリスこそが「アメリカの子どもたちの現実」を上手く体現したキャラクターとして位置づけられていたと思う。彼は有能で勇敢でどこまで行ってもリーダーなのだが、育った家庭は底辺中の底辺で、彼は(たとえゴーディより有能であっても)親友であるゴーディと共に進学コースに進むことはできない。彼にとって、この死体を探しに行くという冒険は、そういった「映画の中の大人たちが付きつけるろくでもない現実」から逃げるための手段であった。一見人間としてはテディという4人のうちの1人の少年の方が問題がありそうだが、設定上はクリスの方が悲劇的である。そしてこの設定こそが作者が付きつけたかった1つの「リアル」であり、「映画を観ている良識的な大人の願い」に対する確信犯的なアンチ・テーゼなのだ。普通の日本人がどこまで重くクリスの家庭背景を捉えるか分からないが、普通のアメリカ人にとっては多くの場合「重い」と思う。なぜならクリスのような状態で育った場合、多くの場合は(FFTの感想で用いた表現を使うと)出口なんて無くなるのだから。底辺は底辺を再生産し続けるのだから。彼は彼の物語として、キャッスル・ロックで延々酒と暴力と絶望にのたうちまわる生活を続けさせられるのだから。そして何よりそれを10代で理解させられてしまうのだから。だからこそ作者は大人になって(奇跡的に)ロースクールを卒業して弁護士となったクリスを無造作に殺害したのである。彼に出口を見つけられては困るのだ。
この映画(というか物語)が素晴らしいのは、そういった後の現実をくどくど描かずに、彼らが行っている12歳という限られた時間限定の冒険に限定して彼らを描写している所だと思う。だからこそ、彼らの冒険にはかけがえのない理想が体現されていると思わせることができるし、彼らの将来にはどうしようもない現実が待ち構えていると思わせることができる。他のキング原作の糞映画にうんざりさせられた人が観るべき映画だったと思う。
2.塔の上のラプンツェル
全然面白くなかった映画。一応この映画のあらすじを書いておくと、塔の上で永遠の若さと治癒を与える魔法の髪を持つ女の子が閉じ込められていて、よくある設定の男が偶然その塔に忍び込んで、一緒に塔の外へ彼女が見たいと言っていた祭りの行事みたいなものを見に行って、素晴らしい魔法の髪とご都合主義と悪役の接待プレーによってラブラブになって永遠幸せに暮らし続ける・・・という話である。
観ながら「いつ切ろうか」と考えさせられた。ご都合主義の連続、相変わらずの気持ち悪いキャラデザイン、ありきたりな展開、何より(悪意があったとは言え)育ての親をぶっ殺した後に主人公達がラブラブな情景をすぐさま繰り広げるという完全に理解不能な描写を展開してくれた。子ども会や中学生同士のデートとかで観に行けば「外す」ことは無いかもしれない。残念ながら俺はその会は途中で「つまんねぇから帰るわ」と言って大人達をうんざりさせてしまうだろうし、デートの場合は俺が女だったら相手の男を「つまんねぇ奴・・・」とか思ってしまうだろうが。
2011年9月23日金曜日
Granito: How to Nail a Dictator 感想
何かTransitional Justiceの授業の一環として、Granitoという映画を観てこいとかメールが来てたので行ってきた。NYUの近く(歩いて2分ぐらい)には場末の場末みたいな、キングの小説に登場してきそうな小さいシネコンがあるのでこういう時に便利である。
一応俺はこの分野の専門家の卵の卵の卵・・・・すなわちモンスターハンターなのでこの映画について述べておく必要があるだろう。この映画は中央アメリカに位置するグアテマラ(コーヒーで有名)で、1954年に転覆された政府に代わり生まれた親米独裁政権の手で20万人の国民が虐殺され、近年になってようやくこの虐殺に加担した政権のトップ達を「戦争犯罪者」として裁くための文脈が国際的・国内的に形成されてきたことを追ったドキュメンタリー作品である。本作品は3部構成から成っており、第1部が内戦と虐殺の経緯、第2部が戦争犯罪法廷を開くまでのプロセス、第3部が今後の展望について述べられている。
この映画の見どころについて、Naomi Roht-Arriazaってこういう人だったんだとか、エンドクレジットに何かNYUでTransitional Justice教えている先生の名前とかが載っていたなどといったマニアックな点は置いておいて、「20万人」といった抽象的な数字では語ることのできない被害者やその遺族の思いや、アメリカという大国の責任を描いている点にあると思われる。
冷戦期の親米独裁国家樹立→内戦の典型事例の1つがグアテマラである。以前スネ夫とジャイアンの例で述べた通り、アメリカというジャイアンは、やたらスネ夫を作りたがる傾向がある。とりわけ9.11までは、親米である限りアメリカはこういった独裁政権という、自分が大層に掲げている自由民主主義や人権といった理念に反する政権があっても見逃してやるというダブルスタンダードで動いていた文脈があり、作者及び被害者が指摘する通り、このグアテマラにおける虐殺は、親米独裁政権を資金的に援助していたアメリカにも多大な責任があるだろう。ニカラグア事件のように現政府 v. 反政府組織(アメリカの支援付き)という構造があって、ニカラグア政府が国家としてアメリカは国際法違反だとか言えばいいのだが、グアテマラのケースは、既にアメリカの支援によって政府が転覆されて、その政府が自国の国民を虐殺しているので、現政府(アメリカの支援付き) v. 国民(反政府組織)という構造になる。こうなるとここで言う「国民」は国際法の主体にならないのでアメリカの国際法違反を直接訴えることはできず、せいぜい米州人権裁判所に訴えるか、国連の人権委員会なりがRecommendationsをグアテマラにするかどちらかが取りうる策であった。しかし、法律論的にはどちらも強制執行能力(やるとしてそもそもグアテマラを支援しているアメリカがやるのだろうか)があるのかという点で問題があり、また国際政治的には冷戦期で他の国連機関と同様、人権委員会(系)といった組織が十分に機能していたのかは不明な状況がある。結果として、クソのカスみたいな理由(一部の虐殺は政府と癒着していた地主があの土地に住んでいるマヤの人々が邪魔だから「反政府組織」ということにして排除してくれと訴えた結果行われたらしい)で20万人が殺されてしまった。
さて、作品の内容であるが、かなり克明に1982年という、グアテマラがジョージ・オーウェルの『1984年』のようなろくでもない時代だった頃の状況を映し出している。作者は当時自作のドキュメンタリー映画のためにこの国を取材しており、その際に独裁政権の軍と反政府組織両方に取材することに成功している。なので、反政府組織狩り中の政府軍のヘリに同乗して取材していた作者に、現代のグアテマラで元反政府組織の一員が「あの時ヘリのパイロットを撃ってたらあんたは死んでたね。はは」とか言うシーンもあった。こういった死が隣り合わせに存在していた現実を描いたシーンは他にもあり、例えば政府軍が虐殺の対象者を名簿を持ってチェックする場面で、「この名簿に名前が載ってたらあいつは死んでた。はは」とか普通に言っててああこれが当時のグアテマラだったんだなということが分かる。
また、タイトルのGranito(砂の粒)の意が表す通り、この虐殺の問題に内戦中、内戦後の現代で戦い続ける「砂の粒」のような一人ひとりの個人の役割が映画中では強調されている。「法外科医、国際弁護士、遺族、現地人権活動家など、これらの人々は一人ひとりでは小さな「砂の粒」だが、協力することで大きな力を生み出すことができる」という教科書のようなメッセージがこの映画には込められているだろう。カンボジアのクメール・ルージュを対象とした戦争犯罪法廷と同様に、グアテマラの事例でも当時虐殺を命じた軍政権のトップ(これぞ悪人といった男である)はかなり老齢になっているようなので、Transitional JusticeにおけるProsecutionにいつもつきまとう「時間との戦い」が今後の問題である。何せ虐殺の証拠(Command Responsibilityを問うための当時の作戦や具体的な指示等)は秘匿・消去されている場合が多いのだ。目的達成のためには一人ひとりのスペシャリストの協力が不可欠となる。この作品では彼らがどのように協力するのかということが、特に2部において描かれている。
他方で、「教科書のような」と述べたとおり、若干作品構成はくどくて(作者の個人的なメッセージやらが強いのはいいのだが、もう少し「ドキュメンタリー」っぽくして作者が何か虚空を見つめたりフィルムを見つめてたそがれたりする描写を削ってくれるとありがたい)少し鼻につく感じはあったと思ってしまった。小中学校の人権教育の教材としては十分な役割を持っているが、2時間ほど観客をひきつけるような面白さを持っていたかと言われると、それは持っていないと言わざるを得ない。事実俺の前の席でこの映画を観ていた女の子は途中で寝てしまって、隣のラッキー(女の子がどんな女の子か見てないのでラッキーかどうか不明)な男に寄りかかっていた。まあこういった鼻に付くメッセージ性というのは、作者のグアテマラという国やその国に住まう人々に対する思いの表れと解釈すべきなのだろう。グアテマラの虐殺という事例に関心のある人が勉強目的でTSUTAYAで借りて観る映画ということで良いのではないだろうか。
一応俺はこの分野の専門家の卵の卵の卵・・・・すなわちモンスターハンターなのでこの映画について述べておく必要があるだろう。この映画は中央アメリカに位置するグアテマラ(コーヒーで有名)で、1954年に転覆された政府に代わり生まれた親米独裁政権の手で20万人の国民が虐殺され、近年になってようやくこの虐殺に加担した政権のトップ達を「戦争犯罪者」として裁くための文脈が国際的・国内的に形成されてきたことを追ったドキュメンタリー作品である。本作品は3部構成から成っており、第1部が内戦と虐殺の経緯、第2部が戦争犯罪法廷を開くまでのプロセス、第3部が今後の展望について述べられている。
この映画の見どころについて、Naomi Roht-Arriazaってこういう人だったんだとか、エンドクレジットに何かNYUでTransitional Justice教えている先生の名前とかが載っていたなどといったマニアックな点は置いておいて、「20万人」といった抽象的な数字では語ることのできない被害者やその遺族の思いや、アメリカという大国の責任を描いている点にあると思われる。
冷戦期の親米独裁国家樹立→内戦の典型事例の1つがグアテマラである。以前スネ夫とジャイアンの例で述べた通り、アメリカというジャイアンは、やたらスネ夫を作りたがる傾向がある。とりわけ9.11までは、親米である限りアメリカはこういった独裁政権という、自分が大層に掲げている自由民主主義や人権といった理念に反する政権があっても見逃してやるというダブルスタンダードで動いていた文脈があり、作者及び被害者が指摘する通り、このグアテマラにおける虐殺は、親米独裁政権を資金的に援助していたアメリカにも多大な責任があるだろう。ニカラグア事件のように現政府 v. 反政府組織(アメリカの支援付き)という構造があって、ニカラグア政府が国家としてアメリカは国際法違反だとか言えばいいのだが、グアテマラのケースは、既にアメリカの支援によって政府が転覆されて、その政府が自国の国民を虐殺しているので、現政府(アメリカの支援付き) v. 国民(反政府組織)という構造になる。こうなるとここで言う「国民」は国際法の主体にならないのでアメリカの国際法違反を直接訴えることはできず、せいぜい米州人権裁判所に訴えるか、国連の人権委員会なりがRecommendationsをグアテマラにするかどちらかが取りうる策であった。しかし、法律論的にはどちらも強制執行能力(やるとしてそもそもグアテマラを支援しているアメリカがやるのだろうか)があるのかという点で問題があり、また国際政治的には冷戦期で他の国連機関と同様、人権委員会(系)といった組織が十分に機能していたのかは不明な状況がある。結果として、クソのカスみたいな理由(一部の虐殺は政府と癒着していた地主があの土地に住んでいるマヤの人々が邪魔だから「反政府組織」ということにして排除してくれと訴えた結果行われたらしい)で20万人が殺されてしまった。
さて、作品の内容であるが、かなり克明に1982年という、グアテマラがジョージ・オーウェルの『1984年』のようなろくでもない時代だった頃の状況を映し出している。作者は当時自作のドキュメンタリー映画のためにこの国を取材しており、その際に独裁政権の軍と反政府組織両方に取材することに成功している。なので、反政府組織狩り中の政府軍のヘリに同乗して取材していた作者に、現代のグアテマラで元反政府組織の一員が「あの時ヘリのパイロットを撃ってたらあんたは死んでたね。はは」とか言うシーンもあった。こういった死が隣り合わせに存在していた現実を描いたシーンは他にもあり、例えば政府軍が虐殺の対象者を名簿を持ってチェックする場面で、「この名簿に名前が載ってたらあいつは死んでた。はは」とか普通に言っててああこれが当時のグアテマラだったんだなということが分かる。
また、タイトルのGranito(砂の粒)の意が表す通り、この虐殺の問題に内戦中、内戦後の現代で戦い続ける「砂の粒」のような一人ひとりの個人の役割が映画中では強調されている。「法外科医、国際弁護士、遺族、現地人権活動家など、これらの人々は一人ひとりでは小さな「砂の粒」だが、協力することで大きな力を生み出すことができる」という教科書のようなメッセージがこの映画には込められているだろう。カンボジアのクメール・ルージュを対象とした戦争犯罪法廷と同様に、グアテマラの事例でも当時虐殺を命じた軍政権のトップ(これぞ悪人といった男である)はかなり老齢になっているようなので、Transitional JusticeにおけるProsecutionにいつもつきまとう「時間との戦い」が今後の問題である。何せ虐殺の証拠(Command Responsibilityを問うための当時の作戦や具体的な指示等)は秘匿・消去されている場合が多いのだ。目的達成のためには一人ひとりのスペシャリストの協力が不可欠となる。この作品では彼らがどのように協力するのかということが、特に2部において描かれている。
他方で、「教科書のような」と述べたとおり、若干作品構成はくどくて(作者の個人的なメッセージやらが強いのはいいのだが、もう少し「ドキュメンタリー」っぽくして作者が何か虚空を見つめたりフィルムを見つめてたそがれたりする描写を削ってくれるとありがたい)少し鼻につく感じはあったと思ってしまった。小中学校の人権教育の教材としては十分な役割を持っているが、2時間ほど観客をひきつけるような面白さを持っていたかと言われると、それは持っていないと言わざるを得ない。事実俺の前の席でこの映画を観ていた女の子は途中で寝てしまって、隣のラッキー(女の子がどんな女の子か見てないのでラッキーかどうか不明)な男に寄りかかっていた。まあこういった鼻に付くメッセージ性というのは、作者のグアテマラという国やその国に住まう人々に対する思いの表れと解釈すべきなのだろう。グアテマラの虐殺という事例に関心のある人が勉強目的でTSUTAYAで借りて観る映画ということで良いのではないだろうか。
2011年7月21日木曜日
鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星 感想
日本を出る前に日本で作られた映画を観ておこう、ということで丁度やっていたハガレンの映画を観た。
感想であるが、途中まで問題設定が分かりやすく一本道に作られていたのに、最後になって色々な(必要かどうか分からないような)どんでん返し+(新)キャラ登場があったせいで結構ぐちゃぐちゃになったものの、「ま、あんたはすげぇよ」という主人公の台詞や態度で「へーじゃあ良かったんじゃねぇの?」という「雑感」を得られた作品だった。
まあFAになってから原作がほとんど丸々テレビで流れた(そして途中でコミックスを追い抜いて最終回に辿り着いた)作品だし、もう「終わっている」ので、この映画はおまけのファンサービスみたいなものである。そういった観点でこの映画を観れば、もう魔法みたいになっちゃってる錬金術も、途中まで異常に強くて人を殺しまくってた狼キメラの失速感が激しいことも、人2人やれば「あれ」ができるんだったっけ・・・ああそうかあの練成陣が「素晴らしい」ので正当化できるのかな?という疑問も、ほとんどライター扱いだったあの人も、全て許容することができ、まあちゃんと全部出るべきものは出てるから、この作品の原作が終わってしまって寂しい思いをしているファンは(保証はしないが)喜ぶのではないかと思う。
1つこの映画で良かった点を挙げると、(魔法みたいになっちゃってることは置いといて)錬金術対錬金術の戦いが(やっと)まともに見られることだと思う。原作ではエドもアルも傷の男やホムンクルス達と戦ってきたのだが、「同格の錬金術師」と戦っている描写はあまりされていなかったと思われる。一応キンブリー対アルや、「お父様」との戦いなどは錬金術対錬金術なのだが、キンブリーは爆破しかしないし、「お父様」は最終的に謎のビームみたいなものを撃ってきたりして、この映画のように「いろいろなものを互いに錬成して戦うシーン」というものはそれほど存在しなかった。その点、この映画ではいろいろなものを錬成してテクニカルに戦う描写が沢山あるので、戦闘シーンは観ていて飽きるものではないと思う。
感想であるが、途中まで問題設定が分かりやすく一本道に作られていたのに、最後になって色々な(必要かどうか分からないような)どんでん返し+(新)キャラ登場があったせいで結構ぐちゃぐちゃになったものの、「ま、あんたはすげぇよ」という主人公の台詞や態度で「へーじゃあ良かったんじゃねぇの?」という「雑感」を得られた作品だった。
まあFAになってから原作がほとんど丸々テレビで流れた(そして途中でコミックスを追い抜いて最終回に辿り着いた)作品だし、もう「終わっている」ので、この映画はおまけのファンサービスみたいなものである。そういった観点でこの映画を観れば、もう魔法みたいになっちゃってる錬金術も、途中まで異常に強くて人を殺しまくってた狼キメラの失速感が激しいことも、人2人やれば「あれ」ができるんだったっけ・・・ああそうかあの練成陣が「素晴らしい」ので正当化できるのかな?という疑問も、ほとんどライター扱いだったあの人も、全て許容することができ、まあちゃんと全部出るべきものは出てるから、この作品の原作が終わってしまって寂しい思いをしているファンは(保証はしないが)喜ぶのではないかと思う。
1つこの映画で良かった点を挙げると、(魔法みたいになっちゃってることは置いといて)錬金術対錬金術の戦いが(やっと)まともに見られることだと思う。原作ではエドもアルも傷の男やホムンクルス達と戦ってきたのだが、「同格の錬金術師」と戦っている描写はあまりされていなかったと思われる。一応キンブリー対アルや、「お父様」との戦いなどは錬金術対錬金術なのだが、キンブリーは爆破しかしないし、「お父様」は最終的に謎のビームみたいなものを撃ってきたりして、この映画のように「いろいろなものを互いに錬成して戦うシーン」というものはそれほど存在しなかった。その点、この映画ではいろいろなものを錬成してテクニカルに戦う描写が沢山あるので、戦闘シーンは観ていて飽きるものではないと思う。
2011年5月31日火曜日
パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉 感想
先週末に彼女とパイレーツ・オブ・カリビアンを観に行った。某国民的海賊漫画のおかげで海賊は日本人になじみの深いものとなったが、今作では「黒ひげ」や「人魚」など某国民的海賊漫画を意識させるようなキャラクター達が登場していた。残念ながら主人公は体が伸びたりしないし、特に際立った剣の腕があるわけでもない。若干某国民的海賊漫画の船長とは違った意味で頭のねじが飛んでいるので、それを武器に戦うのだ。ジャンプで連載されている場合はこんなに主人公らしい能力の無い主人公だと余裕で打ち切られそうな気がするが、今作の黒ひげや、前作のディヴィ・ジョーンズなどの他と一線を画す能力を持った者がことごとくジャックと比べて残念な頭の持ち主なので、そこを上手く利用してなんとかやっている・・・らしい。前作からギブス君とバルボッサ(と付属のサル)を除いて全員主要メンバーの総入れ替えが行われた。
さて、肝心の内容であるが、個人的にはまあ楽しかった。「まあ」と付けたように、俺はもうワールド・エンドで終わりにすれば良かったとは思うが、他方で、両津やジェームズ・ボンド的な位置付けてジャック・スパロウの話が延々続いてもファンは喜ぶのかもしれないとも思う。話の下地がいわゆる「海洋冒険ロマン」みたいなものなので、某国民的海賊漫画が延々続けられるように、旅の内容と求めるお宝と登場する敵を変え続ければ延々シリーズを続けることもできるとは思う。少なくともランボーやジョン・マクレーンよりはキャラクターは魅力的だろうし、主人公が基本的にパワーアップしないため、某死神漫画(最近はただの念能力漫画)のように敵と主人公の能力競争を延々続ける必要もない。「何・・・だと・・・?」と言わせ続ける必要も無いし、実はそれは幻覚だったとかいう展開も必要ないし、実は隠された能力があったとか後で言う必要も無い。何よりジャック・スパロウの性質上、登場人物のリストラにそれほど理由がいらないのでシリーズを続ける点では便利である。ジャックに「孤高の海賊」という肩書きを付けたのもある程度の連続性を保ちつつも物語の刷新を自然に行うための戦略なのではないかと思う。
仮にジャック・スパロウの物語に一本の筋のようなものがあるとしたら、それはバルボッサとの因縁と作り手側は考えているのだろうなと思った。露骨なネタバレになるのであまり詳しい内容には立ち入らないが、やはり今作でギブス君以外にバルボッサを継続出演させたことには意味がある、と考えるべきだろう。物語中でもバルボッサの働きは中々重要なものだった。
一応今後もシリーズが続きそうな気がするが、前作のエリザベスと違い、新たなヒロインであるアンジェリカは本編中では描写が結構薄かった点が気がかりである。終わり方としては次の話で彼女のことにもう少し触れそうな気はするが。まあ、あくまでペネロペ・クルスが「パイレーツはもう十分!」とか言い出さない限りの話である。
さて、肝心の内容であるが、個人的にはまあ楽しかった。「まあ」と付けたように、俺はもうワールド・エンドで終わりにすれば良かったとは思うが、他方で、両津やジェームズ・ボンド的な位置付けてジャック・スパロウの話が延々続いてもファンは喜ぶのかもしれないとも思う。話の下地がいわゆる「海洋冒険ロマン」みたいなものなので、某国民的海賊漫画が延々続けられるように、旅の内容と求めるお宝と登場する敵を変え続ければ延々シリーズを続けることもできるとは思う。少なくともランボーやジョン・マクレーンよりはキャラクターは魅力的だろうし、主人公が基本的にパワーアップしないため、某死神漫画(最近はただの念能力漫画)のように敵と主人公の能力競争を延々続ける必要もない。「何・・・だと・・・?」と言わせ続ける必要も無いし、実はそれは幻覚だったとかいう展開も必要ないし、実は隠された能力があったとか後で言う必要も無い。何よりジャック・スパロウの性質上、登場人物のリストラにそれほど理由がいらないのでシリーズを続ける点では便利である。ジャックに「孤高の海賊」という肩書きを付けたのもある程度の連続性を保ちつつも物語の刷新を自然に行うための戦略なのではないかと思う。
仮にジャック・スパロウの物語に一本の筋のようなものがあるとしたら、それはバルボッサとの因縁と作り手側は考えているのだろうなと思った。露骨なネタバレになるのであまり詳しい内容には立ち入らないが、やはり今作でギブス君以外にバルボッサを継続出演させたことには意味がある、と考えるべきだろう。物語中でもバルボッサの働きは中々重要なものだった。
一応今後もシリーズが続きそうな気がするが、前作のエリザベスと違い、新たなヒロインであるアンジェリカは本編中では描写が結構薄かった点が気がかりである。終わり方としては次の話で彼女のことにもう少し触れそうな気はするが。まあ、あくまでペネロペ・クルスが「パイレーツはもう十分!」とか言い出さない限りの話である。
2010年9月30日木曜日
劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer- 感想
機動戦士ガンダム00の劇場版を観た。一言で感想、というかはっきり言ってしまえば苦言であるが、個人的にはもうガンダムという作品で無理して平和を語ることを止めた方が良いと思う。
21世紀になってから作られたガンダムは、SEEDと00両方、あざといほどに「僕らは戦争してるけど平和が大切なんだ」というメッセージを発しようとした作品だった。00に至っては本来的に殺戮兵器としての機能が第一義的なガンダムに、対話のための機能を持たせ、戦いを止めるための武力介入から、ついには戦いを止めるための非暴力的介入が語られるようになった。
個人的な感想を言わせてもらえば、このコンセプトの転換こそが根本的な失敗の要因であったと考える。上述したように、作った人間の頭の中では(多分できていないが)上手く整理されているのかもしれないが、観ている側の人間にとってみれば、紛争が発生した文脈において、殺戮兵器を用いて、対話によって紛争の解決を図る、という構図は、全く共感し難いものである。なぜなら、S・キングの言葉を借りれば、この設定はリアルでもなければ、フェアでもないからだ。カリカチュアライズすればもっと明確に分かる。例えば、アフガニスタンの武装勢力と、アメリカ軍の抗争に際し、特別加工され、発砲する(もっと馬鹿みたいな表現をすれば00の様に光を発する)ことで対話のためのフィールド設定をする「すばらしい銃」を用いて、英語の分からない現地武装勢力とアメリカ軍兵士の間に共感(それも100%内心を伝え合うことのできるレベルの)できるようにすることが、全く了解不可能であることと同義である。
なぜこれが了解できないか。なぜなら、兵器を使って対話を計ろうとする点に、設定としての無理があるからだ。上述したように、ガンダムは兵器である。人を殺して、街を破壊して、他の兵器を破壊するアイテムだ。しかも00の世界においてはまさに兵器として合計50話ほど使われていた。ターンAのように日常生活でガンダムが本来的に洗濯などをしていたわけではない。もっと言ってしまえば、ターンAのような設定ですら、我々はガンダムが日常生活に要されるということを了解できないだろう。それはガンダムである必要がないからだ。戦闘する必要が無いガンダムは、ガンダムになり得ないのだ。なぜなら、戦闘をするガンダムが、本来的なガンダムの姿であったからだ。それが「機動戦士ガンダム」という、エンターテイメントの姿だったからだ。
この劇場版のように「対話」を紛争解決の手段とするのであれば、刹那をガンダムに乗らせるべきではなかった。生身の彼が、特別加工された(馬鹿みたいな)拡声器を用いて(ホンヤクコンニャクでも可)そのまま話し合いに向かえば良かった。公式ホームページでも新しいガンダムを紹介する必要が無いし、ガンプラとして売る必要も無い。結果的に、本来の描き方をされなかったガンダムの映画は、部分的に美しい(が中身の無い)映像と音楽、ほとんど兵器としての本来の活躍の場が描かれなかった主役機、無駄な戦闘と、その無駄な描写のために削られた登場人物の姿に結実した。なるほど、これを新しい時代のガンダムとする人も居るだろう。ただ、それ以前にエンターテイメントとしてのコンセプトが全くまとまっていないことが問題なのである。
より辛らつな批判を加えると、肝心の(この映画を作った人が何度も強調していた)「対話」は本当に薄っぺらいものだった。何でウェルズの宇宙戦争に出てきそうな極めて原始的な情報伝達機能を持つ相手の過去を知るだけで、それまで悪夢のように続いていた暴力が終わるのか?何より苛立たしいのは、対話の相手を言葉と知見の共有が殆ど不可能な原始生物にしたことである。このような人間以外の生物を対話の相手にすることで、全く未知の相手とでも(この映画を作った人達の定義する)(ほぼ100%納得のいく)対話を可能とするスーパー兵器00クアンタの機能をアピールしたかったのだろう。ただ、それはこれまでの50話を知っている人間からすれば全く矛盾した行動であった。こんな原始的生物の過去を知るだけでまったく「和解」が可能なら、なぜTV版最終話でそのスーパー兵器を使って、言葉も知見も共有可能なリボンズ・アルマークと対話させなかったのか。なぜ全面的な破壊活動を展開したという点では特徴を共有するエルスとリボンズが、一方は「対話できるかもしれない」とされて、一方は「歪み」と断定されて殺されるのか、意味不明である。映画でこんなことをするのであれば、刹那とリボンズにはもっと(製作者お気に入りの)「対話」とやらをさせればよかったのではないか。まあ上述したようにそもそも対話を紛争解決手段に置く以上、もうそれを考えた段階でガンダムは止めるべきだったと思うが。どちらかと言えばリボンズよりもこの作品の構図が歪んでいる。
以上が俺の感想である。気持ちのいい映像と音楽を流して、声の美しい声優を使っていればどんなに中身が空っぽでもエンターテイメントとして成り立ち、万人に支持されて、みんな気持ち良くなるからそれでいいじゃん、という人はどうぞこの映画を観ていただきたい。そういった(麻薬中毒者のような)観点からはとてもいい映画だった。
21世紀になってから作られたガンダムは、SEEDと00両方、あざといほどに「僕らは戦争してるけど平和が大切なんだ」というメッセージを発しようとした作品だった。00に至っては本来的に殺戮兵器としての機能が第一義的なガンダムに、対話のための機能を持たせ、戦いを止めるための武力介入から、ついには戦いを止めるための非暴力的介入が語られるようになった。
個人的な感想を言わせてもらえば、このコンセプトの転換こそが根本的な失敗の要因であったと考える。上述したように、作った人間の頭の中では(多分できていないが)上手く整理されているのかもしれないが、観ている側の人間にとってみれば、紛争が発生した文脈において、殺戮兵器を用いて、対話によって紛争の解決を図る、という構図は、全く共感し難いものである。なぜなら、S・キングの言葉を借りれば、この設定はリアルでもなければ、フェアでもないからだ。カリカチュアライズすればもっと明確に分かる。例えば、アフガニスタンの武装勢力と、アメリカ軍の抗争に際し、特別加工され、発砲する(もっと馬鹿みたいな表現をすれば00の様に光を発する)ことで対話のためのフィールド設定をする「すばらしい銃」を用いて、英語の分からない現地武装勢力とアメリカ軍兵士の間に共感(それも100%内心を伝え合うことのできるレベルの)できるようにすることが、全く了解不可能であることと同義である。
なぜこれが了解できないか。なぜなら、兵器を使って対話を計ろうとする点に、設定としての無理があるからだ。上述したように、ガンダムは兵器である。人を殺して、街を破壊して、他の兵器を破壊するアイテムだ。しかも00の世界においてはまさに兵器として合計50話ほど使われていた。ターンAのように日常生活でガンダムが本来的に洗濯などをしていたわけではない。もっと言ってしまえば、ターンAのような設定ですら、我々はガンダムが日常生活に要されるということを了解できないだろう。それはガンダムである必要がないからだ。戦闘する必要が無いガンダムは、ガンダムになり得ないのだ。なぜなら、戦闘をするガンダムが、本来的なガンダムの姿であったからだ。それが「機動戦士ガンダム」という、エンターテイメントの姿だったからだ。
この劇場版のように「対話」を紛争解決の手段とするのであれば、刹那をガンダムに乗らせるべきではなかった。生身の彼が、特別加工された(馬鹿みたいな)拡声器を用いて(ホンヤクコンニャクでも可)そのまま話し合いに向かえば良かった。公式ホームページでも新しいガンダムを紹介する必要が無いし、ガンプラとして売る必要も無い。結果的に、本来の描き方をされなかったガンダムの映画は、部分的に美しい(が中身の無い)映像と音楽、ほとんど兵器としての本来の活躍の場が描かれなかった主役機、無駄な戦闘と、その無駄な描写のために削られた登場人物の姿に結実した。なるほど、これを新しい時代のガンダムとする人も居るだろう。ただ、それ以前にエンターテイメントとしてのコンセプトが全くまとまっていないことが問題なのである。
より辛らつな批判を加えると、肝心の(この映画を作った人が何度も強調していた)「対話」は本当に薄っぺらいものだった。何でウェルズの宇宙戦争に出てきそうな極めて原始的な情報伝達機能を持つ相手の過去を知るだけで、それまで悪夢のように続いていた暴力が終わるのか?何より苛立たしいのは、対話の相手を言葉と知見の共有が殆ど不可能な原始生物にしたことである。このような人間以外の生物を対話の相手にすることで、全く未知の相手とでも(この映画を作った人達の定義する)(ほぼ100%納得のいく)対話を可能とするスーパー兵器00クアンタの機能をアピールしたかったのだろう。ただ、それはこれまでの50話を知っている人間からすれば全く矛盾した行動であった。こんな原始的生物の過去を知るだけでまったく「和解」が可能なら、なぜTV版最終話でそのスーパー兵器を使って、言葉も知見も共有可能なリボンズ・アルマークと対話させなかったのか。なぜ全面的な破壊活動を展開したという点では特徴を共有するエルスとリボンズが、一方は「対話できるかもしれない」とされて、一方は「歪み」と断定されて殺されるのか、意味不明である。映画でこんなことをするのであれば、刹那とリボンズにはもっと(製作者お気に入りの)「対話」とやらをさせればよかったのではないか。まあ上述したようにそもそも対話を紛争解決手段に置く以上、もうそれを考えた段階でガンダムは止めるべきだったと思うが。どちらかと言えばリボンズよりもこの作品の構図が歪んでいる。
以上が俺の感想である。気持ちのいい映像と音楽を流して、声の美しい声優を使っていればどんなに中身が空っぽでもエンターテイメントとして成り立ち、万人に支持されて、みんな気持ち良くなるからそれでいいじゃん、という人はどうぞこの映画を観ていただきたい。そういった(麻薬中毒者のような)観点からはとてもいい映画だった。
2010年8月3日火曜日
INCEPTION 感想
7月に女の子とINCEPTIONを観た。全体的な点を言うと、物語の構造はしっかりしていたが、キャラ設定が曖昧な(わざと曖昧にしている?)部分があった。例えばコブが死ぬほど追われている具体的な理由や、夢の世界に入ってアイデアを盗むことがどう企業利益に結びつくのか、そういった文脈が描かれていないため、サイトーが突然効果とかが不明のままにINCEPTIONをやって欲しいと依頼して来たかのように見える点があった。
最近村上春樹の小説を読む機会があったので、読み手や観客のあり方として、こうした描かれていない部分は、例えば登場人物の不気味さとか底知れない何かを描くための手段と捉えるべきなのかなという気もするが、夢の中に入って他人のアイデアに触れることの有用性や、どうビジネスに活かされている世界なのか、を伝えきれていなかったように思われる(その「危険性」はストーリーの主題たるミッションによって描かれていたが)。
また、登場人物が「調合師」や「設計士」など、その道のプロで裏社会で生きている人々ということは分かるのだが、大学で仲間にした女の子以外、ほとんど全員の戦闘能力が高い点も謎だった。夢の世界で何かしら作為を行うと、夢を見ている人の防衛本能が働き必然的に戦闘になるから、その道のプロである以上はある程度戦う技術を持っていないとダメということだろうか。
個人的にはもう主演のレオナルド・ディカプリオが家庭があって子どもが居る役を演じることができるようになったんだなあ・・・という感想もあった。ロミオとジュリエット、タイタニック、ザ・ビーチ、仮面の男、ブラッドダイヤモンドなど、彼はこれまでの映画の中では、どちらかというと「好き放題やっている若者」を演じる傾向があったんじゃないかなと思っていたので、いやー俺もちゃんと年を取っているんだと思った。彼の英語は割合はっきりしているので、リスニングの勉強にもなるだろう。
結論として、映画それ自体の作りや設定は、上述した作りの甘い部分を除いて非常に観ている側に分かりやすくなっていて、観客を引き込んだと思う。無駄に設定の説明をせずに、こうした映画の仕組みを分からせる点は卓越していた。個人的にはアバターよりこっちの方が面白い。
最近村上春樹の小説を読む機会があったので、読み手や観客のあり方として、こうした描かれていない部分は、例えば登場人物の不気味さとか底知れない何かを描くための手段と捉えるべきなのかなという気もするが、夢の中に入って他人のアイデアに触れることの有用性や、どうビジネスに活かされている世界なのか、を伝えきれていなかったように思われる(その「危険性」はストーリーの主題たるミッションによって描かれていたが)。
また、登場人物が「調合師」や「設計士」など、その道のプロで裏社会で生きている人々ということは分かるのだが、大学で仲間にした女の子以外、ほとんど全員の戦闘能力が高い点も謎だった。夢の世界で何かしら作為を行うと、夢を見ている人の防衛本能が働き必然的に戦闘になるから、その道のプロである以上はある程度戦う技術を持っていないとダメということだろうか。
個人的にはもう主演のレオナルド・ディカプリオが家庭があって子どもが居る役を演じることができるようになったんだなあ・・・という感想もあった。ロミオとジュリエット、タイタニック、ザ・ビーチ、仮面の男、ブラッドダイヤモンドなど、彼はこれまでの映画の中では、どちらかというと「好き放題やっている若者」を演じる傾向があったんじゃないかなと思っていたので、いやー俺もちゃんと年を取っているんだと思った。彼の英語は割合はっきりしているので、リスニングの勉強にもなるだろう。
結論として、映画それ自体の作りや設定は、上述した作りの甘い部分を除いて非常に観ている側に分かりやすくなっていて、観客を引き込んだと思う。無駄に設定の説明をせずに、こうした映画の仕組みを分からせる点は卓越していた。個人的にはアバターよりこっちの方が面白い。
2010年5月10日月曜日
劇場版銀魂 新訳紅桜編 感想
GW中に銀魂の映画を観た。個人的には銀魂のアニメを毎週観るのが習慣となっていたので、レギュラー放送が終了してからは1つ世界がつまんなくなったと思っている。もっともアニメという手法上、もう話のストックが原作に完全に追いついている状況であったので、多くの場合はろくでもないオリジナルの展開(え?何この焼き直しのキャラ設定みたいな奴が沢山登場するパターン)をだらだら続けるよりは良かったと思う。
銀魂を一言で言えば「放送コードがなんぼのもんじゃい」である。面白い話を作るためには手段を選ばない。特に真選組(特に近藤さん)が関わる回は80%ぐらいの確率でモザイクとピー音が登場する。主人公は糖尿病だし、ヒロインはゲロ(今回の映画では痰)を吐くのだ。他方で決めるところはきっちり決める・・・かもしれない。大体長編は前半でめちゃくちゃ暴れまくって後半で感動させるというパターンであるが、映画も紅桜編という1つの長編を再編したものだったので、基本的にはこのパターンであった。そして本編終了後にさらにめちゃくちゃにした・・・。
今回の紅桜編の大筋をかなり手短に説明すると、行方不明になった桂を万事屋が調査していく内に、銀さんが桂を斬った岡田と戦って負け、事件の背後に銀さんや桂と共に昔攘夷戦争で戦った高杉らがいて、岡田の用いた刀が紅桜と呼ばれるやばい刀で、それを使って幕府転覆を企む高杉たちを止めるために、再起した銀さん達万事屋が戦うという話だ。実はこの話の映画化はテレビ版の方でたびたび嘘予告として流れていたものである。
感想であるが、時間が制限されていただけに、上述した長編のパターンには持って行きにくかったのかもしれない。後半の感動の部分も鉄子の兄の描写が不十分だったことと、高杉という、銀魂の全話を通じて10回も登場しないくせに人気投票ではかなり上位に入るというキャラのせいで、妖刀をめぐる話と言うよりは銀さん、高杉、桂の関係をめぐる話に比重があったように見えた。多分漫画やテレビ版を観てない人が初めてこの映画を観ても、「結局高杉とかって何?」という感想を持つことになるだろう。映画以前の問題として彼らの問題は本誌ですら未だに解決していない。というか銀魂が連載終了ぐらいの流れにならないと、もしかしたら作者は銀さんの過去の話の全容を明かさないのかもしれない。
テレビ版での斬りあいもかなり滑らかに描かれていたが、映画版ではさらに新規カットや最後の桂との共闘シーンが増えて疾走感が増している感じである。実際、バトル漫画であるNARUTOやブリーチよりも銀魂のバトルシーンの方が、必殺技も何も無く、ただ斬りあうだけなのに綺麗に描かれている場合が多いし、銀さんの決め台詞もまともに聞こえる。
今後の銀魂についても、完全にテレビ版放送の道が断たれているわけではないらしい。ガンダム00のように明確にシーズン分け方式を採用しているわけではないが、とりあえずこれで終わりというわけではないみたいだ。銀さんの「終わりだぁ?まだ始まってもいねぇよ」という言葉を信じたい。ちなみにこれは北野映画の台詞をパクっているらしい。分かりにく過ぎて新八のつっこみの意味が分からなかったが。とりあえず最後の嘘予告が再び実現されることを祈る。
銀魂を一言で言えば「放送コードがなんぼのもんじゃい」である。面白い話を作るためには手段を選ばない。特に真選組(特に近藤さん)が関わる回は80%ぐらいの確率でモザイクとピー音が登場する。主人公は糖尿病だし、ヒロインはゲロ(今回の映画では痰)を吐くのだ。他方で決めるところはきっちり決める・・・かもしれない。大体長編は前半でめちゃくちゃ暴れまくって後半で感動させるというパターンであるが、映画も紅桜編という1つの長編を再編したものだったので、基本的にはこのパターンであった。そして本編終了後にさらにめちゃくちゃにした・・・。
今回の紅桜編の大筋をかなり手短に説明すると、行方不明になった桂を万事屋が調査していく内に、銀さんが桂を斬った岡田と戦って負け、事件の背後に銀さんや桂と共に昔攘夷戦争で戦った高杉らがいて、岡田の用いた刀が紅桜と呼ばれるやばい刀で、それを使って幕府転覆を企む高杉たちを止めるために、再起した銀さん達万事屋が戦うという話だ。実はこの話の映画化はテレビ版の方でたびたび嘘予告として流れていたものである。
感想であるが、時間が制限されていただけに、上述した長編のパターンには持って行きにくかったのかもしれない。後半の感動の部分も鉄子の兄の描写が不十分だったことと、高杉という、銀魂の全話を通じて10回も登場しないくせに人気投票ではかなり上位に入るというキャラのせいで、妖刀をめぐる話と言うよりは銀さん、高杉、桂の関係をめぐる話に比重があったように見えた。多分漫画やテレビ版を観てない人が初めてこの映画を観ても、「結局高杉とかって何?」という感想を持つことになるだろう。映画以前の問題として彼らの問題は本誌ですら未だに解決していない。というか銀魂が連載終了ぐらいの流れにならないと、もしかしたら作者は銀さんの過去の話の全容を明かさないのかもしれない。
テレビ版での斬りあいもかなり滑らかに描かれていたが、映画版ではさらに新規カットや最後の桂との共闘シーンが増えて疾走感が増している感じである。実際、バトル漫画であるNARUTOやブリーチよりも銀魂のバトルシーンの方が、必殺技も何も無く、ただ斬りあうだけなのに綺麗に描かれている場合が多いし、銀さんの決め台詞もまともに聞こえる。
今後の銀魂についても、完全にテレビ版放送の道が断たれているわけではないらしい。ガンダム00のように明確にシーズン分け方式を採用しているわけではないが、とりあえずこれで終わりというわけではないみたいだ。銀さんの「終わりだぁ?まだ始まってもいねぇよ」という言葉を信じたい。ちなみにこれは北野映画の台詞をパクっているらしい。分かりにく過ぎて新八のつっこみの意味が分からなかったが。とりあえず最後の嘘予告が再び実現されることを祈る。
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