2011年2月15日火曜日

路面電車にて (2)

 純子は向かい側の誰も座っていない座席越しに薄暗い外の景色を眺めていた。電車が的場町や稲荷町の電停で停車すると、青年がゲーム機のボタンを押すカチカチという音だけが車内に響いた。乗降者のためにドアが開く度に手の先の方に冷気を感じたが、純子は毎日繰り返されるこの状況に慣れていた。
 「純ちゃんじゃねぇか。元気にしょーるんか」八丁堀の電停でなじみの老人が乗車してきた。「おはよう巧さん。寒いよ。今日は。」「あんたがそこに座っとるからじゃろうが。もっと真ん中に寄れや。」「そうかなぁ。」純子は横に伸びた座席の丁度中央に場所を移しながら、この老人は今日も矍鑠としていると思った。老人は両手をポケットに突っ込んで大きなあくびをした。
 「また今月も通院なんか。」「そうじゃ。毎月行っとるんよ。検査じゃって。」「大変じゃのぉ。」「あんたも海田よりもっと向こうから毎朝電車に乗って来よんじゃろ。ようやるな。」「うちは仕事じゃけ。でもこんな朝早うに起きるんは大変じゃろ。仕事でも無いのに。」「いやいや。わしはの、朝から焼酎を開けて来ようるんよ。」「朝から何しようるんよ、あんたは。アル中じゃねぇか。」「いやいやわしは毎朝1本は開けとるけど何もないんよ。きゅーっとしてなあ。」「アル中じぇねえか。」「ならんならん。全然ならんで純ちゃん。アル中とかになったことがねぇんよ。」巧が声を立てて笑った。
 純子はこの笑ったときにくっきり若々しいえくぼができる老人のことを好いていた。裏表が無い人だと思っていた。このところどころに染みのできた老人の頬に小さな窪みのような穴ができるのが好きだった。「あんたこの飴食ったことあるんか。」巧が赤い飴玉を差し出してきた。「何よ、それ。」「わしが子供の頃からこれあった奴でなぁ、ずっと舐めとるんよ。」「いらんよ。」「そうかぁ。」巧は飴をほうばり、口をすぼめた。
 「わしが小さかった頃はなぁ、まだこの辺は何も無かったで。アメリカの爆弾で焼かれてから皆掘っ立て小屋みたいなようところによう分からんまま住んどってなあ。これからどうすりゃあって、毎日言っとったで。」巧は鼻の横をさすった。「聞いたことあるわ。そんな小屋で暮らしとった人がいっぱいおったって。でも広島も大分変わったよ。あたしが来るようになってから。」「純ちゃんはずっと広島じゃないんか。」「いや。中学ん時にうちの親が別れよってからなぁ。それからお母さんの実家がある海田に来たんよ。高校も広島じゃった。」「いや、あんた広島の言葉話すけぇ広島の生まれかと思っとったけどなぁ。」「そうかぁ。京都よ。生まれは。」「ほんまかぁ。全然似合わんのになぁ。ほんまに似合わんわ。」「知らんが。」
 「仕事はいつまでやりょうるんな。」「うん~8時ぐらいから夜は9時までじゃな。」「一日じゃが。大変じゃなあ。何かする時間あるんか。そんなんで。」「いや帰ったらすぐ寝るんよ。疲れとるし、明日も早いけぇの。」「大変じゃなぁ。あんたも。」「あはは。仕事じゃけぇな。」

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