それと同時に首席で卒業するという俺の目標に対しては完全な敗北が決定した。いろいろ理由はあると思うのだが、俺の書く英語の文章などは他のAやA+を取りまくっている人々からすれまだまだ稚拙だということなのだろうと思う。NYUに来て明確に分かったことは英語にはまだまだ上の段階があるということである。俺の英語などは本当に使い物にならなかった。
一応LL.M.はMaster of Lawで法学修士という意味なのだが、日本における法学修士とは性格が異なっている。日本の法学修士は学位取得要件として修士論文の提出が求められるがLL.M.にはその必要が無い。論文作成が学位の要件だったとしても、50ページを超える通常の修士論文とは量も質も劣るもので良い。学位の質としては問題はあるが、そもそもアメリカのLL.M.は俺のような社会経験の浅い小童をターゲットにしておらず、「海外で普通に働いているおじさん達が仕事を休んでちょっと勉強できる課程」を作るために設置されているので、専門職学位としての筋は通っている。
それでは遊びまくっていても良い成績が得られるかと言えば、それは違う。アメリカのロースクールに共通することなのだが、成績判定は上が極端に狭く下が広い。イメージとしてはA+やAは数えられる程度しかおらず、あとは大体Bが付くイメージだ。これまで日本で普通に暮らしていた日本人が日本の大学と同様に「全A余裕」みたいな状態の成績表を作ろうとすれば、おそらく履修からテスト勉強から全てにおいて失敗が許されないと思う。しかもJ.D.の学生でない限り来年から頑張るといった巻き返しも無理なので一発勝負でもある。こう考えると上では逆のことを言ったが案外学位の質は担保されているのかもしれない。
次はいよいよ博士だが、博士については取る場所から論文の中身から全てにおいてもう俺は決めているので最低な飛行機とガム女のせいで初日から不安を募らせた渡米生活とは真逆である。帰りの飛行機には子どもが乗っていないことを祈るばかりである。
0 件のコメント:
コメントを投稿