さて、ゾラについて書くのはこのブログでは初めてなので、例に倣って作者自身について言及しておこう。フランスの代表的な作家の1人であるゾラは、出版社で働きながら作家をめざしたという背景を持っている。「ルーゴン・マッカール叢書」は、彼自身の「実験小説論」、すなわち、「ある環境に置かれた一定の遺伝的・生理的条件をもつ人間の変化反応を描く〈実験としての小説〉を提唱する理論」に基づいて書かれたシリーズである。簡単に「ルーゴン・マッカール叢書」に当てはめて言えば、ルーゴン家の血を引き継ぐ者のそれぞれの人生が描かれている。したがって、それぞれの巻で描かれている世界観は連続しており、かなり展開が分散した大河小説と思って読めばとっつきやすい。手法としてはバルザックの「人間喜劇」を基にしており、漫画でいえば「ジョジョの奇妙な冒険」、ゲームで言えば「サガ・フロンティア2」が好きならゾラのことも好きになるだろう。基本的に多くの作家が心のどこかで追求している自分の文学作品の世界の構築を、意識的に実践した作家である。
「居酒屋」は、本シリーズの第7巻に当たる。いつも通り簡易あらすじを書くと、ルーゴン家の血筋であるジェルヴェーズは、洗濯女として一定の成功を収めるものの、煙突掃除を生業にしていた再婚相手が調子に乗っ・・・業務上のミスにより高所より転落してしまい、仕事ができなくなって酒浸りになり、DV、アルコール依存、貧乏、売春未遂、孤独等が「順当に」ジェルヴェーズの人生に殺人コンボを叩き込んでいく・・・という話である。
本作品が社会的反響を呼んだ理由は、この本自体のテーマ設定と言うよりは、ここで言う「殺人コンボ」の描き方が詳細に渡っていて、当時問題にされていた貧困層の現実を鮮明に描写したからだと思う。この類の不幸の描写は、現在でこそ使い古されたものなので現代の人間から見れば「順当」なのだが、当時は読者の目に刺激的に映ったのだろう。(大分)醜悪な言い方になるが、ハンニバル・レクター博士が拷問器具の展示を好奇の目で鑑賞する客を軽蔑しながら「慈愛を持って」分析していたように、この類の描写は読者の「好奇の目」を惹きつける手段としては効果的なのだ。小論文や入社試験で「自身の経験に基づいて記述しなさい」という課題があり、自分の不幸話をもっともらしく書こうという人は、採点官の極めて人間的な「好奇の目」を惹きつけるために、「居酒屋」を読んでおくと、不幸を描く手段の勉強になるかもしれない。
この本で俺が好きな場面は、上記した「殺人コンボ」の内最も醜悪と言って良い場面の、主人公ジェルヴェーズが貧困のあまり、売春のために通りすがりの男に声をかけに行くところである。この場面は、本書における彼女の盛衰を決定づける場面であり、洗濯女として成功した者が、自分の社会での失敗を自分で享受した印象的な場面である。しかも自分を捨てて声をかけた男にジェルヴェーズは無視されてしまい、社会での自分の価値が完全に否定されてしまう。最終的に作者がジェルヴェーズに与えるものは孤独死であり、彼女を徹底的に堕落させるのだ。
この描写の一徹さは、作家として称賛されるべきだろう。文学作品の執筆には学問のような「価値自由」は求められていないし、作家が自分自身を投影しない作品は逆に面白くないという評価が下されているが、ゾラは、執筆の際に打ち立てた「実験小説論」という自身の規範を、自身の価値観よりも優先させて、この作品を描いていると思う。
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