2012年5月30日水曜日

俺が生活習慣を正さないといけない理由

ここ数カ月ぐらい論文を書くために非常に不健康な生活習慣を送っていて、大体朝2時を過ぎて寝ることが常習化していた。しかし、俺の考えだとこの生活習慣は少なくとも論文を書く上では正しい。
 なぜ俺が論文を書く上で悪い生活習慣を正当化できるかと言うと、俺の考えだと論文は論理ではなく感情で書くからだ。もちろん我々の書く論文というのはウェーバーの言うように「価値自由」が前提にあるものとされるので(少なくとも我々は「僕は立憲君主制こそが最も合理的な統治制度だと考える。なぜなら僕はマキャベリが好きだからだ。マキャベリたんぺろぺろ。」という内容の文章を論文と呼ばない。)感情論を書くわけではなく、論理的な思考能力が必要ではある(より彼の定義を正確に言えば記述を区分する必要がある)。しかし、論理や合理性だけでは論文が長くなればなるほど書くことに耐えられなくなる。なぜなら、大学生が単位を取るために書くような糞のような文章ならまだしも、完全に前提条件を作る作業から含めて自分で「書く」以上、不可避的に「調べる」という作業が必要になるからだ。この「調べる」という作業は「やっていることが面白い」という感情が無ければただの苦痛である。それで金がもらえるなら別だが、楽しくないと博士課程なんてやってられない理由がこれだ。
 更に言えば、あらゆる学問は「絶対の探求」である。バルザックの「絶対の探求」に登場した頭のおかしい学者のように我々は「絶対」を探求しているので、不確かな原因と結果を結ぶ因果関係をもっともらしく文章で説明しなければならない。このような行動ははっきり言って不合理である。本当に合理的なら我々は学問を止めて分からないことは分からないし、見えないことは見えないと言わなければならないのだ。しかし、そのような結論に至ることは許されない。そのような結論に至る場合、文系の学問領域はおそらく全て否定されてしまう。社会学や政治学に「学」が付くのは、そこで提示される記述が説得力を持っているからであり、我々を「なるほど!」と言わせるだけのコンテンツを含んでいるからである。つまり、その内容によって我々を「学ばせた気」にさせるわけで、内容が絶対的な真実であるかどうかは実は問題ではないし、(辛辣な言い方をすれば)内容は全部嘘(かもしれない)、全部レトリック(かもしれない)ということがばれるので、問題とするわけにはいかないのだ。この意味で頭がおかしくないと論文なんて書いてられないし、学問なんてやってられないのである。正常な頭脳の持ち主である場合、文系の学問領域(もしかしたら理系の学問領域も)は否定して、「絶対」が存在しないことに絶望して、さっさとお金儲けの方法や結婚する方法等の生存に必要なことに時間を割くべきなのである。
 しかし、だからこそ悪い生活習慣は正当化できる。傍から見れば「何やってんのあいつ?」みたいに見えてもやっている人間にとっては「新品のMHP3を店頭で並んで購入した日から毎日アドパを介して通信協力プレイをしている」ようなものだからだ。このような状態にならないと長い論文は書けないのだ。書いてもろくでもない内容になってしまうのだ。変態の如く他の90%ほどの人々にとっては全く無駄な作業(例えばエクアドルの憲法やモロッコの刑事訴訟法を調べるなど)を執拗にして、舐め回すように本を読み、弄り回すように考えて、時々“Eureka!!“と絶叫して、時々非実在害獣を狩猟して、2時ぐらいにもう疲れてきて寝るという状態が理想的なのである。
 他方で、このような不健康な生活習慣は明確な限界を持つ試験(例えば俺が今から受けようとしているNY州司法試験)を受験する際には正しくない。論文と違い、こちらは論理と合理性だけが必要とされる。もちろん試験なので勉強量を維持するためには「夢」や「希望」が必要とする人も居るかもしれないが、ここで述べたように全ての試験には「限界」があるので、別に自分の「夢」や「希望」で試験の問題内容が設定されるわけではない。存在する情報を記憶してその情報を基に答案を書いて適切な選択肢を選ぶことが必要とされているので、たとえ勉強が嫌でも情熱が無くても(大半の日本人受験生のようにこの資格の意義は9割方自己満足で語り尽くされてしまうだろうということが分かっていても)記憶すべきことを記憶して、本番の試験で所持している記憶を利用して最も適切な回答をすることが求められる。このような作業をするためには不健康な生活習慣だと問題があるのだ。何より気持ちにまかせて徹夜をして翌日起きたらもう午前11時になってしまったり、途中で眠くなったので昼寝をする等の手段が取れず、午前9時から夕方まで上記した必要とされる作業を最適な状態で行う必要がある。したがって、この状態に自分を持っていくためには午前9時から夕方までを主要な活動時間とする必要があるのだ。
 このように考えるとまともな論文を書く作業と試験を受ける作業及びそのための準備は両立すべきでないことが分かる。俺が論文を終わらせたタイミングは(自分で言うのも何だが)おそらく最適なタイミングだった。俺のやっている学問にとって最適だったかどうかは知らないが。

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