2016年9月15日木曜日

深夜百太郎 入口 感想

 舞城王太郎の「深夜百太郎 入口」を彼女から借りて読んだ。最近はさらに輪をかけて本を読まなくなり、自分で買った本も別に読まないという、だったら買うなという意味不明な状況になり、その状況になるのが嫌なので本も買わなくなり、結果として全く本を読まないという状況であった。しかし彼女から借りる本は常に読み、しかも昨日とかに借りた本を翌日に読み終わっている状態なので、俺は本が好きなのか嫌いなのかよく分からない。
 さて、今回の舞城王太郎の作品は、計100の「太郎」=「物語」から成る短編集であり、わかりやすく表現すると舞城的な百物語となる。「舞城的な」とか書くと意味が分からないが、彼/彼女の作品を読んでいると「ああまたこんなことしてんのか」と思う響きである。
 今回の「入口」で俺が一番好きだったのは二十七太郎の「車の河」であった。今回の短編集のほとんどの作品に共通する点として、美しそうに積み重ねたものをぶっ壊す、という点が挙げられると思うが、この「車の河」はそれがよく表れていた作品だったと思う。以前「淵の王」の感想で書いたぶっ壊しの美学というよく分からないものが結実した作品であった。
 「淵の王」の感想で言及したことをなんとなく今総称した表現が「ぶっ壊しの美学」なる言葉であるが、この「車の河」は、以前の感想で触れた「無駄口を数える」と共通し、もっと書くと他の短編と共通し、舞城王太郎がぶっ壊すために大体用意する道具が揃っている作品だったと思う。まず、舞城王太郎は最近物語=世界をぶっ壊すための道具に子供を使う。「車の河」には(「いつも通り」と言って良いかもしれないが)、赤ん坊を高所から落とす表現が用いられていた。他の作品でも大なり小なり子供を物語=世界をぶっ壊すための道具に使っている部分が見受けられるのだが、非常に直接的に表れているのがこの「車の河」である。
 また、物語=世界は女によって破壊される。単にこの作者が女を描くのが上手いから俺の目に付いているだけなのかもしれないが、「深夜百太郎 入口」における多くの短編で破壊者は女であり、その自省が世界を殺しているのである。これも最近の傾向だと思う。太宰治の斜陽で登場した創造と破壊の化身のようなかず子みたいな奴が内省により自分の世界を自分で閉じるのだ。「よい子」を生む存在が破壊を司る。
 このような破壊を楽しめる作品が「車の河」であったのである。単にこう書くといよいよ危ない人間なのかな、という感じで見られそうだが、そもそも物語自体誰かが字を使って創造した世界であり、創造されたものである以上、結末部分で「終わり」を描く以上は、何かしらの破壊が必要なのだと思う。それは時に登場人物が幸せになることで世界の終焉とする場合もあれば、例えば登場人物が全員死亡して世界の終焉とする場合もあり、どちらも物語=世界の終わりとしては、創造されたものが迎える「終わり」の描き方としては、正しいのだ。ずっと楽をして創造し続けるわけにはいかないのだから。別に破壊は単に破壊として嫌がらせの道具として存在しているわけではなく、本来は正当な創造こそが正当な破壊を必要とするのだから。
 「車の河」では最終的に破壊を司ることを自覚する主人公は死ぬことは無いが、それは破壊を求めているからこその結末であった。なぜなら、主人公は「この世に留まる」ということ、すなわち永遠の創造を行うことが本当の間違いで、正しさが物語=世界に存在しないということを自覚していたからである。熟慮された終わりが本当は物語に必要であるということをこの作者は自覚しているのだと思う。
 ところで、以上のような小難しそうに見えるいつも通りの感想に加えて、自覚された馬鹿みたいな物語=世界の終わり方も、本作においては楽しめる要素だと思う。三太郎の「地獄の子」とか、十六太郎の「山の小屋」とかの終わり方は、俺と同じような破壊マニアの終わり好きには垂涎ものの馬鹿さ加減だと思う。

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