舞城王太郎の「深夜百太郎 出口」を彼女から借りて読んだ。九十太郎以降はこれまで2~3ページで終わっていたのに突然長くなって4ページ以上になったりしたり、九十九太郎で久し振りに九十九の羅列を目撃したりした。九十八太郎の「寝ずの番」とかは多様な車という現代性の象徴と、百鬼とも呼べる妖怪の群れがこの人の作品らしい動きを伴ってぶつかり合うような感じであった。しかし、俺は「入口」の方が好きであった。
「出口」の中で好きな作品は、俺が「入口」の感想で触れていた「終わり」についての物語に対する回答のような六十太郎の「僕の中の鏡」であった。描写は「車の河」のように抽象的ではないが、謎の少女から語られる「まあ≪終わり≫なんて別にどうでもいいっちゃどうでもいいから」という台詞が、終わりに関する全てを表していた。
また、九十五太郎の「あぶり出しメール」では、久しぶりにこの作者の書く会話劇といったらこんな感じ、というやり取りを目撃した気がする。多くのこの作者の作品で共通する要素の1つであるが、大体の会話劇で「ぐだぐだ無理矢理相手を逆なでするような子供じみた理屈をぶつけあって結局会話上で無理矢理和解しない感じ」が描かれるのだが、この短編はほぼそれだけが構成要素となっていた。この作者が会話劇で描く「分かり合えない感じ」については、特に女性を話者として描いている際の描写が好きである。そこに現代性を感じる。まあ10年以上前からこんな感じなので、今は新しい現代性が別にあるのかもしれない。
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