何かTransitional Justiceの授業の一環として、Granitoという映画を観てこいとかメールが来てたので行ってきた。NYUの近く(歩いて2分ぐらい)には場末の場末みたいな、キングの小説に登場してきそうな小さいシネコンがあるのでこういう時に便利である。
一応俺はこの分野の専門家の卵の卵の卵・・・・すなわちモンスターハンターなのでこの映画について述べておく必要があるだろう。この映画は中央アメリカに位置するグアテマラ(コーヒーで有名)で、1954年に転覆された政府に代わり生まれた親米独裁政権の手で20万人の国民が虐殺され、近年になってようやくこの虐殺に加担した政権のトップ達を「戦争犯罪者」として裁くための文脈が国際的・国内的に形成されてきたことを追ったドキュメンタリー作品である。本作品は3部構成から成っており、第1部が内戦と虐殺の経緯、第2部が戦争犯罪法廷を開くまでのプロセス、第3部が今後の展望について述べられている。
この映画の見どころについて、Naomi Roht-Arriazaってこういう人だったんだとか、エンドクレジットに何かNYUでTransitional Justice教えている先生の名前とかが載っていたなどといったマニアックな点は置いておいて、「20万人」といった抽象的な数字では語ることのできない被害者やその遺族の思いや、アメリカという大国の責任を描いている点にあると思われる。
冷戦期の親米独裁国家樹立→内戦の典型事例の1つがグアテマラである。以前スネ夫とジャイアンの例で述べた通り、アメリカというジャイアンは、やたらスネ夫を作りたがる傾向がある。とりわけ9.11までは、親米である限りアメリカはこういった独裁政権という、自分が大層に掲げている自由民主主義や人権といった理念に反する政権があっても見逃してやるというダブルスタンダードで動いていた文脈があり、作者及び被害者が指摘する通り、このグアテマラにおける虐殺は、親米独裁政権を資金的に援助していたアメリカにも多大な責任があるだろう。ニカラグア事件のように現政府 v. 反政府組織(アメリカの支援付き)という構造があって、ニカラグア政府が国家としてアメリカは国際法違反だとか言えばいいのだが、グアテマラのケースは、既にアメリカの支援によって政府が転覆されて、その政府が自国の国民を虐殺しているので、現政府(アメリカの支援付き) v. 国民(反政府組織)という構造になる。こうなるとここで言う「国民」は国際法の主体にならないのでアメリカの国際法違反を直接訴えることはできず、せいぜい米州人権裁判所に訴えるか、国連の人権委員会なりがRecommendationsをグアテマラにするかどちらかが取りうる策であった。しかし、法律論的にはどちらも強制執行能力(やるとしてそもそもグアテマラを支援しているアメリカがやるのだろうか)があるのかという点で問題があり、また国際政治的には冷戦期で他の国連機関と同様、人権委員会(系)といった組織が十分に機能していたのかは不明な状況がある。結果として、クソのカスみたいな理由(一部の虐殺は政府と癒着していた地主があの土地に住んでいるマヤの人々が邪魔だから「反政府組織」ということにして排除してくれと訴えた結果行われたらしい)で20万人が殺されてしまった。
さて、作品の内容であるが、かなり克明に1982年という、グアテマラがジョージ・オーウェルの『1984年』のようなろくでもない時代だった頃の状況を映し出している。作者は当時自作のドキュメンタリー映画のためにこの国を取材しており、その際に独裁政権の軍と反政府組織両方に取材することに成功している。なので、反政府組織狩り中の政府軍のヘリに同乗して取材していた作者に、現代のグアテマラで元反政府組織の一員が「あの時ヘリのパイロットを撃ってたらあんたは死んでたね。はは」とか言うシーンもあった。こういった死が隣り合わせに存在していた現実を描いたシーンは他にもあり、例えば政府軍が虐殺の対象者を名簿を持ってチェックする場面で、「この名簿に名前が載ってたらあいつは死んでた。はは」とか普通に言っててああこれが当時のグアテマラだったんだなということが分かる。
また、タイトルのGranito(砂の粒)の意が表す通り、この虐殺の問題に内戦中、内戦後の現代で戦い続ける「砂の粒」のような一人ひとりの個人の役割が映画中では強調されている。「法外科医、国際弁護士、遺族、現地人権活動家など、これらの人々は一人ひとりでは小さな「砂の粒」だが、協力することで大きな力を生み出すことができる」という教科書のようなメッセージがこの映画には込められているだろう。カンボジアのクメール・ルージュを対象とした戦争犯罪法廷と同様に、グアテマラの事例でも当時虐殺を命じた軍政権のトップ(これぞ悪人といった男である)はかなり老齢になっているようなので、Transitional JusticeにおけるProsecutionにいつもつきまとう「時間との戦い」が今後の問題である。何せ虐殺の証拠(Command Responsibilityを問うための当時の作戦や具体的な指示等)は秘匿・消去されている場合が多いのだ。目的達成のためには一人ひとりのスペシャリストの協力が不可欠となる。この作品では彼らがどのように協力するのかということが、特に2部において描かれている。
他方で、「教科書のような」と述べたとおり、若干作品構成はくどくて(作者の個人的なメッセージやらが強いのはいいのだが、もう少し「ドキュメンタリー」っぽくして作者が何か虚空を見つめたりフィルムを見つめてたそがれたりする描写を削ってくれるとありがたい)少し鼻につく感じはあったと思ってしまった。小中学校の人権教育の教材としては十分な役割を持っているが、2時間ほど観客をひきつけるような面白さを持っていたかと言われると、それは持っていないと言わざるを得ない。事実俺の前の席でこの映画を観ていた女の子は途中で寝てしまって、隣のラッキー(女の子がどんな女の子か見てないのでラッキーかどうか不明)な男に寄りかかっていた。まあこういった鼻に付くメッセージ性というのは、作者のグアテマラという国やその国に住まう人々に対する思いの表れと解釈すべきなのだろう。グアテマラの虐殺という事例に関心のある人が勉強目的でTSUTAYAで借りて観る映画ということで良いのではないだろうか。
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