ヘミングウェイの作品に触れた辺りから、本当はフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の感想を(思い出して)書こうかと思ったのだが、不思議とまた読み直したくなったので、今回はJ.D.サリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」の感想である。
J.D.サリンジャーは、20世紀のアメリカ文学を語る上で欠かせない作家の1人であることは間違いない。その特徴は何と言っても厭世的な態度と数本の(しかしあまりにも卓越した)名作であり、2010年に死ぬまでにほとんどの作品を書かなかった(リンク先で言われているように計画はあった)にも関わらず、数本の代表作で世界中の読者の心を掴んだ稀有な作家である。まさに作家の中の作家である。
今回取り上げる「ライ麦畑でつかまえて」は、放校処分を受けたどうしようもない落ちこぼれである我らがホールデン君が、3日間いろいろな人に会ってうんざりしながら、自分の将来についてなんとなく考える話である。ナルトどころじゃない落ちこぼれっぷりなので、是非「俺は落ちこぼれだ」とか勝手に言っている連中に読んでもらいたい。一見ホールデン君は終わっているから。しかし、彼は最終的に「広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気づかずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間」を目指して新たな人生へと旅立つのだ。
実は個人的にはサリンジャーの最高傑作というか、この作者の全てが込められたと言っても過言ではない作品は「バナナフィッシュにうってつけの日」だと思っているので、「ライ麦畑で捕まえて」よりも気に入っているのだが、この作品も俺の大好きな作品である。サリンジャーの作品で疑いの無い代表作ということもあり、俺が最初に出会った作品もこれだった。
俺が「ライ麦畑でつかまえて」で好きな場面は、終盤に彼の元恩師の先生と会話する場面である。先生の「学校という場所は自分の頭のサイズを知る場所だ。そのサイズが大きい人も居れば、小さい人も居る」という趣旨の話の後、ホールデン君はこの恩師を「ホモ野郎じゃないか」という疑いを抱いて去っていく場面である。この描写を俺は非常に気に入っている。なぜなら、この意味での「冷めた賢さ」を持つ若者の姿こそ、サリンジャーという作者があらゆる作品を通じて見出しているものだと思うからだ。
例えばホールデン君と対極に位置するように見えるグラース家の長男シーモアも、その原案となったナイン・ストーリーズの天才少年テディも、この誰にも止められない「冷めた賢さ」の持ち主である。これは冷え切っていて、誰にも止められるものではないのだ。ホールデン君が自分で「広いライ麦畑で遊んでいる子供たちが、気づかずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間」になろうとしたように、自分で止めるしかない。止められなければシーモアのように自殺してしまうかもしれない。
しかし、作者はこのどうにもならない冷たさを、自問自答で解決できるものだと位置づけていない。結局自分以外のものとうんざりしながら、誰にも止められるものではないと分かっていながら、もう話したくないと思いながら、「ホモ野郎」と思いながら、暖めていかなければならない冷たさだと位置づけていると思う。ホールデン君が3日という時間を使っていろいろな「どうでもいい連中」に会うという、一見無駄なプロセスを踏んだのもそのせいである。これは、「フラニーとゾーイー」でゾーイーがフラニーを説得した際に言った「それでも太っちょのオバサマのために」という言葉で示されている。この話をした張本人であるシーモアが自殺してしまったように、どうにもならないことはあるかもしれないが、それでもろくでもない世界と関わっていかざるを得ないのだ。その上で自分で決めるしかないのだ。「太っちょのオバサマのために、彼女のためだけに」やっていくのである。それがおそらく生きていくことだと、作者は考えていると思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿