2014年4月14日月曜日

フラニーとズーイ 感想

 またもう読んだことのあるJ.D.サリンジャーの「フラニーとズーイ」を衝動的に買ってしまった。村上春樹による新訳だというのは抜きにしても、実家に置いておいたもう捨てられたであろうサリンジャーの本が売られているという事実が目に入ると、俺は買ってしまうのだ。サリンジャーについては以前紹介したし、この「フラニーとズーイ(多くの場合は村上春樹が指摘している通り「ゾーイー」と呼ばれる)もその際に登場したが、俺は特にズーイの方の話が好きである。
 いつも通り一応あらすじを記述することに特に意味が無いこの物語のあらすじを紹介しておこう。「フラニーとズーイ」はシーモアを長男とするグラース家の他の兄弟である「フラニー」と、「ズーイ」を主要な登場人物とする話である。ここで「以上」とか書いて終わりにしてしまってもよいくらいタイトルから中身までその通りである。特段言及しておくべきは、「フラニー」と「ズーイ」は他のシーモアやバディーと言った「サヴァンじみた連中」でもなく、ブーブーのような「(割と)ちゃんとした大人」でもなく、一家の中でも珍しい役者としての才能を持った人々である。当然グラース家の人間なので何もしていなくても知識の獲得と思索を重ねてしまうが。「フラニー」はフラニー(女の子である。女子大生)とそのフラニーとは何もかもがすれ違った彼氏の会話の話。「ズーイ」の方は「叡知へと至らない知識」に溢れている大学と世の中にうんざりしてまいってしまったフラニーをズーイが慰める話である。
 この本に関しては、「ライ麦畑でつかまえて」の感想の際に匂わせたように、(ものすごく最後の方に登場するのだが)「太ったおばさん」の話が一番好きだし、何より重要だと俺は思う。フラニーが抱えていた悩みとは「叡知へと至らない知識」で満足して(中身が何もない知識を持ったまま)卒業していく大学の大学生、タッパー教授、彼氏、ルームメイトと、彼らに投影している聖書の中の自身の宗教的理想とは異なるキリストの姿の存在である。「宗教的」と言うと何か色が付いていそうで気持ち悪いかもしれないが、まあ平たく言えば「馬鹿ばっかりの世の中に辟易している女の子」がフラニーと言って良い。このような考えは誰しもが抱くだろうし、多くの場合は悩みにはならずに「落胆」程度で終わるのだが、彼女の場合はこの意味での「馬鹿」に聖書の中のキリストの姿を投影していたので、「悩み」になった。
 このような彼女の悩みを解決する方法としてズーイが呈示したのは、「太ったおばさん」を尊重するということである。「太ったおばさん」じゃない人間など(キリストを含めて)一人もいない。見世物にされている自分達をビールを飲みながらにやにや眺めている「太ったおばさん」、演劇の持つ芸術性など理解できる可能性も有していないのに真面目ぶった顔で劇を眺めている「太ったおばさん」、彼らのためにシーモアは靴をみがき、見世物を見世物として見せるべきだと述べた。
 「プロ意識」とは種類が違う。「愛」も対象が存在しないのでこの場合は妥当な解釈ではないだろう。別にシーモアもズーイも「太ったおばさん」を愛しているわけではないし、彼らのために見世物を見世物としている自分達を愛しているわけでもない。愛には対象が必要である。
 それではこれは何なのか、というと、「尊重」という言葉が適切だと思う。これはサリンジャーのものの見方が表れている部分で、「ナイン・ストーリーズ」の「テディ」の内容とも通ずるものがあるのだが、大切なことは、事実として存在する事実を事実として尊重し、行動することであり、それが人間が生きることだと、作者は考えていると思う。見世物を見ている者がキリストであれ「太ったおばさん」であれ、事実としてその場には見世物を提供する者とされる者が存在しているに過ぎない。大学にはただ知識を持っていることに満足している「太ったおばさん」ばかりだし、教授連中はそのような「太ったおばさん」を再生産し続けて社会に放出し続けていることに何の疑念も抱いていないし、付き合っている男もまさにそのような「太ったおばさん」みたいな奴だし、どうにもならないのだ。
 しかしながら、それが人間であり、人間が作る世界なので、(自分自身も例外なく「太ったおばさん」である)人間が生きていくということは、その事実を尊重することに他ならないということである。「太ったおばさん」のために、やっていくのである。

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