FFXIV初の拡張ディスクである蒼天のイシュガルドのメインストーリーをようやく終えた。またいつか書くかもしれないが、俺は新生エオルゼアはメインストーリーを終えて真イフリートに行く前に課金を止めて以後、1年近く起動していないような状態だったので、正確に言えばイシュガルドに行く前にもかなりやることがある状態であった。いわゆる「復帰勢」というやつである。
今回の感想はイシュガルド到着後のものに絞って書くが、いつも通りかなり適当なあらすじを書くと、あらぬ疑いをかけられて指名手配された主人公と、指名手配される過程で崩壊した「暁」のアルフィノと共にイシュガルドで暮らし始め、やがてイシュガルドにおける1000年に及ぶ人間と竜との戦争に巻き込まれ、戦争の真実を知った後、帝国だろうが竜だろうが召喚するのに1000年もかけた蛮神だろうが、全員ぶっ飛ばしまくって、やがて敵側にすら引かれてしまうほどの戦闘力を手に入れてしまう・・・という話である。敵が可哀想になってくる。
今回のストーリーは新生エオルゼアよりも「戦争」というテーマを全面に出しているので重量で比較すると重い。ファイナルファンタジーシリーズはしばしば勧善懲悪ではないし、仲間も(フェニックスの尾やレイズでも不可逆な)死を迎えるのだが、今回のシナリオでもファイナルファンタジーっぽい展開で人が死ぬ。蒼天のイシュガルドへの導入の段階から腕を失った人が居たりアジトを失ったりしていたが、今回も失うのである。そしてややゴリ押し気味の猫耳女は視力を失って服やら杖やらジョブやら全部白くなる。是非サンクレッド君も復帰する際にあの冴えない短剣を新調してやって欲しい。
今回のストーリーでピンポイントで良かった点は、「歴史のある戦争」という状況が種族設定を踏まえて説得的に解釈されていた点である。上記した通り今回は竜と人が戦争している状況があるのだが、戦争の根本的な原因になったのは月並な人間の強欲であった。しかし、月並な人間の強欲を謝罪することが戦争の解決にならないことが明示される。なぜなら、竜の寿命は1000年を超えるものであり、人間の戦争経験が世代交代で風化して二次的にも三次的にも四次的にもなっていくのに対し、竜の戦争経験は直接的で、常に一次的なものであるからである。常に当事者の記憶として戦争経験を保持する以上、そもそも戦争に対する捉え方がまるで違う。人間は寿命上二次的な歴史資料と宗教に依拠して戦争経験に対して共感しなければ、戦争の相手側に対する憎しみを1000年継続して抱くことができないのに対し、竜側は常に憎しみを直接的な原因に関する経験から再生産し続けることができ、戦争への強い動機を掴むまでの距離が人側に比較して近いのだ。
このような憎しみへの距離の違いは、たとえエスティニアンのように家族を竜に殺された、という直接的な経験に基づく憎しみに依拠する場合でも例外ではない。結局は100年以内に寿命が尽きて大体の人間は死んで二次的な媒体に経験は埋没してしまうので、戦争に人間を継続的に動員するためには強い宗教で縛るしかなく、物理的な理由で軽薄な生でしかない人間の言葉は1000年生き続けて恨み続けている竜にとっては軽薄でしかなく、戦争の解決手段にはならない。イシュガルド国教と皇王の存在や彼の言葉は、一見イロモノめいて政教分離もない危ない国という印象を受けるが、上記の理由により終わりない戦争を演出して終わりない竜の恨みと攻撃から国を守らないと国を維持できない状況だったため、今回のシナリオにおいては説得力があった。
なお、今回の拡張ディスクのみがもたらした状況ではないものの、日本で有数のギスギスの名所だったFFXIVの旧エンドコンテンツも、ILの上昇と詩学入手の緩和により、CFでも十分クリア可能なので、別に拡張していない人間もちょっと触ってみても良いかもしれない。
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