2011年1月31日月曜日

病院への道程 (1)

 俺はハサンと病院へ行くためタクシーを待っていた。俺は無言だった。ハサンは時々小石を蹴りながら後ろの川を流れる小魚を見ていた。何で英語とシンハラ語しか喋れないこいつと一緒に理事長の見舞に行かなくてはならないのか。聞けばハサンは理事長が拾って来たスリランカ人らしい。薬を捌く時に使えるとか、海外に個人的な繋がりを持っているとか、噂があった。もっとも真偽のほどはこいつの年齢ぐらいに曖昧だ。それに見た目も目に宿る幼い光のせいで、外人のくせにどちらかと言えば人懐っこい感じがして、とても暴力団員とは思えない。
 俺はくそったれな仕事を早く終わらせたいと思いながら体を震わせた。くそったれが。このくそ寒い中なんであんなじじいの見舞に行かなければならないのか。あいつが勝手に撃たれたんだろうが。くそが。くそじじい。死ねばいいのに。俺は煙草が吸いたくなってきたが我慢した。理事長は煙草を嫌っている。
 口から煙のような白い息を吐きながらしばらく待っていると、ようやくタクシーが来た。ドアが開くや否や後ろの席に体を投げるようにして乗り込み、「北沢総合病院まで」と言って体をちぢこませるようにして座った。むかつくことにハサンは寒さを感じているのかどうか分からない顔だ。ドアを閉めるとタクシーは道路を滑るようにして発車した。
 俺は車のラジオから流れる演歌を耳に、窓から黙って外を見ていた。俺は車の窓から景色を見るのが好きだった。自分が自分以外の力で動いていることを感じることが好きだった。このままくそじじいの所に行かずにのどかな国道をドライブして欲しいくらいだ。ハサンのくそ野郎が居なかったらそうしていたかもしれない。子どもの頃、よく父親に連れられて卸売市場へ野菜を売りに行ったことを思い出す。
 「ハウオォールドゥアーユゥウ」 突然俺の回想はおっさんのダミ声で破られた。俺はハサンを見たがハサンはきらきらした目で前方を見つめている。「ハウオォールドゥアーユゥウ」もう一度ダミ声が聞こえた。俺でもハサンでもないとしたら運転してるおやじか。
 俺は無視することにした。このおやじもどうせ構ってくれタイプの運転手か何かだろう。それ以上におっさんのカルチャースクールだか通信教材だかで習ったようなたどたどしい英語が苛立たしい。深夜に仕事が終わって家に帰り、誰も居ない真っ暗な台所の冷蔵庫からビールを取り出すおやじの姿が浮かんだ。安っぽい照明の下で、録画したNHKの英語講座を観ながら1人ビールを飲むおやじの姿。
 「ハウオォールドゥアーユゥウ」しばらくしてさっきより大きい声でダミ声が聞こえた。ハサンはちらっとこちらを見る。「32。こいつの年齢は32らしいよ。」俺はハサンの年齢なんか知らないが適当に流すために適当なことを言った。「ハウオォールドゥアーユゥウ」おやじは繰り返した。「だからこの外人の年齢だったら32だって。」「ハウオォールドゥアーユゥウ ファッチュウゥユゥアネィム」「32だって言ってんだろ。俺は28。」「ハウオォールドゥアーユゥウ ファッチュウゥユゥアネィム」俺はハサンを見た。ハサンもきらきらした目で俺を見た。ろくでもない展開にいらいらしながら俺はハサンにあごで合図した。ハサンは薄笑いを浮かべながらうなずいた。
 "I'm twenty two" 「オーリィアリィ。アイムフィフテーファイブ フゥウェアァイズヨォウァホォームタァウン・・・」俺はハサンの年齢に内心驚きながら再び窓の外に目をやった。外人が珍しいのだろう。適当にこいつらに話させておくことにした。日本の厚かましいおやじに良くある反応だ。
 ぼつぼつと繰り返されるハサンとおやじの苛立たしい英会話を聞きながらタクシーが河川敷沿いの道路を走っているとき、ふと風景が過ぎるスピードが速くなっているような気がした。近くに建物が無いから分かりにくい。しかし信号待ちで停車している2台の車を対抗車線に入って抜き去り、そのまま信号を無視して直進した時に、俺は自分の感覚が間違っていないことに気付いた。
 「おっさんおっさん。何信号無視してんの?捕まるよ?」おやじは無言でさらにスピードを上げて前方の車を抜き去った。先ほどから沈黙が続いている。おやじはさらに交差点で一番右の右折レーンへ車を進め、すぐさま左にハンドルを切り返して信号待ちしていた車を抜き去り、直進した。体が大きく揺れる。
 「何やってんだよてめえ。ふざけんな。車を停めろ!」 おやじは沈黙のまま前方を見つめている。今何キロ出ているのか気になってメーターを見ようとするが、ごちゃごちゃしていてどれがメーターか分からない。俺は上部の取っ手を握りながら中腰で立ち、仕切り板をがんがん殴った。「停めろ。車を停めろよ!ここで停めろ!」おやじは無言で走り続ける。間違いなく120キロ以上は出ているだろう。対抗車線に入って前方の車を抜き去って行く。最悪なことに道もめちゃくちゃに走っているらしい。本来なら30分もあれば着くのだが、既に1時間以上車の中に居る。車は交差点の信号を無視してタイヤの音を立てながら右折し、中腰で立っていた俺は遠心力で窓に叩き付けられた。
 どうにかしてこの状況から抜け出した方が良い。こいつは狂っている。俺は目まぐるしく過ぎる風景を見ながら今どこを走っているのか検討を付けようとした。と、左を向いた時にふいにハサンのきらきらした目とかちあった。ハサンは沈黙を保っている。俺はこのどうしようも無い奴と一緒に車の中に居ることを呪った。俺は中卒だしこいつと話すことさえできない。くそったれが。俺は左右に激しく揺られながらこいつを殴り飛ばしたい衝動を必死で抑えた。こいつのきらきらした目が潰れるまで殴りたい。ラジオからはディスクジョッキーの笑い声が聞こえていた。
 この状況は俺を苛立たせた。不安定にした。父親の姿を思い出すからだ。小さい頃俺を軽トラで市場まで連れて行った父親。俺が泣いても無視して野球中継を観続けた父親。俺の母親を呪いながら泣いていた父親。自分より年下の人間にぺこぺこ頭を下げる父親。俺の前でうんこを漏らした父親。俺が誰だか分からなくなり骸骨のような顔になって苦しみながら死んでいった父親。
 自然と懐のナイフに手が行っていた。どうなってもいいからこいつを後ろからめちゃくちゃに刺してやろうか。その後でハサンもめちゃくちゃにしよう。もううんざりなんだ。俺は。こいつにはもううんざりなんだよ。やめてくれよ。もう。やめてくれ。やめろやめろやめろ。ハサンの目が俺の懐に伸びた右手を見つめていた。
 ハサンが突然中腰になって前方の仕切りを喚きながら殴り始めた。こいつと出会って初めて目にする光景が、俺を黙考から解き放った。と、俺が前方に目をやり、仕切り越しに横断歩道を渡る子供達の列を目にした瞬間、ぐしゃ、という音が響き、色とりどりの布の塊がフロントガラスをかすめて消えて行った。
 「おい!!車を停めろ!停めろ!停めろ!!」ハサンも早口で何かを絶叫していた。おやじは表情を微動だに変えないまま、400メートルほど進んで狭い道へと入り、道路の隅に駐車した。そしてシートベルトを外し、運転手の制服を着たまま、細い路地へと消えて行った。俺とハサンは状況に飲まれてシートに凭れていた。
 しばらく沈黙が続いた。サイレンが後ろを通過する音が聞こえると、俺とハサンは後ろを振り向いた。道路では車が行き交っていた。どうするか。俺はすぐにドアを開けて逃げ出したい衝動に駆られながら、必死に頭を回転させた。やばい状況だ。いかれたひき逃げ犯は車を捨てて逃走し、車内には目下抗争中の組の暴力団員が2人。1人は薬の販路を握っているかもしれない。
 2度目のサイレンの音が聞こえた。もう警察の現場検証が始められているのだろうか。早く行動しなければ。早く、早く、早く・・・。俺は落ち着こうと努力していた。
 突然、混乱している俺をよそにハサンがドアを開けて外に出た。俺は逃げ出そうとしているのかと思い、こいつを止めるべく急いで外に出た。ハサンの姿が見えない。消えた、と思い車の反対側へ回ると、ハサンが土下座のような恰好になっていた。「お前、こんな時に何やってんだ!」ハサンは無言のまま今度は直立して何かをつぶやき、また同じ恰好で平伏した。何かの宗教かもしれない。このくそ野郎。俺は正午に近い時間だったことと、路地がさびれていたことに本当に感謝した。
  
 

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