数学者ジョン・ナッシュの半生を描いた「ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡」を呼んだ。「やっと読んだ」と言う方が正しい。なぜかこの本を読むのに1年かかったからだ。別にその間俺の読むスピードが極端に落ちて1日1ページ読むのがやっとだったとか、忙しくて全く本も読めない状態だったというわけではない。確かに本は昨年1年間極端に読まなくなったが、他の本についてはまあ読んでいた。おそらく俺の数学嫌いが影響したのかもしれない。嘘だが。
いつも通り適当なあらすじを書くと、この本はジョン・ナッシュという、数学分野で「天才的」と呼ばれる業績を持つ学者が統合失調症に罹った話を描写した作品である。「天才数学者の半生」には特に価値は無いかもしれないが、この天才が統合失調症という、思考が要される学者にとって致命的と言える精神の病に罹り、そこから復活したことを描写している点で、この本には読む価値がある。
ところで、俺は数学が嫌いである。もっと言うと、数の計算に関わるあらゆることに全く価値が見いだせない。面白くないのである。今は昔と違って「学問的な興味」みたいな、学問好きが持つフィルターみたいなものを通して数学を見ることができるようになったため、俺は数学を他の学問分野と同様に「尊重」して捉えることができるのだが、それは「好き」であることとは違う。小学3年生の頃に半年ぐらい俺は小学校に行かなくなったが、それはいじめや勉強ができないというのではなく、本当にピンポイントで「算数が嫌い」だったことが原因だったほどである。算数ドリルやワークブックという、全く価値の見いだせないクソのために「がんばり学習」とかで夕方4時ぐらいまで残され、あれができていない、これができていない、こんなのもできないの?とクソ教師(俺が付けたニックネームだと「眼鏡ババア」)に言われるのが我慢ならなかった。「うるせぇクソが!俺(様)を残すんだったら他の面白い理由で残せ!」と言いたかったが、(まだ)言えない小心者だったので、やらない、という選択をした。理由がピンポイントだったので、別に算数ができなくても俺を残さなくなった先生になった小学4年生以後のクラスでは、「何事も無かったかのように」学校に行くようになっている。
このような筆者であったが、特にこの本に価値があると思わされたのは、前半部分のナッシュのよく「天才」にありがちな傲岸不遜と呼ばれる行動様式と、それでもやることはやって成功しましたという感じの描写ではなく、やはり後半部分の統合失調症の罹患状態と、そこからの回復にある、と思われる。
とりわけ、「ノンフィクションもの」なので、半分歴史学的なリサーチが要される作業だったと思うが、各精神病院の施設状況や特徴まで、詳細な描写がされていて、それがナッシュが直面した絶望の描写を際立たせている。途中のカフカの作品や彼の作品を使ったナッシュの状態の描写の部分については、カフカ好きの人間からすれば的外れ感があったのだが、それ以外の後半の描写にはリアリティがあった。統合失調症からのナッシュの回復が、劇的にもたらされたものではなく、「なんとなく」治ったということ、そこからノーベル経済学賞受賞という学者にとっての最高の栄誉もまた、彼自身の生活に劇的な変化をもたらしたわけではなく、彼の学問的態度が継続した点に変わりがない、ということについては、かなり現実味のある書き方がされていると思う。俺のように数学や算数ができなくても、この本には読む価値があるだろう。「眼鏡ババア」も読んでいたら算数ドリルができないというどうでもいい理由で俺を残さず、さっさとお互い家に帰ってもっと生産的なことに時間を使えたかもしれない。