彼女から借りていたスティーヴン・キングの「ドクター・スリープ」を前日の昼ぐらいから読み始め、今読み終えた。久し振りにぶっ続けで読みたくなる長編であり、こういう本があると、やはり人生を使って本を読むということは、それ自体が良いものだと思わされる。酒を飲むのと同じである。読まずにいられない。
そして、今Googleで検索して、「ドクター・スリープ」が映画化されることになっている情報を目にして、安堵した。当たり前である。これを映画化せずに何を映画化したら良いのだろう。俺がワーナー・ブラザーズの企画担当とかだったら、これを読んで1日後には上司に熱烈な企画書を書いて提出している。
いつも通り適当なあらすじをまず並べると、「シャイニング」で“かがやき”を持つ少年として、オーバールックの惨劇と喪失を経験したダン・トランスは、ろくでもないアル中に育って各地を泥の中を這いずり回るように転々としていたが、やがてティニータウンの「リヴィングトン館」なる、終末医療の本部のようなホスピスで勤務し、“かがやき”を使って死の淵に至った者に、その淵を安らかに超えることを「ドクター・スリープ」として手伝っている内に、自分よりも更に強い“かがやき”を持つアブラという少女と出会い、やがて、アブラなどの“かがやき”を持つ少年少女の命気を狙い暗躍する「真結族」との闘いに身を投じていく・・・という話である。以上の造語を見ただけでキングの長編っぽい匂いしかしない。つまり面白そうな匂いしかしない。
この作品についてはキングの長編が好きならほぼ確実に好きになるし、ぶっ続けで読みたくなるであろうことに疑いが無い。敵側が少し弱い、というよりダンとアブラの“かがやき”を持ったコンビが強過ぎるが故に、途中で敵側を応援したくなるぐらいだったが、その他の点では(あれほど書き尽くした)「シャイニング」で語られなかったことが丁寧に回収され、単に回収するだけではなく、それ自体が物語にとって必要だったと思わされる措置が施されていたと思う。「シャイニング」であれだけの思いをして喪失し、「その後の人生」を獲得した前作主人公であるダンが、かがやくどころか、アルコールの闇の中でのたうち回っていた、というのは、素直に残念な気分にもなるだろうが、それが物語の筋として正しい、ということも十分分かるのだ。
余談だが、キングが創造した特殊能力の形容である“かがやき”(シャイニング)という言葉は、俺がもの凄く好きな特殊能力の形容の仕方である。これほどセンスに溢れた造語は無いというぐらいセンスに溢れていると思う。言ってしまえば超能力なのだが、“かがやき”と表現することで、読者は色を想起して能力を闇やホレス・ダーウェントなどの「怪物」と対比することができ、一辺倒ではない能力の揺らめきを明滅の如く感じ取ることができるのだ。
もちろん、登場人物は別に「ククク・・・俺の“かがやき”(シャイニング)を喰らえ!!」とか言ったりしないのでそこは安心して欲しい。「シャイニング」も「ドクター・スリープ」もそんな安い表現の彼岸の彼岸と呼べる場所に位置している本である。
2016年9月18日日曜日
2016年9月16日金曜日
ジョイランド 感想
スティーブン・キングの「ジョイランド」を読んだ。また彼女から借りた本である。
いつも通り適当なあらすじを書くと、1973年にデヴィン・ジョーンズという、どこかの海賊船に乗っていたような人間のような名前をした(童貞)貧乏大学生が、童貞も捨てられないまま彼女と疎遠になり、偶然日本で言うと生協食堂みたいな所でジョイランドという遊園地で夏休み期間中にバイトを募集している情報を目にして応募して気に入られて採用され、ひと夏を過ごす内にハリーポッター的な男女仲良し3人組で主人公ではない男の方と女の方がデキて、主人公は着ぐるみを着るのがプロみたいになって、人名救助をやったりしていく内に、ジョイランドのお化け屋敷で過去に行われた殺人事件の真相を(デキた女の役割が大きいと思うが)お化け屋敷の幽霊とか千里眼を持つような「ダークタワー」のジェイク的な少年とか、金持ちの人妻とか一緒に解き明かしていく・・・という話である。つまり今回は比較的明確にミステリー物に位置づけられるらしい。
正直に書くと、今回の作品は別に一生懸命読む必要もないかな、というのが感想である。まあキング好きならデヴ君の内面描写とか遊園地の「トーク」とか、幽霊の描写を観るだけで満足するかもしれないが、ミステリー物としては全然不器用な感じがしたし、面白くは無いと思う。
俺の嫌いな点を挙げると、第1に、あのジェイク的な少年の千里眼は特に(本当の意味では)「ジェイク的」にならなかったと思う。というか、彼の能力は別にそこまで道具としてミステリーの結末を描く道具として活かされていないように感じた。あの思わせぶりな(複数回に渡って登場した)「白じゃない」という発言は最後まで暗喩程度でしかなく、幽霊の開放シーンでも彼が何をしたから開放できたのか暗喩程度のような描かれ方しかされておらず、別に彼自身真犯人を突き止めたりしておらず、ジェイクっぽい偽物のような感じでしかなかった。
第2に、だったら第1の点のオルタナティヴが話を進める道具として用意されているべきなのだが、正直主人公の労力に積み重ねが見えず、むしろ彼の友達の方が役割として大きく見えてしまった。もちろん、一人称の物語なのだから、一見彼が推理して解決したかのように見せかけているが、論理と思考の積み重ねは彼の友達(彼ではなくもう1人の友達を取った女)によって既に用意されており、加えて、彼のひらめきも論理の積み重ねというよりは局所的な直観に近いもので、こちらも既に用意されているように見えてしまった。ミスリーディングを誘うというよりは、別にそもそも不可視のものをいきなり結果だけ登場させているように見えて、無理して書かなくても、と思ってしまう。いつもの超自然的な話を超自然的に解決させた方が一貫したのではないか。
第3に、第1、2の点が存在する論理的帰結として、彼お得意の超自然的な力の描写は本当にうっすらとしたものになってしまった。ジェイク的な存在はジェイク的な存在でしかなく、幽霊はほぼ無害で、別によくある展開で真犯人に応報を加えたり、あるいはその特定を補助したりもしない。ただ幽霊を示唆させる姿で風船のように浮いているようなものである。そのため、そのまま読むと、読者は、何で異様にトムが(こんな吹いたら飛んでいきそうな)幽霊の存在にびびっているのか、なぜ主人公が幽霊に拘泥するのか、共感し難いと思う。
以上3点の理由から、俺は別にこの作品は好きにはならない、と思う。また、この3点に日本人的な感覚からもう1点加えるとすると、あの取って付けたような主人公の童貞の捨てさせ方も違和感がある。最初から童貞を明言して「告発どおり有罪」であることは伏線を張っており、(村上春樹の表現を借りると、「銃が登場してきたら撃たせないといけない」ように)、童貞が登場してきたら、多分捨てさせるわけなのだが、それはやはり話を進める上で必要だから、物語のピースの1つだから、という必然性が必要なのだ。別に今作では(もったいぶった割に)それも特に必要だったか・・・?という程度のもので、主人公自体(紙片を割いて表現した割には)それによって別段変わったりしないので、読者との距離は開くばかりだと思った。
もちろん「日本人的な感覚」と述べたように、「別に現代文学において主人公のセックス描写とか普通過ぎて、話の構成要素としての価値も無いのでは?そもそもアメリカ人はこんな感じで皆やってるんだよ」とかしっかり言われると、はいはいそうですね、それがアメリカではリアルでありフェアなんですね、と、論ずることを止めたい方向に動くのだが。一方で、まあそう言われても結局俺はだったらもう全員デューク東郷みたいな奴を主人公にしろよと思ってしまうのであった。
いつも通り適当なあらすじを書くと、1973年にデヴィン・ジョーンズという、どこかの海賊船に乗っていたような人間のような名前をした(童貞)貧乏大学生が、童貞も捨てられないまま彼女と疎遠になり、偶然日本で言うと生協食堂みたいな所でジョイランドという遊園地で夏休み期間中にバイトを募集している情報を目にして応募して気に入られて採用され、ひと夏を過ごす内にハリーポッター的な男女仲良し3人組で主人公ではない男の方と女の方がデキて、主人公は着ぐるみを着るのがプロみたいになって、人名救助をやったりしていく内に、ジョイランドのお化け屋敷で過去に行われた殺人事件の真相を(デキた女の役割が大きいと思うが)お化け屋敷の幽霊とか千里眼を持つような「ダークタワー」のジェイク的な少年とか、金持ちの人妻とか一緒に解き明かしていく・・・という話である。つまり今回は比較的明確にミステリー物に位置づけられるらしい。
正直に書くと、今回の作品は別に一生懸命読む必要もないかな、というのが感想である。まあキング好きならデヴ君の内面描写とか遊園地の「トーク」とか、幽霊の描写を観るだけで満足するかもしれないが、ミステリー物としては全然不器用な感じがしたし、面白くは無いと思う。
俺の嫌いな点を挙げると、第1に、あのジェイク的な少年の千里眼は特に(本当の意味では)「ジェイク的」にならなかったと思う。というか、彼の能力は別にそこまで道具としてミステリーの結末を描く道具として活かされていないように感じた。あの思わせぶりな(複数回に渡って登場した)「白じゃない」という発言は最後まで暗喩程度でしかなく、幽霊の開放シーンでも彼が何をしたから開放できたのか暗喩程度のような描かれ方しかされておらず、別に彼自身真犯人を突き止めたりしておらず、ジェイクっぽい偽物のような感じでしかなかった。
第2に、だったら第1の点のオルタナティヴが話を進める道具として用意されているべきなのだが、正直主人公の労力に積み重ねが見えず、むしろ彼の友達の方が役割として大きく見えてしまった。もちろん、一人称の物語なのだから、一見彼が推理して解決したかのように見せかけているが、論理と思考の積み重ねは彼の友達(彼ではなくもう1人の友達を取った女)によって既に用意されており、加えて、彼のひらめきも論理の積み重ねというよりは局所的な直観に近いもので、こちらも既に用意されているように見えてしまった。ミスリーディングを誘うというよりは、別にそもそも不可視のものをいきなり結果だけ登場させているように見えて、無理して書かなくても、と思ってしまう。いつもの超自然的な話を超自然的に解決させた方が一貫したのではないか。
第3に、第1、2の点が存在する論理的帰結として、彼お得意の超自然的な力の描写は本当にうっすらとしたものになってしまった。ジェイク的な存在はジェイク的な存在でしかなく、幽霊はほぼ無害で、別によくある展開で真犯人に応報を加えたり、あるいはその特定を補助したりもしない。ただ幽霊を示唆させる姿で風船のように浮いているようなものである。そのため、そのまま読むと、読者は、何で異様にトムが(こんな吹いたら飛んでいきそうな)幽霊の存在にびびっているのか、なぜ主人公が幽霊に拘泥するのか、共感し難いと思う。
以上3点の理由から、俺は別にこの作品は好きにはならない、と思う。また、この3点に日本人的な感覚からもう1点加えるとすると、あの取って付けたような主人公の童貞の捨てさせ方も違和感がある。最初から童貞を明言して「告発どおり有罪」であることは伏線を張っており、(村上春樹の表現を借りると、「銃が登場してきたら撃たせないといけない」ように)、童貞が登場してきたら、多分捨てさせるわけなのだが、それはやはり話を進める上で必要だから、物語のピースの1つだから、という必然性が必要なのだ。別に今作では(もったいぶった割に)それも特に必要だったか・・・?という程度のもので、主人公自体(紙片を割いて表現した割には)それによって別段変わったりしないので、読者との距離は開くばかりだと思った。
もちろん「日本人的な感覚」と述べたように、「別に現代文学において主人公のセックス描写とか普通過ぎて、話の構成要素としての価値も無いのでは?そもそもアメリカ人はこんな感じで皆やってるんだよ」とかしっかり言われると、はいはいそうですね、それがアメリカではリアルでありフェアなんですね、と、論ずることを止めたい方向に動くのだが。一方で、まあそう言われても結局俺はだったらもう全員デューク東郷みたいな奴を主人公にしろよと思ってしまうのであった。
2016年9月15日木曜日
深夜百太郎 入口 感想
舞城王太郎の「深夜百太郎 入口」を彼女から借りて読んだ。最近はさらに輪をかけて本を読まなくなり、自分で買った本も別に読まないという、だったら買うなという意味不明な状況になり、その状況になるのが嫌なので本も買わなくなり、結果として全く本を読まないという状況であった。しかし彼女から借りる本は常に読み、しかも昨日とかに借りた本を翌日に読み終わっている状態なので、俺は本が好きなのか嫌いなのかよく分からない。
さて、今回の舞城王太郎の作品は、計100の「太郎」=「物語」から成る短編集であり、わかりやすく表現すると舞城的な百物語となる。「舞城的な」とか書くと意味が分からないが、彼/彼女の作品を読んでいると「ああまたこんなことしてんのか」と思う響きである。
今回の「入口」で俺が一番好きだったのは二十七太郎の「車の河」であった。今回の短編集のほとんどの作品に共通する点として、美しそうに積み重ねたものをぶっ壊す、という点が挙げられると思うが、この「車の河」はそれがよく表れていた作品だったと思う。以前「淵の王」の感想で書いたぶっ壊しの美学というよく分からないものが結実した作品であった。
「淵の王」の感想で言及したことをなんとなく今総称した表現が「ぶっ壊しの美学」なる言葉であるが、この「車の河」は、以前の感想で触れた「無駄口を数える」と共通し、もっと書くと他の短編と共通し、舞城王太郎がぶっ壊すために大体用意する道具が揃っている作品だったと思う。まず、舞城王太郎は最近物語=世界をぶっ壊すための道具に子供を使う。「車の河」には(「いつも通り」と言って良いかもしれないが)、赤ん坊を高所から落とす表現が用いられていた。他の作品でも大なり小なり子供を物語=世界をぶっ壊すための道具に使っている部分が見受けられるのだが、非常に直接的に表れているのがこの「車の河」である。
また、物語=世界は女によって破壊される。単にこの作者が女を描くのが上手いから俺の目に付いているだけなのかもしれないが、「深夜百太郎 入口」における多くの短編で破壊者は女であり、その自省が世界を殺しているのである。これも最近の傾向だと思う。太宰治の斜陽で登場した創造と破壊の化身のようなかず子みたいな奴が内省により自分の世界を自分で閉じるのだ。「よい子」を生む存在が破壊を司る。
このような破壊を楽しめる作品が「車の河」であったのである。単にこう書くといよいよ危ない人間なのかな、という感じで見られそうだが、そもそも物語自体誰かが字を使って創造した世界であり、創造されたものである以上、結末部分で「終わり」を描く以上は、何かしらの破壊が必要なのだと思う。それは時に登場人物が幸せになることで世界の終焉とする場合もあれば、例えば登場人物が全員死亡して世界の終焉とする場合もあり、どちらも物語=世界の終わりとしては、創造されたものが迎える「終わり」の描き方としては、正しいのだ。ずっと楽をして創造し続けるわけにはいかないのだから。別に破壊は単に破壊として嫌がらせの道具として存在しているわけではなく、本来は正当な創造こそが正当な破壊を必要とするのだから。
「車の河」では最終的に破壊を司ることを自覚する主人公は死ぬことは無いが、それは破壊を求めているからこその結末であった。なぜなら、主人公は「この世に留まる」ということ、すなわち永遠の創造を行うことが本当の間違いで、正しさが物語=世界に存在しないということを自覚していたからである。熟慮された終わりが本当は物語に必要であるということをこの作者は自覚しているのだと思う。
ところで、以上のような小難しそうに見えるいつも通りの感想に加えて、自覚された馬鹿みたいな物語=世界の終わり方も、本作においては楽しめる要素だと思う。三太郎の「地獄の子」とか、十六太郎の「山の小屋」とかの終わり方は、俺と同じような破壊マニアの終わり好きには垂涎ものの馬鹿さ加減だと思う。
さて、今回の舞城王太郎の作品は、計100の「太郎」=「物語」から成る短編集であり、わかりやすく表現すると舞城的な百物語となる。「舞城的な」とか書くと意味が分からないが、彼/彼女の作品を読んでいると「ああまたこんなことしてんのか」と思う響きである。
今回の「入口」で俺が一番好きだったのは二十七太郎の「車の河」であった。今回の短編集のほとんどの作品に共通する点として、美しそうに積み重ねたものをぶっ壊す、という点が挙げられると思うが、この「車の河」はそれがよく表れていた作品だったと思う。以前「淵の王」の感想で書いたぶっ壊しの美学というよく分からないものが結実した作品であった。
「淵の王」の感想で言及したことをなんとなく今総称した表現が「ぶっ壊しの美学」なる言葉であるが、この「車の河」は、以前の感想で触れた「無駄口を数える」と共通し、もっと書くと他の短編と共通し、舞城王太郎がぶっ壊すために大体用意する道具が揃っている作品だったと思う。まず、舞城王太郎は最近物語=世界をぶっ壊すための道具に子供を使う。「車の河」には(「いつも通り」と言って良いかもしれないが)、赤ん坊を高所から落とす表現が用いられていた。他の作品でも大なり小なり子供を物語=世界をぶっ壊すための道具に使っている部分が見受けられるのだが、非常に直接的に表れているのがこの「車の河」である。
また、物語=世界は女によって破壊される。単にこの作者が女を描くのが上手いから俺の目に付いているだけなのかもしれないが、「深夜百太郎 入口」における多くの短編で破壊者は女であり、その自省が世界を殺しているのである。これも最近の傾向だと思う。太宰治の斜陽で登場した創造と破壊の化身のようなかず子みたいな奴が内省により自分の世界を自分で閉じるのだ。「よい子」を生む存在が破壊を司る。
このような破壊を楽しめる作品が「車の河」であったのである。単にこう書くといよいよ危ない人間なのかな、という感じで見られそうだが、そもそも物語自体誰かが字を使って創造した世界であり、創造されたものである以上、結末部分で「終わり」を描く以上は、何かしらの破壊が必要なのだと思う。それは時に登場人物が幸せになることで世界の終焉とする場合もあれば、例えば登場人物が全員死亡して世界の終焉とする場合もあり、どちらも物語=世界の終わりとしては、創造されたものが迎える「終わり」の描き方としては、正しいのだ。ずっと楽をして創造し続けるわけにはいかないのだから。別に破壊は単に破壊として嫌がらせの道具として存在しているわけではなく、本来は正当な創造こそが正当な破壊を必要とするのだから。
「車の河」では最終的に破壊を司ることを自覚する主人公は死ぬことは無いが、それは破壊を求めているからこその結末であった。なぜなら、主人公は「この世に留まる」ということ、すなわち永遠の創造を行うことが本当の間違いで、正しさが物語=世界に存在しないということを自覚していたからである。熟慮された終わりが本当は物語に必要であるということをこの作者は自覚しているのだと思う。
ところで、以上のような小難しそうに見えるいつも通りの感想に加えて、自覚された馬鹿みたいな物語=世界の終わり方も、本作においては楽しめる要素だと思う。三太郎の「地獄の子」とか、十六太郎の「山の小屋」とかの終わり方は、俺と同じような破壊マニアの終わり好きには垂涎ものの馬鹿さ加減だと思う。
2016年9月10日土曜日
東京スカイツリーに今更行った話
ライトアップされたスカイツリー |
今更東京スカイツリーに行くことに無理矢理して行ってきた。思い立ったのが夜だったので夜のライトアップされたスカイツリーを観に行くことになった。
行ったタイミングでちょうどやっていた催し物 |
スカイツリーへは押上という半蔵門線の最果てのような所から歩いたり、東武スカイツリーラインという、名前自体にもスカイツリーとか固有名詞が乗っているような電車でも行くことができる。俺は後者で行って「とうきょうスカイツリー駅」とか固有名詞が入った駅から歩いた。
金魚(模型) |
「とうきょうスカイツリー駅」からは大体5~10分ぐらいは歩く。スカイツリーのある所はもう複合商業施設みたいな感じで1日潰せるような感じである。下まで着くと(突然行くことを思い立ったので)2060円もする当日券を購入し、意匠をこらしたエレベーターに誘導された。「天望回廊」なるものもあり、これは追加で1030円支払うことで観ることができるらしい。「2060円」という高額であることを感得させる数字に俺は若干の嫌悪感を抱いてしまったので買わなかった。なので詳細不明である。エレベーターに乗るとフロア350まで連れていかれる。
金魚(実物) |
当日、スカイツリーでは"WIPE UP!"なる催し物が俺が着いたタイミングで既に開始されており、それを観覧したり模型の金魚を観たり本物の金魚を観たりした。俺が着いたタイミングはもう最終時刻と言って良いような頃合いであったが、老若男女、国籍を問わず多くの人々が2060円を支払ってその場所に来ていた。
2050円の夜景 |
催し物が終わった後にいろいろフロアを観たり外を眺めたりした。夜行った方が夜景が綺麗なので案外良いのかもしれない。俺が行ったタイミングだともう店とかも閉まり始めているような頃合いだったのでちょっと前ぐらいが良いのだろうと思う。
なお、東京スカイツリーということなので期待したが、コイキングぐらいしか捕まえられなかった。
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