2013年4月27日土曜日

国連YPP試験に合格する方法を真面目に考えようの回

 前回のフルブライト奨学金に続き、俺の人生における次の敵は国連YPP試験になったようなので、真面目にこの試験を攻略する方法を考察しながらしばらく生きていこうと思う。毎回残りHPが???になっていてライブラが無効の敵を相手にするのは疲れるのだが、こういう生き方の方が俺としてはしっくりくるのである。
 まあ出願する分野にもよるのだが、とりあえずSpecialized Paperの方は前回やった方法でそこそこ対応できていたので、案外簡単かもしれない。やることと言えばほぼ決まっていて、①国連事務総長報告書(SGレポート)をイシューごとに読む、②イシューを包括的に説明している基本書を買って読む、の2つで(理論通りに体が動けば)7割ぐらいはできるのではないかと思う。
 ①のSGレポートというのは国連マニアであれば常識なのだが、国連では数年ごとに各イシューを専門的に論じた事務総長(Secretary General)の名入れの、いわゆる各イシューに対する国連の立場そのものを示していると言っても過言ではない文書が存在する。例えば1992年のPKOの質的転換を明示した「平和への課題」も、当時の国連事務総長であるブトロス・ガリによる報告書である。この類のレポートは当然探し出して読む必要がある。
 ②のイシューを包括的に説明している基本書とは一般的に流通している教科書を指す。もちろん①の文書の方が重要度は高いのだが、Specialized Paperは大問3つ以外は7つの比較的短い文章を書かされるので、基本的なTechnical Termの定義や意味を短く説明できるようになっている必要がある。
 もっとも「理論通りに体が動けば」と上記した通り、日本人にとって重要であるのはいかに早く綺麗な英語の文書を手書きで書くか、という点である。実際やった人間は味わったと思うのだが、まともにやると後半部分の論述の質が疲労により下がっていく。鍛錬で克服できる問題か不明なのだが、アメリカの司法試験やロースクールのテストのようにキーボード入力を国連が許可してくれる可能性は、「試験形式の平等を保つ」という名目で現状では非常に低いので、手書きで解答を作る練習は必要になるだろう。一見馬鹿みたいな要素だが、案外この点は馬鹿にできたものではない。
 Specialized Paperよりも個人的に問題であるのは前半部のGeneral Paperだと思う。おそらく前年度の試験形式を国連は踏襲してくると思われるので、まず試験形式から言うと今年も①英文要約+②マークシートだと予測する。②のマークシートは昨年度の場合だとYPPのHPでGeneral Paper対策用に配られていた過去問と形式そのものが異なるので、実際はそれほど対策にはならなかったし、個人的な感触として、実際のマークシートの問題では国際社会における問題群よりも、詳細な国連機関の組織関係に関する理解が問われていたと思う。よって、ここで足切を食らわないためには、個別の機関の統括機関は総会なのか経済社会理事会なのか安保理なのか、権限関係はどうなっているのか、機能はどうなっているのか、といった点を理解する必要がある。対策方法としてはいわゆる「国連ファミリー」の見取り図を早めに入手して、各機関の機能や権限を把握する作業が求められるだろう。国際社会の問題を見る時も、どの機関がどの機関の統括下で取り組んでいるのか、その機関と協力している機関は何か、ということを理解しておく必要がある。
 余談だが昨年日本の外務省国際機関人事センターから頂いた素晴らしいアドバイスが下記。

(一般試験)
 一般書籍等で国連の概要を把握した上で,国連事務局が公表している,UN NEWS,事務総長報告,プレスリリース等に目を通し,現在の国連事務局の課題や重点目標について理解する。
国連文書検索システム(Official Document Search System)を利用し,応募分野に関連する報告・プレスリリースを検索し,読みこむ
 UN-ODS http://www.un.org/en/documents/ods/
 国連について知見のない方は,まずは国連英検の勉強を糸口としていただくのも一案です。

(専門試験)
・政務分野
 他分野に比べて,総長報告,プレスリリース等への理解が求められ,読みこみが必要。



というわけでとにかく読み込みましょう、というアドバイスであった・・・。どう考えても国連自体の存在を知らない人間でない限り、知りたい情報はここで言う「プレスリリース」や「事務総長報告」のイシューの具体的な範囲や内容なのだが、とにかく読み込むことが必要らしい。残念ながら、上記した物理的な理由により、日本人の場合はとにかく読み込んでいても(多分)負けます。また早い所俺が合格してこのブログで「国連YPP試験攻略法」でも書ければ良いのだが・・・。

2013年4月21日日曜日

大神 絶景版 感想

 「大神 絶景版」をやった。久しぶりにちゃんと終わるゲームをやったのだが、やはり物語として終わりがあるゲームというものには価値がある、と再確認させられた。そして、ほぼ10年振りぐらいに所謂「神ゲー(ならぬ「大神ゲー」)」と呼んでよい作品に出会ったと思う。
 絶景版はいわゆる「HDリマスター」企画のものなので、2006年に発売されたこのゲームの話の筋を今更書くのも時機を逸している感があるものの、このゲームは筆業を使った新感覚アクション以上に物語そのもので人を惹きつけるものを持っている、と思う。簡単な筋だけ書くと、昔ヤマタノオロチという日本人におなじみの妖怪をイザナギと共に退治した大神アマテラスは、闘いの後絶命し、永い眠りについていたが、封印されていたヤマタノオロチの復活とナカツクニにおけるタタリ場の広がりを危惧した神木村の大樹に宿る木精サクヤの力により復活し、復活したヤマタノオロチを退治すべくコロポックルであるイッスンと共に冒険を繰り広げる話である。
 話の筋だけ一覧すれば、多くの日本人にとって今更感のある話を今更やっているように見えると思う。登場人物は多くの部分で日本の昔話を基に再構成していて大味な印象を抱かせるし、神話や民俗学に無駄な知識を持っていて、あらゆる物語は史料に忠実でなければならないとする(めんどくさい)者にとっては陳腐に見えるかもしれない。
 しかし、「大神」というゲームは、現代的な感覚を取り入れて登場人物の個性を尖らせる、音楽に気を遣う、グラフィックを独特なものにするなどの工夫により、物語を陳腐にしてしまうことを見事回避している。これにより、既視感を覚える展開はむしろ王道で、陳腐に見える史料の改変はオリジナリティとして受け入れられる余地を作り出し、プレイした者の感情を上手く揺さぶることに成功していると思う。「良いゲーム」の1つの要素として「MOTHER2」のような「おとなも こどもも おねーさんも」共に楽しむことができるという性質があるとすれば、このゲームはマリオやポケモンとは異なる方法でこの性質を獲得している。
 特にこのゲームの評価はラスト近辺の展開で絶賛を受けている点があるのだが、この点も「MOTHER2」と共通しているものがある。日本における神と人間の関係性の中核を穿つ展開であったことや、そこへ至るまでの主人公の旅路が(個性的な登場人物のおかげで)容易に想起できることなど、ゲームでの主人公における最終決戦の理想像を作り出すための十分な下地を持っていた作品だった。
 余談だがもう1点主人公が犬神だったことも「おとなも こどもも おねーさんも」楽しめるゲームを作り出す要因となっていると俺は個人的に思う。(とりわけ日本人としての感覚で言えば)やはり人間の隣に付き添っている動物は猫や馬ではなく、犬であるべきなのだ。ペットの種類としてNo.1のシェアを誇っていることや、あらゆるメディアでの登場頻度が高いという理由などがあるのかもしれないが、日本人は多くの人が犬への慈愛の感情をどこかで共有しており、無理に共感できる台詞や態度を探さなくても、気が付くと多くのプレイヤーは主人公のアマテラスに肩入れしているだろう。「猫派原理主義者」という意味不明のカテゴリーに属さない日本人には是非「大神」をプレイすることを薦めたい。

2013年4月13日土曜日

「自分不幸」についての目的自由的な思索

 自分勝手なことばかりしていると親に迷惑をかける、という意味で「親不幸」という言葉が定義されているが、親が居ない場合はこの言葉は正当性を持たない。迷惑をかける対象が居ない。
 それでは親が居ない場合には誰が不幸になるのかと言うと、それは自分である。「自分不幸」である。勝手なことをして良い結果が出ない場合を前提としている点で、そもそも「親不幸」という言葉自体、普遍的な適用可能性は持っていない。しかし、何はともあれ何か自分が困難に直面した時、(生物学的な、あるいは社会的にミニマムなコミュニティにおける管理者として)困難を乗り越えるための具体的な利益を提供してくれる人が親と同義に扱われているわけだから、そのような関係性が存在しなければ不幸になるのも幸せになるのも自分だけである。
 他方で、翻って考えてみれば、そもそも「親不幸」に当たる行為をしてはいけないという主張の正当性は、疑わしいと言えば疑わしい。そもそも親は自分ではないし、自分という存在は親と記憶も感覚も共有不可能であり、更に言えば血縁関係という前提を抜きにしても、自分が感じることは自分しか分からないのである。
 つまり、子どもとしての自分は親が本当に不幸になっているかどうかは、厳密に言えば分からないのだ。FXで親に借りた2000万円を完全に不良債権にしてしまった場合であっても、もしかしたら貸した当人である親は、実は相続した遺産20億の内の2000万円なので、「まあいいか」と思うかもしれないし、思い上がった馬鹿息子の心を折るためにあえて貸して失敗させて嘲笑っているかもしれないし、実は白血病で明日死ぬかもしれないから、2000万円なんて取るに足りない問題になっているかもしれない。それらの可能性はあくまで可能性であって、実際にはどれに該当する心情を親が抱き、幸福になるのか、それとも不幸なるのかは、親が決めることなのである。
 それでは親の不幸を自分の中で決めているのは誰かと言えば、それは自分という親の心情を斟酌する者である。より厳密に言えば、自分が知っている親という他人の性格に基づき、個別具体的な状況に合わせて、親が持ちうる心情を想像し、自分の中で決定づけるという作業を自分が行っているのだ。完全なる他者-他者間の関係性との差異について触れれば、親という直接的な血縁関係を有し、社会的に最も近接した関係性を共有しているとされるが故に、ここで述べた、自分以外の他人の心情を決定づける根拠となる事実を、より多く記憶に留めることができることが挙げられるだろう。「恋人不幸」や「友達不幸」という言葉が、定義についての記述を抜きにして、それ単独で意味を構成しなかった理由は、この意味での関係性の距離的な近さに見出される。
 関係性の距離的な近さが、「親不幸」という言葉の正当性の根拠を構成すると解釈できるならば、やはり「自分不幸」という言葉が実際には最も強い正当性を有すると言える。もっとも、ゼロの距離に位置する自分の心情と、自分の心情を解釈する自分を区別でき、かつ、「自分不幸」という日本語のテキストを音読した際に生じる語呂の悪さに我慢できればの話だが。