村上春樹の「女のいない男たち」という短編集を彼女から借りて読んだ。俺は最近、というかアメリカに行く前から5年ぐらいに渡って短編が気楽に読めて好きである。そういう意味では丁度良い短編集だった。寝る前から寝るまでで1つの作品を読めるサイズなので、この短編集だと6日は持つ。
この短編集で俺が一番好きなのは一番最初の「ドライブ・マイ・カー」で、一番嫌いだったのは「独立器官」だった。それぞれ理由を記すと、まず「ドライブ・マイ・カー」は、本書の主題である「女がいない男たち」を一番良く書けていた作品だったと思う。この短編集では付き合っているor結婚している女性が他の男性と肉体関係にある状況が必ず登場し、寝取られた側の心理描写がされるわけだが、この寝取られた側の心理描写が一番克明に描かれたものが「ドライブ・マイ・カー」だったと思う。
寝取られた側の心理描写にとって、一番大切なことは「他の男と肉体関係を結ぶ意思を持った妻・恋人の本心の全てを、判明させること(理解すること)はできない」という点である。まず当人の妻に(「社会通念上」は)直接聞くことはできないし、ここで何とか聞いたとしても、それが本心か、本当の理由なのかを確かめる術は、寝取られた側には確実に存在しない。これは、仮に寝取られた側が軍人か諜報員で、他の男と肉体関係を結ぶに至った妻を徹底的な拷問にかけ、死ぬまで他の男と寝た理由を拷問によって吐かせ続けたとしても、絶対に分からないという確信が、このブログの筆者にはある。それは、結局のところ男と女の関係というものが、他人と他人の関係だ、という非常に単純な事情によるものだ。
この点は面白いのだが、男と女が何かしらの強い関係性を結ぶと、あたかも男の側、あるいは女の側は、もう一方の側に「同一性」みたいなものを、必ず感じることになる。相手側が自分と同じ心情を持っている、同じ感情を持っている、同じ方向性を向いている、ということへの疑いが、(程度の差はあれ)薄くなる。つまり、「他人と他人の関係である」という、人間関係の基本的な土台への認識が、肉体関係、婚姻関係、恋愛関係という「同一性」を感じさせる人生における状況によって、虚飾されてしまうのだ。
その結果、寝取られた側は「他人と他人の関係」という、人間がどうやっても乗り越えられない了解の壁みたいな前提を認識するのが難しくなり、「なぜ(自分と同じことを了解しているはずの)こいつが」という、本質的に解決不能な問題を、あたかも解決可能である問題であるかのように錯覚してしまうのだ。「ドライブ・マイ・カー」の中で、高槻という、主人公が月並みな男と看做している寝取った側が、「他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です」という、極めて本質的な点を(非常に月並みな台詞で)述べているが、この点に関しては高槻という寝取った側の「他人」の見解が圧倒的に正しいと思う。その点を言葉にして描けている点で、「ドライブ・マイ・カー」という作品は、「女のいない男たち」という短編集にとって不可欠で、確実に最初の一篇として収められなければならなかった作品だったと思う。
次に、「独立器官」を俺が嫌いな理由だが、それは、この短編集の作者が、いつかこのブログの筆者が述べたように、馬鹿を描けないからである。この「独立器官」について言えば、渡会という、「女性と遊んではいるが本当の恋と愛を知らない男」という、時々登場する海外の恋愛映画の主人公みたいな男=馬鹿の存在が、かなり無理をして作為的に作られた、という点を払拭できていないと思う。確かに、上で述べた「他の男と肉体関係を結ぶ意思を持った妻・恋人の本心の全てを、判明させること(理解すること)はできない」という点は描写されていた。上で述べた男女関係に潜む「同一性」の問題もほのめかされていた。しかし、「独立器官」では、このような問題を描く前提として、主要登場人物である渡会という人物の馬鹿っぽさを利用しているので、自然に馬鹿を描けない作者としては、かなり無理をして、条件設定をするはめになったと思う。例えば、①教養(分別)があり、②医者という肩書を持ち、③これまで交際する女性に不足したことがなく(笑)、④52歳にもなるのに部下のゲイに「アフターアワーズに女性と交際する」ことを管理させる(笑)、⑤結婚するつもりがない男の存在を、その男が「本当の恋(愛)に落ちる」前提とする作業をしている。せめて20代で、医者という肩書も持っていないし、部下もいないし、ジムにも通っていないし、部下がゲイじゃないし、「アフターアワーズに女性と交際する」ことを管理していない男にしてくれ、と思う。
これに加えて、途中まで聞き手の作家はこの男が上で述べた「同一性」の問題から、なぜか他の女と恋愛する問題が「自分探し」の問題にすり替えられてこの馬鹿から語られる様を滑稽であるかのように受け取っているくせに、最終的には「独立器官」という、この馬鹿がやっと話した中身のある話を使って、「自分がなにものであるか」、というピント外れの問題を馬鹿が抱えていたことに聞き手が納得しているような描写も、無理があると思う。
もっとも、ここで書いた「ピント外れの問題」を、(やや作為的にではあれ)読者に理解させる一篇としては、成功しているのかもしれない。短編の本質的な中身ではなく、「私とはいったいなにものなのだろう」という一文に、傍点を打つという形式的な作業によって。
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