2011年2月8日火曜日

路面電車にて (1)

 純子は路面電車へ乗り継ぐために歩いていた。師走も暮、大晦日も近づいている今日、今年最後の出勤をしていた。駅までの電車の中で既に小便は済ませていたが、寒さのせいか再びかすかな尿意を催していた。駅から路面電車までは歩いて5分もかからない距離である。純子は暖房の効いた路面電車の中に入れば尿意は解消されると考えていた。広島駅のトイレはそれなりに汚いことも純子の脳裏をよぎっていた。
 電停にたどり着くと、純子はいつも通りロータリーへと続く道から見えるさびれた建物へ目を移した。周囲にはパチンコ屋があり、かなり早朝だがロータリー内は多くのタクシーが赤いテールランプを光らせながら停車していた。電停で待っているのは純子以外には誰も居なかった。市役所へ停車する1番の電車を待ちながら、純子は両手をポケットに入れて暖めた。
 純子はいつもあの古びた建物には誰か住んでいるのだろうかと思案していた。毎日出勤途中に見るものの、あの通りを歩いたことは無い。純子は広島の清掃会社で働くようになり、もう10年ほどになる。勤め始めた頃は日本の景気は急落の一途を辿っていた。駅前の風景はこの10年で変わり、新しいパチンコ台や携帯サイトの宣伝をする看板が建てられた。近年だと毎朝「最近、恋してる!?」というけばけばしいピンク色の看板が目に入るようになった。しかし、あの古い建物は何年経っても古いままである。「ようこそ広島へ」という看板も純子と毎朝対面していた。純子は看板を見るたびに看板に書かれた「ようこそ広島へ」という文句を心の中で反芻して、少し楽しい気分になっていた。今日も1日が始まろうとしていた。
 しばらく待つと、路面電車ががたがた音を立てながらこちらへやってきた。純子がいつも乗る電車の時間帯だと、かなりの確率で旧型のタイプの電車に乗ることになる。もっとも純子は快速電車のようなはっきりした外面の新型車よりも、表面が燻っているような旧型車の方が気に入っていた。純子にとっては旧型の燻った外面に、向かい合う形で設けられたオレンジ色の座席が路面電車のイメージであった。
 電車の最前面にあるドアが空気の抜けるような音を立てて開くなり、純子は路面電車へ乗り込んだ。一番乗りである。数秒後に黒いダウンジャケットを着込んだ童顔の青年が乗り込んできた。それに続く形で紺色のジャージを着た老人が入ってくる。違うドアからは髪を後ろで結った中年に差し掛かった女性が乗り込んできた。全員それぞれ寒そうななりをしていた。
 相手はどうか知らないが、純子はこういった「いつもの面々」が路面電車に乗り込んでくることに安心感を持っていた。時々誰か居ない日があると、仕事中もそのことを思い出し、明日は乗ってくるだろうか、と心配になった。純子にとっては彼らも路面電車の一部だった。青年は前に抱えた鞄から携帯ゲーム機を取り出し、老人はジャージの左ポケットから単行本を取り出し、女性は手を組み合わせて目をつぶる。これが純子の朝だった。
 
 

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