もう舞城王太郎の作品の感想を書いてしまったので、とりあえず思い出しながら立て続けに感想でも書こうと思う。2作品目は『暗闇の中で子供』。『煙か土か食い物』に続く「奈津川家サーガ」第2作にして現段階で最終巻である。真面目にシリーズが続くと思ってた奴はざまあみろ!!一生期待でもしてろクソが!
いつも通り超簡易あらすじを書いておくと、前作の戦いが終了して以降も、屑日本代表であり女の指フェチである奈津川三郎は西暁町で屑の営みを行っていたが、ある日ユリオという、ヤンデレどころかむしろただの病という少女に出会い、連続殺人事件にもまた遭遇し、全然アメリカに帰らない四郎やら一郎やら絶対君主二郎やらその二郎に一方的な虐待を加えていた社会的害悪である父親の丸雄やらがごちゃごちゃやっていく中、めんどくさくなってきた三郎は真っ暗な場所に引きこもって屑代表として屑を再生産し続けるのであった・・・という話である。何このあらすじ?とか思う人は実際こんな感じなので読んでみて欲しい。
この作品の終わり方が気に入らない方は、各種短編や『九十九十九』や『獣の樹』も同じ感じで終わるので、さっさと舞城王太郎の書いた本なんてブックオフに売って、そのお金で結婚する方法やお金を儲ける方法を考えて、「俺は素晴らしい奴らの一員だ絶対に許さない」と自分に言い聞かせて、洗顔フォームのCMみたいに顔を輝かせながら走り出すような生活を送れば良いと思う。
なぜ最初から最後、というか「最初から途中」、「最初から最初」までクライマックスで、そのままLANケーブルを引っこ抜くように話を切るのかと言うと、舞城王太郎は「あくまで面白い物語を書くための記号」として存在しているだけなので、面白いことを書いたらもう終わりなのである。作品としてまとまっている=面白いというのは小学校で習う作文の書き方とか、中学校・高校で習う小論文の書き方とか、大学の卒業論文とか、修士論文とか、俺が書いているような博士論文とか、つまり「俺は素晴らしい奴らの一員だ絶対に許さない」ということを真面目な顔をして言う連中の世界の話であって、文学の話ではないのだ。小説家なんて大半はそもそもできるだけ面白いような嘘の話をでっち挙げてお金をもらう「駄目で駄目で駄目で駄目で駄目な奴ら」なんだから、真面目な人々の言う話なんて聞く必要など全く無いのである。小説家に求められるのはただ1つ、面白い物語を書くことであり、「舞城王太郎」という記号の役割は面白い物語を提供した段階で終わる。途中で止めようが、シリーズ化がどうとか出版業界や読者の希望があろうが、知ったことではないのである。このような観点からすれば、舞城王太郎の作品は「筋が通っていないからこそ筋が通されている」のだ。
したがって、本作品は小説家の「面白い作品のプロバイダー」としての役割が結実した1つの例である。実はこのような物語のプロバイダーとしての役割は、舞城王太郎の作品ではもっともらしい話の提供者としての探偵に置き換えられてそれ以後の作品では触れられていることが多い。三郎はこの名探偵=小説家(物語話者)の1つの原型であり、「俺は素晴らしい奴らの一員だ絶対に許さない」という連中に対する最初の凌辱者である。
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