ハサンは同じ動作を5回ほど繰り返して車内に戻った。大きな瞳は相変わらずきらきらしていて気持ちが悪い。俺は窓ガラス越しにさびれた路地を見ながら車内で煙草を吹かしていた。理事長なんかもう知ったことか。それどころじゃない。この監獄みたいなタクシーを粉々にぶっ壊せればいいのにと思った。
俺は頭を働かせた。どの道逃げなければならないのは明白だが、どうやって逃げるのかが問題だ。ハサンはどうなのか知らないが俺は前科者だ。かなりやばい橋もいろいろ渡っている。指紋を取られれば簡単に俺が車内に居たことはばれるだろう。このくそタクシーをこのままにしておくことはできない。かといって、タクシーを運転して遠くに逃げるなんて論外だ。どこで検問に引っかかるか分からない。
何より俺にはそれ以前の問題があった。俺は車の運転を教習所以降一切したことが無い。俺より下の連中にも黙っていることだが、俺は筋金入りのペーパードライバーだ。どこがアクセルかも怪しい。
俺は謎の礼拝以降一切の言葉を断って前方のシートの背を見つめ続けているハサンを見た。こいつは免許を持っているのだろうか。免許を持っているかは別にして、車の運転自体できるのか。せめて言葉を自由に交わすことができればいいのだが。ハサンの厚ぼったい唇を見ていると、だんだん先程の破壊衝動が蘇って来た。何なんだよ。こいつは。何で黙ってる。こいつ。何か喋るまで殴り続けてやろうか。
その後10分ほど黙々と打開策を考えていたが、考えれば考えるほどハサンに対する憎悪で心が埋め尽くされていった。何でこんなにこいつが憎いのだろう。本当にめちゃくちゃにしてやりたい。何だ、こいつは。言葉に不自由したら黙ってれば自分を正当化できるとでも思ってんのか。こいつ。日本では何もできないくせに。お前の言葉なんて誰も理解できねえよ。お前なんて誰も理解しようとしねえよ。子どもみたいな顔しやがって。俺がお前をめちゃくちゃにぶっ殺したいと思ってるなんて分っていないくせに。薬を売ってるくせに何が宗教だ。堅気じゃないのに神にすがってんじゃねえよ日和見野郎。
俺の顔は俺の内部に貯められた怒りで強張っていた。ハサンは掌を掻いたり左の窓から外を眺めたりしていた。俺の手は既に懐の中のナイフに触れていた。竿竹屋の宣伝音が遠くに聞こえる。そろそろ会社員だったら昼食から帰る頃合だろうか。
俺は懐からナイフを取り出しながらハサンの方を向いた。俺がハサンの方に正対しきらないうちに顔に正面から鉛のような質量の衝撃を受けた。俺はドアに叩きつけられてそのまま床に頭から投げ出された。右手から折り畳まれたままのナイフが落ちる。何が起ったのか把握できないうちに続けて2つ目の鉛が右頬を打ち、ゴムのような床に叩き付けられて歯で口内が切れる。体勢を立て直そうと掻き毟っていた左手に先ほどのものとは比べものにならない痛みが走り、絶叫する俺に正面から3つ目の鉛が当たった。殺される。揺らぐ視界の中に先ほどの幼さからは想像できないハサンの冷たい表情が見えた。
俺は俺に馬乗りになろうとするハサンの鳩尾辺りに足の裏を挟ませ、思い切り蹴り飛ばした。ハサンがうめきながらドアにぶつけられる。鼻から口にかけてべとべとした感触を感じる。俺はそのまま足でハサンの胸を強く、強く押し付けながら左足でふんばり、喘ぎながら上体を起こした。シートにナイフで深々と磔にされた俺の左手が目に入る。俺はさらに右足の裏でハサンの胸をめちゃくちゃに蹴った。ハサンがうめき声を上げる。俺は攻撃の手を緩めずにがしがし蹴り続けた。ハサンが手で俺の足を掴み、掬うようにして右腕で抱きかかえ、左腕を磔にされた俺の左手に伸ばした。
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