2013年4月13日土曜日

「自分不幸」についての目的自由的な思索

 自分勝手なことばかりしていると親に迷惑をかける、という意味で「親不幸」という言葉が定義されているが、親が居ない場合はこの言葉は正当性を持たない。迷惑をかける対象が居ない。
 それでは親が居ない場合には誰が不幸になるのかと言うと、それは自分である。「自分不幸」である。勝手なことをして良い結果が出ない場合を前提としている点で、そもそも「親不幸」という言葉自体、普遍的な適用可能性は持っていない。しかし、何はともあれ何か自分が困難に直面した時、(生物学的な、あるいは社会的にミニマムなコミュニティにおける管理者として)困難を乗り越えるための具体的な利益を提供してくれる人が親と同義に扱われているわけだから、そのような関係性が存在しなければ不幸になるのも幸せになるのも自分だけである。
 他方で、翻って考えてみれば、そもそも「親不幸」に当たる行為をしてはいけないという主張の正当性は、疑わしいと言えば疑わしい。そもそも親は自分ではないし、自分という存在は親と記憶も感覚も共有不可能であり、更に言えば血縁関係という前提を抜きにしても、自分が感じることは自分しか分からないのである。
 つまり、子どもとしての自分は親が本当に不幸になっているかどうかは、厳密に言えば分からないのだ。FXで親に借りた2000万円を完全に不良債権にしてしまった場合であっても、もしかしたら貸した当人である親は、実は相続した遺産20億の内の2000万円なので、「まあいいか」と思うかもしれないし、思い上がった馬鹿息子の心を折るためにあえて貸して失敗させて嘲笑っているかもしれないし、実は白血病で明日死ぬかもしれないから、2000万円なんて取るに足りない問題になっているかもしれない。それらの可能性はあくまで可能性であって、実際にはどれに該当する心情を親が抱き、幸福になるのか、それとも不幸なるのかは、親が決めることなのである。
 それでは親の不幸を自分の中で決めているのは誰かと言えば、それは自分という親の心情を斟酌する者である。より厳密に言えば、自分が知っている親という他人の性格に基づき、個別具体的な状況に合わせて、親が持ちうる心情を想像し、自分の中で決定づけるという作業を自分が行っているのだ。完全なる他者-他者間の関係性との差異について触れれば、親という直接的な血縁関係を有し、社会的に最も近接した関係性を共有しているとされるが故に、ここで述べた、自分以外の他人の心情を決定づける根拠となる事実を、より多く記憶に留めることができることが挙げられるだろう。「恋人不幸」や「友達不幸」という言葉が、定義についての記述を抜きにして、それ単独で意味を構成しなかった理由は、この意味での関係性の距離的な近さに見出される。
 関係性の距離的な近さが、「親不幸」という言葉の正当性の根拠を構成すると解釈できるならば、やはり「自分不幸」という言葉が実際には最も強い正当性を有すると言える。もっとも、ゼロの距離に位置する自分の心情と、自分の心情を解釈する自分を区別でき、かつ、「自分不幸」という日本語のテキストを音読した際に生じる語呂の悪さに我慢できればの話だが。

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