最近俺の夢には黒い服を着た男が出てくるんだ。
俺は夢の中で吐しゃ物と黒く変色したガムの張り付いた土曜日の朝のマンハッタンの下水道みたいな歩道で、ノック・アウトされた格好で(伸びちまった蛙みてぇな気分で)寝っ転がっているといつも俺に近づいてくるビッチが居る。でも違うんだ。ビッチじゃない。女じゃねえんだよクソったれが。俺が顔を横に向けると決まって黒いズボンにじじ臭い色のソックスとフレッシュマン・セールで売ってるようなぱっとしねぇ革靴を履いた奴の足が見えるんだ。
俺はしばらくそのままで、その足をうんざりした気分で見つめるんだ。長い間見てるときつくしまった革靴で寄ったソックスのしわがどうなっているか、ソックスのヨモギみてぇな色と靴の色のコントラストとかが気になるんだけど、でもそれ以上に俺はこの状態でも、「蛙みてぇな状態」でも満足していると感じるんだ。満たされているんだよ。お前。薬も酒も、何も無くても、世界の終わりみたいな道路でノック・アウトされてても、幸せでいられる。幸せなんだよ。俺は。
ああ?足から上?馬鹿お前、俺はもう満足してるんだぞ?その男のクソみてぇな終わっちまった足を見てるだけで俺はもう、満足なんだ。顔をすりつけたいくらいなんだよ。できることならガキが履くような靴にキスしてやりたい。頬をすりつけながら、奴の靴が白くなるまで俺の顔の油をすりつけながら、キスしてやりてぇんだ・・・。そんな満足。でも俺が感じるのは道路の冷たさとまき散らされたゲロと小便の臭いなんだ。それで全部なんだ。
しばらくするとその「足」は俺の視界から遠ざかっていく。は?そりゃもう・・・そりゃもう終わりだよ。何もかも終わりだよ、お前。さっきまでの熱い感情はもう、全部消えちまう。一切だ。俺の周りにはゲロと小便、ゴミとガム、ガム、ガム、ガムだ。ガムだよ、お前。黒人も白人もシナ人も全員クソみてぇな人生を送りながら吐き出していったガムだ。俺の目に映るのは奴らが吐き出して、奴らが踏みつけて、奴らがぺしゃんこにして、ガチガチに黒くなっちまったガムだけよ。そうなるともう、俺だけ、俺だけこの凍ったベルトコンベアみてぇな道路に取り残されちまったみたいで、泣きそうになっちまう。腹の下辺りがぐずぐずして、そのまま小便も出しちまいそうになる。分かるだろ?お前?あれだよ、ハイ・スクールで俺だけ棒高跳びを失敗した時と同じ感じだよ。失敗だ。全部失敗なんだよ・・・。俺も、お前も、この机も、椅子も、あの道路も、酒も。残るのはあのガムだけだ。
いや、その黒い服を着た男を見たくないわけじゃない。チャンスはあるんだ。チャンスはあるわけだ。だって毎日のようにその男は俺の夢ん中で俺に近づいて、そして去っていくんだから。衛星みたいに規則正しい奴だよ。だから俺は見ようと思ったら見ることができる・・・。でも見ないんだ。俺は。さっきも言ったろ。俺はもう、満足なんだ。その黒い服を着た男の足を見てるだけでな。
ああ?何で男って分かるかってお前、そりゃあんな爺さんみたいな格好だとそりゃ多分爺さんみたいな奴が立ってんだろ。あんなださい格好をするのは爺さんだと相場が決まってる。
しつこいな。お前も。だから誰だかは知らねえって。夢の世界の住人でいいだろ。
帰れよ。お前と話してるとうんざりする。今日もあの夢を見るだろうよ。お前のせいでな。
僕は10ドル札2枚をテーブルに置くと足早に店を出ていった。ボランティアにしては良くやった方だろ?僕は?だから明日もあのじじいの話は聞いてやる。あのじじいが何回同じ道路でノック・アウトされて何回足を見ていくつガムを数えようとも、僕は話は聞いてやるよ。いつかあの男の正体も分かるかもしれない。僕は帰ったらお尻の大きい方の女の子に電話することにした。彼女はもうベルトの部分まで見えているらしい。僕はまだガムしか見えないけど。
2012年3月16日金曜日
家庭科教室をめぐる争い (1)
北島(弟)のもたらした情報によれば、二階堂グループは本日午後15時50分のチャイムを合図に僕たち「イタリア料理同好会」が拠点としている1階の家庭科教室に攻め込んでくるとのことだった。「奴ら本気みてえだ・・・」と1学期の家庭科の時間、裁縫で作ったクマの刺繍が施されたエプロンに身を包んだまま、北島(弟)がつぶやいた。僕は素直に北島(弟)の情報収集能力に感嘆していた。この「イタリアン料理同好会」の発起人たる北島(兄)と同様、北島(弟)は要所要所で自らの身を危険に晒す勇気を持っている。
しかし、北島(弟)の言う「15人」という相手の数を聞いて僕は焦っていた。「イタリア料理同好会」は未だ「同好会」で、いわゆる正式な「クラブ」ではなく、はっきり言って僕たち内輪の集まりみたいなものである。何より戦闘経験が浅い僕たちにとって、数で勝っている二階堂グループと争うことはプレッシャーであった。僕は机に備えてつけられているシンクから目を反らし、黒いカーテンで覆われた窓の方を見た。カーテンの表面のごわごわした感触が想像できるようだった。
僕たちの「イタリア料理同好会」は、北島(兄)・(弟)の家で僕と古川と北島(兄)の3人で「大乱闘スマッシュブラザーズX」をプレイしていた際に、ふと古川が「イタメシって何か知ってる?」とつぶやいたことが事の始まりである。古川の兄は古川より8つも年が離れていて、近所のファミリーマートで店長をやっている。古川によれば、「イタメシ」という言葉は彼が古川に僕から借りたままになっているエロ本を得るための代償として渡した初代プレイステーションの中に入ったままであった「サガ・フロンティア」で登場したらしい。僕としてはそこで初めて僕の大切なエロ本が彼の兄に又貸しされていることを知ったのだが、それよりも僕たちは「イタメシ」という語感に魅かれていた。
その日、僕は家に帰った後、いつもエロ情報を探すことにしか使っていないパソコンを利用して「イタメシ」という言葉を検索してみた。なるほど「イタメシ」というのは一般的に「イタリア料理」を指す言葉らしい。僕はもちろん今まで自分の意識の中で料理をカテゴライズしたことがなかったので、一体どんな料理が「イタリア料理」と呼ばれるのか気になって、エロ動画をダウンロードし過ぎて重くなったインターネットエクスプローラーを駆使していろいろな「イタリア料理」の画像に目を通した。
なるほど、スパゲッティやピザが日本ではメジャーなイタリア料理として認識されていることが分かった。しかし僕がこの検索において得た概観は「イタリア料理」=多分いけてるという漠然としたものであった。すなわち日本という国で社会通念上の「高級料理」の筆頭が「フランス料理」として中高年の口から出ているのに対し、「イタリア料理」は何か少しだけ斜め上を行っているような気がするのである。それはカタカナ英語の代わりに謎のスペイン語を多用する「BLEACH」が何かかっこいい感じがしたり、AKB48の代わりに洋楽を聴いているヤンキー連中が何かよく分からないけどかっこいい感じがしたりするのと同じだった。つまり僕は完全に中学生生活のど真ん中に居たのである。
しかし、北島(弟)の言う「15人」という相手の数を聞いて僕は焦っていた。「イタリア料理同好会」は未だ「同好会」で、いわゆる正式な「クラブ」ではなく、はっきり言って僕たち内輪の集まりみたいなものである。何より戦闘経験が浅い僕たちにとって、数で勝っている二階堂グループと争うことはプレッシャーであった。僕は机に備えてつけられているシンクから目を反らし、黒いカーテンで覆われた窓の方を見た。カーテンの表面のごわごわした感触が想像できるようだった。
僕たちの「イタリア料理同好会」は、北島(兄)・(弟)の家で僕と古川と北島(兄)の3人で「大乱闘スマッシュブラザーズX」をプレイしていた際に、ふと古川が「イタメシって何か知ってる?」とつぶやいたことが事の始まりである。古川の兄は古川より8つも年が離れていて、近所のファミリーマートで店長をやっている。古川によれば、「イタメシ」という言葉は彼が古川に僕から借りたままになっているエロ本を得るための代償として渡した初代プレイステーションの中に入ったままであった「サガ・フロンティア」で登場したらしい。僕としてはそこで初めて僕の大切なエロ本が彼の兄に又貸しされていることを知ったのだが、それよりも僕たちは「イタメシ」という語感に魅かれていた。
その日、僕は家に帰った後、いつもエロ情報を探すことにしか使っていないパソコンを利用して「イタメシ」という言葉を検索してみた。なるほど「イタメシ」というのは一般的に「イタリア料理」を指す言葉らしい。僕はもちろん今まで自分の意識の中で料理をカテゴライズしたことがなかったので、一体どんな料理が「イタリア料理」と呼ばれるのか気になって、エロ動画をダウンロードし過ぎて重くなったインターネットエクスプローラーを駆使していろいろな「イタリア料理」の画像に目を通した。
なるほど、スパゲッティやピザが日本ではメジャーなイタリア料理として認識されていることが分かった。しかし僕がこの検索において得た概観は「イタリア料理」=多分いけてるという漠然としたものであった。すなわち日本という国で社会通念上の「高級料理」の筆頭が「フランス料理」として中高年の口から出ているのに対し、「イタリア料理」は何か少しだけ斜め上を行っているような気がするのである。それはカタカナ英語の代わりに謎のスペイン語を多用する「BLEACH」が何かかっこいい感じがしたり、AKB48の代わりに洋楽を聴いているヤンキー連中が何かよく分からないけどかっこいい感じがしたりするのと同じだった。つまり僕は完全に中学生生活のど真ん中に居たのである。
2012年1月10日火曜日
カラオケ店での出来事
先輩達が職場の空気に耐えられなくなって辞めることになり、僕は彼らの退職を祝した飲み会に参加した。先輩達は揃って課長の諏訪さんの性格と口の臭さに辟易したらしい。僕も彼らの気持ちは分からなくはないが、まだこの仕事を辞めるつもりはなかった。
「なあ、二次会いつものカラオケ屋に行こう。」黒沢先輩がいつもに増して赤らめた顔でそう言った。「おーいいね。行こう。谷原も来いや。今日はあの、あれ最初のドラゴンボールの曲歌うわ俺。あーどーべーんーちゃーっていうやつ。」「いいですよ。僕も行きます。あの駅の裏の方のちょっと見えにくいとこにあるやつですよね。」「いや違うってお前。まあついてこいや。あああとここ俺出すわ。」「いやいやそれはやっぱり送り出す側の僕が出さないと。」「いや、いいんだって。まだ先の長い後輩のためだって。まああれだわ。谷原君、君には最後にカラオケ代を持つという大義を与えよう!」こうして僕たちは馴染みのカラオケ店へ向かった。
途中で黒沢先輩がどうしてもセブンイレブンに行きたいと言い出したのでカラオケ店に着くまで20分以上かかった。どうしてもフランクフルトが食べたかったらしいが、あいにく売り切れていて、代わりに彼は「あの高いアイス食いたい」と笑いながら連呼してハーゲンダッツを5つも買った。「お前にはまだバニラは5年早い」と言われて、僕はストロベリー味を貰った。
べろべろになって他の客となぜか楽しそうに喋っていた先輩達に代わり、僕が受付を済ませた。4時間ほどでいいだろう。どの道もう終電には間に合わない。僕はべろべろになって「たーにーはーらーくーんいーいじゃんかー」とか言っていた北村先輩と黒沢先輩をぐいぐいひっぱって部屋の中に入って行った。
部屋に入ると僕は先輩達のようにネクタイをほどいてソファに座った。「あー俺から俺から。谷原くんさぁ、あーどーべーんーちゃーのやつ探して。」僕は北村先輩の指示に従い、アニメ→ドラゴンボール→摩訶不思議アドベンチャーに辿り着き、リモコンで受信機器っぽいやつに入力した。
しかし、反応が無い。「お前ちゃんと入れた?ちょい見せて。」黒沢先輩が僕の手からリモコンを取り、再び摩訶不思議アドベンチャーを入力した。しかし何の反応もない。「ちょっと店の人呼んだ方が早いかもですね。うん。」僕は部屋の壁に備え付けられた電話機を取ろうと立ちあがった。まあよくある問題だろう。
がしん。と音がした。北村先輩が受信機器をげんこつで殴っていた。かなり強い叩き方だった。「いや、ちょっと先輩、今電話して来てもらうんでちょっと待ってて下」がしん。北村先輩が再び受信機器を殴った。「いやいや北村ちょい待てって。今来てもらうから。な?それで」がしゃん。北村先輩は今度は機器を革靴を履いた足で蹴りつけた。黒沢先輩が立ちあがって後から北村先輩を羽交い締めにした。
「ちょっ・・・酔ってんだろ・・・いたっ!痛ぇなおい!足踏むなや!おい!!」北村先輩は体をぐわんぐわん揺らしながら地団太を踏んで、黒沢先輩のつま先を踏みつけていた。「おらっ!!止めろって!!痛っ!くそがっ!」黒沢先輩は北村先輩を前に突き飛ばして、受信機器に叩きつけた。北村先輩の胸の辺りが機器にぶつかって鈍い音を立てた。
僕は前のめりに機器につんのめった北村先輩の刈り上げた後頭部を見ながら、面倒なことになってきたなと思った。家に帰りたくなってきた。眠たくなっていた。僕はソファの上に置いていた鞄と背広を掴んで部屋を出た。部屋を出ると廊下を受け付けで見た顔のバイトらしき青年達が2名こちらに向かって走ってきていた。
「ああーあのすいません。今中で暴れられてますよね?あっちょっ待って」坊主の方の青年が帰ろうとする僕の肩を手で掴んだ。「いやーこちらも困るんですよー。ちょっと問題があると。あとでこっちの上の人間にもいろいろ説明しないといけないですし。居てもらわないと。」僕は声を震わせながら説明する彼の不細工な厚ぼったい唇を見ながら、どうしようかと思っていた。僕の肩に置かれたままの手を振り切って帰ろうか。「あっ・・・・じゃあ早く中に行きましょうか。まだ暴れてるかもしれないですし。」僕は廊下を引き返して先ほどまで居た部屋のドアを再び開けた。
部屋の中に入ると先輩達が摩訶不思議アドベンチャーを歌っていた。「このよーはーでっかいたっかっらっじまっ!そうさーいまこそーーあどべーんーちゃーーーー」
青年達は特に表情もなく扉を開けたまま先輩達を見ていた。厚ぼったい唇の方じゃない公務員みたいな顔をした青年の方はじろじろ部屋の中を見回していた。僕は彼らの横をすっと抜けると、入り口のある方へ背広と鞄を手に持って歩いて行き、外へ出た。冬なので空の星は割合はっきりとしていた。僕はさっき先輩達と一緒に入ったセブンイレブンに行って、週刊少年ジャンプか週刊少年マガジンがあればどちらかを買って始発が来るまで駅で読もうと思った。僕も会社を辞めようと思ったのはその時である。
「なあ、二次会いつものカラオケ屋に行こう。」黒沢先輩がいつもに増して赤らめた顔でそう言った。「おーいいね。行こう。谷原も来いや。今日はあの、あれ最初のドラゴンボールの曲歌うわ俺。あーどーべーんーちゃーっていうやつ。」「いいですよ。僕も行きます。あの駅の裏の方のちょっと見えにくいとこにあるやつですよね。」「いや違うってお前。まあついてこいや。あああとここ俺出すわ。」「いやいやそれはやっぱり送り出す側の僕が出さないと。」「いや、いいんだって。まだ先の長い後輩のためだって。まああれだわ。谷原君、君には最後にカラオケ代を持つという大義を与えよう!」こうして僕たちは馴染みのカラオケ店へ向かった。
途中で黒沢先輩がどうしてもセブンイレブンに行きたいと言い出したのでカラオケ店に着くまで20分以上かかった。どうしてもフランクフルトが食べたかったらしいが、あいにく売り切れていて、代わりに彼は「あの高いアイス食いたい」と笑いながら連呼してハーゲンダッツを5つも買った。「お前にはまだバニラは5年早い」と言われて、僕はストロベリー味を貰った。
べろべろになって他の客となぜか楽しそうに喋っていた先輩達に代わり、僕が受付を済ませた。4時間ほどでいいだろう。どの道もう終電には間に合わない。僕はべろべろになって「たーにーはーらーくーんいーいじゃんかー」とか言っていた北村先輩と黒沢先輩をぐいぐいひっぱって部屋の中に入って行った。
部屋に入ると僕は先輩達のようにネクタイをほどいてソファに座った。「あー俺から俺から。谷原くんさぁ、あーどーべーんーちゃーのやつ探して。」僕は北村先輩の指示に従い、アニメ→ドラゴンボール→摩訶不思議アドベンチャーに辿り着き、リモコンで受信機器っぽいやつに入力した。
しかし、反応が無い。「お前ちゃんと入れた?ちょい見せて。」黒沢先輩が僕の手からリモコンを取り、再び摩訶不思議アドベンチャーを入力した。しかし何の反応もない。「ちょっと店の人呼んだ方が早いかもですね。うん。」僕は部屋の壁に備え付けられた電話機を取ろうと立ちあがった。まあよくある問題だろう。
がしん。と音がした。北村先輩が受信機器をげんこつで殴っていた。かなり強い叩き方だった。「いや、ちょっと先輩、今電話して来てもらうんでちょっと待ってて下」がしん。北村先輩が再び受信機器を殴った。「いやいや北村ちょい待てって。今来てもらうから。な?それで」がしゃん。北村先輩は今度は機器を革靴を履いた足で蹴りつけた。黒沢先輩が立ちあがって後から北村先輩を羽交い締めにした。
「ちょっ・・・酔ってんだろ・・・いたっ!痛ぇなおい!足踏むなや!おい!!」北村先輩は体をぐわんぐわん揺らしながら地団太を踏んで、黒沢先輩のつま先を踏みつけていた。「おらっ!!止めろって!!痛っ!くそがっ!」黒沢先輩は北村先輩を前に突き飛ばして、受信機器に叩きつけた。北村先輩の胸の辺りが機器にぶつかって鈍い音を立てた。
僕は前のめりに機器につんのめった北村先輩の刈り上げた後頭部を見ながら、面倒なことになってきたなと思った。家に帰りたくなってきた。眠たくなっていた。僕はソファの上に置いていた鞄と背広を掴んで部屋を出た。部屋を出ると廊下を受け付けで見た顔のバイトらしき青年達が2名こちらに向かって走ってきていた。
「ああーあのすいません。今中で暴れられてますよね?あっちょっ待って」坊主の方の青年が帰ろうとする僕の肩を手で掴んだ。「いやーこちらも困るんですよー。ちょっと問題があると。あとでこっちの上の人間にもいろいろ説明しないといけないですし。居てもらわないと。」僕は声を震わせながら説明する彼の不細工な厚ぼったい唇を見ながら、どうしようかと思っていた。僕の肩に置かれたままの手を振り切って帰ろうか。「あっ・・・・じゃあ早く中に行きましょうか。まだ暴れてるかもしれないですし。」僕は廊下を引き返して先ほどまで居た部屋のドアを再び開けた。
部屋の中に入ると先輩達が摩訶不思議アドベンチャーを歌っていた。「このよーはーでっかいたっかっらっじまっ!そうさーいまこそーーあどべーんーちゃーーーー」
青年達は特に表情もなく扉を開けたまま先輩達を見ていた。厚ぼったい唇の方じゃない公務員みたいな顔をした青年の方はじろじろ部屋の中を見回していた。僕は彼らの横をすっと抜けると、入り口のある方へ背広と鞄を手に持って歩いて行き、外へ出た。冬なので空の星は割合はっきりとしていた。僕はさっき先輩達と一緒に入ったセブンイレブンに行って、週刊少年ジャンプか週刊少年マガジンがあればどちらかを買って始発が来るまで駅で読もうと思った。僕も会社を辞めようと思ったのはその時である。
2011年6月24日金曜日
路面電車にて (終)
中電前の電停で巧は路面電車を降りて行った。純子はあのような老人がさも当然のようにICカードを使って電車料金を清算したことに可愛らしさを覚えた。
純子はがたがた音を立てる電車に揺られながら、窓から見える景色を見つめていた。
市役所から中央郵便局に向かう道を着慣れていないスーツを着た若い女が歩いている。彼女は4回目の企業説明会へ向かうところだ。手に鞄を提げて無表情のまま早足で会場へ向かっている。ストッキングをぱっちりと履いた足は寒そうな印象を与える。彼女には人に言える夢が無かった。英語は分からないし、資格を持っているわけでもなかった。しかし彼女は現在付き合っている彼氏との生活を守るという漠然とした理念に従って先を急いでいた。彼氏の大阪の企業への就職は失敗してくれれば良いと思う。
彼女とすれ違うようにしてベビーカーを引く女が歩いていた。長くなった髪を後ろに結い、ベビーカーの中の自分の娘を気にすることもなく、真っ直ぐ表情を緩めずに前を向いて歩いている。彼女は姑と二人きりになるのが嫌だった。夫は娘が生まれる前に姑の貯金で買ったエスティマでいつも通り早朝に家を発った。今日彼に持たせた弁当には冷凍食品のから揚げが入っている。姑の嫌いな冷凍食品が。彼女は朝亡霊のようにむっくりと姿を表し、夫の弁当を見て渋面を見せていった女のことを歩きながら思い出していた。平和記念公園で姑が手芸教室へ出かけるまで時間を潰すのが習慣になりつつある。
鷹野橋へと曲がる道にはいつも通りタクシーが数台連ねるようにして停車していた。この時間にタクシーを利用する客はあまり居ないが、彼らにとってみればここに停車することは商売ではなく1つの習慣になっているのかもしれない。あのタクシーが純子の朝を構成する要素の1つであるように、タクシーの運転手にとっても、この時間純子が乗る路面電車が通ることは朝の景色の1つなのかもしれなかった。
突然、大きな風が路面電車を揺らした。大き過ぎると言った方が良いかもしれない。路面電車は急停車し、純子は前のめりに路面電車の床に叩きつけられた。
外のタクシーは風で歩道に乗り上げていた。運転手がドアに手をかける暇も与えず、強さを増した風は車体を持ち上げてそのままひっくり返した。運転手の視界は揺れながら反転した。
スーツを着た女は市役所の出入り口の辺りまで吹き飛ばされていた。プリントアウトしたGoogleマップと筆箱などが入った鞄が風に奪われた。彼女はとっさに携帯電話をポケットから取り出そうとしたが、空にある大きな光が彼女の注意を奪い、網膜を黒く焼いた。刺すような顔の痛みと、びゅうびゅうとした風の音が彼女の意識に残った。
ベビーカーを引いていた女は路地の曲がり角を曲がった場所で道路に前のめりにつっ転ばされた。彼女の手から離れたベビーカーはおもちゃのように赤ん坊を乗せたまま空を飛び、彼女から離れて行った。ベビーカーが彼女の手から離れた瞬間、彼女は一瞬の驚愕を覚えつつ、朝見た姑の顔を思い出し、大きな解放感を感じた。すぐに背後から巨大な熱さが体が覆い、彼女の世界は電源を落としたテレビの画面のように暗く塗り潰された。
純子は県病院前のアナウンスが聞こえたのでジーンズの尻ポケットにある財布から小銭を取り出した。向かい側を眺めると、明るさを増した建物と車が行き交う道路が見えた。朝始発電車で乗り合わせた面々の姿はいつの間にか消え、違う乗客が自分の前には座っていた。純子はじゃらじゃらとした小銭で清算を行った。彼女はゆっくりと乗降口を降り、いつもの業務を行うため、歩いて仕事場へと向かった。
(了)
純子はがたがた音を立てる電車に揺られながら、窓から見える景色を見つめていた。
市役所から中央郵便局に向かう道を着慣れていないスーツを着た若い女が歩いている。彼女は4回目の企業説明会へ向かうところだ。手に鞄を提げて無表情のまま早足で会場へ向かっている。ストッキングをぱっちりと履いた足は寒そうな印象を与える。彼女には人に言える夢が無かった。英語は分からないし、資格を持っているわけでもなかった。しかし彼女は現在付き合っている彼氏との生活を守るという漠然とした理念に従って先を急いでいた。彼氏の大阪の企業への就職は失敗してくれれば良いと思う。
彼女とすれ違うようにしてベビーカーを引く女が歩いていた。長くなった髪を後ろに結い、ベビーカーの中の自分の娘を気にすることもなく、真っ直ぐ表情を緩めずに前を向いて歩いている。彼女は姑と二人きりになるのが嫌だった。夫は娘が生まれる前に姑の貯金で買ったエスティマでいつも通り早朝に家を発った。今日彼に持たせた弁当には冷凍食品のから揚げが入っている。姑の嫌いな冷凍食品が。彼女は朝亡霊のようにむっくりと姿を表し、夫の弁当を見て渋面を見せていった女のことを歩きながら思い出していた。平和記念公園で姑が手芸教室へ出かけるまで時間を潰すのが習慣になりつつある。
鷹野橋へと曲がる道にはいつも通りタクシーが数台連ねるようにして停車していた。この時間にタクシーを利用する客はあまり居ないが、彼らにとってみればここに停車することは商売ではなく1つの習慣になっているのかもしれない。あのタクシーが純子の朝を構成する要素の1つであるように、タクシーの運転手にとっても、この時間純子が乗る路面電車が通ることは朝の景色の1つなのかもしれなかった。
突然、大きな風が路面電車を揺らした。大き過ぎると言った方が良いかもしれない。路面電車は急停車し、純子は前のめりに路面電車の床に叩きつけられた。
外のタクシーは風で歩道に乗り上げていた。運転手がドアに手をかける暇も与えず、強さを増した風は車体を持ち上げてそのままひっくり返した。運転手の視界は揺れながら反転した。
スーツを着た女は市役所の出入り口の辺りまで吹き飛ばされていた。プリントアウトしたGoogleマップと筆箱などが入った鞄が風に奪われた。彼女はとっさに携帯電話をポケットから取り出そうとしたが、空にある大きな光が彼女の注意を奪い、網膜を黒く焼いた。刺すような顔の痛みと、びゅうびゅうとした風の音が彼女の意識に残った。
ベビーカーを引いていた女は路地の曲がり角を曲がった場所で道路に前のめりにつっ転ばされた。彼女の手から離れたベビーカーはおもちゃのように赤ん坊を乗せたまま空を飛び、彼女から離れて行った。ベビーカーが彼女の手から離れた瞬間、彼女は一瞬の驚愕を覚えつつ、朝見た姑の顔を思い出し、大きな解放感を感じた。すぐに背後から巨大な熱さが体が覆い、彼女の世界は電源を落としたテレビの画面のように暗く塗り潰された。
純子は県病院前のアナウンスが聞こえたのでジーンズの尻ポケットにある財布から小銭を取り出した。向かい側を眺めると、明るさを増した建物と車が行き交う道路が見えた。朝始発電車で乗り合わせた面々の姿はいつの間にか消え、違う乗客が自分の前には座っていた。純子はじゃらじゃらとした小銭で清算を行った。彼女はゆっくりと乗降口を降り、いつもの業務を行うため、歩いて仕事場へと向かった。
(了)
2011年2月15日火曜日
路面電車にて (2)
純子は向かい側の誰も座っていない座席越しに薄暗い外の景色を眺めていた。電車が的場町や稲荷町の電停で停車すると、青年がゲーム機のボタンを押すカチカチという音だけが車内に響いた。乗降者のためにドアが開く度に手の先の方に冷気を感じたが、純子は毎日繰り返されるこの状況に慣れていた。
「純ちゃんじゃねぇか。元気にしょーるんか」八丁堀の電停でなじみの老人が乗車してきた。「おはよう巧さん。寒いよ。今日は。」「あんたがそこに座っとるからじゃろうが。もっと真ん中に寄れや。」「そうかなぁ。」純子は横に伸びた座席の丁度中央に場所を移しながら、この老人は今日も矍鑠としていると思った。老人は両手をポケットに突っ込んで大きなあくびをした。
「また今月も通院なんか。」「そうじゃ。毎月行っとるんよ。検査じゃって。」「大変じゃのぉ。」「あんたも海田よりもっと向こうから毎朝電車に乗って来よんじゃろ。ようやるな。」「うちは仕事じゃけ。でもこんな朝早うに起きるんは大変じゃろ。仕事でも無いのに。」「いやいや。わしはの、朝から焼酎を開けて来ようるんよ。」「朝から何しようるんよ、あんたは。アル中じゃねぇか。」「いやいやわしは毎朝1本は開けとるけど何もないんよ。きゅーっとしてなあ。」「アル中じぇねえか。」「ならんならん。全然ならんで純ちゃん。アル中とかになったことがねぇんよ。」巧が声を立てて笑った。
純子はこの笑ったときにくっきり若々しいえくぼができる老人のことを好いていた。裏表が無い人だと思っていた。このところどころに染みのできた老人の頬に小さな窪みのような穴ができるのが好きだった。「あんたこの飴食ったことあるんか。」巧が赤い飴玉を差し出してきた。「何よ、それ。」「わしが子供の頃からこれあった奴でなぁ、ずっと舐めとるんよ。」「いらんよ。」「そうかぁ。」巧は飴をほうばり、口をすぼめた。
「わしが小さかった頃はなぁ、まだこの辺は何も無かったで。アメリカの爆弾で焼かれてから皆掘っ立て小屋みたいなようところによう分からんまま住んどってなあ。これからどうすりゃあって、毎日言っとったで。」巧は鼻の横をさすった。「聞いたことあるわ。そんな小屋で暮らしとった人がいっぱいおったって。でも広島も大分変わったよ。あたしが来るようになってから。」「純ちゃんはずっと広島じゃないんか。」「いや。中学ん時にうちの親が別れよってからなぁ。それからお母さんの実家がある海田に来たんよ。高校も広島じゃった。」「いや、あんた広島の言葉話すけぇ広島の生まれかと思っとったけどなぁ。」「そうかぁ。京都よ。生まれは。」「ほんまかぁ。全然似合わんのになぁ。ほんまに似合わんわ。」「知らんが。」
「仕事はいつまでやりょうるんな。」「うん~8時ぐらいから夜は9時までじゃな。」「一日じゃが。大変じゃなあ。何かする時間あるんか。そんなんで。」「いや帰ったらすぐ寝るんよ。疲れとるし、明日も早いけぇの。」「大変じゃなぁ。あんたも。」「あはは。仕事じゃけぇな。」
「純ちゃんじゃねぇか。元気にしょーるんか」八丁堀の電停でなじみの老人が乗車してきた。「おはよう巧さん。寒いよ。今日は。」「あんたがそこに座っとるからじゃろうが。もっと真ん中に寄れや。」「そうかなぁ。」純子は横に伸びた座席の丁度中央に場所を移しながら、この老人は今日も矍鑠としていると思った。老人は両手をポケットに突っ込んで大きなあくびをした。
「また今月も通院なんか。」「そうじゃ。毎月行っとるんよ。検査じゃって。」「大変じゃのぉ。」「あんたも海田よりもっと向こうから毎朝電車に乗って来よんじゃろ。ようやるな。」「うちは仕事じゃけ。でもこんな朝早うに起きるんは大変じゃろ。仕事でも無いのに。」「いやいや。わしはの、朝から焼酎を開けて来ようるんよ。」「朝から何しようるんよ、あんたは。アル中じゃねぇか。」「いやいやわしは毎朝1本は開けとるけど何もないんよ。きゅーっとしてなあ。」「アル中じぇねえか。」「ならんならん。全然ならんで純ちゃん。アル中とかになったことがねぇんよ。」巧が声を立てて笑った。
純子はこの笑ったときにくっきり若々しいえくぼができる老人のことを好いていた。裏表が無い人だと思っていた。このところどころに染みのできた老人の頬に小さな窪みのような穴ができるのが好きだった。「あんたこの飴食ったことあるんか。」巧が赤い飴玉を差し出してきた。「何よ、それ。」「わしが子供の頃からこれあった奴でなぁ、ずっと舐めとるんよ。」「いらんよ。」「そうかぁ。」巧は飴をほうばり、口をすぼめた。
「わしが小さかった頃はなぁ、まだこの辺は何も無かったで。アメリカの爆弾で焼かれてから皆掘っ立て小屋みたいなようところによう分からんまま住んどってなあ。これからどうすりゃあって、毎日言っとったで。」巧は鼻の横をさすった。「聞いたことあるわ。そんな小屋で暮らしとった人がいっぱいおったって。でも広島も大分変わったよ。あたしが来るようになってから。」「純ちゃんはずっと広島じゃないんか。」「いや。中学ん時にうちの親が別れよってからなぁ。それからお母さんの実家がある海田に来たんよ。高校も広島じゃった。」「いや、あんた広島の言葉話すけぇ広島の生まれかと思っとったけどなぁ。」「そうかぁ。京都よ。生まれは。」「ほんまかぁ。全然似合わんのになぁ。ほんまに似合わんわ。」「知らんが。」
「仕事はいつまでやりょうるんな。」「うん~8時ぐらいから夜は9時までじゃな。」「一日じゃが。大変じゃなあ。何かする時間あるんか。そんなんで。」「いや帰ったらすぐ寝るんよ。疲れとるし、明日も早いけぇの。」「大変じゃなぁ。あんたも。」「あはは。仕事じゃけぇな。」
2011年2月8日火曜日
路面電車にて (1)
純子は路面電車へ乗り継ぐために歩いていた。師走も暮、大晦日も近づいている今日、今年最後の出勤をしていた。駅までの電車の中で既に小便は済ませていたが、寒さのせいか再びかすかな尿意を催していた。駅から路面電車までは歩いて5分もかからない距離である。純子は暖房の効いた路面電車の中に入れば尿意は解消されると考えていた。広島駅のトイレはそれなりに汚いことも純子の脳裏をよぎっていた。
電停にたどり着くと、純子はいつも通りロータリーへと続く道から見えるさびれた建物へ目を移した。周囲にはパチンコ屋があり、かなり早朝だがロータリー内は多くのタクシーが赤いテールランプを光らせながら停車していた。電停で待っているのは純子以外には誰も居なかった。市役所へ停車する1番の電車を待ちながら、純子は両手をポケットに入れて暖めた。
純子はいつもあの古びた建物には誰か住んでいるのだろうかと思案していた。毎日出勤途中に見るものの、あの通りを歩いたことは無い。純子は広島の清掃会社で働くようになり、もう10年ほどになる。勤め始めた頃は日本の景気は急落の一途を辿っていた。駅前の風景はこの10年で変わり、新しいパチンコ台や携帯サイトの宣伝をする看板が建てられた。近年だと毎朝「最近、恋してる!?」というけばけばしいピンク色の看板が目に入るようになった。しかし、あの古い建物は何年経っても古いままである。「ようこそ広島へ」という看板も純子と毎朝対面していた。純子は看板を見るたびに看板に書かれた「ようこそ広島へ」という文句を心の中で反芻して、少し楽しい気分になっていた。今日も1日が始まろうとしていた。
しばらく待つと、路面電車ががたがた音を立てながらこちらへやってきた。純子がいつも乗る電車の時間帯だと、かなりの確率で旧型のタイプの電車に乗ることになる。もっとも純子は快速電車のようなはっきりした外面の新型車よりも、表面が燻っているような旧型車の方が気に入っていた。純子にとっては旧型の燻った外面に、向かい合う形で設けられたオレンジ色の座席が路面電車のイメージであった。
電車の最前面にあるドアが空気の抜けるような音を立てて開くなり、純子は路面電車へ乗り込んだ。一番乗りである。数秒後に黒いダウンジャケットを着込んだ童顔の青年が乗り込んできた。それに続く形で紺色のジャージを着た老人が入ってくる。違うドアからは髪を後ろで結った中年に差し掛かった女性が乗り込んできた。全員それぞれ寒そうななりをしていた。
相手はどうか知らないが、純子はこういった「いつもの面々」が路面電車に乗り込んでくることに安心感を持っていた。時々誰か居ない日があると、仕事中もそのことを思い出し、明日は乗ってくるだろうか、と心配になった。純子にとっては彼らも路面電車の一部だった。青年は前に抱えた鞄から携帯ゲーム機を取り出し、老人はジャージの左ポケットから単行本を取り出し、女性は手を組み合わせて目をつぶる。これが純子の朝だった。
電停にたどり着くと、純子はいつも通りロータリーへと続く道から見えるさびれた建物へ目を移した。周囲にはパチンコ屋があり、かなり早朝だがロータリー内は多くのタクシーが赤いテールランプを光らせながら停車していた。電停で待っているのは純子以外には誰も居なかった。市役所へ停車する1番の電車を待ちながら、純子は両手をポケットに入れて暖めた。
純子はいつもあの古びた建物には誰か住んでいるのだろうかと思案していた。毎日出勤途中に見るものの、あの通りを歩いたことは無い。純子は広島の清掃会社で働くようになり、もう10年ほどになる。勤め始めた頃は日本の景気は急落の一途を辿っていた。駅前の風景はこの10年で変わり、新しいパチンコ台や携帯サイトの宣伝をする看板が建てられた。近年だと毎朝「最近、恋してる!?」というけばけばしいピンク色の看板が目に入るようになった。しかし、あの古い建物は何年経っても古いままである。「ようこそ広島へ」という看板も純子と毎朝対面していた。純子は看板を見るたびに看板に書かれた「ようこそ広島へ」という文句を心の中で反芻して、少し楽しい気分になっていた。今日も1日が始まろうとしていた。
しばらく待つと、路面電車ががたがた音を立てながらこちらへやってきた。純子がいつも乗る電車の時間帯だと、かなりの確率で旧型のタイプの電車に乗ることになる。もっとも純子は快速電車のようなはっきりした外面の新型車よりも、表面が燻っているような旧型車の方が気に入っていた。純子にとっては旧型の燻った外面に、向かい合う形で設けられたオレンジ色の座席が路面電車のイメージであった。
電車の最前面にあるドアが空気の抜けるような音を立てて開くなり、純子は路面電車へ乗り込んだ。一番乗りである。数秒後に黒いダウンジャケットを着込んだ童顔の青年が乗り込んできた。それに続く形で紺色のジャージを着た老人が入ってくる。違うドアからは髪を後ろで結った中年に差し掛かった女性が乗り込んできた。全員それぞれ寒そうななりをしていた。
相手はどうか知らないが、純子はこういった「いつもの面々」が路面電車に乗り込んでくることに安心感を持っていた。時々誰か居ない日があると、仕事中もそのことを思い出し、明日は乗ってくるだろうか、と心配になった。純子にとっては彼らも路面電車の一部だった。青年は前に抱えた鞄から携帯ゲーム機を取り出し、老人はジャージの左ポケットから単行本を取り出し、女性は手を組み合わせて目をつぶる。これが純子の朝だった。
2011年2月4日金曜日
病院への道程 (終)
ハサンは仰向けにシートに倒れてもがいていた俺の左手からナイフを抜いた。車内の乾いた空気に俺の絶叫が響く。ハサンは俺の足を抱えたまま、容赦無くもがく俺の左肩にナイフを突き立てた。焼け付くような痛みが走る。ハサンは荒々しい息遣いのまま、更にナイフを抜き、逆手に持ち替えた。
こんこんこんこん。俺の後ろで音がした。「すいませーん岡山県警の者なんですけど」ハサンは俺を突き刺そうとする手を止め、そのまま後ろを振り返り、ドアを開けた。開け放たれたドアから冷たい風が車内に吹き込んできた。そして、そのままハサンの姿は俺の視界から消えた。背後の方で男の叫び声と足音が聞こえる。
俺はシートからゆっくりと体を起こし、前方に見えるクリーム色の壁を見た。右手で押さえた肩からは血が流れて止まらない。太陽で照らされたクリーム色の壁には少しだけ、影が差し込んで来ていた。
(了)
こんこんこんこん。俺の後ろで音がした。「すいませーん岡山県警の者なんですけど」ハサンは俺を突き刺そうとする手を止め、そのまま後ろを振り返り、ドアを開けた。開け放たれたドアから冷たい風が車内に吹き込んできた。そして、そのままハサンの姿は俺の視界から消えた。背後の方で男の叫び声と足音が聞こえる。
俺はシートからゆっくりと体を起こし、前方に見えるクリーム色の壁を見た。右手で押さえた肩からは血が流れて止まらない。太陽で照らされたクリーム色の壁には少しだけ、影が差し込んで来ていた。
(了)
2011年2月1日火曜日
病院への道程 (2)
ハサンは同じ動作を5回ほど繰り返して車内に戻った。大きな瞳は相変わらずきらきらしていて気持ちが悪い。俺は窓ガラス越しにさびれた路地を見ながら車内で煙草を吹かしていた。理事長なんかもう知ったことか。それどころじゃない。この監獄みたいなタクシーを粉々にぶっ壊せればいいのにと思った。
俺は頭を働かせた。どの道逃げなければならないのは明白だが、どうやって逃げるのかが問題だ。ハサンはどうなのか知らないが俺は前科者だ。かなりやばい橋もいろいろ渡っている。指紋を取られれば簡単に俺が車内に居たことはばれるだろう。このくそタクシーをこのままにしておくことはできない。かといって、タクシーを運転して遠くに逃げるなんて論外だ。どこで検問に引っかかるか分からない。
何より俺にはそれ以前の問題があった。俺は車の運転を教習所以降一切したことが無い。俺より下の連中にも黙っていることだが、俺は筋金入りのペーパードライバーだ。どこがアクセルかも怪しい。
俺は謎の礼拝以降一切の言葉を断って前方のシートの背を見つめ続けているハサンを見た。こいつは免許を持っているのだろうか。免許を持っているかは別にして、車の運転自体できるのか。せめて言葉を自由に交わすことができればいいのだが。ハサンの厚ぼったい唇を見ていると、だんだん先程の破壊衝動が蘇って来た。何なんだよ。こいつは。何で黙ってる。こいつ。何か喋るまで殴り続けてやろうか。
その後10分ほど黙々と打開策を考えていたが、考えれば考えるほどハサンに対する憎悪で心が埋め尽くされていった。何でこんなにこいつが憎いのだろう。本当にめちゃくちゃにしてやりたい。何だ、こいつは。言葉に不自由したら黙ってれば自分を正当化できるとでも思ってんのか。こいつ。日本では何もできないくせに。お前の言葉なんて誰も理解できねえよ。お前なんて誰も理解しようとしねえよ。子どもみたいな顔しやがって。俺がお前をめちゃくちゃにぶっ殺したいと思ってるなんて分っていないくせに。薬を売ってるくせに何が宗教だ。堅気じゃないのに神にすがってんじゃねえよ日和見野郎。
俺の顔は俺の内部に貯められた怒りで強張っていた。ハサンは掌を掻いたり左の窓から外を眺めたりしていた。俺の手は既に懐の中のナイフに触れていた。竿竹屋の宣伝音が遠くに聞こえる。そろそろ会社員だったら昼食から帰る頃合だろうか。
俺は懐からナイフを取り出しながらハサンの方を向いた。俺がハサンの方に正対しきらないうちに顔に正面から鉛のような質量の衝撃を受けた。俺はドアに叩きつけられてそのまま床に頭から投げ出された。右手から折り畳まれたままのナイフが落ちる。何が起ったのか把握できないうちに続けて2つ目の鉛が右頬を打ち、ゴムのような床に叩き付けられて歯で口内が切れる。体勢を立て直そうと掻き毟っていた左手に先ほどのものとは比べものにならない痛みが走り、絶叫する俺に正面から3つ目の鉛が当たった。殺される。揺らぐ視界の中に先ほどの幼さからは想像できないハサンの冷たい表情が見えた。
俺は俺に馬乗りになろうとするハサンの鳩尾辺りに足の裏を挟ませ、思い切り蹴り飛ばした。ハサンがうめきながらドアにぶつけられる。鼻から口にかけてべとべとした感触を感じる。俺はそのまま足でハサンの胸を強く、強く押し付けながら左足でふんばり、喘ぎながら上体を起こした。シートにナイフで深々と磔にされた俺の左手が目に入る。俺はさらに右足の裏でハサンの胸をめちゃくちゃに蹴った。ハサンがうめき声を上げる。俺は攻撃の手を緩めずにがしがし蹴り続けた。ハサンが手で俺の足を掴み、掬うようにして右腕で抱きかかえ、左腕を磔にされた俺の左手に伸ばした。
俺は頭を働かせた。どの道逃げなければならないのは明白だが、どうやって逃げるのかが問題だ。ハサンはどうなのか知らないが俺は前科者だ。かなりやばい橋もいろいろ渡っている。指紋を取られれば簡単に俺が車内に居たことはばれるだろう。このくそタクシーをこのままにしておくことはできない。かといって、タクシーを運転して遠くに逃げるなんて論外だ。どこで検問に引っかかるか分からない。
何より俺にはそれ以前の問題があった。俺は車の運転を教習所以降一切したことが無い。俺より下の連中にも黙っていることだが、俺は筋金入りのペーパードライバーだ。どこがアクセルかも怪しい。
俺は謎の礼拝以降一切の言葉を断って前方のシートの背を見つめ続けているハサンを見た。こいつは免許を持っているのだろうか。免許を持っているかは別にして、車の運転自体できるのか。せめて言葉を自由に交わすことができればいいのだが。ハサンの厚ぼったい唇を見ていると、だんだん先程の破壊衝動が蘇って来た。何なんだよ。こいつは。何で黙ってる。こいつ。何か喋るまで殴り続けてやろうか。
その後10分ほど黙々と打開策を考えていたが、考えれば考えるほどハサンに対する憎悪で心が埋め尽くされていった。何でこんなにこいつが憎いのだろう。本当にめちゃくちゃにしてやりたい。何だ、こいつは。言葉に不自由したら黙ってれば自分を正当化できるとでも思ってんのか。こいつ。日本では何もできないくせに。お前の言葉なんて誰も理解できねえよ。お前なんて誰も理解しようとしねえよ。子どもみたいな顔しやがって。俺がお前をめちゃくちゃにぶっ殺したいと思ってるなんて分っていないくせに。薬を売ってるくせに何が宗教だ。堅気じゃないのに神にすがってんじゃねえよ日和見野郎。
俺の顔は俺の内部に貯められた怒りで強張っていた。ハサンは掌を掻いたり左の窓から外を眺めたりしていた。俺の手は既に懐の中のナイフに触れていた。竿竹屋の宣伝音が遠くに聞こえる。そろそろ会社員だったら昼食から帰る頃合だろうか。
俺は懐からナイフを取り出しながらハサンの方を向いた。俺がハサンの方に正対しきらないうちに顔に正面から鉛のような質量の衝撃を受けた。俺はドアに叩きつけられてそのまま床に頭から投げ出された。右手から折り畳まれたままのナイフが落ちる。何が起ったのか把握できないうちに続けて2つ目の鉛が右頬を打ち、ゴムのような床に叩き付けられて歯で口内が切れる。体勢を立て直そうと掻き毟っていた左手に先ほどのものとは比べものにならない痛みが走り、絶叫する俺に正面から3つ目の鉛が当たった。殺される。揺らぐ視界の中に先ほどの幼さからは想像できないハサンの冷たい表情が見えた。
俺は俺に馬乗りになろうとするハサンの鳩尾辺りに足の裏を挟ませ、思い切り蹴り飛ばした。ハサンがうめきながらドアにぶつけられる。鼻から口にかけてべとべとした感触を感じる。俺はそのまま足でハサンの胸を強く、強く押し付けながら左足でふんばり、喘ぎながら上体を起こした。シートにナイフで深々と磔にされた俺の左手が目に入る。俺はさらに右足の裏でハサンの胸をめちゃくちゃに蹴った。ハサンがうめき声を上げる。俺は攻撃の手を緩めずにがしがし蹴り続けた。ハサンが手で俺の足を掴み、掬うようにして右腕で抱きかかえ、左腕を磔にされた俺の左手に伸ばした。
2011年1月31日月曜日
病院への道程 (1)
俺はハサンと病院へ行くためタクシーを待っていた。俺は無言だった。ハサンは時々小石を蹴りながら後ろの川を流れる小魚を見ていた。何で英語とシンハラ語しか喋れないこいつと一緒に理事長の見舞に行かなくてはならないのか。聞けばハサンは理事長が拾って来たスリランカ人らしい。薬を捌く時に使えるとか、海外に個人的な繋がりを持っているとか、噂があった。もっとも真偽のほどはこいつの年齢ぐらいに曖昧だ。それに見た目も目に宿る幼い光のせいで、外人のくせにどちらかと言えば人懐っこい感じがして、とても暴力団員とは思えない。
俺はくそったれな仕事を早く終わらせたいと思いながら体を震わせた。くそったれが。このくそ寒い中なんであんなじじいの見舞に行かなければならないのか。あいつが勝手に撃たれたんだろうが。くそが。くそじじい。死ねばいいのに。俺は煙草が吸いたくなってきたが我慢した。理事長は煙草を嫌っている。
口から煙のような白い息を吐きながらしばらく待っていると、ようやくタクシーが来た。ドアが開くや否や後ろの席に体を投げるようにして乗り込み、「北沢総合病院まで」と言って体をちぢこませるようにして座った。むかつくことにハサンは寒さを感じているのかどうか分からない顔だ。ドアを閉めるとタクシーは道路を滑るようにして発車した。
俺は車のラジオから流れる演歌を耳に、窓から黙って外を見ていた。俺は車の窓から景色を見るのが好きだった。自分が自分以外の力で動いていることを感じることが好きだった。このままくそじじいの所に行かずにのどかな国道をドライブして欲しいくらいだ。ハサンのくそ野郎が居なかったらそうしていたかもしれない。子どもの頃、よく父親に連れられて卸売市場へ野菜を売りに行ったことを思い出す。
「ハウオォールドゥアーユゥウ」 突然俺の回想はおっさんのダミ声で破られた。俺はハサンを見たがハサンはきらきらした目で前方を見つめている。「ハウオォールドゥアーユゥウ」もう一度ダミ声が聞こえた。俺でもハサンでもないとしたら運転してるおやじか。
俺は無視することにした。このおやじもどうせ構ってくれタイプの運転手か何かだろう。それ以上におっさんのカルチャースクールだか通信教材だかで習ったようなたどたどしい英語が苛立たしい。深夜に仕事が終わって家に帰り、誰も居ない真っ暗な台所の冷蔵庫からビールを取り出すおやじの姿が浮かんだ。安っぽい照明の下で、録画したNHKの英語講座を観ながら1人ビールを飲むおやじの姿。
「ハウオォールドゥアーユゥウ」しばらくしてさっきより大きい声でダミ声が聞こえた。ハサンはちらっとこちらを見る。「32。こいつの年齢は32らしいよ。」俺はハサンの年齢なんか知らないが適当に流すために適当なことを言った。「ハウオォールドゥアーユゥウ」おやじは繰り返した。「だからこの外人の年齢だったら32だって。」「ハウオォールドゥアーユゥウ ファッチュウゥユゥアネィム」「32だって言ってんだろ。俺は28。」「ハウオォールドゥアーユゥウ ファッチュウゥユゥアネィム」俺はハサンを見た。ハサンもきらきらした目で俺を見た。ろくでもない展開にいらいらしながら俺はハサンにあごで合図した。ハサンは薄笑いを浮かべながらうなずいた。
"I'm twenty two" 「オーリィアリィ。アイムフィフテーファイブ フゥウェアァイズヨォウァホォームタァウン・・・」俺はハサンの年齢に内心驚きながら再び窓の外に目をやった。外人が珍しいのだろう。適当にこいつらに話させておくことにした。日本の厚かましいおやじに良くある反応だ。
ぼつぼつと繰り返されるハサンとおやじの苛立たしい英会話を聞きながらタクシーが河川敷沿いの道路を走っているとき、ふと風景が過ぎるスピードが速くなっているような気がした。近くに建物が無いから分かりにくい。しかし信号待ちで停車している2台の車を対抗車線に入って抜き去り、そのまま信号を無視して直進した時に、俺は自分の感覚が間違っていないことに気付いた。
「おっさんおっさん。何信号無視してんの?捕まるよ?」おやじは無言でさらにスピードを上げて前方の車を抜き去った。先ほどから沈黙が続いている。おやじはさらに交差点で一番右の右折レーンへ車を進め、すぐさま左にハンドルを切り返して信号待ちしていた車を抜き去り、直進した。体が大きく揺れる。
「何やってんだよてめえ。ふざけんな。車を停めろ!」 おやじは沈黙のまま前方を見つめている。今何キロ出ているのか気になってメーターを見ようとするが、ごちゃごちゃしていてどれがメーターか分からない。俺は上部の取っ手を握りながら中腰で立ち、仕切り板をがんがん殴った。「停めろ。車を停めろよ!ここで停めろ!」おやじは無言で走り続ける。間違いなく120キロ以上は出ているだろう。対抗車線に入って前方の車を抜き去って行く。最悪なことに道もめちゃくちゃに走っているらしい。本来なら30分もあれば着くのだが、既に1時間以上車の中に居る。車は交差点の信号を無視してタイヤの音を立てながら右折し、中腰で立っていた俺は遠心力で窓に叩き付けられた。
どうにかしてこの状況から抜け出した方が良い。こいつは狂っている。俺は目まぐるしく過ぎる風景を見ながら今どこを走っているのか検討を付けようとした。と、左を向いた時にふいにハサンのきらきらした目とかちあった。ハサンは沈黙を保っている。俺はこのどうしようも無い奴と一緒に車の中に居ることを呪った。俺は中卒だしこいつと話すことさえできない。くそったれが。俺は左右に激しく揺られながらこいつを殴り飛ばしたい衝動を必死で抑えた。こいつのきらきらした目が潰れるまで殴りたい。ラジオからはディスクジョッキーの笑い声が聞こえていた。
この状況は俺を苛立たせた。不安定にした。父親の姿を思い出すからだ。小さい頃俺を軽トラで市場まで連れて行った父親。俺が泣いても無視して野球中継を観続けた父親。俺の母親を呪いながら泣いていた父親。自分より年下の人間にぺこぺこ頭を下げる父親。俺の前でうんこを漏らした父親。俺が誰だか分からなくなり骸骨のような顔になって苦しみながら死んでいった父親。
自然と懐のナイフに手が行っていた。どうなってもいいからこいつを後ろからめちゃくちゃに刺してやろうか。その後でハサンもめちゃくちゃにしよう。もううんざりなんだ。俺は。こいつにはもううんざりなんだよ。やめてくれよ。もう。やめてくれ。やめろやめろやめろ。ハサンの目が俺の懐に伸びた右手を見つめていた。
ハサンが突然中腰になって前方の仕切りを喚きながら殴り始めた。こいつと出会って初めて目にする光景が、俺を黙考から解き放った。と、俺が前方に目をやり、仕切り越しに横断歩道を渡る子供達の列を目にした瞬間、ぐしゃ、という音が響き、色とりどりの布の塊がフロントガラスをかすめて消えて行った。
「おい!!車を停めろ!停めろ!停めろ!!」ハサンも早口で何かを絶叫していた。おやじは表情を微動だに変えないまま、400メートルほど進んで狭い道へと入り、道路の隅に駐車した。そしてシートベルトを外し、運転手の制服を着たまま、細い路地へと消えて行った。俺とハサンは状況に飲まれてシートに凭れていた。
しばらく沈黙が続いた。サイレンが後ろを通過する音が聞こえると、俺とハサンは後ろを振り向いた。道路では車が行き交っていた。どうするか。俺はすぐにドアを開けて逃げ出したい衝動に駆られながら、必死に頭を回転させた。やばい状況だ。いかれたひき逃げ犯は車を捨てて逃走し、車内には目下抗争中の組の暴力団員が2人。1人は薬の販路を握っているかもしれない。
2度目のサイレンの音が聞こえた。もう警察の現場検証が始められているのだろうか。早く行動しなければ。早く、早く、早く・・・。俺は落ち着こうと努力していた。
突然、混乱している俺をよそにハサンがドアを開けて外に出た。俺は逃げ出そうとしているのかと思い、こいつを止めるべく急いで外に出た。ハサンの姿が見えない。消えた、と思い車の反対側へ回ると、ハサンが土下座のような恰好になっていた。「お前、こんな時に何やってんだ!」ハサンは無言のまま今度は直立して何かをつぶやき、また同じ恰好で平伏した。何かの宗教かもしれない。このくそ野郎。俺は正午に近い時間だったことと、路地がさびれていたことに本当に感謝した。
俺はくそったれな仕事を早く終わらせたいと思いながら体を震わせた。くそったれが。このくそ寒い中なんであんなじじいの見舞に行かなければならないのか。あいつが勝手に撃たれたんだろうが。くそが。くそじじい。死ねばいいのに。俺は煙草が吸いたくなってきたが我慢した。理事長は煙草を嫌っている。
口から煙のような白い息を吐きながらしばらく待っていると、ようやくタクシーが来た。ドアが開くや否や後ろの席に体を投げるようにして乗り込み、「北沢総合病院まで」と言って体をちぢこませるようにして座った。むかつくことにハサンは寒さを感じているのかどうか分からない顔だ。ドアを閉めるとタクシーは道路を滑るようにして発車した。
俺は車のラジオから流れる演歌を耳に、窓から黙って外を見ていた。俺は車の窓から景色を見るのが好きだった。自分が自分以外の力で動いていることを感じることが好きだった。このままくそじじいの所に行かずにのどかな国道をドライブして欲しいくらいだ。ハサンのくそ野郎が居なかったらそうしていたかもしれない。子どもの頃、よく父親に連れられて卸売市場へ野菜を売りに行ったことを思い出す。
「ハウオォールドゥアーユゥウ」 突然俺の回想はおっさんのダミ声で破られた。俺はハサンを見たがハサンはきらきらした目で前方を見つめている。「ハウオォールドゥアーユゥウ」もう一度ダミ声が聞こえた。俺でもハサンでもないとしたら運転してるおやじか。
俺は無視することにした。このおやじもどうせ構ってくれタイプの運転手か何かだろう。それ以上におっさんのカルチャースクールだか通信教材だかで習ったようなたどたどしい英語が苛立たしい。深夜に仕事が終わって家に帰り、誰も居ない真っ暗な台所の冷蔵庫からビールを取り出すおやじの姿が浮かんだ。安っぽい照明の下で、録画したNHKの英語講座を観ながら1人ビールを飲むおやじの姿。
「ハウオォールドゥアーユゥウ」しばらくしてさっきより大きい声でダミ声が聞こえた。ハサンはちらっとこちらを見る。「32。こいつの年齢は32らしいよ。」俺はハサンの年齢なんか知らないが適当に流すために適当なことを言った。「ハウオォールドゥアーユゥウ」おやじは繰り返した。「だからこの外人の年齢だったら32だって。」「ハウオォールドゥアーユゥウ ファッチュウゥユゥアネィム」「32だって言ってんだろ。俺は28。」「ハウオォールドゥアーユゥウ ファッチュウゥユゥアネィム」俺はハサンを見た。ハサンもきらきらした目で俺を見た。ろくでもない展開にいらいらしながら俺はハサンにあごで合図した。ハサンは薄笑いを浮かべながらうなずいた。
"I'm twenty two" 「オーリィアリィ。アイムフィフテーファイブ フゥウェアァイズヨォウァホォームタァウン・・・」俺はハサンの年齢に内心驚きながら再び窓の外に目をやった。外人が珍しいのだろう。適当にこいつらに話させておくことにした。日本の厚かましいおやじに良くある反応だ。
ぼつぼつと繰り返されるハサンとおやじの苛立たしい英会話を聞きながらタクシーが河川敷沿いの道路を走っているとき、ふと風景が過ぎるスピードが速くなっているような気がした。近くに建物が無いから分かりにくい。しかし信号待ちで停車している2台の車を対抗車線に入って抜き去り、そのまま信号を無視して直進した時に、俺は自分の感覚が間違っていないことに気付いた。
「おっさんおっさん。何信号無視してんの?捕まるよ?」おやじは無言でさらにスピードを上げて前方の車を抜き去った。先ほどから沈黙が続いている。おやじはさらに交差点で一番右の右折レーンへ車を進め、すぐさま左にハンドルを切り返して信号待ちしていた車を抜き去り、直進した。体が大きく揺れる。
「何やってんだよてめえ。ふざけんな。車を停めろ!」 おやじは沈黙のまま前方を見つめている。今何キロ出ているのか気になってメーターを見ようとするが、ごちゃごちゃしていてどれがメーターか分からない。俺は上部の取っ手を握りながら中腰で立ち、仕切り板をがんがん殴った。「停めろ。車を停めろよ!ここで停めろ!」おやじは無言で走り続ける。間違いなく120キロ以上は出ているだろう。対抗車線に入って前方の車を抜き去って行く。最悪なことに道もめちゃくちゃに走っているらしい。本来なら30分もあれば着くのだが、既に1時間以上車の中に居る。車は交差点の信号を無視してタイヤの音を立てながら右折し、中腰で立っていた俺は遠心力で窓に叩き付けられた。
どうにかしてこの状況から抜け出した方が良い。こいつは狂っている。俺は目まぐるしく過ぎる風景を見ながら今どこを走っているのか検討を付けようとした。と、左を向いた時にふいにハサンのきらきらした目とかちあった。ハサンは沈黙を保っている。俺はこのどうしようも無い奴と一緒に車の中に居ることを呪った。俺は中卒だしこいつと話すことさえできない。くそったれが。俺は左右に激しく揺られながらこいつを殴り飛ばしたい衝動を必死で抑えた。こいつのきらきらした目が潰れるまで殴りたい。ラジオからはディスクジョッキーの笑い声が聞こえていた。
この状況は俺を苛立たせた。不安定にした。父親の姿を思い出すからだ。小さい頃俺を軽トラで市場まで連れて行った父親。俺が泣いても無視して野球中継を観続けた父親。俺の母親を呪いながら泣いていた父親。自分より年下の人間にぺこぺこ頭を下げる父親。俺の前でうんこを漏らした父親。俺が誰だか分からなくなり骸骨のような顔になって苦しみながら死んでいった父親。
自然と懐のナイフに手が行っていた。どうなってもいいからこいつを後ろからめちゃくちゃに刺してやろうか。その後でハサンもめちゃくちゃにしよう。もううんざりなんだ。俺は。こいつにはもううんざりなんだよ。やめてくれよ。もう。やめてくれ。やめろやめろやめろ。ハサンの目が俺の懐に伸びた右手を見つめていた。
ハサンが突然中腰になって前方の仕切りを喚きながら殴り始めた。こいつと出会って初めて目にする光景が、俺を黙考から解き放った。と、俺が前方に目をやり、仕切り越しに横断歩道を渡る子供達の列を目にした瞬間、ぐしゃ、という音が響き、色とりどりの布の塊がフロントガラスをかすめて消えて行った。
「おい!!車を停めろ!停めろ!停めろ!!」ハサンも早口で何かを絶叫していた。おやじは表情を微動だに変えないまま、400メートルほど進んで狭い道へと入り、道路の隅に駐車した。そしてシートベルトを外し、運転手の制服を着たまま、細い路地へと消えて行った。俺とハサンは状況に飲まれてシートに凭れていた。
しばらく沈黙が続いた。サイレンが後ろを通過する音が聞こえると、俺とハサンは後ろを振り向いた。道路では車が行き交っていた。どうするか。俺はすぐにドアを開けて逃げ出したい衝動に駆られながら、必死に頭を回転させた。やばい状況だ。いかれたひき逃げ犯は車を捨てて逃走し、車内には目下抗争中の組の暴力団員が2人。1人は薬の販路を握っているかもしれない。
2度目のサイレンの音が聞こえた。もう警察の現場検証が始められているのだろうか。早く行動しなければ。早く、早く、早く・・・。俺は落ち着こうと努力していた。
突然、混乱している俺をよそにハサンがドアを開けて外に出た。俺は逃げ出そうとしているのかと思い、こいつを止めるべく急いで外に出た。ハサンの姿が見えない。消えた、と思い車の反対側へ回ると、ハサンが土下座のような恰好になっていた。「お前、こんな時に何やってんだ!」ハサンは無言のまま今度は直立して何かをつぶやき、また同じ恰好で平伏した。何かの宗教かもしれない。このくそ野郎。俺は正午に近い時間だったことと、路地がさびれていたことに本当に感謝した。
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