「クージョ」はスティーヴン・キングの書いた、いわゆる「キャッスル・ロックもの」の中でも映画化された代表的な作品の1つである。
いつも通り簡単にストーリーを紹介しておくと、メイン州のキャッスル・ロックという、キングの作品の中ではおなじみの架空の(ファンにとってはほとんど実在の)町において、車の修理工が飼っていた「クージョ」という名前のキャッスル・ロックで最大のサイズのセントバーナードが、狂犬病に罹患して文字通り「狂犬」と化し、偶然車の修理を頼みに来たドナと息子のタッドが、故障した車の内外を挟んでそこにいた狂犬と対峙する物語である。
この物語においては上記した簡単な筋道に沿って展開されるものの、キングお得意の本筋を取り巻く人間の姿を描いた群像劇こそが本当の見所であろう。簡単に言えば、「渡る世間は鬼ばかり」の世界で問題が発生してえなり君とピン子さんが対峙しつつ、回りのろくでもない親戚連中などの姿が描かれるような感じである。「クージョ」を読む前にキングの処女作である「キャリー」を読んでいたため、こういった群像劇調の描写に明確な変化があったことがよく分かる。
勿論、それらの群像劇は卓越した人間観察の賜物であろうが、個人的にTOEFLの帰りのバス(2回目の登場)で読んだ時に感じたことは、「ホラー」あるいは「サスペンス」といった人の恐怖心を加速させる文体を要する作品においては、写実的な、あるいは現実主義的な人間描写と、読者を煽り、導き、疾走させるための描写との間に緊張関係が存在しているなということである。
例えば、多少のネタバレを怖れずに例を挙げると、故障した車の中でドナとタッドが外を徘徊するクージョに恐れおののき、泣き喚くシーンがある。タッドは4歳児程度であるからまだ分かるが、俺はそれを読んでいる時に、「果たして30を越えた女が強化ガラスに守られた車の中で、文脈の前置なしに無条件で子どものように1匹の犬を怖れて泣き喚くものだろうか?」という疑念が湧いた。なるほど、犬が読者である俺の予想を越えてトラかサイ、もっと言えばイビルジョーのようなでかさだったのかもしれない。しかし、やはり「犬」である以上、読者に与える想像の刺激には自ずと限界が生まれてしまうのではないだろうか。車の外をゴジラが暴れ回っているわけではないのだ。現実的な人間の描写としては限界を逸脱しているように見える。
他方で、「クージョ」をホラー、あるいはサスペンスとして成り立たせている「読者の恐怖感を煽る」という無数の要素の1つとして考えれば、ドナは泣き喚く必要があったのだとも言える。「主要登場人物が泣き喚かないホラーなんてホラーではない。考えてみろ?きちんとキングはそのための複線としてドナが家庭内の不和を原因として心神耗弱気味になっていたことも描いていたし、多少小説作法としては幼稚だったがクージョの必殺タックルで車の強化ガラスにひびを入れさせて、【もしかしたら・・・】という描写もしていたじゃないか?お前は彼の人間を描く才能に入れ込み過ぎているんだよ。K君。」という心の声も聞こえた。
この2つの文体の相反する要素の配分を考えるのは骨だなと思うし、多分キングはそれを半分は本能的に行っているんだろうなと思う。「クージョ」は少なくともこのバランスの維持に関しては「許容範囲」ではあるし、それよりもおそらく読者はヴィクとドナの夫婦関係、息子ブレットをめぐる修理工の一家の攻防という、他のそれだけで作品になってしまいそうな秀逸な群像劇に気を取られてしまうだろう。
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