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2022年3月9日水曜日

ELDEN RING 感想

  昨日の朝ぐらいにELDEN RINGのトロフィーをコンプリートした。率直にELDEN RINGが2022年の一番良いゲームであると早くも決まった可能性がある

 適当にストーリーを説明しておくと、神であるマリカが「王」となり、世界の秩序の基礎を形成する黄金律と「エルデンリング」という指輪が存在する狭間の地において、マリカの子孫である半分神のデミゴッドが暗殺された結果マリカがおかしくなり、「エルデンリング」が砕けて他の生き残ったデミゴッド同士が戦争を行いめちゃくちゃになった世界で新しい秩序を作る王になるために主人公(「褪せ人」)ががんばるという話である。ダークソウルでは王を殺しに行く話だったので今回は王になるんですね、とか思っていたが、結局王(みたいだったもの)はそいつらが持つ大ルーンなる「エルデンリング」の破片を集めるために主人公が皆殺しします。

 ダクソと違うのは単純にオープンワールドになった点であった。他方で戦闘をはじめとするシステムに関しては正直ジャンプができるようになったダクソ3(あと馬)という感じであり、この作品が実はダークソウル4です、などと説明されても納得ができる作品になっている。ダクソのシステムに通暁している人間についてはそのまま何も考えずにプレイでき、俺に関しては結局ロングソードを炎派生させていつも通りの攻略武器を作り、上質のクレイモアと一緒に上質ビルドで振り回していた。

 なお今作に関してはとにかく全てが広く長い、という特徴を持つ。1つ1つのダンジョンが(使いまわされている作りもあるが)これまでダクソで存在していた規模以上に数が非常に多く存在し、ボスに関してもそれら1つ1つに場合によっては複数配置されている。それに加えてオープンワールドの探索も存在するため、結果的にトロフィーをコンプリートするために隅々までやっていると10日程度かかった。PS5のトロフィー情報だと2022年3月8日時点でトロコンは0.4%とかだったが、このゲームに関しては納得の数字だと言わざるを得ない。今後ELDEN RING2が発売された場合は2週間ぐらい休暇を取る必要があると思われる。

2022年1月19日水曜日

FF XIV 暁月のフィナーレ 感想

  アーリーアクセスから4日ぐらいで実はFFXIVの最新拡張ディスク(もうディスクでもない)である暁月のフィナーレを終わらせていた。今はもう3層の消化に毎週苦しんでいます前回もファイナルファンタジーとして満足できる内容とか書いていたが、今回も同様であった。

 久しぶりに適当なあらすじを書いておくと、漆黒の最後部分で突然世界を終わりにするとか言い出したアサヒ君の体を使っているファダニエル(とゼノス君という(自称)親友)が述べている「終焉」とは具体的に何なのかを解き明かすために、まだ行っていなかったアルフィノの故郷やら帝国領土やらを訪れ、唐突に月や過去の世界にも行き、やがて「終焉」とは想いの力であるデュナミスの変調による異形化であり、その力を操ることのできる存在がウルティマ・トゥーレなる最果ての地からアーテリスめがけてその力を行使していることを知り、今度はそこを目掛けて宇宙船に乗って戦いを挑みに行く・・・という話である。

 発売前はやたら月へ行くということが強調されていたが、実際には主人公は今作で月どころか星間レベルでの空間移動と、数万年規模での時間移動をした。特に後者に関しては誰も突っ込まないがやばい異能であり、エルピスという古代人が住まう場所へ主人公だけは何度も継続的に行けるようになってしまった。漆黒で第1世界という別世界にも継続的に行けるようになっているため、さらに特別な存在になったと考えられる。

 今作については意図的にこれまでのFFXIVのやり方やら、MMOという縛りみたいなものを自ら捨てることでさらに作品の質を高めることを試みられている。個人的には3度ほどこの試みが感じられる部分が存在したと考える。第1に、月へ行ったあといきなり「最古にして最強」とか言われていた神の片割れであるゾディアークと戦う展開になった点である。ローンチトレーラーで流れていたENDCALLERというラスボスの曲と考えられていたBGMもいきなりここで流れ、主人公も漆黒の最後で切り札として使った「稀なるつわもの」を呼び出す力をレベル83ぐらいのここでもう使うことになる。

 第2に、エルピスの87IDで古代人3人がフェイスとして同行可能になった点である。漆黒から導入されたフェイスは基本的に暁の血盟のいつものメンバーをNPCとして同行させるシステムであったが、エルピスにおいてエメトセルクをはじめとする3人を例外的に同行させることができ、ああこれは神ゲ―とか言われそうだなと思ったりした。

 第3に、ハイデリンと戦う際にMMOとしてのファイナルファンタジーとして前提とされていたCFでのマッチングを捨て去り、FFXIVとしては史上初のフェイスでの攻略を可能とした点である。この時点でもうこのFFXIVというゲームはMMOをオンラインゲームを作るとかではなく、ファイナルファンタジーとして存在するゲームになったと実感した。他人とオンライン上で協力することはMMOである限り前提とされていると思われるし、CFやRFはそれを円滑にするシステムであったが、FFXIVという国際的にも広く認知されているMMOが自らそれを捨ててまでこの展開を用意した、というのは単純に面白いと感じた。

 見ず知らずの他人との協働をMMOという縛りの中で前提とするのではなく、物語としてより妥当な暁の血盟のNPCの面々との協働に自然に誘導することで、FFXIVのセールスポイントの1つである物語性をさらに押し出すことにつながったのではないかと思われる。今作も素晴らしいファイナルファンタジーであった。6連続突進の件は許せませんが、まだプレイしたことが無い人は言葉通り素晴らしいファイナルファンタジーに出会うことができ、これまで俺と同様に物語を追ってきた人はその道程が報われるゲームになったのではないかと思われる。

2020年4月14日火曜日

FFVII REMAKE 感想

 FFVII REMAKEを2日前ぐらいにクリアした。このFFVIIというゲームについては多くを記述する必要が無いと思う。俺達は小6ぐらいにFFVIIをやることでプレイステーションをやるようになった。このゲームを他のゲームと同列に扱う、ということは難しい。おそらく世界で最も知名度の高いRPGのキャラクターもこのゲームの主人公を務めている。実はFFVIIのストーリーは尖っているし、彼自身の設定も尖っているが、それでも絶対的なFFの主人公を挙げろと言われたら彼になる。
 REMAKEについて述べておきたいことは1点だけであり、スクエニと野村さん達はかなり危険だが意味のある綱渡りをした、ということである。こんな内容にしたら絶対に批判は出る。ただでさえ「失敗」という印象が強いFFXVの後なのだ。この別格のゲームのリメイクはさぞ懐古的で昔を懐かしむ人間に配慮した「守り」の作品だろう・・・という予想は完全に誤りであり、おそらくそれとは反対に、FFがまた前に進んでいくための決断をされている、と思われる。そう言わざるを得ない内容と終わり方であった。
 したがって、ただ昔を懐かしむことを目的にしたプレイヤーはこのゲームを批判する。あの運命の特異点の場面でエアリスが止めた段階でやめた方が良い。それが正しいと思う。こんな内容にしているのでそんなことはスクエニと野村さん達も分かっていると思われる。
 しかし、彼らは前に進む展開を選択した。何度もプレイして全ての展開を知っているプレイヤーにも「新しい」と感じられる内容を選んだ、と思われる。自覚的に物語中で先行きが見えない、という表現が用いられているように、FFVII REMAKEは意味のある綱渡りをすることになった。
 綱渡りなので、どちらに転ぶかは不明である。何年か経って結局「終わった」FFXVやFFXIIIのようになれば俺もめちゃくちゃに悪態をついて勝手に叩くようにしようと思う。しかし、今のところ俺はFFVII REMAKE(新劇場版)がめちゃくちゃに面白い

2019年12月31日火曜日

デス・ストランディング 感想

 デス・ストランディングを昨日というか今日の深夜1時ぐらいにかけてクリアした。MGSVの前情報やら中情報やらがMGSVの後にクソゾンビゲーを出したクソ企業のせいでろくでもなく完全に触れていないため小島監督の作品をまともにやるのはMGS4以来である。発売日当日にダウンロード版を購入していたが、途中で全くストーリーを進めなくなり、異様に道路作りに執着し始めた上、西海岸から東海岸に戻る下りでちょっとやめよっか、という気分になっていたため12月31日まで時間がかかった次第である。
 いつも通り適当にストーリーを文章を切らずにまとめておくと、「DS(デス・ストランディング)」と呼ばれる現象が起き第6の絶滅期に入ってBTというあの世の化け物が跋扈するようになった各都市の「つながり」が断たれたアメリカでポーターとして勤務していたサム・ブリッジズが、仕事の過程でBTとの対消滅に巻き込まれて目が覚めると元職場のBRIDGES(=実質的にはその世界の合衆国政府機関)に所属している義理の姉のアメリから西海岸から東海岸まで旅をしてカイラル通信と呼ばれる通信網をつないで欲しいと言われ、西海岸から東海岸まで仕方がなく赤ん坊のBBと旅をしていく中でやがて「絶滅体」と呼ばれる存在の正体とDSの真相を知る・・・という話である。「DSの真相を知る」といっても多分謎だらけである。
 このゲームは単純に言うと配送業ゲーである。サムに依頼をする連中がいるので連中が求める荷物を運ぶゲームが「デス・ストランディング」である。この字面だけを読むとクソゲー臭がするが、例えばより効率的な配達のためにBTやミュールと呼ばれる盗賊を狩って資材を集め、悪路に(1人用)高速道路を通し、山岳地帯にジップラインを通して開発し、どのように機能するか試していく、ということをやっていくと普通に100時間ぐらいは飛ぶんじゃないかと思う。このような「開発」と試行錯誤、そして小島監督が作った話がこのゲームの本質的な魅力である。上述した「配送業ゲー」という平たい捉え方をすると全然面白くないのだが、本質的な魅力に気付くことができれば素晴らしいゲームであった。今年は俺も14のパッチ5.0の際に言及していたSEKIROが最高のゲームであったが、デス・ストランディングにも固有の魅力がある。とりあえず道路を作ってほしい。
 また、このゲームについては終わり方を含めてこれから小島監督は死ぬまでゲームを作り続けるんだろうな、と思えるような、次の作品に向けて進んでいくような終わり方であった。彼の作品を追ってきた人間であれば多分安心するだろう。

2019年7月5日金曜日

FFXIV 漆黒の反逆者 感想 

 昨日FFXIVの最新の拡張ディスクである漆黒の反逆者を無理矢理なんとか終わらせた。今年出たゲームではSEKIROを超えるものはないと思っていた。しかし実はMMO RPGという括りではなく、RPGで、「ファイナルファンタジー」シリーズで、という条件が付けば、今回の漆黒の反逆者が今年は最高のゲームだった、という結論になるのかもしれない。
 いつも通り適当なあらすじを書いておくと、前作紅蓮のリベレーターでのメインストーリーが終了後に帝国と同盟軍との戦争が始まっていた最中、突如謎の声に導かれて元々いた原初世界から第一世界に転移させられた主人公が、第一世界から夜を奪っている「光の氾濫」の原因を生み出した「罪喰い」と呼ばれる存在との夜を取り戻す戦いに身を投じていく内に、やがて主人公が元々いた原初世界を含む全世界が今の形で存在している理由を知る・・・という話であった。
 素晴らしい「ファイナルファンタジー」だった。今回は「フェイス」と呼ばれるNPCとID攻略が可能であるシステムや、暁の面々がそれぞれ抱えている問題に向き合う経緯を細かく描いたこと、そして何より過去の「ファイナルファンタジー」と比較しても重厚な筋の通った背景と言葉を持ったエメトセルクというもう1人の「反逆者」との対立を描いたことが、主人公や仲間の行動に説得力を持たせることに繋がったのではないかと思われる。特にエメトセルクについてはもう今回の拡張が最後であったとしても全く問題が無いような位置づけがされた存在であった。普通のシリーズもののRPGであればその判断がされても全くおかしくないと思われる。BGM、IDの設定、展開全てにきちんと雰囲気だけではなく物語上の必要性を感じられる作りになっている。きちんと作られているが故に、最近「ファイナルファンタジー」シリーズを制作している企業が作るゲームで繰り返されているDLCによる補完の必要性を全く感じない。反対に、メインストーリーが終わった後にはちゃんと1つの物語が終わったということを感じることができる。
 また、昼を取り戻す戦いであったことや、主人公の宿敵とされる人物が旅に帯同してくる点など、一応シリーズの系譜としては本作の後に位置づけられるFFXVに影響を受けたのか・・・とも思ったりしたが、実際にはその作品よりははるかに「ファイナルファンタジー」シリーズとして質が高い、と言わざるを得ない。きちんと説明が存在するということ、そのために必要な重さを持った言葉が登場人物に与えられているということが本当に重要なのだと思う。FFVIIのリメイクが既に発表されているが、それまで何か今世界で出回っている「ファイナルファンタジー」シリーズでできるだけ新しいものをきちんと「ファイナルファンタジー」としてプレイしたい場合、この漆黒の反逆者は間違いなく薦められる一作である。

2017年8月8日火曜日

FFXIV 紅蓮のリベレーター 感想

 もう結構前に終わったのだが、前回の蒼天のイシュガルドに続き、FFXIVの拡張ディスクである紅蓮のリベレーターの感想を書いておくことにする。今回は別に拡張前に空白期間とかは無く、モンハンをやらなくなった代わりに鳳凰を取るとかAWをルクスまでするとか周回しまくっていた影響で、自然に拡張までにきっちり準備ができていた状態であった。
 いつも通り紅蓮のリベレーターの適当な筋を書いておくと、イダだったと思っていたらリセですとか突然言い出した人を筆頭に、帝国に占領されたアラミゴを奪還すべく、ゲリラ活動を行っていた奴らと合流するも敵側のビジュアル系バンドのボーカルみたいな首魁に負けイベントで敗北した後、今後戦っていくためには同じゲリラ仲間が必要と思った主人公たちが海を渡ってアジアンテイスト溢れるクガネやらドマやらを旅し、やがて帝国に反旗を翻す戦いに身を投じていく・・・という話である。アリゼーが勇者過ぎる。元クリスタルブレイブ総帥様と違って泳げるし。途中で影が薄くなるのが惜しい。
 今回の話については個人的には蒼天のイシュガルドよりは好きではないが、それ以上に全体的なゲームとしての質が各段に向上していると感じる。上述したアジアンテイスト溢れるフィールドはどれも造りこみが素晴らしく、特にクガネについては他の国のゲーム会社ならまず造れないような造形で、質が高い。祖堅さんが作成したメインテーマの曲調を生かしたアレンジ曲の作りこみは、FF13やサガフロ2で浜渦さんが用いていた手法にも通底するものがあり、神龍戦で同じ曲調が登場した時は素直に感銘を受けた。例えばクロノトリガーの「世界変革の時」でメインテーマの曲調が登場することとも通じ、「スクウェア」産のゲーム音楽という感じがする。
 新登場の侍も良い。やはり「るろうに剣心」を愛する者としては侍の魅力に抗い難く、蒼天ではずっと忍者だったが紅蓮では侍になった。しかし「忍空」や「バジリスク」はそんなに好きではなかったが、やはり根っからの陰キャラであることを踏まえて忍者も捨てがたいということで、侍でAF3を取った後、まだメインストーリーも終わっていない状態で忍者でもAF3を取ったりした。今後は忍者兼侍をやっていく所存だが、ZWやAWに代わるものが出てきた際に負荷も2倍になるという運命を背負っている状態であり、やがてクソライト層として心が折れる日がやってくるに違いない。

2016年12月18日日曜日

FF XV 感想

 まだ隠しダンジョンが2つぐらい残っているらしいが、先日件のを倒してタッカに報告しに行った段階でトロコンを達成し、もうとりあえずいいかという気分になったので感想を書くことにした。
 単刀直入に感想について言及しておくと、まあ普通に良いゲーム、ぐらいの評価が妥当なんじゃないかと思う。この作品の実質的な課題になっているようなオープンワールド化については、別にGTAほどの自由度は存在しなかったが、それでもFFにとって新しい取り組みとしては全然面白い部類である。大半の人々は普通に何十時間もやれるのではないだろうか。
 また、このゲームに関する賛否両論の「否」の方の意見として、「ホストみたいなキャラクターが受け付けられない」、「キャラクターの設定・性格が気に食わない」といった見解が検索すると散見されるが、個人的には別にそこまででも、という程度でしかなかった。俺はBrotherhoodも観たし、その後気になったのでKINGSGLAVEもPS Storeで400円ぐらいで借りて観たが、最後まで進んでもメインキャラクターの4人は「嫌い」にはならなかった。むしろ全員に対して好感を抱いたぐらいである。
 特にノクティスやプロンプトについては声質や発言内容から考えて、(特に日本では)まず万人受けしないとは思う。ノクティスは何回も「だるいなー」と言い、プロンプトは何回も「焼肉食べたい」とか言う。ノクティスは「~だわ」という言葉遣いをずっと一貫してやり続ける。それらは「最近の若者のイメージ」の悪い部分だけ悪意でピックアップして伸ばしたような感じなのだが、あくまでイメージなので、実際の「最近の若者」はあんな感じではない。むしろイグニスから覇気や元気など更に抜いた感じが、実際の「最近の若者」だと思う。その意味で、キャラクター設定に関わった人間自体は「最近の若者」ではなく、それを「最近の若者のイメージ」で、どうにか作為的に描こうとしている人間たちなんだろうと思う。
 しかし、別に俺はこいつらを結局嫌いにならなかった。理由を言語化するのが難しいのだが、別にこいつらはこいつらで最初から最後までこんな感じだったので、ある意味俺にとっては一貫していたからだと思われる。
 他方で、(この点も世間で散見される意見だが)、他の「否」の点に触れると、9章以降の物語の描き方については、明確にこのゲームにとって穴と言えるようなものであった。この点も手短に最も大きな理由だけ述べれば、第1に帝国を仇敵として戦わなかったことが指摘できる。あれだけKINGSGLAVEと物語冒頭で主人公側と帝国との対立構造を描いたものの、9章以降で仇敵だった帝国は勝手に自滅しており、主人公側は別の存在と戦うことになる。その結果、スクウェアエニックスがこのゲームのために多面的に積み重ねてプレイヤーに抱かせてきた、物語の一貫性に関するイメージを自分で台無しにしてしまい、プレイヤー側には敵側と戦う理由が弱く、不明瞭に見えてしまう。勝手に自滅した帝国は奪ったクリスタルとか主人公の領地とかも悪用している描写が全く描かれず、対立する相手方から、新たな敵による被害者に倒置されてしまった。
 第2に、新たな敵に悪としての魅力が無い。簡単に言うと、有無を言わさずに主人公側を殺すのではなく、ちゃんと育った主人公側を復讐のために殺すというのが動機なのだが、これが本当に回りくどいので、全然対立する相手側と捉えることができない。ちゃんとKINGSGLAVEなどを観て予習したプレイヤーであればあるほど、あの(「元」敵だった)帝国側の、有無を言わさない悪性が目に付いてしまう。「新」敵の悪さは、単に世界を夜だけにしたということと、シガイを増やした、という「結果」だけ突然示されており、その過程は全然描かれておらず、悪へ至る描写が薄い。本来ストレートに描くところを無理矢理ぐにゃぐにゃした描写で「最近の物語ってこういう感じ」にしたような形になってしまっている。他の部分が普通に面白いゲームになっているだけに、これらの物語としての欠点が目に付いてしょうがない。
 スクウェアエニックスには物語を王道で描ける人材が居ないのか、それとも企業内に物語を無理矢理ぐにゃぐにゃにした方が最近は受けるとか勘違いしている人が居るのか、原因は不明である。FFXVの物語については、上記の通り個人的には擁護不可能で、明確にこのゲームの価値を損なっていると思う。FFシリーズの物語を自らの手で台無しにする流れは、残念ながら結局今作でも終わっているとは言えず、今後のシリーズに期待するしかない。

2016年3月26日土曜日

DARK SOULS III 感想

 1と2について感想を一切書いていないが、ダークソウル3を先ほどクリアしてぶっ倒れるようにちょっと眠って今起きて感想を書きたくなったので感想を書く。
 ダークソウルシリーズは現時点で3が最高傑作だと思う。2が本当に世間で批判されているまま面白くなくて、DLCすら雪原とか途中まで良かったものを台無しにする部分があり、やっぱり日本人がいくらシームレスマップのリアルな魔界村みたいなことをやりたいって言ってもダメなのかなと思っていたのだが、今作はこれまでの良かった所を全て入れ込み、ダークソウルの良い部分は極力残したまま、改善できる部分をきっちり改善した素晴らしい作品になった。もうシリーズは作られないかもしれないが、今後も続く場合はドラクエ3と同じ立ち位置ができる作品だと思う。
 一応いつも通りあらすじを書いておくと、プレイヤーは「火の無い灰」という、篝火の化身というかもう過去作のようなただの不死人じゃなくて概念みたいなものになっていて、5つの玉座のある祭祀場に、5人の薪の王が帰ってこないので、「帰ってこないのであれば殺して遺灰を持ち帰れば良い」というかにもソウルシリーズっぽい考えの下、5人の「薪の王」を殺してくる話である。多分やったことが無い人は「薪の王」とかいう概念でもう意味不明だと思うが、話の筋としてはこれで必要十分なのである。簡単に言うと帰ってこない王様達を全員殺してくる話である。
 俺にはダークソウルを1からやっていてやり続けていることがあり、①1週目の装備は上級騎士、②ステ振りは上質(筋・技等半のタイプ)、③必ずクレイモアを使う、というものである。1では森まで走っていけば取れたし、2では売られるようになる上級騎士装備が今作ではかなり進まないと手に入らないので非常に困ったが、予定通り結局いつもと同じやり方で最後までやれた。2でいつもと別のことをやってみようとしたのだが、結局気づいたらクレイモアを振り回していたので、もう流れに任せてこうなっている。
 今作では廃墟と化したアノール・ロンドも印象に残ったのだが、やはりシリーズを愛する者としては、火を継がない方のエンディングに初めて正しさを見出せた。デモンズソウルや過去作のような火防女の頭を踏んでいったりする闇の王エンドではなく、今作では火防女と一緒にゆっくり消灯エンドであった。いくら綺麗にやっても世界から火が消えるわけで、一切希望は無いのだが、そこに希望を見出すような火防女の話と、最後の彼女の可愛い台詞を聞くと、まあ別に全部終わってもいいか、と思える。

2015年8月27日木曜日

FFXIV 蒼天のイシュガルド 感想

 FFXIV初の拡張ディスクである蒼天のイシュガルドのメインストーリーをようやく終えた。またいつか書くかもしれないが、俺は新生エオルゼアはメインストーリーを終えて真イフリートに行く前に課金を止めて以後、1年近く起動していないような状態だったので、正確に言えばイシュガルドに行く前にもかなりやることがある状態であった。いわゆる「復帰勢」というやつである。
 今回の感想はイシュガルド到着後のものに絞って書くが、いつも通りかなり適当なあらすじを書くと、あらぬ疑いをかけられて指名手配された主人公と、指名手配される過程で崩壊した「暁」のアルフィノと共にイシュガルドで暮らし始め、やがてイシュガルドにおける1000年に及ぶ人間と竜との戦争に巻き込まれ、戦争の真実を知った後、帝国だろうが竜だろうが召喚するのに1000年もかけた蛮神だろうが、全員ぶっ飛ばしまくって、やがて敵側にすら引かれてしまうほどの戦闘力を手に入れてしまう・・・という話である。敵が可哀想になってくる
 今回のストーリーは新生エオルゼアよりも「戦争」というテーマを全面に出しているので重量で比較すると重い。ファイナルファンタジーシリーズはしばしば勧善懲悪ではないし、仲間も(フェニックスの尾やレイズでも不可逆な)死を迎えるのだが、今回のシナリオでもファイナルファンタジーっぽい展開で人が死ぬ。蒼天のイシュガルドへの導入の段階から腕を失った人が居たりアジトを失ったりしていたが、今回も失うのである。そしてややゴリ押し気味の猫耳女は視力を失って服やら杖やらジョブやら全部白くなる。是非サンクレッド君も復帰する際にあの冴えない短剣を新調してやって欲しい。
 今回のストーリーでピンポイントで良かった点は、「歴史のある戦争」という状況が種族設定を踏まえて説得的に解釈されていた点である。上記した通り今回は竜と人が戦争している状況があるのだが、戦争の根本的な原因になったのは月並な人間の強欲であった。しかし、月並な人間の強欲を謝罪することが戦争の解決にならないことが明示される。なぜなら、竜の寿命は1000年を超えるものであり、人間の戦争経験が世代交代で風化して二次的にも三次的にも四次的にもなっていくのに対し、竜の戦争経験は直接的で、常に一次的なものであるからである。常に当事者の記憶として戦争経験を保持する以上、そもそも戦争に対する捉え方がまるで違う。人間は寿命上二次的な歴史資料と宗教に依拠して戦争経験に対して共感しなければ、戦争の相手側に対する憎しみを1000年継続して抱くことができないのに対し、竜側は常に憎しみを直接的な原因に関する経験から再生産し続けることができ、戦争への強い動機を掴むまでの距離が人側に比較して近いのだ。
 このような憎しみへの距離の違いは、たとえエスティニアンのように家族を竜に殺された、という直接的な経験に基づく憎しみに依拠する場合でも例外ではない。結局は100年以内に寿命が尽きて大体の人間は死んで二次的な媒体に経験は埋没してしまうので、戦争に人間を継続的に動員するためには強い宗教で縛るしかなく、物理的な理由で軽薄な生でしかない人間の言葉は1000年生き続けて恨み続けている竜にとっては軽薄でしかなく、戦争の解決手段にはならない。イシュガルド国教と皇王の存在や彼の言葉は、一見イロモノめいて政教分離もない危ない国という印象を受けるが、上記の理由により終わりない戦争を演出して終わりない竜の恨みと攻撃から国を守らないと国を維持できない状況だったため、今回のシナリオにおいては説得力があった。
 なお、今回の拡張ディスクのみがもたらした状況ではないものの、日本で有数のギスギスの名所だったFFXIVの旧エンドコンテンツも、ILの上昇と詩学入手の緩和により、CFでも十分クリア可能なので、別に拡張していない人間もちょっと触ってみても良いかもしれない。

2013年9月2日月曜日

FFXIV 新生エオルゼア 感想

 やらないといつまでも気になると思ったので、「逆に計画的に集中して本当は一か月ぐらいやるところを無理やり1週間ぐらいでやる」を目標にFFXIVを買ってログイン戦争を勝ち抜きながら無理やりプレイした。とりあえず全体的な感想を書くとオンライン部分以外はよくあるFFで懐かしいということである。
 いつも通りストーリーを適当に書くと、(いつも通り)クリスタルに選ばれた主人公がエオルゼアという「第七霊災」で傷ついた世界で冒険者として、どうでもいい小間使いみたいな仕事から、蛮神と呼ばれるいわゆる召喚獣達との戦いまで、様々なことを経験しながら、やがてエオルゼア全土の支配を目論む(どこかで見た)帝国のスネーク達と戦う話である。
 この「(いつも通り)」や「(どこかで見た)」という点はむしろ好意的に受け取られるべきだなと思う。ファイナルファンタジーという日本のRPGを背負っていた作品は、第12作目で「あれ・・・こいつ主人公?」という展開になって、第13作目で「ファルシ・・・?ルシ・・・?はあ?」という展開になって以後世間的には広く「死んだ」と認知されつつあった。特に第13作目は普通に表現すれば良い言葉を無駄な専門用語で言い換えて馬鹿なパラフレーズを作る、これまでのFFにあったはずのユーザーの自由な冒険を否定する、などの巨額の費用を投じて壮大な自殺行為を挙行して、値崩れしまくったその2作目も含めてユーザーに「他のRPGの方がまだマシだわ」という感想を持たせることになった。文字通り迷走である。
 (新しい方の)第14作目の良い点は、「思ったよりちゃんとしてるじゃん」という感想をユーザーに持たせる作りになっていることだと思う。旧FFXIVの一切、そして第13作目の多くの点が思い出したくない過去であることは周知の事実であるため、「新生エオルゼア」も駄目かも・・・と多くの人々が予想していたと思うのだが、その予想を良い意味で裏切って結構ちゃんとしたFFになっている。サーバーの数が足りなくてログインができないという点に(ものすごく寛大な心で)目を瞑れば、正直オフラインにして、「砂の家」のメンバーをストーリーの進展に合わせて仲間に加えられるようにすれば、「新生エオルゼア」はリビルドした第12作目だと言っても過言ではない。
 もちろんMMORPGなので、ダンジョン攻略などでMMORPG特有のロールの押し付けや、圧倒的なクエストの数と取得経験値の制限などはあるので、合わない人は合わないと思うのだが、第11作目を楽しんだ人はもちろん、第12作目、第13作目に絶望した人にはちょっと触ってみることを薦める。
 (余談だが)俺は個人的にはもちろん骸旅団やアグリアスのヘルプメッセージの再登場にちょっと嬉しくなった。あと今作のシドはシリーズ屈指のイケメンである。

2013年4月21日日曜日

大神 絶景版 感想

 「大神 絶景版」をやった。久しぶりにちゃんと終わるゲームをやったのだが、やはり物語として終わりがあるゲームというものには価値がある、と再確認させられた。そして、ほぼ10年振りぐらいに所謂「神ゲー(ならぬ「大神ゲー」)」と呼んでよい作品に出会ったと思う。
 絶景版はいわゆる「HDリマスター」企画のものなので、2006年に発売されたこのゲームの話の筋を今更書くのも時機を逸している感があるものの、このゲームは筆業を使った新感覚アクション以上に物語そのもので人を惹きつけるものを持っている、と思う。簡単な筋だけ書くと、昔ヤマタノオロチという日本人におなじみの妖怪をイザナギと共に退治した大神アマテラスは、闘いの後絶命し、永い眠りについていたが、封印されていたヤマタノオロチの復活とナカツクニにおけるタタリ場の広がりを危惧した神木村の大樹に宿る木精サクヤの力により復活し、復活したヤマタノオロチを退治すべくコロポックルであるイッスンと共に冒険を繰り広げる話である。
 話の筋だけ一覧すれば、多くの日本人にとって今更感のある話を今更やっているように見えると思う。登場人物は多くの部分で日本の昔話を基に再構成していて大味な印象を抱かせるし、神話や民俗学に無駄な知識を持っていて、あらゆる物語は史料に忠実でなければならないとする(めんどくさい)者にとっては陳腐に見えるかもしれない。
 しかし、「大神」というゲームは、現代的な感覚を取り入れて登場人物の個性を尖らせる、音楽に気を遣う、グラフィックを独特なものにするなどの工夫により、物語を陳腐にしてしまうことを見事回避している。これにより、既視感を覚える展開はむしろ王道で、陳腐に見える史料の改変はオリジナリティとして受け入れられる余地を作り出し、プレイした者の感情を上手く揺さぶることに成功していると思う。「良いゲーム」の1つの要素として「MOTHER2」のような「おとなも こどもも おねーさんも」共に楽しむことができるという性質があるとすれば、このゲームはマリオやポケモンとは異なる方法でこの性質を獲得している。
 特にこのゲームの評価はラスト近辺の展開で絶賛を受けている点があるのだが、この点も「MOTHER2」と共通しているものがある。日本における神と人間の関係性の中核を穿つ展開であったことや、そこへ至るまでの主人公の旅路が(個性的な登場人物のおかげで)容易に想起できることなど、ゲームでの主人公における最終決戦の理想像を作り出すための十分な下地を持っていた作品だった。
 余談だがもう1点主人公が犬神だったことも「おとなも こどもも おねーさんも」楽しめるゲームを作り出す要因となっていると俺は個人的に思う。(とりわけ日本人としての感覚で言えば)やはり人間の隣に付き添っている動物は猫や馬ではなく、犬であるべきなのだ。ペットの種類としてNo.1のシェアを誇っていることや、あらゆるメディアでの登場頻度が高いという理由などがあるのかもしれないが、日本人は多くの人が犬への慈愛の感情をどこかで共有しており、無理に共感できる台詞や態度を探さなくても、気が付くと多くのプレイヤーは主人公のアマテラスに肩入れしているだろう。「猫派原理主義者」という意味不明のカテゴリーに属さない日本人には是非「大神」をプレイすることを薦めたい。

2012年4月28日土曜日

ファイナルファンタジータクティクス 感想

今までプレイしてきたRPGの中でも「最も好きなもの」を選べと言われたら、俺は間違いなく「ファイナルファンタジータクティクス(以下FFT)に決まってる」と言う。俺はこのRPGが今まで世界に存在したRPGの中で「最も優れている」とは思わない。ゲームとしての問題は誰が見ても沢山あると言わざるを得ない。しかし、俺はこのRPGが一番好きなのだ。一番好きな小説と同じで、技術においてはヘミングウェイやトマス・マンの方が断然上手いと思うのだが、それでも一番好きな作家がドストエフスキーで、一番好きな小説が「カラマーゾフの兄弟」だというのと同じである。「カラマーゾフの兄弟」もFFTも未完成(前者は明示的に第二部の構想があり、後者は黙示的に描写不足である)の作品なのだが、それでも好きなのである。
 いつも通りあらすじを超簡略して書くと、ガリランド王立士官アカデミーに通う貴族の名門ベオルブ家の末弟ラムザ・ベオルブと、「親友」であり共にアカデミーに通う平民出のディリータ・ハイラルが、イヴァリースという国家の覇権をめぐる内戦「獅子戦争」に巻き込まれ、やがてラムザはその中で戦争を裏で操る存在と戦っていく・・・という話である。
 俺がこのRPGをプレイしたのは小学校6年生の頃であった。使われている漢字の範囲は大体漢検3級~準1級に行くかいかないかだし、文章にルビも振られていないので、(俺は漢字は相当分かる方だったのだが)分からない漢字(枢機卿など)も沢山あった。しかも俺の友達は皆FF7やマリオカート64等が好きで、一緒に遊ぶ時に俺が面白いからやろうとか言いだすと意味分かんないから勘弁してよというリアクションが常に返ってきていた。なので皆がゴールドソーサーのスノボーやマリカーの対戦が面白い面白いと言う中、俺1人がこのRPGに熱中していた。文字通り熱中である。
何がそんなに面白かったのかと言うと、物語である。クロノ・クロスも突出していると思うのだが、FFTも別のベクトルで突出している。FFTにおいては身分による差別、宗教の問題等、具体的な社会問題はかなり鋭く(劇的に)描かれているのだが、より抽象的なレベルで(1人の小学生の視点から)「人が生きるってどういうことなんだろう」と考えさせる物語だった。
 まず差別の問題についてであるが、アルガスという「貴族原理主義」と呼べるまでの徹底した貴族と平民の差別を強調する輩による「家畜に神はいないッ!」 という台詞があまりにも有名である。その時はアメリカに来て今のように奴隷制についてまともに勉強する機会があるとは思わなかったのだが、今のように現実として知っていなくてもかなり衝撃的な台詞だった。もちろん人間が他の人間を差別する現実があることは当時の段階で既に知ってはいたが、それはあくまで「社会のある1つの形」であって、個人の精神にまで踏み込むようなものではないと思っていた。アルガスはそれを貴族の視点から完全否定したのである。つまり、平民=家畜には、神という絶対的な存在の前での「弱者としての人々の平等」という、「救い」そのものが根本から無いのだ。宗教は「人間」である貴族のために用意されたものであり、人間ではない「家畜」である平民は、現実世界の外に救いを求めることすら許されないという考え方である。
 何が悲劇だったかと言うと、(アルガスの台詞自体の問題よりも)主人公であるラムザはこの段階ではまだ「『親友』である平民のディリータの前でアルガスの考えを否定する言葉を持っていなかったこと」である。「親友」ならすぐにアルガスをぶん殴ってやらなければならなかった。逆に言えばやはり差別という問題はラムザやディリータ個人の感情だけでは対処できないほど根が深すぎる問題であり、チャプター1のジークデン砦における別れはこの段階で、もっと言えば彼らがイヴァリースで生まれ落ちた段階で運命付けられていたのである。後で触れるようにこの物語は「悲劇」なのだが、正史の中で「英雄王」になったディリータがイヴァリースに民主制を敷いたという事実が言及されていないこともまた、この問題の深さを示唆している。
 次に宗教の問題だが、リオファネス城でのラムザと神殿騎士ウィーグラフの一騎打ちの中でのウィーグラフの台詞が印象的だった。「所詮、”神の奇跡”などそんなものだ・・・。その時々の執政者たちが自分の都合の良いように歴史を改ざんしているだけ。だがな、その行為のどこに問題があるというのだ?彼らが責められる理由は何もない。なぜなら”神の奇跡”を臨むのはいつでも民衆だ。何もせず、文句ばかり言い、努力はせず、他人の足を引っ張る・・・それが民衆というもの・・・そうした民衆が望むものを執政者たちが用意する・・・。歴史などその繰り返しにすぎん。たしかに執政者たちはそうした民衆の弱い心を利用していたかもしれん・・・。だが、民衆もまた、利用されることに満足しているのだ・・・。”神”なんぞ、人間のもっとも弱い心が生み出したただの虚像にすぎん・・・。それに気づいていながらその”ぬるま湯”に甘んじている奴らがいけないのだよ・・・。弱い人間だからこそ”神の奇跡にすがるのさ・・・。」という台詞である。プレイヤーとしてはリオファネス城における一騎打ちは、その後のルカヴィ戦を含めてこのゲームにおける最難関のポイントなので、台詞をいちいち気にしている場合じゃないのだが、台詞の内容は極めてラディカルな主張である。あらゆる宗教行為に身を投じている人々の感情を真正面から逆撫でするこの台詞に衝撃を受けた。日本人だからこそ書ける台詞だなと思う。
 他方で、このウィーグラフの台詞は主張というより自虐に近い。ウィーグラフという、反政府勢力を率いて革命のために奔走していた一人の青年が、自分が抱いていた展望(彼が台詞の中で馬鹿にしている「民衆」の希望)を捨ててしまったことの結果である。なので、ゲームにおける彼の物理的な強さに反して、実は戦う前からラムザに彼は負けてしまっているのだ。もっとも彼の人生ははっきり言って苦難しか無かったので、(後に異端者として世界に追われる存在になったとはいえ)最初からアドバンテージを与えられているラムザを公正に擁護できるわけでもない。ウィーグラフもディリータもそうなのだが、「持たざる者はどこまで行っても持たざる者だった」という事実は、この作品の悲劇性を高めている。
 最後にチャプター4の内容に触れたいと思う。実はここまでで触れてきた宗教や身分差別の問題自体は、小学校6年生の自分にとっては確かにある程度は衝撃的だったものの、この感想の冒頭で触れているような「人が生きるってどういうことなんだろう」と考えさせるほどではなかった。最も大きな影響を持ったのは、やはりチャプター4「愛にすべてを」におけるラムザとディリータの異なる二つの人生の結末である。俺は(いつぞや書いたD. Gray-manの感想以外)商品のAmazonレビューとして感想を書いているわけではないので、基本的にネタバレ等は無視しているのだが、この作品の結末にはほとんど救いと呼べるものが無い。「異端者」ラムザは獅子戦争を裏で操っていた者と「誰か困っている人のために戦う」という自分の信念に従い戦って行方不明となり、「英雄王」ディリータは「自分からこれまであらゆるものを奪ってきたこのイヴァリースという世界にいかなる手段を用いても復讐し、自分が今度は彼らから奪う側に立つ」という自身の野望に従って王となったが、本当に愛していた(彼はオヴェリアに対しては本心から愛情を抱いていたと考えられる)オヴェリアに短刀で刺され、即座にオヴェリアから奪った短刀で彼女を絶命させた。「・・・ラムザお前は何を手に入れた?オレは・・・」という、彼の台詞でこの物語は幕を閉じる。
 実は俺はFFTをプレイしてから長い間、ラムザのような自己犠牲が、ディリータの野望に比較してより強い正当性を持っていると考えていた。最後の台詞をディリータに喋らせていたこともあり、このFFTという物語は、「自身の『義』に従って、自分のためではなく、誰か他の人のために戦ったラムザこそが真の英雄だった」という物語だったと思っていた。しかし、本当にラムザやディリータのどちらかに、どちらかの生き方がより優れていると言わしめるだけの正当性というものがあるのだろうか?ラムザの「自己犠牲」がなぜ我々にとってより強い価値を持つと感得させるのか?
 ラムザの「自己犠牲」の正当性について説明する1つの方法として、彼が「自分が本来得るはずだった利益を差し出し、あるいは捨て去り、自分にとって最終的には不利益にはなるが、それでも自分以外の者に対しては利益となる選択肢を選んでいるからだ」という説明の仕方があるだろう。すなわち、ラムザは「本来ならベオルブ家の末弟として、イヴァリースという絶対的に自分たち貴族にアドバンテージを与える社会で、自分たち貴族の利益のみを追及して安寧な生活を送ることが約束された地位にいたにも関わらず、自分たちのみならず平民をも含んだイヴァリース全土に被害を及ぼしかねないルカヴィという悪魔と、自分の命と引き換えに戦ってこの危険=不利益を取り除いた」結果、彼獲得した「利他性」故に我々は彼の行為を正しいとするのである。
 しかし、ディリータの野望もこのようなラムザの「正しさ」とは別の意味での「正しさ」を持っている。ディリータの野望の正当性は、ラムザとは異なり、「利他性」ではなく、「公正」の概念で説明することができる。ディリータの野望は、「彼がこれまで被ってきた社会における「貴族」と比した場合の不均衡な利益の配分に対し、彼に配分されなかっただけの利益を取り戻し、あるいは奪い、均衡にして、結果を公正なものにしているからだ」と説明できるだろう。すなわち、ラムザと異なり本来的にこの世界で利益を得ることができない状態=「貴族」と比して不均衡な「平民」を前提として配分されていた利益と、殺されたティータのようにこの前提により「是」とされた奪われた利益に見合った、自身の被ってきた不利益と均衡するだけの(「不利益を贖う」)利益である「英雄王」という地位を得たことにより、我々は彼の野望を正しいとするのである。
 より詳細な考察を加えると、上記したこの物語の最後の文脈を抜きに、客観的にラムザとディリータの人生をながめれば、両者が共に比較不可能な正当性を有していることが分かる。比較を不可能なものにする最も大きな壁は、「ラムザが持つ者であり、ディリータが持たざる者であった」という事実に他ならない。例えば、面白い思考実験として、ラムザとディリータの結末を反対だったと想定する。その場合、ラムザは最初から自分の利益だけを追及し「順当に」「英雄王」となり、不利益は最小化し、利益が最大となる。ディリータは反対に、最初から最後まで何も得られないばかりか、自分の命を含めた全ての自己利益を失い、不利益が最大化する。この場合、両者の結末は正当性の点で問題を抱える。ラムザはあまりに大きすぎる利益を得たばかりに不均衡な結果を生み、ディリータは大きすぎる不利益を生じさせたばかりに、自己犠牲によって得られるはずだった他者の利益によって得られた「利他性」が持つ正当性を、自らに生じた不利益が大きく減じてしまう。このように考えると、FFTにおけるラムザとディリータの「持つ者と持たざる者」の違いは、それぞれの人生が比較不可能なものとして正当性を主張するための必要な前提だったのだと考えられる。だからこそ、余計に救いが無い。最初からこの物語において彼らの人生に出口など無かったのだ。
 これらのことを考えさせるRPGがFFTだった。下手な道徳教材よりよっぽど勉強になるRPGである。ここでは物語に偏重した感想を書いたが、こんな小難しいことを考えなくても(最初に述べたとおり問題はあるにはあるが)純粋にゲームとしてもFFTは面白い。(俺の彼女は途中で投げ出してしまったが)せっかく生きてるのならやってみるべきゲームである。

2012年4月7日土曜日

クロノ・クロス 感想

理由は知らないが最近クロノ・クロスのことばっかり思い出すので今更クロノ・クロスの感想を書こうと思う。なんかここ1年?ぐらいにPSストアでゲームアーカイブスとして800円で配信されたらしい。
 さて、クロノ・クロスは発売される前は誰もがクロノ・トリガーという、もしかしたら50年に1本ぐらいの伝説の大作の続編として期待されていたが、蓋を開けてみれば全然違っていたという作品である。それも個人的にはいい意味で違っていた作品だったと思う。今世界に存在するRPGの中には「ファイナルファンタジータクティクス(PS版に決まってんだろ)」、「ヴァルキリープロファイル」、「ゼノギアス」、「マリオRPG」、「クロノ・トリガー」といった全てがおそろしく完成度が高い作品(これらについてもいつか思い出したら感想を書きたい)があるが、クロノ・クロスもまぎれもなくこれらに列する1本である。50年に1本とは言わないが、10年に1本あればいい方の作品かもしれない。BGMも設定もシステムも良いのだが、とりわけストーリーの奥深さについては他の同レベルの作品の中でも突出している。
 めちゃくちゃ簡単にストーリーを説明すると、アルニ村という漁村で育った主人公セルジュが、ふとしたきっかけでほとんど同じだが少し違う世界、いわゆるパラレルワールドへ行ってしまい、やがて両方の世界(HomeとAnother)を行き来する星の命運をめぐる戦いに巻き込まれていく・・・という話である。
 しかし、上記したように、クロノ・クロスは単にクロノ・トリガーの続編というわけではない。もちろん登場する用語や人物の中にはクロノ・トリガーと同一の設定を持った人、物も多くあるのだが、それは「クロノ・トリガーの続きの世界」を意味しない。正確にクロノ・クロスとクロノ・トリガーの関係を描写するなら、両者は互いにコインの表と裏の関係である。クロノ・トリガーが表ならクロノ・クロスは裏である。つまり、同一平面上で決して交わることは無い。クロノ・トリガーをやった後にクロノ・クロスをやると、前作で思い入れのあるキャラクターの扱いに不満を覚える人も居るかもしれないが、それはお門違いである。なぜなら、同一平面上で地続きに交わることが不可能な世界にある以上、クロノ・トリガーで登場した人々はその世界で登場する「同じような人々」とは別のものであり、たとえクロノ・クロスの世界でろくな扱いをされていなくても、それはクロノ・トリガーの世界とは(直接的には)関係ないからである。つまり、クロノ・トリガーで星の命運をラヴォスから救った主要キャラクターは、クロノ・クロスとは決して交わることの無い別の世界で全く問題なく暮らしているということだ。
 より正確に言えば、「コインの表と裏」の関係は事象を単純化しすぎているだろう。クロノ・クロスの設定に従えば、それは単なる二面性ではなくむしろ多面性の中で理解されなければならない。交わることの無い世界が多元的に存在していて、その多くの世界の面のうちの1つの表と裏がクロノ・トリガーとクロノ・クロスだったということである。HomeとAnotherはクロノ・クロスにおけるパラレル・ワールドだが、よりメタフィジカルな次元でクロノ・トリガーとクロノ・クロスもパラレルな関係を持っているのである。この意味で、クロノ・トリガーが時間を超える冒険だったとすれば、クロノ・クロスで重視されているのは空間を超える冒険である。
 このようなクロノ・クロスという裏が生まれたのは、表であるクロノ・トリガーにおいて主人公達が本来滅びるはずだった世界を救って(1つの滅亡という運命を抹殺して)別の救済という運命に書き換えたからである。つまり、ラヴォスから星を救うという行為は、クロノ・トリガーにおける「救済された世界」をもたらすものであったが、同時に「滅びたはずの世界」という、客観的には等価値の正当性を有する可能性を否定するものだった。そしてクロノ・トリガーで否定された可能性は、クロノ・クロスというクロノ・トリガーの裏の世界で自身の正当性を主張したのである。セルジュ達の冒険は、この否定された正当性を主張しクロノ・クロスの世界に滅びをもたらそうとする「クロノ・トリガーで否定された可能性」=滅ぼされたラヴォスの意思=時喰い=サラを「救済」し、滅びの運命の連鎖から解放するために行われた。「救済」というのが味噌で、実は仮にセルジュ達が再び「クロノ・トリガーで否定された可能性」を否定すると、再び「クロノ・クロスの裏」を生みだし、延々と「等価値の正当性を持つ可能性」間の争いが繰り返されることになる。ラスボス戦で暴力によって否定するのではなく、クロノ・クロスという、心に働きかける7番目のエレメントで、否定された可能性の顕現である時喰いを癒す必要があるのは、この問題を解決するためだと考えられる。 これらを含めて、クロノ・クロスにおけるテーマは、やはり共に正当性を持つ表と裏の世界・可能性の関係であり、クロノ・クロスというエレメントが愛だけではなく、愛と憎しみ両方のかけらを必要とするのも、それら一方では正で他方では負とされる事柄の両方が世界にとって共に「正当な」ものだということを示しているのだと思われる。
 俺がクロノ・クロスをプレイしたのは中学校3年生ぐらいの時だったと思うのだが、純粋にクロノ・クロスの世界に引き込まれた。最初のOPに流れる「CHRONO CROSS~時の傷痕~」という現存するRPGのBGMの中で1位、2位を争うほどの素晴らしい音楽にかなり惹きつけられた。この最初に流れるBGMでは様々な10種の楽器の音がやがて1つに交わっていくのだが、今思えばそれはラスボス戦で6つのエレメントが持つ音をクロノ・クロスで1つにする行為そのものを表しているかのように思われる。この一貫した演出は素晴らしいと言わざるを得ない。もちろん「キャラクターが多すぎて1人1人の存在感が薄い」、「戦闘がやや面倒」等の問題もあるのだが、それらを含めたとしても死ぬまでに1度はプレイするべきゲームであることには疑いが無い。

2010年8月13日金曜日

聖剣伝説 Legend of Mana 感想

 実はこの夏一番の大作だと個人的に思っているのが最近ゲームアーカイブスで600円で配信された聖剣伝説 Legend of Manaである。
 このゲームは1999年にプレイステーション用ソフトとして販売されたものである。10年以上前のものにも関わらず、他のゲームがまだこのゲームのシステムに追いついていないように見えてならない。世界を自分で広げるシステム、ゲーム史上に残るほどの無意味とも言えるやり込み度を持つ武器防具作成システム、そして、何より個人的に素晴らしいと思ったのが各シナリオの台詞、キャラクターの設定等である。
 このゲームにはメインシナリオと呼べるものが存在しない。全68のシナリオは基本的に一話完結型で、長編となるシナリオ3本のうち、1本をクリアすることで最後のシナリオへと進めるようになっている。特に素晴らしいと思うシナリオは長編では宝石泥棒編とエスカデ編、サブシナリオでは「夢の檻の中へ」や「サボテン」である。
 特にエスカデ編は中学生のときにやったときには結局何が言いたかったのか分からなかったが、最近やってみるとこれが他者同士が理解しあうことの関係内在的な要因の不安定さと、時代が変動する状況という関係外在的な要因の複雑性を描いていることが理解できる。言葉が相互理解を導かず、関係は破綻し、誰も救われない状況が時として存在するものの、関係外在的な他者からすれば、物語的に描かれることで時代の変化という正の価値判断を抱かせる事象となっている「状況」や、「環境」が描かれている。
 中学生の時はエスカデという存在がどう考えても相互理解を妨げる「悪」にしか見えなかったが、時代の変動という事象を物語的に感得させるという目的においては、彼はむしろ「正義」であった。彼を仲間にせずにルシェイメアに向かうと、ラスボス直前で彼が「英雄になれ」と言い残して息絶える姿を見ることになるが、アーウィンやダナエへの単純な関係内的な憎悪ではないこの言葉が彼が単なる「悪」ではないことを象徴している。本作品のシステムのあり方と若干抵触するものの、作品内に一定の時代の流れをもっと描写することができればこのシナリオはまだ良くなった。
 残念なことに、現在では「聖剣伝説」ブランドは完全に凋落していると言ってもいい。ウィキペディアに詳しく経緯が書いてあるが、これだけの物語を作る能力を持った人材がこの作品をもって全員当時のスクウェアから退職してしまったことが1つの大きな要因であろう。スクウェアは彼らを手放すべきではなかった。その後のスクウェア系列の作品は、ファイナルファンタジーという看板を盾に「物語」を欠いた美しい映像を垂れ流す「映画」になってしまった。RPGはプレイヤーが参加できる「物語」でなければならない。どれだけ綺麗な映像でごまかしても、登場人物が空っぽの言葉を喋り、プレイヤーが自分を投影し、何かを得ることができないRPGは駄目である。

2010年8月6日金曜日

「帰ってきたぜ!!お待ちかねの竜がなぁ!!」

 一昨日と昨日と2日を俺の今年の夏休みとしていた。朝4時20分に起床して出勤して勤務して勉強するというサイクルを意図的に崩したのだ。このように意図的に自分を崩すことで自分のバランスを取っていると勝手に位置付けている。
 さてこの2日間の「夏休み」で朝から酒を飲みながら俺が何をやっていたのかと言うと、タイトルで分かる人もいる通り、戦国BASARA3をやっていた。とりあえず織田信長でクリアするところまでやって、もうあと1週間ぐらいこれに触れなくてもいいかなという具合である。
 というかステージの仕組みを覚えてしまうと特別恩賞の取り方とかが機械的な作業みたいになってしまうので、飽きてしまう。このゲームの致命的な点はストーリー性を持たせてRPGみたいにしようと努力はしているが、やはり操作が簡単すぎる点であろう。実際□をずっと連打し続けているだけで十分できてしまう。ボスとなる武将も固くてスーパーアーマーが付くくらいでボコボコ殴り合っていれば結局アイテムを取れる分こちらが勝つように基本的にはできている。この簡単な操作性は逆にこのゲームの根本的なセールスポイントの1つでもあるが、多分1日ずっとやり続けることができるゲームではない。ライトユーザー的にたまにやって爽快感を味わう程度で済ませておく方が楽しめるつくりだと言える。
 しかしそれでも個人的には映像が大分ましになっている点と、持ちキャラである伊達政宗の技が強化されている点は十分楽しかった。特に六爪状態でのMAGNUM STEPが全部当たるとすごく敵のライフを削れるので、難易度を究極の状態にしてもその技を連発するだけで戦局を掌握してしまう。今回はHELL DRAGONの出が早くなっているためそっちに目が行きがちだが、六爪状態のMAGNUM STEPとCRAYZY STORMもオススメである。六爪状態でバサラ技が変化したり、各キャラの戦刻ブースト中の究極バサラ技が変化したりすればもっと楽しかったのになあと思う。熱唱びわと「奥」「州」「筆」「頭」を全部装備して出陣すると気分は神。