「審判」は、フランツ・カフカの作品の中でも割合世間的には「変身」と同程度に認知されていると思う。今回は俺の彼女が意味不明と言っていた作品の感想である。
まず、フランツ・カフカという特異な人物について語られる必要がある。ドイツの代表的な作家であるカフカは、保険外交員として生計を立てながら小説を書いた。カフカはヘミングウェイやフィッツジェラルドと違い、徴兵を免れているため、戦争が彼の作品の中で登場することは基本的には無い。あの時代にあって比較的恵まれた境遇にあったと言っても良いだろう。その割に早死にで、41歳で結核により死亡している。死亡に際して草稿等は全て燃やしてくれと言っていたのに、勝手に出版されてしまった。今回取り扱う「審判」も、そんな本来はゴーゴリが(全損まではいかなかったが)「死せる魂」でやったように燃やし尽くされてしまうはずだった作品である。
「審判」の内容を簡単に説明すると、銀行に勤めるヨーゼフ・K(30歳)が、ある朝目が覚めると突然2人組みの男に自分が訴えられて、逮捕されていることを伝えられ、よく分からないがとにかく戦うしかないということで、法廷闘争を地道に繰り広げていく話である。地道に、と書いたように、法廷闘争そのものはそれ程全面的に描かれないので、読者は常にヨーゼフ・Kが、どこかで繰り広げられた法廷闘争の結果、疲弊しきっている姿を見ることになる。
まあそもそも草稿の作品だったということもあり、この作品は俺の彼女が指摘したように一見意味が分からない。より厳密に言えば主題がどこにあるのか、読者は常に気を払って探し出す必要があると言って良い。終わり方まで突然でシュールである。
実は俺はヨーゼフ・Kという主人公が好きである。俺がモンハンで使っている名前もこのブログで名乗っている名前もそこから取られたものである。KになったのはMHP2の時はまだカタカナが使えなかったので、ヨーゼフを表現しづらいということでKにしたのである。というわけで夏目漱石の「こころ」のKとは、モチーフ的には関連しているが、それ自体は俺個人の直接的なモチーフではない。カフカの作品が直接的なモチーフである。なぜか作者なりに思い入れがあるようで、同名の主人公が「城」などの他の長編でも登場する。
俺がヨーゼフ・Kを好きな理由は、この男の実直さにある。この男、なんだかんだ言って忍耐力があるのである。「城」でも「審判」でもそうなのだが、この男はカミュ的な不条理にいつも巻き込まれて、迷宮のような裁判所や城、いつも2人組みで登場する道化野郎共、繰り返される繁文縟礼な手続、それらに疲弊しながらも粛々と立ち向かっていくのである。「もうやめた」とか言わずに付き合ってやるのである。この実直さが俺は好きなのだ。殺しても殺しても絶滅しない非実在害獣に立ち向かっていく不条理に付き合わされている主人公にぴったりである。
物語自体について触れれば、「審判」は、日常の中にある非日常めいたものによって、人の人生が影響を受ける様を描いている。「非日常めいたもの」というのは、本作品で展開されるどこでやっているのかよく分からない法廷闘争であり、それは完全に夢や幻などではないのだが、やはり現実からは遠いのだ。手続、更には建物の構造や他者の性格そのものの複雑性が、現実からの乖離に拍車をかけている。それでいてその「非日常めいたもの」は人の生き死にを左右してしまうほどの決定的な力を持っているのである。「いやいや、おかしいだろ」と言って笑いながら突っ込みを入れてしまうような不条理さに、善良な小市民は殺されるのだ。その意味での皮肉めいた社会の軽さと重さが、よく描かれていると思う。
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