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2018年3月12日月曜日

ミスター・メルセデス 感想

 スティーヴン・キングの「ミスター・メルセデス」を読んだ。彼女に借りた本だが、読むのに半年かかった。私生活で本を読まない病が絶賛継続中である。本を読まない代わりに極を回って犬を捕まえている。
 いつも通り適当なあらすじを書くと、警察を退職したホッジスが自殺しそうになったりしながら生活していたが、突然昔捕まえそこなったメルセデスベンツによる大量ひき逃げ事件の犯人であるブレイディから手紙が来て、それがいい感じにやる気を出させ、私人の身分で事件を捜査したり、人妻といつも通りのキングの話みたいな感じでセックスをしたり、その人妻がブレイディに自動車ごと吹っ飛ばされたり、ブレイディ自身が犬を毒殺しようとしたら母親を毒殺してしまったりして、最終的にはブレイディによるコンサート会場自爆テロを未然に防ぐべくサイドキックみたいになったハーヴァード大学に進学しそうな黒人青年と精神を病んだ女性と共に行動していくという話である。
 いわゆるミステリものであるが、この本は犯人であるブレイディの視点どころか過去や経歴や(「マザコン」と形容するには大分重症なタイプの)性癖まで描写するので「倒叙」に該当する展開を有する。まあキングだったら人間を書きたいだろうから主要人物の背景や心理を書き込まないという選択肢は選ばれそうもなく、別にこれまで(超自然はあったが)物理的限界を踏まえた奇抜なトリックの連発で生きてきたわけではないので、ミステリでこの展開を選択するのは自然だと思われる。
 個人的には読みながら現代のサイコパスを描写するのは大変なのかもしれないと思った。今回の犯人役のブレイディは社会的に認知されていないが知能が高く、(身体障碍を負っていた)弟の死を「前向きに」捉え、自身の過失で死んだ母親の死体と共に生活を送ることができるという、世間で、より厳密に言うなら世間話や与太話の枠内で捉えることが可能なサイコパスとして描かれ、選択された行動も自爆テロという日本以外の国々ならより関心を自然に引きやすいものが描かれていた。
 一方でそれらが例えば「本当にサイコパスの現代性を描写しているのか?」という問いに回答できるものかと言えば、それは疑わしい。捉えられる範疇の「安心できる」サイコパスの描写でしかなく、現代的な理解不能なレベルとまでは言えないのではないかと思う。例えばブレイディが本当に現代的なサイコパスならホッジスのことは記憶に無く、さらに言えばメルセデスベンツで大量殺人を行ったことも記憶に無いと思う。「大したことではない」ので。途中で犬を殺すとか「歴史を作る」とかの「大したことではない」ものに執着しはじめ、結局はエンターテイメント的なよくある「安心できる」悪役になってしまった。
 もうドラマ化はされているようだが、確かにこの悪役ならドラマ化や映画化はしやすいかもしれない。「安心できる」ので。

2016年12月30日金曜日

深夜百太郎 出口 感想

 舞城王太郎の「深夜百太郎 出口」を彼女から借りて読んだ。九十太郎以降はこれまで2~3ページで終わっていたのに突然長くなって4ページ以上になったりしたり、九十九太郎で久し振りに九十九の羅列を目撃したりした。九十八太郎の「寝ずの番」とかは多様な車という現代性の象徴と、百鬼とも呼べる妖怪の群れがこの人の作品らしい動きを伴ってぶつかり合うような感じであった。しかし、俺は「入口」の方が好きであった。
 「出口」の中で好きな作品は、俺が「入口」の感想で触れていた「終わり」についての物語に対する回答のような六十太郎の「僕の中の鏡」であった。描写は「車の河」のように抽象的ではないが、謎の少女から語られる「まあ≪終わり≫なんて別にどうでもいいっちゃどうでもいいから」という台詞が、終わりに関する全てを表していた。
 また、九十五太郎の「あぶり出しメール」では、久しぶりにこの作者の書く会話劇といったらこんな感じ、というやり取りを目撃した気がする。多くのこの作者の作品で共通する要素の1つであるが、大体の会話劇で「ぐだぐだ無理矢理相手を逆なでするような子供じみた理屈をぶつけあって結局会話上で無理矢理和解しない感じ」が描かれるのだが、この短編はほぼそれだけが構成要素となっていた。この作者が会話劇で描く「分かり合えない感じ」については、特に女性を話者として描いている際の描写が好きである。そこに現代性を感じる。まあ10年以上前からこんな感じなので、今は新しい現代性が別にあるのかもしれない。

2016年9月18日日曜日

ドクター・スリープ 感想

 彼女から借りていたスティーヴン・キングの「ドクター・スリープ」を前日の昼ぐらいから読み始め、今読み終えた。久し振りにぶっ続けで読みたくなる長編であり、こういう本があると、やはり人生を使って本を読むということは、それ自体が良いものだと思わされる。酒を飲むのと同じである。読まずにいられない。
 そして、今Googleで検索して、「ドクター・スリープ」が映画化されることになっている情報を目にして、安堵した。当たり前である。これを映画化せずに何を映画化したら良いのだろう。俺がワーナー・ブラザーズの企画担当とかだったら、これを読んで1日後には上司に熱烈な企画書を書いて提出している。
 いつも通り適当なあらすじをまず並べると、「シャイニング」で“かがやき”を持つ少年として、オーバールックの惨劇と喪失を経験したダン・トランスは、ろくでもないアル中に育って各地を泥の中を這いずり回るように転々としていたが、やがてティニータウンの「リヴィングトン館」なる、終末医療の本部のようなホスピスで勤務し、“かがやき”を使って死の淵に至った者に、その淵を安らかに超えることを「ドクター・スリープ」として手伝っている内に、自分よりも更に強い“かがやき”を持つアブラという少女と出会い、やがて、アブラなどの“かがやき”を持つ少年少女の命気を狙い暗躍する「真結族」との闘いに身を投じていく・・・という話である。以上の造語を見ただけでキングの長編っぽい匂いしかしない。つまり面白そうな匂いしかしない。
 この作品についてはキングの長編が好きならほぼ確実に好きになるし、ぶっ続けで読みたくなるであろうことに疑いが無い。敵側が少し弱い、というよりダンとアブラの“かがやき”を持ったコンビが強過ぎるが故に、途中で敵側を応援したくなるぐらいだったが、その他の点では(あれほど書き尽くした)「シャイニング」で語られなかったことが丁寧に回収され、単に回収するだけではなく、それ自体が物語にとって必要だったと思わされる措置が施されていたと思う。「シャイニング」であれだけの思いをして喪失し、「その後の人生」を獲得した前作主人公であるダンが、かがやくどころか、アルコールの闇の中でのたうち回っていた、というのは、素直に残念な気分にもなるだろうが、それが物語の筋として正しい、ということも十分分かるのだ。
 余談だが、キングが創造した特殊能力の形容である“かがやき”(シャイニング)という言葉は、俺がもの凄く好きな特殊能力の形容の仕方である。これほどセンスに溢れた造語は無いというぐらいセンスに溢れていると思う。言ってしまえば超能力なのだが、“かがやき”と表現することで、読者は色を想起して能力を闇やホレス・ダーウェントなどの「怪物」と対比することができ、一辺倒ではない能力の揺らめきを明滅の如く感じ取ることができるのだ。
 もちろん、登場人物は別に「ククク・・・俺の“かがやき”(シャイニング)を喰らえ!!」とか言ったりしないのでそこは安心して欲しい。「シャイニング」も「ドクター・スリープ」もそんな安い表現の彼岸の彼岸と呼べる場所に位置している本である。

2016年9月16日金曜日

ジョイランド 感想

 スティーブン・キングの「ジョイランド」を読んだ。また彼女から借りた本である。
 いつも通り適当なあらすじを書くと、1973年にデヴィン・ジョーンズという、どこかの海賊船に乗っていたような人間のような名前をした(童貞)貧乏大学生が、童貞も捨てられないまま彼女と疎遠になり、偶然日本で言うと生協食堂みたいな所でジョイランドという遊園地で夏休み期間中にバイトを募集している情報を目にして応募して気に入られて採用され、ひと夏を過ごす内にハリーポッター的な男女仲良し3人組で主人公ではない男の方と女の方がデキて、主人公は着ぐるみを着るのがプロみたいになって、人名救助をやったりしていく内に、ジョイランドのお化け屋敷で過去に行われた殺人事件の真相を(デキた女の役割が大きいと思うが)お化け屋敷の幽霊とか千里眼を持つような「ダークタワー」のジェイク的な少年とか、金持ちの人妻とか一緒に解き明かしていく・・・という話である。つまり今回は比較的明確にミステリー物に位置づけられるらしい。
 正直に書くと、今回の作品は別に一生懸命読む必要もないかな、というのが感想である。まあキング好きならデヴ君の内面描写とか遊園地の「トーク」とか、幽霊の描写を観るだけで満足するかもしれないが、ミステリー物としては全然不器用な感じがしたし、面白くは無いと思う。
 俺の嫌いな点を挙げると、第1に、あのジェイク的な少年の千里眼は特に(本当の意味では)「ジェイク的」にならなかったと思う。というか、彼の能力は別にそこまで道具としてミステリーの結末を描く道具として活かされていないように感じた。あの思わせぶりな(複数回に渡って登場した)「白じゃない」という発言は最後まで暗喩程度でしかなく、幽霊の開放シーンでも彼が何をしたから開放できたのか暗喩程度のような描かれ方しかされておらず、別に彼自身真犯人を突き止めたりしておらず、ジェイクっぽい偽物のような感じでしかなかった。
 第2に、だったら第1の点のオルタナティヴが話を進める道具として用意されているべきなのだが、正直主人公の労力に積み重ねが見えず、むしろ彼の友達の方が役割として大きく見えてしまった。もちろん、一人称の物語なのだから、一見彼が推理して解決したかのように見せかけているが、論理と思考の積み重ねは彼の友達(彼ではなくもう1人の友達を取った女)によって既に用意されており、加えて、彼のひらめきも論理の積み重ねというよりは局所的な直観に近いもので、こちらも既に用意されているように見えてしまった。ミスリーディングを誘うというよりは、別にそもそも不可視のものをいきなり結果だけ登場させているように見えて、無理して書かなくても、と思ってしまう。いつもの超自然的な話を超自然的に解決させた方が一貫したのではないか。
 第3に、第1、2の点が存在する論理的帰結として、彼お得意の超自然的な力の描写は本当にうっすらとしたものになってしまった。ジェイク的な存在はジェイク的な存在でしかなく、幽霊はほぼ無害で、別によくある展開で真犯人に応報を加えたり、あるいはその特定を補助したりもしない。ただ幽霊を示唆させる姿で風船のように浮いているようなものである。そのため、そのまま読むと、読者は、何で異様にトムが(こんな吹いたら飛んでいきそうな)幽霊の存在にびびっているのか、なぜ主人公が幽霊に拘泥するのか、共感し難いと思う。
 以上3点の理由から、俺は別にこの作品は好きにはならない、と思う。また、この3点に日本人的な感覚からもう1点加えるとすると、あの取って付けたような主人公の童貞の捨てさせ方も違和感がある。最初から童貞を明言して「告発どおり有罪」であることは伏線を張っており、(村上春樹の表現を借りると、「銃が登場してきたら撃たせないといけない」ように)、童貞が登場してきたら、多分捨てさせるわけなのだが、それはやはり話を進める上で必要だから、物語のピースの1つだから、という必然性が必要なのだ。別に今作では(もったいぶった割に)それも特に必要だったか・・・?という程度のもので、主人公自体(紙片を割いて表現した割には)それによって別段変わったりしないので、読者との距離は開くばかりだと思った。
 もちろん「日本人的な感覚」と述べたように、「別に現代文学において主人公のセックス描写とか普通過ぎて、話の構成要素としての価値も無いのでは?そもそもアメリカ人はこんな感じで皆やってるんだよ」とかしっかり言われると、はいはいそうですね、それがアメリカではリアルでありフェアなんですね、と、論ずることを止めたい方向に動くのだが。一方で、まあそう言われても結局俺はだったらもう全員デューク東郷みたいな奴を主人公にしろよと思ってしまうのであった。

2016年9月15日木曜日

深夜百太郎 入口 感想

 舞城王太郎の「深夜百太郎 入口」を彼女から借りて読んだ。最近はさらに輪をかけて本を読まなくなり、自分で買った本も別に読まないという、だったら買うなという意味不明な状況になり、その状況になるのが嫌なので本も買わなくなり、結果として全く本を読まないという状況であった。しかし彼女から借りる本は常に読み、しかも昨日とかに借りた本を翌日に読み終わっている状態なので、俺は本が好きなのか嫌いなのかよく分からない。
 さて、今回の舞城王太郎の作品は、計100の「太郎」=「物語」から成る短編集であり、わかりやすく表現すると舞城的な百物語となる。「舞城的な」とか書くと意味が分からないが、彼/彼女の作品を読んでいると「ああまたこんなことしてんのか」と思う響きである。
 今回の「入口」で俺が一番好きだったのは二十七太郎の「車の河」であった。今回の短編集のほとんどの作品に共通する点として、美しそうに積み重ねたものをぶっ壊す、という点が挙げられると思うが、この「車の河」はそれがよく表れていた作品だったと思う。以前「淵の王」の感想で書いたぶっ壊しの美学というよく分からないものが結実した作品であった。
 「淵の王」の感想で言及したことをなんとなく今総称した表現が「ぶっ壊しの美学」なる言葉であるが、この「車の河」は、以前の感想で触れた「無駄口を数える」と共通し、もっと書くと他の短編と共通し、舞城王太郎がぶっ壊すために大体用意する道具が揃っている作品だったと思う。まず、舞城王太郎は最近物語=世界をぶっ壊すための道具に子供を使う。「車の河」には(「いつも通り」と言って良いかもしれないが)、赤ん坊を高所から落とす表現が用いられていた。他の作品でも大なり小なり子供を物語=世界をぶっ壊すための道具に使っている部分が見受けられるのだが、非常に直接的に表れているのがこの「車の河」である。
 また、物語=世界は女によって破壊される。単にこの作者が女を描くのが上手いから俺の目に付いているだけなのかもしれないが、「深夜百太郎 入口」における多くの短編で破壊者は女であり、その自省が世界を殺しているのである。これも最近の傾向だと思う。太宰治の斜陽で登場した創造と破壊の化身のようなかず子みたいな奴が内省により自分の世界を自分で閉じるのだ。「よい子」を生む存在が破壊を司る。
 このような破壊を楽しめる作品が「車の河」であったのである。単にこう書くといよいよ危ない人間なのかな、という感じで見られそうだが、そもそも物語自体誰かが字を使って創造した世界であり、創造されたものである以上、結末部分で「終わり」を描く以上は、何かしらの破壊が必要なのだと思う。それは時に登場人物が幸せになることで世界の終焉とする場合もあれば、例えば登場人物が全員死亡して世界の終焉とする場合もあり、どちらも物語=世界の終わりとしては、創造されたものが迎える「終わり」の描き方としては、正しいのだ。ずっと楽をして創造し続けるわけにはいかないのだから。別に破壊は単に破壊として嫌がらせの道具として存在しているわけではなく、本来は正当な創造こそが正当な破壊を必要とするのだから。
 「車の河」では最終的に破壊を司ることを自覚する主人公は死ぬことは無いが、それは破壊を求めているからこその結末であった。なぜなら、主人公は「この世に留まる」ということ、すなわち永遠の創造を行うことが本当の間違いで、正しさが物語=世界に存在しないということを自覚していたからである。熟慮された終わりが本当は物語に必要であるということをこの作者は自覚しているのだと思う。
 ところで、以上のような小難しそうに見えるいつも通りの感想に加えて、自覚された馬鹿みたいな物語=世界の終わり方も、本作においては楽しめる要素だと思う。三太郎の「地獄の子」とか、十六太郎の「山の小屋」とかの終わり方は、俺と同じような破壊マニアの終わり好きには垂涎ものの馬鹿さ加減だと思う。

2015年8月2日日曜日

リーシーの物語 感想

 スティーヴン・キングの「リーシーの物語」を彼女から借りて読んだ。上下巻なので1日一冊だと2日はもつ。
 いつも通り適当なあらすじを書くと、作家(ピュリツアー賞とか受賞しているので大作家と言った方が良いかもしれない)のスコット・ランドンの妻であるリーシーは、夫の死後2年ぐらい夫の作業場の片づけが出来ておらず、ようやく姉のアマンダと一緒になって片づけようかとしていた際に、カスッドボディら、「インカン族」の黒太子なる変態野郎ジム・ドゥーリーに襲われたり、アマンダが永遠の海賊乙女になりにあっちの世界に行ったりして大変な中、その対処法として、実はスコットが「ブーヤ・ムーン」なる素晴らしい別世界へ飛ぶことができる能力者だったことを思い出し、その変態野郎やら、姉の問題やらを別世界の素晴らしいパワーで解決する話である。
 現実のクソを非現実のパワーで解決するという点、女性が変態野郎(今回は「ジュニアハイスクールのダンスパーティーで男の子たちに触らせなかったような部分」を痛めつけたい病のクソ)をぶっ飛ばす点などは、例えば「ビッグ・ドライバー」や、「ローズ・マダー」でも同様の展開があり、特に異世界に引きずり込んで殺す点で「ローズ・マダー」に近いものを感じる。しかし、今回は夫婦の関係が鍵になっている点、異世界の描写がより詳細に描かれている点で、キングの過去作とは異なる部分がある。
 個人的には特に「ローズ・マダー」では俺が本当に個人的に問題視していたデウス・エクス・マキナ的な非日常が、今作では唐突に感じられず、むしろ物語をより深くするために用いられていた点で素晴らしいと思った。そのような差異をもたらした要因は、やはり非日常的な異世界を日常に「近づけた」ことにあると考えられる。
 「ローズ・マダー」では、問題解決をもたらした異世界は、(1)主人公の力が及ばないものであった、(2)物語の後半で急に登場した、(3)現実世界では人を殺す以外に利益をもたらすようなものではない、という点で、(ある意味自然なのだが)異世界は現実世界の視点からすれば違和感の強いものとして描かれていた。結果として、異世界登場から現実世界からの退場後の描写について、俺は「日常と非日常の帳尻を合わせる」という表現で批判している。
 しかし、今作ではこの帳尻合わせが必要性を持っている。問題解決をもたらした異世界は、(1)主人公がある程度自発的に「行く」ことができる、(2)物語の前半からフランクが抱える病気のようなものとして登場していた、(3)現実世界では人を殺す以外に(最終的にキングの世界では登場人物にとって価値のある)傷を癒す利益をもたらす、という点で、異世界は現実に非常に近い。より正確な表現を使えば、今作の異世界は別次元の非現実ではなく、「現実が裏返った場所」に過ぎない。
 これらの点から、今作では異世界「ブーヤ・ムーン」は、物語にとって必要とされるポジションを占めている。今作では大きく分けて3つの回収しなければならない伏線があり、(1)変態クソ野郎の始末、(2)アマンダの問題の解決、(3)スコットによる「リーシーの物語」の発見がそれぞれ該当していた。正直紙片上回収可能なのかと不安に思っていたが、最終的には「ブーヤ・ムーン」というデウス・エクス・マキナ化を回避した世界を軸として、パズルが嵌るように全て回収されることとなった。物語として完成している作品と言える。
 最後に完全な余談だがスコットの死因は「おおかみこどもの雨と雪」の父親の死因ぐらい個人的なまぬけ感を感じた。完全な余談で申し訳ないがあの部分に異様なまぬけ感(「なんでそこで普通の病院に行かずに変なもん無理して拾い食いすんのかなあ~?」という感覚)があるものの、まあスコットのバックグラウンドの描写で彼が様々な業を背負って成長した人間で既に限界に達していたという可能性、実は病気が深刻だった可能性等を考慮して、「いや、スコットは自分の運命を知っていたんだよ・・・」と月並みな反駁を勝手にしておくとする。現実はラルフである。

2015年6月25日木曜日

酔って候 感想

 一か月ぐらい前に司馬遼太郎の「酔って候」という素晴らしい中編集を読んでいたので感想を書く。実は読んで気づいたのだが、「酔って候」は前に感想を書いた「幕末」と対になっているような作品であり、「幕末」で登場してきた維新の「実行部隊」より、延長線である戦争をさらに遡って、より政治的な駆け引きを行っている人々として、「幕末の四賢候」の姿が描かれている。「賢候」と言うがタイトルから分かる通りこいつらが別に異様に賢いわけでもない。というか、島津久光自体は「賢候」ではなく「賢候」だった斉彬の兄弟である。
 いつも通り適当に四編のあらすじを書くと、生まれる時代を間違えたかのような酒豪である土佐の山内容堂の姿を描いた表題作「酔って候」(維新後は飲酒を原因とする脳溢血で死亡)、利用されまくり西郷との仲も悪かった薩摩の久光を描いた「きつね馬」、宇和島藩で蒸気船の開発を市井の天才にさせた伊達宗城が登場する(主役ではない。「天才」の方が主役)「伊達の黒船」、多分四編の中では一番賢い松平春嶽を描いた「肥前の妖怪」から成る作品である。
 「燃えよ剣」の近藤勇などと同じく、司馬遼太郎は無骨な文体で馬鹿とみじめな人間をとことん馬鹿でみじめに描く。今回は上記した島津久光がそのターゲットであった。人間というのはどの時代も自分の外に自分の世界を無理やり作ろうとするとみじめで滑稽に映るらしい。
 

2015年5月10日日曜日

幕末 感想

 司馬遼太郎の「幕末」を読んだ。最近読んだ短編集の中では一番良い。全然本を読んでいないのだが。
 いつも通り適当にあらすじを書くと、1860年に発生した桜田門外の変を皮切りに、幕末の日本で発生した倒幕運動の中で行われた暗殺事件を取り上げた作品である。文脈が共有されているので、斎藤一など、自然と司馬遼太郎の他の作品で取り扱われた登場人物が出てくる。
 司馬遼太郎が言うように、暗殺という行為は、ほとんどの場合は無駄に終わる。世直しが目的でも全然世の中はそれだけで良くならないし、政権転覆が目的だったとしても全然「転覆」と言えるまでの変化が起こらなかったり、転覆した直後にまた別の勢力に転覆させられたりする。しかし、日本でも他の失敗国家の歴史が抱えているような血で血を洗う殺し合いが幕末に発生していた。特に京都はやばい。テロ集団が雑居していたようなものである。当時の住人からすれば今の観光地の姿はあまり想像できないと思う。
 さて、本短編集の中で最も印象に残ったのは初代総理大臣となった伊藤博文の若かりし頃を描いた「死んでも死なぬ」と、桜田門外の変から8年後、幕末も幕末にイギリス行使を襲撃した三枝蓊らを描いた「最後の攘夷志士」であった。前者と後者は時代の変節というものが残酷であることをうまく対比させている。前者については、維新を成す殺人として正当化され、殺人者どころか権力を担う者となったのに対し、後者については謀反人として斬首され、「永遠の罪」を背負わされている。前者については、日本の初代総理大臣が歴とした殺人者であったことを描いている点でも面白いのだが、この対比が1860年以後の約10年間の日本の激変をうまく表現していると思う。「ほんの数ヵ月前なら、かれらは烈士であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は、叙勲の栄があったであろう。」という一文が、三枝ら報われなかった維新志士を表している。血に塗れて誕生した大日本帝国は、その後50年以上外国人と自国民の血を洗ったので、次は宇宙人とかゾンビとかの血を洗うようにならないで欲しいと願うばかりである。

2015年4月16日木曜日

ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡 感想

 数学者ジョン・ナッシュの半生を描いた「ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡」を呼んだ。「やっと読んだ」と言う方が正しい。なぜかこの本を読むのに1年かかったからだ。別にその間俺の読むスピードが極端に落ちて1日1ページ読むのがやっとだったとか、忙しくて全く本も読めない状態だったというわけではない。確かに本は昨年1年間極端に読まなくなったが、他の本についてはまあ読んでいた。おそらく俺の数学嫌いが影響したのかもしれない。嘘だが。
 いつも通り適当なあらすじを書くと、この本はジョン・ナッシュという、数学分野で「天才的」と呼ばれる業績を持つ学者が統合失調症に罹った話を描写した作品である。「天才数学者の半生」には特に価値は無いかもしれないが、この天才が統合失調症という、思考が要される学者にとって致命的と言える精神の病に罹り、そこから復活したことを描写している点で、この本には読む価値がある。
 ところで、俺は数学が嫌いである。もっと言うと、数の計算に関わるあらゆることに全く価値が見いだせない。面白くないのである。今は昔と違って「学問的な興味」みたいな、学問好きが持つフィルターみたいなものを通して数学を見ることができるようになったため、俺は数学を他の学問分野と同様に「尊重」して捉えることができるのだが、それは「好き」であることとは違う。小学3年生の頃に半年ぐらい俺は小学校に行かなくなったが、それはいじめや勉強ができないというのではなく、本当にピンポイントで「算数が嫌い」だったことが原因だったほどである。算数ドリルやワークブックという、全く価値の見いだせないクソのために「がんばり学習」とかで夕方4時ぐらいまで残され、あれができていない、これができていない、こんなのもできないの?とクソ教師(俺が付けたニックネームだと「眼鏡ババア」)に言われるのが我慢ならなかった。「うるせぇクソが!俺(様)を残すんだったら他の面白い理由で残せ!」と言いたかったが、(まだ)言えない小心者だったので、やらない、という選択をした。理由がピンポイントだったので、別に算数ができなくても俺を残さなくなった先生になった小学4年生以後のクラスでは、「何事も無かったかのように」学校に行くようになっている。
 このような筆者であったが、特にこの本に価値があると思わされたのは、前半部分のナッシュのよく「天才」にありがちな傲岸不遜と呼ばれる行動様式と、それでもやることはやって成功しましたという感じの描写ではなく、やはり後半部分の統合失調症の罹患状態と、そこからの回復にある、と思われる。
 とりわけ、「ノンフィクションもの」なので、半分歴史学的なリサーチが要される作業だったと思うが、各精神病院の施設状況や特徴まで、詳細な描写がされていて、それがナッシュが直面した絶望の描写を際立たせている。途中のカフカの作品や彼の作品を使ったナッシュの状態の描写の部分については、カフカ好きの人間からすれば的外れ感があったのだが、それ以外の後半の描写にはリアリティがあった。統合失調症からのナッシュの回復が、劇的にもたらされたものではなく、「なんとなく」治ったということ、そこからノーベル経済学賞受賞という学者にとっての最高の栄誉もまた、彼自身の生活に劇的な変化をもたらしたわけではなく、彼の学問的態度が継続した点に変わりがない、ということについては、かなり現実味のある書き方がされていると思う。俺のように数学や算数ができなくても、この本には読む価値があるだろう。「眼鏡ババア」も読んでいたら算数ドリルができないというどうでもいい理由で俺を残さず、さっさとお互い家に帰ってもっと生産的なことに時間を使えたかもしれない。

2015年3月15日日曜日

東京奇譚集 感想

 文庫版になっていた村上春樹の「東京奇譚集」を(また彼女に薦められる形で)読んだ。またお前は村上春樹の本を読んでいるのか、いい加減ハルキストとか自称して「ノルウェイの森」とかに感銘を受けた、やばい、ハワイに住みたいとか嘘を並べたらいいんじゃないのか、と思うが、前書いた通り人から(ほぼ100%彼女から)薦められないと全くと言って良いほど今では本を読まなくなったので、村上春樹の本が多くなるのは俺のせいではない。
 「東京奇譚集」は、多分1度読んだとか思っていたが、読み終わったあと多分「~奇譚集」とか、別の本のタイトルだったかもしれん・・・ということが判明した短編集だった。いつも通り「短編集」という形式になった段階で今の俺にとっての本への誘引力が3倍ぐらいになる。
 内容としてはまずいつも通り1本目の短編で主人公はセックスします。(原作:村上春樹、絵:矢吹健太郎とかにして、とにかく特定の主人公がモテまくる内容でジャンプで連載すれば良いんじゃないか。性描写が出てくるのでヤンジャンとかになるかもしれない)。書かれていなかったが、この類の主人公は多分長編になったらジャズも聴いているだろうし、お酒も飲んでいると思う。
 途中までこんな感じで別に引っかかりも何もなく、「ああ、(村上春樹が書きそうな)短編小説だな」と思っただけだったが、最後の品川猿という、記憶を盗み(かつ人語を解する)猿の話が、良い意味でリアルとかフェアとか度外視して珍しくただ不思議系の面白い話を書こうとしたんだな、と思わせる内容だった。村上春樹の作品で、SF(すこし、不思議)要素が出てくる場合、大体はSF(すこし、不思議)の元凶になっている本体そのものは見せない、あるいは本体そのものと対峙させない感じになり、あくまで「現実世界の中目立たない闇の部分」みたいな感じになるのだが、この品川猿では上記した不思議な猿がそのまま不思議な猿として登場するので、世界観そのものがやや非現実的になっている。まあ「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」みたいに、そもそも世界全体が非現実的な場合も昔はあったのだが。
 それでもまだ「品川猿」は「品川」と名前が付くように、「東京」の話なので、普段あまりに鼻につく主人公の設定と言動にうんざりしている方も、この珍しい不思議系の話だけは読んでみると良いかと思う。もっとも、内容そのものを「村上春樹」から切り離した場合は特段の価値は見いだせないのだが。

2015年1月6日火曜日

淵の王 感想

 何か最近本屋で日本人作家の本が何も面白そうではなく、少数の面白いことを知っている司馬遼太郎などの作品は軒並みまだ読んでいないのが長編しかなく、長編は疲れるので読みたくなく、どうしよう、困った、と思って真面目な顔をして本屋を去っていたのだが、また彼女に舞城王太郎が『新潮』2015年1月号に掲載した「淵の王」という新作を薦められたので、読んだ。読むことになった。
 いつも通り適当な概要を書いておくと、3人の主人公がそれぞれの人生を過ごしながら、西尾維新の『鬼物語』で出てきたような「くらやみ」に遭遇して、2人目まで負けて、3人目で勝ったと思われる話である。いつも通りこの作者の作品の概要を真面目に書くと意味が分からないが、こんな話である。また、今回はそれぞれの主人公の1人称ではなく、それぞれの主人公と共にある文字通り「スタンド」みたいな存在の独白が、語り部の役割を果たす仕組みになっているので、正確には6人の主人公が「くらやみ」に遭遇して、5人目と6人目で「くらやみ」の正体と対決してなんとなく結末に至る話であった。
 実はこの「淵の王」を読む数日前に、半年前に買った文庫版の『イキルキス』に収められている「アンフーアンフー」と、「無駄口を数える」という書下ろしの短編を今更読み、「イキルキスもアンフーアンフーも正直面白くないが、『無駄口を数える』という短編については良いな。特に錯乱した主人公の友達が突然悪意によって主人公の子供を窓から投げ捨てる所の描写が優れている」と思っていたのだが、この「淵の王」も、共通する部分で秀逸だと思った。
 最近この作者は日常をぶっ壊して読者を焦燥させるのが上手くなっている、と思う。『煙か土か食い物』や『暗闇の中で子供』などの昔の作品は、「積み上げた日常で生み出すことのできる安心感をぶっ壊す」のではなく、「最初から最後までぶっ壊しまくる」という感じであった。ところが、最近はちゃんと人間の人生を常識的な範囲でちゃんと描くようになり、登場人物は必要な手段を講じ、努力をして、仕事をして、恋愛をして、セックスをして、結婚をするようになり、その上でぶっ壊されるようになった。今回の作品では、(5人目と6人目は物語を終わらせるために作られているので別にして)特に1人目と2人目、3人目と4人目はきっちり学生の頃からの成長の様を描き、「人生を歩んでいる姿」を描写した上でそれぞれの人生をぶっ壊す様を描く作業が行われている。その結果、「くらやみ」という人間の悪意に「敗北」した1人目と2人目、3人目と4人目の壊れる様は、非常に儚く、自然に残念に思える作りになっていた。
 また、5人目と6人目でおなじみの福井県警とか出てきて、またどうでもいい謎解き要素が描かれるのか、と思ったが、そういったことは全くなかった点も良かったのではないか。今回はどうでもいい謎解きを主人公がすることで勝利するのではなく、キング的な超自然的な手段を講じて、超自然的な対象を撃破する物語であった。

2014年6月14日土曜日

女のいない男たち 感想

 村上春樹の「女のいない男たち」という短編集を彼女から借りて読んだ。俺は最近、というかアメリカに行く前から5年ぐらいに渡って短編が気楽に読めて好きである。そういう意味では丁度良い短編集だった。寝る前から寝るまでで1つの作品を読めるサイズなので、この短編集だと6日は持つ。
 この短編集で俺が一番好きなのは一番最初の「ドライブ・マイ・カー」で、一番嫌いだったのは「独立器官」だった。それぞれ理由を記すと、まず「ドライブ・マイ・カー」は、本書の主題である「女がいない男たち」を一番良く書けていた作品だったと思う。この短編集では付き合っているor結婚している女性が他の男性と肉体関係にある状況が必ず登場し、寝取られた側の心理描写がされるわけだが、この寝取られた側の心理描写が一番克明に描かれたものが「ドライブ・マイ・カー」だったと思う。
 寝取られた側の心理描写にとって、一番大切なことは「他の男と肉体関係を結ぶ意思を持った妻・恋人の本心の全てを、判明させること(理解すること)はできない」という点である。まず当人の妻に(「社会通念上」は)直接聞くことはできないし、ここで何とか聞いたとしても、それが本心か、本当の理由なのかを確かめる術は、寝取られた側には確実に存在しない。これは、仮に寝取られた側が軍人か諜報員で、他の男と肉体関係を結ぶに至った妻を徹底的な拷問にかけ、死ぬまで他の男と寝た理由を拷問によって吐かせ続けたとしても、絶対に分からないという確信が、このブログの筆者にはある。それは、結局のところ男と女の関係というものが、他人と他人の関係だ、という非常に単純な事情によるものだ。
 この点は面白いのだが、男と女が何かしらの強い関係性を結ぶと、あたかも男の側、あるいは女の側は、もう一方の側に「同一性」みたいなものを、必ず感じることになる。相手側が自分と同じ心情を持っている、同じ感情を持っている、同じ方向性を向いている、ということへの疑いが、(程度の差はあれ)薄くなる。つまり、「他人と他人の関係である」という、人間関係の基本的な土台への認識が、肉体関係、婚姻関係、恋愛関係という「同一性」を感じさせる人生における状況によって、虚飾されてしまうのだ。
 その結果、寝取られた側は「他人と他人の関係」という、人間がどうやっても乗り越えられない了解の壁みたいな前提を認識するのが難しくなり、「なぜ(自分と同じことを了解しているはずの)こいつが」という、本質的に解決不能な問題を、あたかも解決可能である問題であるかのように錯覚してしまうのだ。「ドライブ・マイ・カー」の中で、高槻という、主人公が月並みな男と看做している寝取った側が、「他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です」という、極めて本質的な点を(非常に月並みな台詞で)述べているが、この点に関しては高槻という寝取った側の「他人」の見解が圧倒的に正しいと思う。その点を言葉にして描けている点で、「ドライブ・マイ・カー」という作品は、「女のいない男たち」という短編集にとって不可欠で、確実に最初の一篇として収められなければならなかった作品だったと思う。
 次に、「独立器官」を俺が嫌いな理由だが、それは、この短編集の作者が、いつかこのブログの筆者が述べたように、馬鹿を描けないからである。この「独立器官」について言えば、渡会という、「女性と遊んではいるが本当の恋と愛を知らない男」という、時々登場する海外の恋愛映画の主人公みたいな男=馬鹿の存在が、かなり無理をして作為的に作られた、という点を払拭できていないと思う。確かに、上で述べた「他の男と肉体関係を結ぶ意思を持った妻・恋人の本心の全てを、判明させること(理解すること)はできない」という点は描写されていた。上で述べた男女関係に潜む「同一性」の問題もほのめかされていた。しかし、「独立器官」では、このような問題を描く前提として、主要登場人物である渡会という人物の馬鹿っぽさを利用しているので、自然に馬鹿を描けない作者としては、かなり無理をして、条件設定をするはめになったと思う。例えば、①教養(分別)があり、②医者という肩書を持ち、③これまで交際する女性に不足したことがなく(笑)、④52歳にもなるのに部下のゲイに「アフターアワーズに女性と交際する」ことを管理させる(笑)、⑤結婚するつもりがない男の存在を、その男が「本当の恋(愛)に落ちる」前提とする作業をしている。せめて20代で、医者という肩書も持っていないし、部下もいないし、ジムにも通っていないし、部下がゲイじゃないし、「アフターアワーズに女性と交際する」ことを管理していない男にしてくれ、と思う。
 これに加えて、途中まで聞き手の作家はこの男が上で述べた「同一性」の問題から、なぜか他の女と恋愛する問題が「自分探し」の問題にすり替えられてこの馬鹿から語られる様を滑稽であるかのように受け取っているくせに、最終的には「独立器官」という、この馬鹿がやっと話した中身のある話を使って、「自分がなにものであるか」、というピント外れの問題を馬鹿が抱えていたことに聞き手が納得しているような描写も、無理があると思う。
 もっとも、ここで書いた「ピント外れの問題」を、(やや作為的にではあれ)読者に理解させる一篇としては、成功しているのかもしれない。短編の本質的な中身ではなく、「私とはいったいなにものなのだろう」という一文に、傍点を打つという形式的な作業によって。

2014年4月14日月曜日

フラニーとズーイ 感想

 またもう読んだことのあるJ.D.サリンジャーの「フラニーとズーイ」を衝動的に買ってしまった。村上春樹による新訳だというのは抜きにしても、実家に置いておいたもう捨てられたであろうサリンジャーの本が売られているという事実が目に入ると、俺は買ってしまうのだ。サリンジャーについては以前紹介したし、この「フラニーとズーイ(多くの場合は村上春樹が指摘している通り「ゾーイー」と呼ばれる)もその際に登場したが、俺は特にズーイの方の話が好きである。
 いつも通り一応あらすじを記述することに特に意味が無いこの物語のあらすじを紹介しておこう。「フラニーとズーイ」はシーモアを長男とするグラース家の他の兄弟である「フラニー」と、「ズーイ」を主要な登場人物とする話である。ここで「以上」とか書いて終わりにしてしまってもよいくらいタイトルから中身までその通りである。特段言及しておくべきは、「フラニー」と「ズーイ」は他のシーモアやバディーと言った「サヴァンじみた連中」でもなく、ブーブーのような「(割と)ちゃんとした大人」でもなく、一家の中でも珍しい役者としての才能を持った人々である。当然グラース家の人間なので何もしていなくても知識の獲得と思索を重ねてしまうが。「フラニー」はフラニー(女の子である。女子大生)とそのフラニーとは何もかもがすれ違った彼氏の会話の話。「ズーイ」の方は「叡知へと至らない知識」に溢れている大学と世の中にうんざりしてまいってしまったフラニーをズーイが慰める話である。
 この本に関しては、「ライ麦畑でつかまえて」の感想の際に匂わせたように、(ものすごく最後の方に登場するのだが)「太ったおばさん」の話が一番好きだし、何より重要だと俺は思う。フラニーが抱えていた悩みとは「叡知へと至らない知識」で満足して(中身が何もない知識を持ったまま)卒業していく大学の大学生、タッパー教授、彼氏、ルームメイトと、彼らに投影している聖書の中の自身の宗教的理想とは異なるキリストの姿の存在である。「宗教的」と言うと何か色が付いていそうで気持ち悪いかもしれないが、まあ平たく言えば「馬鹿ばっかりの世の中に辟易している女の子」がフラニーと言って良い。このような考えは誰しもが抱くだろうし、多くの場合は悩みにはならずに「落胆」程度で終わるのだが、彼女の場合はこの意味での「馬鹿」に聖書の中のキリストの姿を投影していたので、「悩み」になった。
 このような彼女の悩みを解決する方法としてズーイが呈示したのは、「太ったおばさん」を尊重するということである。「太ったおばさん」じゃない人間など(キリストを含めて)一人もいない。見世物にされている自分達をビールを飲みながらにやにや眺めている「太ったおばさん」、演劇の持つ芸術性など理解できる可能性も有していないのに真面目ぶった顔で劇を眺めている「太ったおばさん」、彼らのためにシーモアは靴をみがき、見世物を見世物として見せるべきだと述べた。
 「プロ意識」とは種類が違う。「愛」も対象が存在しないのでこの場合は妥当な解釈ではないだろう。別にシーモアもズーイも「太ったおばさん」を愛しているわけではないし、彼らのために見世物を見世物としている自分達を愛しているわけでもない。愛には対象が必要である。
 それではこれは何なのか、というと、「尊重」という言葉が適切だと思う。これはサリンジャーのものの見方が表れている部分で、「ナイン・ストーリーズ」の「テディ」の内容とも通ずるものがあるのだが、大切なことは、事実として存在する事実を事実として尊重し、行動することであり、それが人間が生きることだと、作者は考えていると思う。見世物を見ている者がキリストであれ「太ったおばさん」であれ、事実としてその場には見世物を提供する者とされる者が存在しているに過ぎない。大学にはただ知識を持っていることに満足している「太ったおばさん」ばかりだし、教授連中はそのような「太ったおばさん」を再生産し続けて社会に放出し続けていることに何の疑念も抱いていないし、付き合っている男もまさにそのような「太ったおばさん」みたいな奴だし、どうにもならないのだ。
 しかしながら、それが人間であり、人間が作る世界なので、(自分自身も例外なく「太ったおばさん」である)人間が生きていくということは、その事実を尊重することに他ならないということである。「太ったおばさん」のために、やっていくのである。

2014年2月5日水曜日

山月記 感想

 高校の教科書以来だが、最近山月記を読んだので(今更)感想を書く。
 いつも通り、作者の中島敦はこのブログで初登場となるので、作者について書いておく。中島敦は、その作風から大体推察できるように、漢学塾を営んでいた家庭に生まれた。「漢学」とは漢文で書かれた書籍を紐解き、そこから物語中に込められた思想などを学ぶ学問である(らしい)。このブログの筆者と世界が違い過ぎるので「漢学者」と呼ばれる人々が毎日何をして過ごしているのかは完全に想像の世界の産物だが、まあ漢字(それもちょっと難しい)で書かれた文書を読み漁る生活を送っているのだと思う。
 このような家庭に生まれたたため、自然と中島敦の文学作品のモチーフとなったのは漢書である。中でも「山月記」は、真面目に学校に通って真面目に現国の授業が面白くなくなった場合に多くの人間が先取りして読む作品かと思う。一応中島敦は大学院に真面目に進学した(漢学がモチーフだったので作家の中でも当時のアカデミズムに迎合しやすかったのかもしれない)。33歳という若さでこの世を去っている。
 いつも通り(いつもに比べて更に適当な)あらすじを書くと、唐の時代にぱっと公務員試験を受験して主人公は公務員になったが、「俺はこんなところで終わる人間じゃねぇ」と一念発起し、妻子が居るのに公務員を辞めて、詩人デビューするも、鳴かず飛ばずで思い描いていた理想からはほど遠い生活を強いられてしまい、再度公務員に戻るものの、昔同期で役人になった自分より馬鹿な連中が順調に出世していて、そいつらに顎で使われるのに耐えられなくなったために虎になって野山を駆け巡る生活を送るようになった、という話である。普通の人間は「顎で使われるのに耐えられなくなった」ことで発狂して虎という別の哺乳類になることは無いが、この主人公はなった。しかも伊達直人のようにマスクをかぶるわけではなく、「ブレス・オブ・ファイア」の虎人のように自在に人間に戻れるということでもなく、不可逆的に虎として生きる運命を享受したのが主人公である。この作品の一番良いところは短いところだと思う。
 一応この作品の主題めいたことを書くと、この主人公は自尊心が高く、他者と競合して傷つくのが嫌だった(もっと言うと「本当は才能ないじゃんお前」とか判明してしまうのが嫌だった)ため、もともと自分が持っていた非凡な詩人としての才能を磨くことができないまま、中途半端に俗世の生活を選んでしまい、寂寥とした気持ちを抱いたまま虎になった=人間を害するものになった、ということを伝える話である。簡単に言うと、人類の宝を生み出す可能性を持った者が、人類を害する者になってしまった話である。現代的な感覚からすれば「言うほど不可逆的な変化で完全に人の生き方として間違いか?」と思ってしまうが、まあそういう感情を抱くことができるのも古い作品を読む意義だと思う。
 なお、そもそもこのように自尊心が高い男がどのように告白して妻を得たのかが気になるが、妻の方から「この人は将来すごい人になる」と思って声をかけてきた可能性もある。
 上で述べたものと同じく、現代的な感覚からすれば「最後の詩もいい感じだったみたいだし、いっそのこと短期でもいいから虎としてデビューしろよ」と軽薄な気持ちを抱いてしまうと思うのだが、中島敦がこの作品を書いた1942年当時は「人外の者になる」というのはショッキングな変化として受け入れられていたのだと思う。この種の話を人類の歴史上、一番直截簡明なタイトルで表したカフカが「変身」を書いたのが1912年である。
 (俺の想像の中では)「変身」に登場する虫はでかいゴキブリなのだが、あの虫になったグレゴール・ザムザは人語もまったく話せなかったためリンゴやらをどすどすぶつけられて「辞世の句」めいたものも残せずに唐突に死ぬ。このような違いを認識すると、やはり海外作品の変身ものの話の方が「寂寥」、「寂寞」といった後に引く感情を抱かせずにさっぱり終了できるのかもしれない。もっと言うと感情を描くのではなく、事実を描く点で違いがあるのかもしれない。ザムザ君の家族も「友を想って泣いた」りせず、何かそれぞれの新しい「虫」の居ない生活にガンダム00二期後期のOPの最後みたいな感じで歩み出すわけだし、人外になった奴が居なくなってさっぱり読み終えたいなら「変身」を、夜風呂に入ってから寝るまで延々べっとりした寂寥感を味わって芋焼酎でも飲みたい人は「山月記」を読んだら良いかもしれない。インセクター羽蛾のような人は別にして。

2013年10月16日水曜日

ビッグ・ドライバー 感想

 何かちょっと隙があるので本当はモンハンがしたいのだがスティーヴン・キングの「ビッグ・ドライバー」の感想を書くことにする。「ビッグ・ドライバー」は以前感想を書いた「1922」と日本語訳版では姉妹本になっている作品で、以前紹介したものと同様に「救いのない状況で救いを求めて行動する人々」を描く中編集である。
 「ビッグ・ドライバー」の方に収められている作品についていつも通り適当あらすじを書くと、まず表題作になっている「ビッグ・ドライバー」では、道に迷った女流作家がレイプされて屑としか形容のしようがない犯人に復讐する話が描かれている。次の「素晴らしき結婚生活」では実はシリアルキラーであることを隠して長年結婚生活を送っていた屑としか形容のしようがない夫の裏の顔を知った妻がその夫をぶっ殺す話である。つまりこの本には屑としか形容のしようがない人間を殺さざるを得ない心境に陥った他者が殺す話が2本収められている。「1922」と明確に違うのは「ビッグ・ドライバー」で殺される側の人間は「ローズ・マダー」の夫と同様、目の前にデスノートがあったら8割以上の人は名前を書くであろう存在だという点であろう。「1922」では他人面で立派な消費者らしく主人公たちの行動を糾弾できたかもしれない人々が、「ビッグ・ドライバー」では糾弾するのに困難を覚えるかもしれない。
 個別の作品の感想について、まず「ビッグ・ドライバー」の方は、キングの人間を描く能力が良く活かされた作品だと思う。舞城王太郎の作品に関する感想を以前書いた時には指摘しなかったのだが、舞城王太郎が本当に男だと仮定した場合に、スティーヴン・キングと共有し得る部分は、異性(女)を描写するのが上手いという点だと思う。舞城王太郎についてはこの点に関する俺と俺の彼女の見解は同じなのだが、キングに関してはこれまでそれほど女性を書くのが上手いという点は俺の中で意識されていなかった。しかし、今作で改めて俺は気づかされたのだが、このスティーヴン・キングというモダン・ホラーの巨匠(兼薬物中毒者)は、女性を描くのが上手い。女性を書く行為そのものが上手いのか、それとも人間を描く能力の延長線上に位置づけられるのかは明確ではないが、多分「ビッグ・ドライバー」の展開と女性の心理に共感する人々は多いのではないか、と思う。
 「ビッグ・ドライバー」も女性が主人公だが、実は「素晴らしき結婚生活」の方も女性が主人公である(だから余計「女を書くのが上手いな」と思ったのかもしれない)。年齢はこちらの方が上で、初老の夫婦の内、妻の方がシリアルキラーである夫の正体に気付き、彼を殺す。
 本作に収められている作品2点に共通し、かつかなり作品の本質的な部分に触れるような感想を書くと、人間にとって「正しさ」とはどのように決められるのか、それを考えさせる作品だったと思う。人間は経験したことしか理解はできても納得はできないので、どこまで行っても他人の「正しさ」を経験できない以上、他人事なのだ。他人だからこそレイプ犯への復讐や身内のシリアルキラーを殺すことは「犯罪」だと糾弾できるし、実際苦痛と不正を経験しなかった者が多数派だったという単純な事実によって、人間社会は人が人を殺すことを正当化しなくてよくなり、不正を不正で贖うことを間違っていると見せかけることに成功していると個人的には思う。
 しかし、このように社会で示されている「正しさ」に関する人間の対応が「真実」かどうかは、問われるべきだろう。あとがきでキングが珍しく真面目な話をしているのは、この意味での「真実」性を物語が放棄するべきではないという内容だと解釈できる。物語という手法は、嘘であるからこそ社会で示されている嘘を嘘と偽ってそのまま表現しなくても良いのだ。「ビッグ・ドライバー」で避妊もされずに殴られながらレイプされたテスの存在も嘘だし、「素晴らしき結婚生活」で殺人依存症に陥り他者を食い物にしているボブの存在も嘘なのだ。しかし、だからこそ物語は社会で正当化されている見せかけの正義に正当性を持たせて、個々の登場人物が抱く個別の「正しさ」という真実から逃げなくても良いのだ。現実世界では糾弾すべき行動であっても、その糾弾の根拠となる「正しさ」は、苦痛と不正を味わった個人の感情にとって本当の正しさではない。嘘である物語だからこそ、人間が抱く真の感情をそのまま伝えることができるのであり、そこから逃げた時、物語は価値を失うのだと思う。

2013年9月9日月曜日

1922 感想

 もはやこのブログの「小説の感想」ラベルでお馴染みの登場人物になりつつあるスティーヴン・キングの中編2本が収められた「1922」を読んだ。
 この本の内容をお馴染みの適当あらすじで書くと、この本は、土地の売買に関する言い争いで息子と(老獪な手法で)結託して妻を殺害した男の話である「1922」、癌で余命幾ばくと宣告された男が怪しげな男と悪魔の取引を行い、自分の寿命を延ばす代わりに、自分の親友を不幸にする契約を結ぶ「公正な取引」の2編から成る。原題が"Full Dark, No Stars (「星も無い真っ暗闇」)"であることから分かる通り、暗いと言うより陰惨な話ばかりの本である。原作は2010年に出版されていて、ちゃんとキングが仕事をしていたことに驚かされる。まだ彼女に貸してもらっていないので読んでいないが、(和訳本では)「ビッグ・ドライバー」という中編2本が収められた本とセットである。
 まず「1922」については、キングお得意の殺害プロセスと死体の描写、子供の描き方が見どころである。しかし、俺はこれらの描写以外に、個人的に(ほとんど本編とは関係ないが)「行き場の無い知力」ほど不幸なものは無いという感想を持った。別にこの本だけが起因になっていたり、今に始まったことではないのだが、俺は時々、その半分の部分の素晴らしさに目を瞑り、もう半分の悪い部分だけを見て、「もっと馬鹿で間抜けで人の感情とか考えとか全く分からず、毎日同じことを繰り返して何も考えない人間に生まれてくれば良かった」と考えたり、彼女に話したりして辟易させることがあるのだが、本作のウィルフレッドの描写や設定を読んでまたそのように考えた。
 ウィルフレッドの設定は大恐慌前の1922年、実は不況に差し掛かっていた農業を営んでいる田舎の家庭を支え、学位を持っているわけではないが、読書好きな一見しっかりした知力を有している男である。別にそれほど深く触れられていないし、上記した俺の脱線気味な勝手な感想が無ければ特段触れるような点でもないかもしれないが、この男は使用する目的も有さず、徒に本を通じて知力を高めていったことで(あまりにも無駄な)苦痛を味わうことになったと思う。具体性を持たない知力は中途半端な計画と、中途半端な結果に対する認識と、終わることのない悪夢をこの男に与えることになった。「行き場の無い知力」ほど悪いものは無い。それが無ければこの男も心の中に「陰謀男」を巣食わせることにはならなかったのだ。別の場所で何も考えずに農業を続けられたかもしれないし、何も考えずに妻の言うことも聞けたかもしれない。変な表現になるが、これは感想としては的を外しているが、俺個人にとっては的を得ている感想だと思う。
 次に「公正な取引」については、古いタイプの本来のキングらしい作品が好きな人は好きになると思う。全く新しさは感じないし、結末も展開も全てが誰でも読める内容だが、やはりスティーヴン・キングはこの中編で表現されているような(真っ暗で)「超自然的」な主題を取り扱うことから、未だに逃げていないのだなと思う。この種の作品に「戻ってきた」わけではなく、彼はそもそも「相変わらずそこに居る」ということなのだろう。

2013年6月17日月曜日

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 感想

 村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を2週間ぐらい前に読んでいたので感想を書こうと思う。何気に「ツイッター」や「フェイスブック」といった用語が村上春樹の作品の中でまともに登場するのは、初めてかもしれない。そしてこのブログでまともに彼の作品を取り上げるのも初めてかもしれない。
 村上春樹は、「風の歌を聴け」という本当にサイズ的に薄い本でデビューした作家である。持っているバックグラウンドは早稲田大学卒なので、多くの日本人にとって比較的まともに見えるかもしれないが、この作家はキングや西尾維新などと同じく学校教育にそれほど価値を見いだせなかった作家の方なので、(たぶん嫌々ながら)7年もかけて大学を卒業している。彼が異様に愛しているレイモンド・カーヴァーが小説作法を学ぶためにわざわざ学校へ通ったことと対照的である。
 個人的にこれまで彼のほとんどの作品を読んでいながら別に「ハルキスト」とかいうのではない人間の立場からすると、彼の作品(特に長編)では主人公が異様にかっこよく描かれるのが特徴だと思う。彼の描く主人公の特徴をまとめると、①クラシックに造詣が深い、②文学作品に造詣が深い、③映画にも造詣が深い、④さらにお酒にも造詣が深い、⑤さらにさらになぜか英会話もできる、⑥そしてさらに女に異様にモテまくって高確率で作中で性行為をする、という性質を持ったスーパー・コーディネーターである。つまり一見頭の良いTo LOVEるみたいなものである。
 例えば今回取り上げる「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を例に挙げれば、色彩を持たないはずの多崎つくる君は、疲れたら棚からカティサークを取り出して飲み、フィンランドへ行っても現地人と英語を用いて意思疎通を図ることができ、現実世界でも夢の世界でも女性と性行為に及ぶ男である。いやー、是非村上春樹さんには次の主人公は疲れたら棚からワンカップやいいともを取り出して競馬新聞を読みながら飲む派遣社員の男や、母親を殴ってカレーを買いに行かせるグルグル魔人にして欲しいと思わずにいられません。
 さて、いつも通り作品のあらすじを適当に書くと、高校時代に仲良し5人組の一角を担っていた色彩を持たない(はずの)多崎つくる君は、大学時代のある日に仲良し5人組から突如外されてしまい、ショックで死にそうになるがどうにかこうにか耐えて就職して30代のおっさんになって女と付き合っていた際に「駄目だわ。今のお前とはセックスできそうにないわ。お前の中の闇を克服して。」みたいなことを言われて仲良し5人組から外された理由を探す旅に出る・・・という話である。
 残念なことを1つ言わなければならないが、この作品の主人公は上記した通り例外なく村上春樹の描く主人公としての性質を持っているので、色彩はあります。彼より「色彩の無い」人間がそもそも掃いて捨てるほど存在していることが自明な世の中なので、「あくまで5人組の中では」という条件付きで初めて意味を持つタイトルである。したがって、本当に色彩のない人間がこの本を買って読んでも共感できる部分は特に無い。
 これと付随して一見キング的な「その描写はフェアか、リアルか、」という基準で問題になりそうなのは、5人組の1人であるフィンランド在住のクロが、多崎つくるを仲良し5人組から外した理由を多崎つくる本人にどうしても言えなかった、という部分である。最初にクロ本人が多崎つくるにこの話をしたページの描写だと、どうしてもこの部分がフェアでもリアルでもなくなってしまうと思う。なぜなら、上記した村上春樹の描く主人公は、例外なく物分かりが良すぎるからである。ちゃんと理由を話せば「うん、分かったよ」と言って納得する余地を持った主人公なのだ。だから、作者はその後のページでクロ本人が多崎つくるに片思いしていた、シロの様子が多崎つくるの想像より異様だった、という描写を帳尻を合わせるがごとく行うはめになったと思う。それらの特段の描写がなければ、多崎つくる以外の4人が多崎つくるに彼を外す原因を話さなかった理由を正当化できなかったと思う。
 最後にこの本の終わり方であるが、村上春樹の他の作品で言えば、「アフターダーク」的な終わり方なので、あの作品の結末部分が気に入らなかった人は読まない方が良い。もっともそれ以前の問題として、村上春樹の描く主人公が気に入らない、見ていて虫唾が走るという人は、多分作者は今後も同様の主人公を量産していくので、もう村上春樹の話題に関わらない方が良いかもしれない。そういう人は諦めて彼の短編を読むか、紀行文を読むしかないかと思う。

2013年6月7日金曜日

審判 感想

 「審判」は、フランツ・カフカの作品の中でも割合世間的には「変身」と同程度に認知されていると思う。今回は俺の彼女が意味不明と言っていた作品の感想である。
 まず、フランツ・カフカという特異な人物について語られる必要がある。ドイツの代表的な作家であるカフカは、保険外交員として生計を立てながら小説を書いた。カフカはヘミングウェイやフィッツジェラルドと違い、徴兵を免れているため、戦争が彼の作品の中で登場することは基本的には無い。あの時代にあって比較的恵まれた境遇にあったと言っても良いだろう。その割に早死にで、41歳で結核により死亡している。死亡に際して草稿等は全て燃やしてくれと言っていたのに、勝手に出版されてしまった。今回取り扱う「審判」も、そんな本来はゴーゴリが(全損まではいかなかったが)「死せる魂」でやったように燃やし尽くされてしまうはずだった作品である。
 「審判」の内容を簡単に説明すると、銀行に勤めるヨーゼフ・K(30歳)が、ある朝目が覚めると突然2人組みの男に自分が訴えられて、逮捕されていることを伝えられ、よく分からないがとにかく戦うしかないということで、法廷闘争を地道に繰り広げていく話である。地道に、と書いたように、法廷闘争そのものはそれ程全面的に描かれないので、読者は常にヨーゼフ・Kが、どこかで繰り広げられた法廷闘争の結果、疲弊しきっている姿を見ることになる。
 まあそもそも草稿の作品だったということもあり、この作品は俺の彼女が指摘したように一見意味が分からない。より厳密に言えば主題がどこにあるのか、読者は常に気を払って探し出す必要があると言って良い。終わり方まで突然でシュールである。
 実は俺はヨーゼフ・Kという主人公が好きである。俺がモンハンで使っている名前もこのブログで名乗っている名前もそこから取られたものである。KになったのはMHP2の時はまだカタカナが使えなかったので、ヨーゼフを表現しづらいということでKにしたのである。というわけで夏目漱石の「こころ」のKとは、モチーフ的には関連しているが、それ自体は俺個人の直接的なモチーフではない。カフカの作品が直接的なモチーフである。なぜか作者なりに思い入れがあるようで、同名の主人公が「城」などの他の長編でも登場する。
 俺がヨーゼフ・Kを好きな理由は、この男の実直さにある。この男、なんだかんだ言って忍耐力があるのである。「城」でも「審判」でもそうなのだが、この男はカミュ的な不条理にいつも巻き込まれて、迷宮のような裁判所や城、いつも2人組みで登場する道化野郎共、繰り返される繁文縟礼な手続、それらに疲弊しながらも粛々と立ち向かっていくのである。「もうやめた」とか言わずに付き合ってやるのである。この実直さが俺は好きなのだ。殺しても殺しても絶滅しない非実在害獣に立ち向かっていく不条理に付き合わされている主人公にぴったりである。
 物語自体について触れれば、「審判」は、日常の中にある非日常めいたものによって、人の人生が影響を受ける様を描いている。「非日常めいたもの」というのは、本作品で展開されるどこでやっているのかよく分からない法廷闘争であり、それは完全に夢や幻などではないのだが、やはり現実からは遠いのだ。手続、更には建物の構造や他者の性格そのものの複雑性が、現実からの乖離に拍車をかけている。それでいてその「非日常めいたもの」は人の生き死にを左右してしまうほどの決定的な力を持っているのである。「いやいや、おかしいだろ」と言って笑いながら突っ込みを入れてしまうような不条理さに、善良な小市民は殺されるのだ。その意味での皮肉めいた社会の軽さと重さが、よく描かれていると思う。

2013年6月3日月曜日

グレート・ギャツビー 感想

 読み直したいと言っていた「グレート・ギャツビー」を早速読んだ。俺としてはまともに自分で買って本を読んだのは(論文等を「確認」したのを除けば)実に数か月ぶりのことである。6年ぐらい前に買って読んだ本をもう1度買いなおして読むというのも不思議なものである。あと何度この作品を俺は死ぬまでに買いなおすのであろうか。
 いつも通り、まずスコット・フィッツジェラルドという不幸な男の話をしておかなければならない。まあ、まともな作家などは大体不幸なのだが。フィッツジェラルドはプリンストン大学を出て軍に入隊し、その後NYでコピーライターとして生計を立てながら小説を書いた。今回取り上げるグレート・ギャツビーは、彼の非凡な能力が注目を浴びていた、1925年に出版された作品である。この時期が彼の人生で最も輝いていたと言っても過言ではない。「移動祝祭日」という、ヘミングウェイの作品の文庫版としては新しい方に入る短編集でも言及されている通り、フィッツジェラルドの人生は貧困や妻の統合失調症などにより、苦行のようなものだった。偉業を残す人間は恵まれない境遇に生まれている、とか、世間では言われることがあるのだが、そんなことは他人事かつただの消費者だから言えるだけである。
 さて、その苦行の連続であった男が人生の絶頂期に書いた作品が「グレート・ギャツビー」である。いつもの簡略あらすじを書いておくと、イェール大学卒の主人公ニックは、証券会社で働くためにニューヨークへ出てくるのだが、そこで隣の家で毎晩のようにパーティーを開いているジェイ・ギャツビーと出会い、彼との交流を通じて、既にトム・ブキャナンと結婚しているデイジーという女性へのギャツビーの思いを知る・・・という話である。
 「グレート・ギャツビー」は一見名前からして華やかそうな話であるが、悲劇である。FFタクティクスの感想を書いた時と似たような感想だが、この作品も例外なく「持たざる者」ギャツビーのための出口などどこにも用意していない。自分の全てを偽物で塗り固めて二度と取り戻せない高尚な理想を追い求めるギャツビーも、自分の本物の成功者の地位を利用して低俗な現実を維持するブキャナンも、破局へ突き進んでいく。
 上記した簡略あらすじだと、一見ギャツビーの恋物語のように見えるが、それは違う。この物語でギャツビーが追いかけていたのは、過去に交際した良家(で例外なく浅薄)のデイジーという女性ではなく、彼女に投影している二度とやり直せない自らの過去という理想である。ギャツビーは、デイジーを手に入れることで、彼女に現在の夫のブキャナンを「愛したことはなかった」と言わせることで、自分が理想としてきた自分の人生が再構成されると思い込んでいるのだ。単純に自らの快楽のために愛人を囲っているブキャナンとは対照的である。悪い言い方をすればブキャナンは「大人」で現実しか見ていないが、ギャツビーは「子供」で、理想しか見ていない。
 しかし、この一見愚かな行いは、単に愚かだと否定されるべきものではないだろう。作者が語り部たる主人公を通じてギャツビーを褒め称えたように、嘘で塗り固められたこのギャツビーという男の自らの成功への理想へかける一途さは本物で、高尚だったからである。愚かさと偉大さは両立できるのだ。

2013年5月31日金曜日

ライ麦畑でつかまえて 感想

 ヘミングウェイの作品に触れた辺りから、本当はフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の感想を(思い出して)書こうかと思ったのだが、不思議とまた読み直したくなったので、今回はJ.D.サリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」の感想である。
 J.D.サリンジャーは、20世紀のアメリカ文学を語る上で欠かせない作家の1人であることは間違いない。その特徴は何と言っても厭世的な態度と数本の(しかしあまりにも卓越した)名作であり、2010年に死ぬまでにほとんどの作品を書かなかった(リンク先で言われているように計画はあった)にも関わらず、数本の代表作で世界中の読者の心を掴んだ稀有な作家である。まさに作家の中の作家である。
 今回取り上げる「ライ麦畑でつかまえて」は、放校処分を受けたどうしようもない落ちこぼれである我らがホールデン君が、3日間いろいろな人に会ってうんざりしながら、自分の将来についてなんとなく考える話である。ナルトどころじゃない落ちこぼれっぷりなので、是非「俺は落ちこぼれだ」とか勝手に言っている連中に読んでもらいたい。一見ホールデン君は終わっているから。しかし、彼は最終的に「広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気づかずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間」を目指して新たな人生へと旅立つのだ。
 実は個人的にはサリンジャーの最高傑作というか、この作者の全てが込められたと言っても過言ではない作品は「バナナフィッシュにうってつけの日」だと思っているので、「ライ麦畑で捕まえて」よりも気に入っているのだが、この作品も俺の大好きな作品である。サリンジャーの作品で疑いの無い代表作ということもあり、俺が最初に出会った作品もこれだった。
 俺が「ライ麦畑でつかまえて」で好きな場面は、終盤に彼の元恩師の先生と会話する場面である。先生の「学校という場所は自分の頭のサイズを知る場所だ。そのサイズが大きい人も居れば、小さい人も居る」という趣旨の話の後、ホールデン君はこの恩師を「ホモ野郎じゃないか」という疑いを抱いて去っていく場面である。この描写を俺は非常に気に入っている。なぜなら、この意味での「冷めた賢さ」を持つ若者の姿こそ、サリンジャーという作者があらゆる作品を通じて見出しているものだと思うからだ。
 例えばホールデン君と対極に位置するように見えるグラース家の長男シーモアも、その原案となったナイン・ストーリーズの天才少年テディも、この誰にも止められない「冷めた賢さ」の持ち主である。これは冷え切っていて、誰にも止められるものではないのだ。ホールデン君が自分で「広いライ麦畑で遊んでいる子供たちが、気づかずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間」になろうとしたように、自分で止めるしかない。止められなければシーモアのように自殺してしまうかもしれない。
 しかし、作者はこのどうにもならない冷たさを、自問自答で解決できるものだと位置づけていない。結局自分以外のものとうんざりしながら、誰にも止められるものではないと分かっていながら、もう話したくないと思いながら、「ホモ野郎」と思いながら、暖めていかなければならない冷たさだと位置づけていると思う。ホールデン君が3日という時間を使っていろいろな「どうでもいい連中」に会うという、一見無駄なプロセスを踏んだのもそのせいである。これは、「フラニーとゾーイー」でゾーイーがフラニーを説得した際に言った「それでも太っちょのオバサマのために」という言葉で示されている。この話をした張本人であるシーモアが自殺してしまったように、どうにもならないことはあるかもしれないが、それでもろくでもない世界と関わっていかざるを得ないのだ。その上で自分で決めるしかないのだ。「太っちょのオバサマのために、彼女のためだけに」やっていくのである。それがおそらく生きていくことだと、作者は考えていると思う。