2012年10月11日木曜日

阿修羅ガール 感想

 舞城王太郎の『阿修羅ガール』の感想を書こうと思う。順番から言うと『世界は密室でできている』の方が先なのだが、いかんせん個人的に記憶に残らなかった作品だったのでパス。今回はより記憶に鮮明に残っていた方の『阿修羅ガール』の感想を書く。珍しく7年ぶりぐらいにもう1回読み直した。
 あらすじを適当に書いておくと、クソビッチ馬鹿女子高生のアイコが、最後にラブホで寝た佐野の殺人事件に巻き込まれたり、「天の声」という某巨大掲示板を模したサイトの書き込みにより引き起こされた「アルマゲドン」という、特定地域での集団暴行の嵐に巻き込まれ、途中謎の霊的世界を介してグルグル魔人という、三つ子殺人事件の犯人と思考が繋がり、犯人が自殺した後アイコは現世に戻ってきてもうビッチは卒業することを決心する話である。いつも通り書いていて意味不明である。一言でいえばアイコがビッチを卒業するまでの話である。
 三島由紀夫賞の評価をした人々の意見も割れたらしいが、本作品はうんざりする人はうんざりすると思われる。特に真面目な人々がうんざりさせられるのは、「上記三つ子殺人事件の犯人=グルグル魔人という、完全に死んだ方が良い人間が三つ子をバラバラにしていたのは、三つ子の体のパーツを使って阿修羅像を造ろうとしていたからで、それによって何らかの(勝手な)救いを見出そうとしていたんだ・・・」という思索を通じてアイコも何かしらのカタルシスを感じるという、終盤の場面である。
 いやいや、人殺しのクソ野郎だからね?他人を殺して勝手に救いを感じてるんじゃねぇよ。お前が死ね。と、年齢が高い人は大部分が感じると思う。特に既に自分の大切なものを失ったか奪われた経験が多くある人々にとっては、上記終盤のパートはまったくもって浅薄な描写として映る。この英雄=グルグル魔人(笑)とか言う屑に対しては言及する必要すら無いが、主人公のアイコが彼の行為に何かしらの正当性を見出すという論理は全くもって受け入れがたい冗談だろう。被害者の母親で、夫も自殺によって喪った人間が最終的に「何かしらの『和解』」を抽象的なレベルで行ったように描写されていることも全く納得できない非常に浅薄かつ軽薄な描写だと思う。
 しかし、そもそもこの作品の主人公は浅薄で軽薄なビッチで馬鹿で最低な女子高生なのだ。自分勝手な日常の中に自分勝手な価値しか見出していない人間なのだ。例えば村上春樹などはまず書かない類の主人公だと思う。『阿修羅ガール』の主人公は、博学でもなければモテモテでもなく、勝手にエロい展開に巻き込まれないし、お酒も飲まなければジャズにも詳しくないのである。そこらに居るかもしれない幼稚で馬鹿で最低な女子高生に過ぎないのである。
 したがって、「明日から世界が変わって聖人の如き変化を遂げる」というカタルシスはこの最低馬鹿女子高生にはふさわしくないのだ。どんなに「アルマゲドン」とか、「桜月淡雪」とか、「グルグル魔人」とか、数々の非日常に巡り合ったとしても、結局彼女が(現在は)最低馬鹿女子高生であることには変わりがない。身の丈にあったカタルシスの1つが阿修羅像であり、身の丈に合った成長がビッチ卒業だったということである。そのような観点からすれば、本作品は「1人の最低馬鹿女子高生の(下らない)成長」を描くことに真剣に向き合った作品だと思う。下らない主人公が下らない成長じみたことをしているからこそ、本作品には価値があるのだと思う。

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