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2012年9月2日日曜日

実はアメリカ自然史博物館に遊びに行っていたということを思い出しながら書くわ

アパトサウルスを食べるアロサウルスらしい。化石は大部分が本物とか。残念ながら俺は誰か死にそうになった方が盛り上がるんじゃないかなと思うのでこやし玉は投げない悪いハンターである。
 実は司法試験を受けた後、2週間ぐらいニューヨークで遊んだり、部屋の片づけをしたり、部屋の片づけをしたり、部屋の片づけをしていた際に、アメリカ自然史博物館に遊びに行っていた。俺が学校が始まる前にセントラル・パークでリスを追っかけていた際に行けなかった所である。個人的には絵画に特段関心が無い人はメトロポリタン美術館よりこちらに行くことを勧める。
 NYUからは大体20分せずに着いたんじゃないかな・・・と思う。博物館入口がそのまま地下鉄の駅になっているので分かりやすい。俺が行ったタイミングが日曜日だったので、着いた時はもう既に人がたくさん居た。美術館の時とは違い、今回は特にチケットの予約等はして行かなかったのだが、早く行けば問題なく買えた。チケットについては俺は絶対に常設展示に加えて全ての特別展示とIMAX Theaterの鑑賞券が付いたSuper Saverを30ドル以上出して買うべきだと思う。学生は25ドルぐらいである。俺は件の若い若い状態がアメリカでは常時発動されていた(らしい)ので、学生証の提示を求められることなく、「あんた学生だよね?」と売り場の人に言われて半ば強制的に学生扱いされてチケットを買った。まあまだ(日本では)実際学生なのだが。

名前を忘れたサウルスの化石。

 博物館は4階建て・・・ぐらいだったと思う。常設展示として上の方の階でその筋の人にはたまらない8割ぐらい実物と言われる化石の展示がされている。この博物館に展示されているものについては、俺は迷うことなく「さっさと上の階に行ってまず化石を観ろ」と言う。下の階には動物のジオラマや、民族的な美術品等などがあるのだが、動物は全部偽物で動かないし、その類の美術品はメトロポリタン美術館でも十分観ることができるのだ。なので常設展示の価値の7割以上は化石である。化石なのだ。だから黙って化石を観るべし。

俺が子供の頃一番好きだったトリケラトプス。素晴らしい・・・!
でかいマンモスの化石。下の小っさいのが肉が付いた想像図。
化石は熱い世界である。実は俺が保育所の時は将来「はぶくつかんのかんちょう」になることが夢だと周囲の人間に語りまくっていた。俺は恐竜というか化石や骨が大好きだったのである。そのような人間にとってここは夢のような世界である。何と言っても。化石がめっちゃくちゃ沢山あるのだ。

でかい亀の化石。
下の階の常設展示はさっきも言った通り化石ではなく、動物のジオラマやら民族的な美術品やらが展示されている。正直行かなくても良い。気になる人はどうぞ、といったところだと思う。やっぱり動物は動いてないとダメだ。何も分かってねぇよ。「わけのわからない動きをする物」、略して動物なんだよ。あのわけのわからない動きが必要なんだよ・・・・!!と思う。

全てのハンターにとっての理想図。頼むから次のモンハンにはファンゴ処理動物を投入して欲しい。まあそうなったら今度はこのトカゲ達が突撃してきそうだが・・・。
常設展示は化石以外はそんなに面白くなかったのだが、特設展示は非常に面白かった。俺が行った時にやっていたのは、①蛍光動物(のモデル)展示、②クモ展、③宇宙展、④Flying Monsters(IMAXの映画)、⑤プラネタリウムである。④と⑤は半分実質常設に近いのかなと思う。Super Saverだと全部観ることができる。

宇宙展にあったモデル。こういうので俺は(化石と比べると)盛り上がれないなと思う。
 ・・・のだが、またいつも通り災難が起こって、①が終わって③の宇宙展を観ている最中に残りのチケットを紛失してしまったのだ・・・。うわーやっぱり俺はダメだ。こういう時に彼女が居てくれないとダメだわ・・・もう帰るし・・・。とか思ったのだが、ちょっと「なくしました」とかごねてみようかなと思ったので、ちょっとチケットを売ってる所でごねてみると、タダでなくしたチケットをくれた。レシートだけ残していたのが良かったらしい。

サソリやクモの生態について熱く語っていた青年。
日本でもこういうクモは見たことがある。
 おかげでクモ展という非常にマニアックな展示を観ることができた。無理な人は無理な類の展示である。1つ素晴らしかったのは大体実物のクモだったことである。やっぱり動かないとな・・・!!個人的には①蛍光動物の実物が観たかった。
 ④の映画は鳥竜がどのような生態だったのかというストーリーで大体30分ぐらいだった。そこそこである。この映画が終わったぐらいで昼ごはんを食べた。博物館のフードコートに行ったのだが、やはり高いし不味い。
 ⑤のプラネタリウムは実に俺にとっては15年振りぐらいのプラネタリウムであった。星の誕生から終わりまでを描いていた。・・・のだが、自分でも理由が全然分からないのだが、途中で爆睡した。いや、このプラネタリウムが悪かったわけではないのだが、荷物の片付け等で疲れていたんだろうと思う。

Shack Burger。ニューヨークで今一番らしいが、正直言うほどでもない。日本人でこれを美味いと言う人は単にニューヨーク補正がかかっているだけだと思う。美味さの位としては日本では売られていないアメリカのマクドナルドのAngus Deluxと同等、てりやきマックバーガー以上、モスチーズバーガー以下ぐらい。
 
博物館の帰りに近くのShake Shackでハンバーガーを食べて帰ることにした。Shack Burgerと多すぎるポテトと少なすぎるコーラで9ドル80セントぐらい。店には行列ができていたが、実際の所は行列を作るほどの店でもない。1回行けば十分である。
 しかし、アメリカでの最後の思い出が博物館近くのベンチに座って1人でハンバーガーを食べながら通りを人が歩いているのを眺める、というのは渋すぎる時間の過ごし方だと思った。あと10年ぐらい経って初めてやっていい行動だったなと思う。

2012年8月3日金曜日

クソ荷物・・・・ッ!!

俺が今回の留学で最も後悔していることは、無駄な荷物をアメリカに送りすぎたことである。そもそも日本以外の国に行くのが初めてであったこともあり、完全にびびっていたので、本などを多量に送りすぎていた。完全に無駄だった。
 なまじ学問をやっていると俺たちは本や論文に無駄に価値を置きすぎて大切にし過ぎる嫌いがあるのだが、留学に関してはこれは多くの場合無駄である。現地調達して現地で消費した方が手っ取り早い。俺は論文を書いたが、別にアメリカで調達可能な論文や本を使って十分書けた。以下アメリカに持って来なくていいもの。

  • 論文、本
  • 資料が入ったファイル
  • 寝具
  • 食器
上に挙げたものは全部現地調達しろ。フルブライト奨学生なら最初に貰う10万円でドルを買ってその資金で現地でぺろんぺろんのクソみたいな食器と寝具を買って入手しろ、と思う。逆にアメリカに持ってきとくと良かったものは下記。

  • 傘(ダントツで持ってきた方がいい。アメリカの傘は質が悪くて高いので、適当なビニール傘か折りたたみ傘をスーツケースに忍ばせておくと助かる)
  • 電池
  • まだ使っていない生協で売っているような紙製のおんぼろファイル
  • 文房具(アメリカのものは質が悪い上に高い)
  • PS3(※ハンターに限る)
  • モンハン(※ハンターに限る)
  • PSP(※ハンターに限る)
  • ハンティンググリップ(※変態に限る)
 つまり一般人は少量の衣類と洗面器具だけ持ってアメリカに留学した方がいい。アメリカに着いたら近所のスーパーなりKマートなりで必要なものを買えばいいのだ。論文を書く予定があると「この本・・・使うかもしれんな・・・!!」、「この論文・・・役に立つかもしれんな・・・!!」とか脳内で言ってしまうかもしれないが、アメリカで入手してアメリカで処分して帰った方がいい。俺などは無駄な荷物を持ってきていたので今荷物の処理に困っている段階である。
 しかもNYUの立地が非常にいやらしくて、USPSまでの距離が絶妙なのである。安く日本に荷物を送る常套手段がUPSやFedexを避けてUSPSを利用するということなのだが、それはUSPSが近くにある場合である。距離が遠いと流石に「そこら中にあるUPSやFedexで済まそうかな。はいはい俺の負けですよ」とか思えるのだが、NYUはその辺が嫌がらせとしか思えない立地なのだ。OISSの横の方にNYUが運営しているメールサービスがあるのだが、なぜか今年の5月21日から国際郵便はめんどくさい手続きを事前に済ませておかないと送れないようになっていて、突然持ち込んでも処理してくれなかった。
 俺は一回本の多量に入った段ボールを(「くそったれがぁーーー(声:堀川りょう)と脳内で叫んで)USPSまで持って行ったのだが、ちょっともううんざりした。もう他のものは全部捨てて帰っちゃおうかなと思っている次第である。

2012年7月29日日曜日

そうだ、フェデラル・ホールへ行こう

NY証券取引所の壁に掲げられた星条旗。
最初の方で言っていた通り、結局俺は勉強とインターン以外の用事でNew Yorkを出歩くことが最初のセントラルパークを除き一切無かった。このままだと俺のアメリカでの記憶の70%以上が部屋の机と白い壁と渓流と孤島と凍土と砂原と火山になってしまうことが判明したので、フェデラル・ホールへ行ってくることにした。フェデラル・ホールの理由はメタルギアに決まってんだろ。


ウォール・ストリートから見たフェデラル・ホール(左)。まだ朝早いのにもう観光客がいっぱい居た。


 朝7時ぐらいに家を出てわずか20分足らずで目的地のフェデラル・ホールに到着した。近い。近所に散歩に行く感覚で観光ができる所に俺は住んでいたらしい。土曜日の朝なのでここも例外は無くうんこ、ゲロ、ゴミが散乱しまくっていて、更にウォール・ストリート近辺は現在絶賛工事中なのでとても風光明媚とは言えない。New Yorkを観光する人には是非上を向いて歩くことを勧める。下にはいろいろな種類の絶望しかない。絶望しか無いんだ。


「ジャック・・・ッ!!よく聞けェ・・・!!」の場所。この上の星条旗が置かれている場所でソリダスと雷電は斬り合ったり、ソリダスの爆熱ローラーブレードが火を噴いたりした。ちなみに俺はMGS2の全台詞の中でこの「ジャック・・・ッ!!よく聞けェ・・・!!」が一番好きである。
 フェデラル・ホールの下の方にはジョージ・ワシントン像があったのだが、写真で分かる通りすぐ下まで登って記念撮影しても良いようだった。その手前には常に警察官が配置されていて、彼らは延々ここにたむろし続けるという素晴らしい仕事に従事しているようなので、ここでスニーキング・スーツを着たまま長話をしたり、メタルギアのテーマ曲を流しながらジョージ・ワシントン像にすがりついて力尽きることはできない。

イサム・ノグチ作のRed Cube。下強Kを撃ってはいけない。
目的は達したのでさっさと帰ろうかなと思ったのだが、まだ朝9時にもなってなかったのでついでにワールド・トレード・センター跡地を見た後、ロウアー・マンハッタンの端まで行ってやることにした。これらの場所は歩いて1時間あれば回れる距離に位置しているので、まあついでにやるのがいいのだろうと思う。

ワールド・トレード・センター跡地。「新しいカテゴリーの戦争」が始められた場所。
ワールド・トレード・センター跡地にはフェンスが張り巡らされているので、基本的に何がどうなっているか外部からうかがい知ることはできない。何かツアーらしきものが組まれているようだった。

ボーリング・グリーン内にあるモニュメント。

そのまま南に向かって歩くとボーリング・グリーンに行きあたる。昔はここでボーリングが行われていたらしい。「ボーリングの歴史を研究したい」と言ってフルブライト奨学生になった場合はここに来ればいいと思う。

自由の女神っぽい像が見えたが天気が悪かったので残念な結果に。まあこの距離からならどの道残念だろうと思う。

ずっと歩いていると最終的にハドソン・リバーに行き当たることになった。ここからフェリーに乗って自由の女神像まで行くコースが定番のようだ。歩いていると結構暑くなってうんざりしてきたのでまた歩いて俺は帰った。

2012年7月26日木曜日

終わり―!

今日NY州司法試験が終わった。
 これで俺の留学のスケジュールは全部終わった。あれだわ。一狩り行かざるを得ない。

2012年6月21日木曜日

NY州司法試験の受験資格を(今更)獲得した件について

実に去年の4月頃に出したForeign Evaluationから1年以上経過してだが、昨日BOLEから「お前は司法試験受けられるんで・・・へへ・・・すいませんね、遅くなりやして(※訳にはメールを送った奴に対する俺の願望が投影されています)」というメールが今更来たので今更司法試験を受けられることが確定した。
 何が心配だったかと言うと、LL.M.の学生は全員LL.M.を取得した事実が基本的に受験資格の要件に含まれているのだが、その事実を証明できるNYUの手続きが遅延しまくって書類提出締め切りの6月15日の2日前の6月13日になってやっと上記「へへ・・・すいませんね」と同様の内容のメールがNYUから俺に届いたことだ。「てめー舐めてんのか?」と思わず言いたくなるほどの事務スピードだがアメリカではこれが普通らしい。
 とりあえずこれで俺が7月24日と25日に(そんなに面白いわけではない)試験を受けることになってしまった。「届かなかったから無理だわ。ゴメンゴメン」みたいなメールが来てもしょうがないかなと思っていたのだが、そういう展開にはならないらしい。MPREは高校の時の全然勉強してなかった頃の時間が余りまくった模試並みに無駄な時間があったのだが、司法試験は無駄な待ち時間が無いといいと思う。

2012年6月14日木曜日

卒業と敗北と

LL.M. in International Legal Studiesの学位を獲得した。これでまた何年か後にやっぱりMBAも取ろうとか言い出さない限り俺はダブルマスターである。
 それと同時に首席で卒業するという俺の目標に対しては完全な敗北が決定した。いろいろ理由はあると思うのだが、俺の書く英語の文章などは他のAやA+を取りまくっている人々からすれまだまだ稚拙だということなのだろうと思う。NYUに来て明確に分かったことは英語にはまだまだ上の段階があるということである。俺の英語などは本当に使い物にならなかった。
 一応LL.M.はMaster of Lawで法学修士という意味なのだが、日本における法学修士とは性格が異なっている。日本の法学修士は学位取得要件として修士論文の提出が求められるがLL.M.にはその必要が無い。論文作成が学位の要件だったとしても、50ページを超える通常の修士論文とは量も質も劣るもので良い。学位の質としては問題はあるが、そもそもアメリカのLL.M.は俺のような社会経験の浅い小童をターゲットにしておらず、「海外で普通に働いているおじさん達が仕事を休んでちょっと勉強できる課程」を作るために設置されているので、専門職学位としての筋は通っている。
 それでは遊びまくっていても良い成績が得られるかと言えば、それは違う。アメリカのロースクールに共通することなのだが、成績判定は上が極端に狭く下が広い。イメージとしてはA+やAは数えられる程度しかおらず、あとは大体Bが付くイメージだ。これまで日本で普通に暮らしていた日本人が日本の大学と同様に「全A余裕」みたいな状態の成績表を作ろうとすれば、おそらく履修からテスト勉強から全てにおいて失敗が許されないと思う。しかもJ.D.の学生でない限り来年から頑張るといった巻き返しも無理なので一発勝負でもある。こう考えると上では逆のことを言ったが案外学位の質は担保されているのかもしれない。
 次はいよいよ博士だが、博士については取る場所から論文の中身から全てにおいてもう俺は決めているので最低な飛行機とガム女のせいで初日から不安を募らせた渡米生活とは真逆である。帰りの飛行機には子どもが乗っていないことを祈るばかりである。

2012年6月2日土曜日

論文を捨てる

今日部屋に布団のように敷き詰められていた俺が論文を書くために「消費」した論文を捨てた。実は日本からはアメリカの様子が分からなかったので念のためある程度論文を持って来ていたのだが、全く無意味だった。論文は全く問題なく読み放題だったからだ。
 というわけで、やはり消費する論文というのは論文を書く限られた時間で使うようにしないとたまっていく一方だなと思ったので全部捨てることにした。捨てながらこの1年ぐらい大変だったなと思った。思って当然なのだが、想像していたより俺は自ら大変になっていったと思う。いろいろ俺は馬鹿だったなと思うのだが、多分今自分が馬鹿だったなと思うことができるということは、俺の留学は俺にとって正しかったんだろうと思う。
 俺は彼女が暮らしている+焼き肉とラーメンが安く食べられる+モンハンが作られているという理由で日本が大好きなので、早く帰りたいと思う。どの道NY州司法試験に合格したとしてもその後何カ月か後にある宣誓式に出席するためのお金を出せるかどうかも分からないし、何も無ければ俺はさっさと日本に帰っているのだが、自分で決めた道なので最後まで付き合うしかない。

2012年5月30日水曜日

俺が生活習慣を正さないといけない理由

ここ数カ月ぐらい論文を書くために非常に不健康な生活習慣を送っていて、大体朝2時を過ぎて寝ることが常習化していた。しかし、俺の考えだとこの生活習慣は少なくとも論文を書く上では正しい。
 なぜ俺が論文を書く上で悪い生活習慣を正当化できるかと言うと、俺の考えだと論文は論理ではなく感情で書くからだ。もちろん我々の書く論文というのはウェーバーの言うように「価値自由」が前提にあるものとされるので(少なくとも我々は「僕は立憲君主制こそが最も合理的な統治制度だと考える。なぜなら僕はマキャベリが好きだからだ。マキャベリたんぺろぺろ。」という内容の文章を論文と呼ばない。)感情論を書くわけではなく、論理的な思考能力が必要ではある(より彼の定義を正確に言えば記述を区分する必要がある)。しかし、論理や合理性だけでは論文が長くなればなるほど書くことに耐えられなくなる。なぜなら、大学生が単位を取るために書くような糞のような文章ならまだしも、完全に前提条件を作る作業から含めて自分で「書く」以上、不可避的に「調べる」という作業が必要になるからだ。この「調べる」という作業は「やっていることが面白い」という感情が無ければただの苦痛である。それで金がもらえるなら別だが、楽しくないと博士課程なんてやってられない理由がこれだ。
 更に言えば、あらゆる学問は「絶対の探求」である。バルザックの「絶対の探求」に登場した頭のおかしい学者のように我々は「絶対」を探求しているので、不確かな原因と結果を結ぶ因果関係をもっともらしく文章で説明しなければならない。このような行動ははっきり言って不合理である。本当に合理的なら我々は学問を止めて分からないことは分からないし、見えないことは見えないと言わなければならないのだ。しかし、そのような結論に至ることは許されない。そのような結論に至る場合、文系の学問領域はおそらく全て否定されてしまう。社会学や政治学に「学」が付くのは、そこで提示される記述が説得力を持っているからであり、我々を「なるほど!」と言わせるだけのコンテンツを含んでいるからである。つまり、その内容によって我々を「学ばせた気」にさせるわけで、内容が絶対的な真実であるかどうかは実は問題ではないし、(辛辣な言い方をすれば)内容は全部嘘(かもしれない)、全部レトリック(かもしれない)ということがばれるので、問題とするわけにはいかないのだ。この意味で頭がおかしくないと論文なんて書いてられないし、学問なんてやってられないのである。正常な頭脳の持ち主である場合、文系の学問領域(もしかしたら理系の学問領域も)は否定して、「絶対」が存在しないことに絶望して、さっさとお金儲けの方法や結婚する方法等の生存に必要なことに時間を割くべきなのである。
 しかし、だからこそ悪い生活習慣は正当化できる。傍から見れば「何やってんのあいつ?」みたいに見えてもやっている人間にとっては「新品のMHP3を店頭で並んで購入した日から毎日アドパを介して通信協力プレイをしている」ようなものだからだ。このような状態にならないと長い論文は書けないのだ。書いてもろくでもない内容になってしまうのだ。変態の如く他の90%ほどの人々にとっては全く無駄な作業(例えばエクアドルの憲法やモロッコの刑事訴訟法を調べるなど)を執拗にして、舐め回すように本を読み、弄り回すように考えて、時々“Eureka!!“と絶叫して、時々非実在害獣を狩猟して、2時ぐらいにもう疲れてきて寝るという状態が理想的なのである。
 他方で、このような不健康な生活習慣は明確な限界を持つ試験(例えば俺が今から受けようとしているNY州司法試験)を受験する際には正しくない。論文と違い、こちらは論理と合理性だけが必要とされる。もちろん試験なので勉強量を維持するためには「夢」や「希望」が必要とする人も居るかもしれないが、ここで述べたように全ての試験には「限界」があるので、別に自分の「夢」や「希望」で試験の問題内容が設定されるわけではない。存在する情報を記憶してその情報を基に答案を書いて適切な選択肢を選ぶことが必要とされているので、たとえ勉強が嫌でも情熱が無くても(大半の日本人受験生のようにこの資格の意義は9割方自己満足で語り尽くされてしまうだろうということが分かっていても)記憶すべきことを記憶して、本番の試験で所持している記憶を利用して最も適切な回答をすることが求められる。このような作業をするためには不健康な生活習慣だと問題があるのだ。何より気持ちにまかせて徹夜をして翌日起きたらもう午前11時になってしまったり、途中で眠くなったので昼寝をする等の手段が取れず、午前9時から夕方まで上記した必要とされる作業を最適な状態で行う必要がある。したがって、この状態に自分を持っていくためには午前9時から夕方までを主要な活動時間とする必要があるのだ。
 このように考えるとまともな論文を書く作業と試験を受ける作業及びそのための準備は両立すべきでないことが分かる。俺が論文を終わらせたタイミングは(自分で言うのも何だが)おそらく最適なタイミングだった。俺のやっている学問にとって最適だったかどうかは知らないが。

2012年5月28日月曜日

脱稿

論文が終わった。英語ではあるが今書けることは全部書いたと思う。今回は金も時間も無いので高い割に普通の味の蕎麦を食いに行くことはできない。
 なぜ時間が無いかと言うと、7月24日と25日にニューヨーク州司法試験を受験しなければならないからだ。何もかもが最低の試験だったMPREのスコアもなぜかNY州の規定の点数を上回っていたのでどうにかなったらしい。なのでもうBarBriという俺の人生で初めての登場となる予備校での授業を受講している。予備校と言ってもマンハッタンにある本部以外は全部ビデオでしかもオンラインで観ることができるので受けたい時に受ければいい。
 アメリカのロースクールが日本と決定的に違うところは、「そもそも学生が予備校を利用することは当たり前」という前提で作られていることだ。したがって、授業で触れる内容ははっきり言って70%ほどは司法試験の役に立つものではなく、どちらかというと純粋な法律学だし、大学は予備校のビデオ授業を受けられるように部屋を予備校に貸し与えるし、予備校へ行くように提案してくる。
 予備校に行くようになっても結局NYUで暮らすので今後2カ月は何も変わらない生活が続くようである。「2カ月が過ぎた頃、異変に気付く。10冊の電話帳みたいな本を読み終えても日が暮れていない。齢26を超えて完全に羽化する。」みたいになればいいんじゃないだろうか。

2012年5月20日日曜日

NYU 卒業

卒業式のあったBeacon Theater(ベーコンではなくビーコン)。この日はNYU仕様。

昨日NYUのロースクールの卒業式があった。個人的には6月1日締め切りの論文(超大作)を書き続けているので全然終わっている感じがしないのだが、学部長に"You are officially graduated"とLL.M.の学生は全員言われたので俺たちはNew York Universityを卒業したらしい。
 実は俺は卒業式のある金曜日をまだ木曜日だと前日まで勘違いしていた上、完全に意識の上からその事実が消えていたのでレンタル費用が75ドルもするクッソ高い気持ち悪いコスプレ衣装を頼むこと以外何もしていなかった。というか忘れていた。その結果、当日そのコスプレ衣装なるAcademic Attireを身に着けようとしたところ、帽子のサイズが致命的に小さすぎることが判明し、俺は帽子をスネークの如く現地調達しなければならなくなった。アメリカ基準のサイズが意味不明だったので、多分俺はアメリカ人より小さいと思い小さめにしようとしたところ失敗したらしい。
 少し早めに会場へ赴き、係の人っぽい女たちに「帽子が小さいのででか目のやつに変えてほしいんだけど」とか言ったのだが、予備の衣装を用意しているくせになぜかサイズが全部小さいという意味不明な準備をしていて、どれをかぶってもサイズが合わず、「多分あんたの頭に知識が詰まりすぎてるせいよ。上に乗っければまあ大丈夫。走らないようにすればね!あははっ」といううざいアメリカンジョークを飛ばされたので、プランBのJ.D.の連中が脱ぎ捨てていった帽子をすいませんすいませんと頼んで拝借する策に出た。これが案外上手くいき、丁度会場前の脱ぎ捨てコーナーで回収作業に従事していたバイトの女の人が居たので、事情を話すとすんなり俺の持っていた帽子と俺に丁度いいサイズの帽子を交換してくれた。
 それでじゃあ着ようと思ったのだが、着方が分からん。どうしようかなと思っていたところ、近くに居たほかのLL.M.の学生を祝いに来ていたフィリピン人のおばちゃんとおばあちゃんにまた若い若いを連呼されながら着方を教えてもらった。インド人の件といい、俺はアジア地域だと全般的に舐められるらしい。その上そこら辺に居た別のフィリピン人のおっさんが写真を撮ってやるとか言ってきたので俺のデジカメで写真まで写してもらった。引き籠りのくせにまるでカツオである。

内部の様子。人が沢山居た。
 それから1時間以上待たされた後、中に入っていろいろな人の長ったらしい話を聴いた。特にうんざりさせられたのは国連で法務の仕事をしている女の人の新聞にでも書いてありそうな話と、トリニダードトバゴの総理大臣?の女の人の「私はここでつまらない長話をするつもりはない」が実はフェイントで、結局誰よりも長く大半は新聞にでも書いてありそうな話だった。学長と学生代表の話で十分だと思うのだが、計4人ほどの長話を聞かなければならなかった。

「君たちは今日で卒業だ!!」と話す学部長 注)まだLL.M.の学生は全員成績が確定していません。

 いろいろな人のスピーチが終わると、約450人の卒業生全員が順番に舞台に上がって名前が呼ばれるという日本では考えにくい展開になった。当然450人も名前を呼び続けるのでかなり時間を食う。学部長も舞台で全員と握手するので大変である。朝彼はJ.D.の学生全員とも握手したわけで、よくこんなことを毎年続けるなと思う。
 というわけでこれでNYUは終わりである。どの道これから数カ月はNYUに住むので全然終わった感は無いし、実は途中から「もうお前NYUどうでも良くなってねぇ?」という生活をしていたので終わりも糞も「俺たちの戦いはこれからだ!!Kの次回作にご期待下さい!!」みたいな感じである。

2012年4月12日木曜日

あーよく分かんねえけどまたくっそやる気出てきた。

不思議なことを書くが今日朝目が覚めるとやっと論文について考えることが楽しくなっていた。いつもこんな感じなのだが、俺は論文を書き始めるまでにすごく時間がかかる。なぜなら、書き始める前は論文を書く行為が嫌いだからだ。嫌なのだ。しかし、不思議なことに、論文について真面目に考え始めると論文を書くことを楽しく感じる。書く前は「うわーこんなんやってらんないわ。モンハンでもしよう」とか思っているのだが、書き始めると「何これ面白い。アイデアが死ぬ程湧いてくる。アカデミック・ハイだわ俺。モンハンなんかやってる場合じゃない」みたいな感じになるのだ。普段適当な感じでも結局論文を書いてるのはこのせいだと思う。

2012年4月2日月曜日

また生き残るしかねぇんだよ。

最近ちょっと思ったのだが、また俺は多くの荷物を抱え過ぎていて、全身全霊全力全開で生き残るしかないことが分かった。アメリカに来てから理由は知らないがずっとこんな感じである。頼むから全力でぶっ飛ばしてくれ俺、と自分で思う。思うしかない。やっぱり「NYU生活編」とか「NYUリア充編」とか名付けて「wwww」とか「♪」とか「^^」とか文章に付けまくって「wwwうwwwはwwwwダンキンドーナツうめえww」とか「大学の隣にあるお気に入りのスタバでいつも勉強しているんですよね♪」とか「フレに呼ばれたので失礼しますね^^」とかじゃなくて「NYU激闘編」であってた。そしてリア充というかリア重でリア終でリア修でリア囚だった。まあよく考えたら前期も後期もNYUに全然関係ないことで勝手に死にそうになっているんだった。じゃあ「NYU激闘編」は正しくは「NYU(に通っているというか住んでいるというかまあ仕事以外は引き籠ってて時々非実在害獣を狩猟してはにやにやする人の)激闘編」と読む。次こういうのは「星霜編」とか付けてキャラクターの顔が変になっていきなり過去編を始めて顔の十字傷のこととか話し始めようかと思う。

2012年3月9日金曜日

Core と Penumbra

H.L.A.ハートという20世紀を代表する法思想家が居る。NYUに通っているのだからドウォーキンに触れるべきだと思うのだが(俺は多分一回Vanderbilt Hall付近ですれ違ったと思う)、最近憲法の授業で触れたGriswold v. Connecticutの判例で、多数派意見を書いたWilliam Douglasが、判例中に"Penumbra"という、通常の英語の文章ではまずお目にかかれない「法の概念」内でハートが展開した自身の司法裁定論を説明する際に用いた用語を使っていたので、ハートを思い出した。
 ハートが自身の司法裁定論の中で展開したCoreとPenumbraの概念についてものすごく簡単に言及しておこう。彼はあらゆる法律には「意味が万人に確かであるCore(中心)」の部分と、「意味が不確かで構成的な解釈が必要とされるPenumbra(半影)」が存在すると考えた。Coreの部分については裁判官が自身の裁量を展開する余地は極めて狭いが、Penumbraの部分については、裁判官がそれぞれ法の構成要素とされる「何か」、日本の判例で言えば「社会通念」などの政治的かつ構成的な解釈によって法を創り出す必要があり、その限りにおいて法は不確実性を有することとなる(彼の司法裁定論はまだまだ長く、本当に説明しようと思うといつも通りシリーズ化する必要があるのでここでは省く)。
 DouglasはGriswoldにおいて、明示的にこの概念を利用して自身の法理を展開している。Griswoldは、いわゆるプライバシーの権利について、アメリカの最高裁が初めて言及した重要な事例である。Douglasは、前提として修正第9条にある通り合衆国憲法は憲法内に列挙されていない権利を認めないわけではなく、人民が有する「根本的な権利」については、法的に保護されうる価値であり、「プライバシーの権利」を明言する条文は憲法内に存在しないものの、修正第3~5条のPenumbra(半影)の部分において、憲法は個々人のプライバシーが保護され得ることを黙示していると述べた。例えば、修正第3条はCoreの部分だけを読むと軍隊の舎営の制限という、軍人の有する権利に関するネガティブな制限として解釈されるが、他方で平時における「軍人の舎営によって個々人の生活の平穏が乱されない」という、プライバシーの権利の構成要素についても言及していると解釈されうる。彼は憲法の条文のPenumbraの部分において、人々が有する根本的な自由の前提である「プライバシー」という価値が含まれていると解釈したのである。
 Griswoldの判決が言い渡されたのは1965年であり、時期的にもハートが「法の概念」を発表した1961年に極めて近い。この時期はJudicial Activismが輝きを放ったWarren Courtの時代であり、GriswoldはWarren Courtの最終期の判例である。Douglasは、自身の法理の中にハートの司法裁定論を取り入れることで、次の時代における予期された市民権の拡大・人権理念の拡大に着手し始めていたと言えるのではないだろうか。

2012年3月1日木曜日

人種差別について

NYUに来てからなぜか履修している教科群や日常で起こる出来事が相互的にリンクすることが多いのだが、最近また1つの波のごとく俺の生活にたびたび登場しているのがこの人種差別の問題である。
 人種差別の問題は本当に奥が深い・・・らしい。「らしい」というのは、おそらく俺はまだ人種差別が根付いた社会の繊細さや、そういった社会で暮らす人々の人種差別問題に対する積極的・消極的な恐怖心を理解できていないと思うからだ。と言うより、普通に日本で暮らす限り人種差別の問題で心を砕く必要が少ない。日本の代表的な「人種の違い」を理由とする差別は在日韓国人に対する差別だと思われるが、本当にそういった問題で困った経験を持つ人間が何人居るだろうか。例えばアメリカの事例のように、日本において特定の公共交通機関で在日韓国人と日本人で乗ることができる場所が区別されるような、明確な「違い」を日常生活の中で実感する機会があったわけではない。また、他にもいわゆる部落差別が日本における差別の問題として代表的だが、別に「部落」に属する人について、憲法上日本国民としての公民権が否定されていたわけではない。個々の地域では差別の一定の制度化が進んでいたようだが、国家的な強制力を持って差別が法的に正当化されていたわけではない。
 アメリカにおける人種差別が日本と一線を画すのは、人種による差別が公共政策の一環として、明示的な強制力を持つものとして全国規模で実施されていた点だと思う。16世紀から19世紀という長い期間、アメリカにおけるアフリカ系アメリカ人は、多くの州において公共政策上、「明示的に」白人達によって搾取されるべき「物」であり、人権の保障された「人」ではなかったのだ。肌の色や文化や言語の違いは、アメリカにおいては単に個々の人間関係における差異の認識としてではなく、経済社会的な「格」の違いとして認識されていた。そして俺は未だに自分の経験として全然実感がないのだが、今でもこの意味での「格」の違いは残存している。
 強調した通り、この人種差別の問題が厄介な点は公共性を持っていたことだと思う。差別の公共性は差異が個別の人間関係内で収斂されるのを許さず、差異の社会化を図ろうとする。仮に1つの社会の方向性として、例えば奴隷制度という明示的な形で差異が公共性を有していた場合、自然に発生しうる極めて個別的な人間関係として、自分と異なる人間の存在を捉えることが困難になる。公共政策が差異を差別として同定することで、個別的な人間関係上の他者への評価が「歪まされて」しまうのだ。南アフリカのアパルトヘイトやアメリカでの奴隷制度などは、こういった公共政策上の価値判断に基づく歪んだ他者への評価を、各世代ごとに再生産することに成功したのである。
 このような人種差別に対抗する「戦略」として、アメリカでは市民権運動が起こったのだが、実は上述した個別的な人間関係上の差異と公共政策としての差別の違いを考慮すると、俺は自分の個人的な経験から、この戦略がTinker v. Des Moines Independent Community School District で登場する申立人の両親のように、運動への強制的な動員を迫る場合には問題があると思っている。
 俺が生まれた地域では部落解放運動(水平社運動に通ずる用語だと思われる)が活発に行われていた。俺はこれが嫌いだった。内容の正当性は認めるのだが、子供心にそのやり方に違和感があった。例えば小学生の頃は毎年この「運動」に熱心な団体が開く演劇を観に行くことを小学校に強制されていた。俺は友達と「お前もう観に行った?」といった内容の会話をしていたのを憶えている。これが俺は本当に嫌だった。演劇の内容の陳腐さは置いておくとして、何より「運動」への参加を「強制」するやり方が気に食わなかった。異なる人間に対する評価を「差別」として強制した人々と、それに対抗するために「差別」とは反対の評価を認識させるために「運動」として強制した人々に、考え方に違いはあるのかと思ったのだ。すなわち、問題であるのは、水掛け論的な他者に対する評価の違いという、実質的な部分ではなく、一定の評価や価値観を他人に「強制」するという手続き的な部分だと思ったのだ。
 例えば、1つの思考実験として、奴隷制度が存在しない状況で、白人と黒人が出会って自然に言葉を交わし、人間関係を形成した場合、なお白人は黒人を自分より劣る存在だと、「十中八九」思うのだろうか?黒人は白人を自分より上位の人間だと「十中八九」思うのだろうか?俺はこれは「否」だと考える。人間が他者との関係上、他者に対して下す評価というのは、それほど単純で形式化されたものではない。もちろん肌の色の違いというのは初めて目にした場合は驚きだろうし、人間が相対的に物事を考える傾向から、どちらかの人種はどちらかの人種を劣っている・優れていると考えるかもしれない。しかし、「十中八九」傾向のある考え方はしないだろう。上記した「強制」的な性質を持つ戦略は、この意味での評価に「傾向」をもたらし、それによって純粋な人間関係の形成を阻害する社会装置として機能しうる点で問題がある。
 このように考えると、国際人権規範上確立されている人種差別の禁止というのは、「公」と「私」の区別を前提にして理解する必要があるだろう。もちろん上述した通り俺を「運動」に強制した人々の正当性を完全に否定することはできないが、教条的に人々の私心にまで踏み込むような意味で規範の順守を迫ることは、自然な人間関係上の他者の認識に対する「不純」な傾向を生み出す点で抵抗がある。白人が黒人の大学への入学を人種を理由に断ることと、偶然知り合った白人の性格の悪さに辟易している黒人が居ることは区別されるべきである。俺が運動への参加を「強制」する戦略が嫌いなのは、後者の事例において自然な価値判断で人間関係を捉えることを許さないような傾向を生み出すかもしれないと、危惧しているからだと言える。

2012年2月21日火曜日

「自己紹介が下ッッッ手クソなんだよおめぇーはよぉー!!」

最近仕事関連で自己紹介する機会があったのだが、フルブライトのレセプションの時同様また失敗したと思う・・・。俺はもっとしつこいぐらい俺が今何を研究しているのかということを強調できる自己紹介をしないとダメだ。特に一期一会の人間に対して俺はもっと俺が何をしているのか言わないと「何かわけわかんない奴が居た」ぐらいで終わってしまう。これがなかなか難しい。できているようで実はできていないといつも後から思ってしまう。その度に俺はこの記事のタイトルのようなことを後から心の中で自分に言い聞かせている。

2012年2月17日金曜日

新しい勝負の始まり

いろいろフルブライト関連で面倒な手続きがあったのだが、NYUのOGAの人達やIIEの俺の担当者の協力により、フルブライト奨学生がインターンとして学位取得中に働くための手続きを終えることができた。
 というわけで書けなかった新しいチャンスとはNew Yorkでのインターンである。これで2012年度の第3の標的を達成するための条件を満たした。軽くインターンと書いているが、アメリカでインターンを得ることは日本のそれと価値が違う。実際今学期俺が履修している無単位の「英会話での議論能力やプレゼン技術等を磨く」という目的で開かれているクラスの先生にこれを言うと拍手してくれたりした。
 大学生の時の俺だったらそんなんやる暇あるんだったら家で本でも読んでろとか今の俺に言いそうだが、今の俺は違う。実は書いていなかったが、フルブライト奨学金の面接の際に、完全に俺が場の空気を支配する中、面接官の1人に「1つアドバイスなんだけど、君の経歴は真っ直ぐ過ぎる。人生にはもうちょっと寄り道することが時に必要な場合もあると思うよ。」と言われていたのだ。その時は流れに乗っていたので俺は適当な受け答えをした(というか何とも言えないので「ご忠告どうもありがとうございます」とか言うとなぜか全員に笑われた)のだが、確かにその面接官の言う通りだと思う。
 もう1つ俺がクソ忙しいロースクールの授業の合間を縫って働く必要があると感じる理由は、俺は「実務家と研究者の違い」を強調する輩が嫌いだからである。日本の法学部の教授などは特にこれを言う人が多くて、正直辟易した。自分達が学校に引き籠った結果、法科大学院みたいな無駄な仕組みが作られたんだということを、もう少し彼らは反省した方が良いと思う。これは何も法学分野に関わらず、少なくともフルブライターが全員今後自分達が自分達の専門分野や社会の発展に力を注ぐに当たって、具体的に考慮しなくてはならないことの1つじゃないかと俺は勝手に思っている。俺達は実際に現場で東奔西走している人達のことや、現場で発生している問題について知るべきなのだ。その上で本を読んで論文を書いていくべきなのだ。だからまず俺は俺が実践していくことに決めた。フルブライト奨学金には申し訳ないが、このことで成績が悪くなっても俺は後悔しない。悪くするつもりは全然無いが。
 俺の勤務場所が高校生の時にやっていたMGS2で雷電とローズのナノマシン通信による会話に登場してきた場所だというのも感慨深い。そう言えば俺は雷電とソリダスが殺し合っていた場所の近くで今勉強している。

2012年2月8日水曜日

クソみてぇな成績で本当に苛立たしい

Fallはクソみてぇな成績しか得られなかった。もちろん卒業する分には全く問題ないのだが、そんなもん最初から俺は目指してない。俺は大学2年から優しか取ったことがなかったのだが、5年後にその記録が途絶えてしまった。当時無双だと思い込んでいた俺は5年後に一敗地に塗れる思いをアメリカでするとは予想していなかっただろう。
 かといって部屋に閉じこもって学校の勉強しかしない生活は「全力でぶっ飛ばす」ということにはならん。俺は今まで通り今しかないと俺が感じるチャンスには手を伸ばさないといけない。そしてまだ書けないが既に新しいチャンスを俺は掴んでいる。
 あまりに苛立たしかったのでやってなかったMH3Gの闘技大会を5割以上S全A(余裕だろクソが)で制覇して鮭を焼いて女の子が食べるようなクリームソースのパスタを作ってやった。美味しくいただいていますよこの野郎。

2012年1月15日日曜日

New Yorkで髪を切る

日本を出る前に切って以後いろいろあったために切れずにいたので髪が伸び放題になっていた。ちょっと新しい学期が始まる前に髪を切ろうと思ったので、アメリカで初めて髪を切りに行くことにした。
 俺の調査の結果、日系の床屋はあるらしいが軒並み高く、純粋なアメリカの床屋は安いが腕が悲劇的だという情報を多く入手した。特に、日本人男性の場合は高確率でバリカンで刈り上げられる運命が待っているという情報が多く、運が悪いと最初からハサミじゃなくてバリカンを使われるとか。うわーもう無理と思った。
 しかしどうせほっとくとまた伸びるので、俺としてはあまり散髪に金をかけたくない。そこで今回は試しに純粋なアメリカの床屋に行った。バリカンだけは回避しようと思っていたので、not too much という言葉だけは強調しようと思った。実際横に座っていた男はバリカンでがっつりいかれていた。
 その結果、逆に全然切られなかった。これ絶対すぐ伸びるだろっていう長さにされた。あまりにも切られていなかったので、よくある死亡パターンの1つだが、家に帰って自分でちょっと切ったぐらいである。どうしろと・・・。もっとべらべら細かくうざい感じで注文した方が良いのだろうか。多分卒業間近ぐらいに切る前以上に伸びてそうだなと思う。

2012年1月1日日曜日

5本目も終わって鴨南蛮を食いに行く

最後のTransitional Justice用のペーパーが終了した。9割俺の日本語論文から流用したが、実は最初からそうする予定だったので割合予定通りに俺の留学は進んでいるらしい。
 終わったので12月31日だし蕎麦でも食いに行こうということで、Soba-yaという、こっちにくる前に俺がブログで言及していた馬鹿みたいな名前の蕎麦屋に行ってきた。そして750円程度の鴨南蛮に20ドルも払ってきた。これぞ浪費。二度と行かねぇ。
 そしてブログの表示等をいじっていないので1月1日の投稿になるが、これが2011年最後の投稿である。いろいろあった1年だったが、実はこのブログで書いて無いだけでもう2012年の戦いが始まっている。なので全然終わった感もなく、全力でぶっ飛ばし中である。あとMH3Gについては、

「まずMH3Gを具現化しようと決めてからはイメージ修行だな。最初は実際のMH3Gを一日中いじくってたな。とにかく四六時中だよ。目をつぶって触感を確認したり何百枚何千枚とMH3Gを写生したり、ずーっとただながめてみたりなめてみたり、音を立てたり嗅いでみたり、MH3Gのパッケージで遊ぶ以外は何もするなと師匠に言われたからな」

「しばらくしたら毎晩MH3Gの夢を見るようになってその時点で実際のMH3Gのパッケージをとりあげられた。そうすると今度は幻覚でMH3Gが見えてくるんだ。さらに日が経つと幻覚のMH3Gがリアルに感じられるんだ。重さも冷たさもすれあう音も聞こえてくる。いつのまにか幻覚じゃなく、自然と具現化したMH3Gが出ていたんだ―」

という状態である。今のところパッケージの裏にMHP2Gでぶっ殺しまくった鬼判定魚が居るなってことしか分からん。

2011年12月22日木曜日

三羽目がやったようです

査読付き論文の掲載が決定した。時間が無い中無理やり作った感はあるが、一応言及するべき点は言及したとは思う。
 他方で問題だと思うのは、ある一定の活動等を総括して表現する「特別な言葉」(Technical Term)を上手く見つけて定義できなかった点だ。例えば非常に根本的な話だが、Transitinal Justiceは日本語にすると「移行期の正義」が一般的(そもそも領域自体一般的じゃないが)な表現だが、これは日本語としては本当に不細工だし、意味が分からない。
 まず「移行期」という言葉は何が「移行」するのか分からない。仮に何かつけるとすれば「体制移行期」になると思うが、それよりも日本語の意味として「移行」という言葉が中立的なニュアンスを含んでいると思うので、実は現状多くの人権侵害が発生した社会が平和裏どころか、あらたな人権侵害の形(スリランカやルワンダの「一方的な」勝者による正義)を持ってして「移行」していることを表現できていない点が問題である。「社会体制変動期の正義追求活動」ぐらい言わないと正確性が出ないが、これだと長過ぎる嫌いがある。「移行期の正義」という言葉がある程度正統性を持っているのは、「これまで多くの人間が同じ日本語でTransitional Justiceを表現してきた」という理由のみだと思うが、俺はこれは(俺を含めて)学者の怠慢だと思う。
 今後の課題はもう少し、「誰でも分かるような言葉」で自分の考える概念をいかに表現するかということである。次回はもう少し時間をかけて文章を書いてみたいと思った。