2014年4月16日水曜日

一か月ぐらい前に大阪に行った話

 
新世界の様子

 もう一か月ぐらい前に、論文などで死にそうな時に彼女と大阪に行っていた。目的は2つで、1つはいつか行った時に食べられなかった串カツを食べること。もう1つは天王寺動物園に行くことである。もう「動物園好き」と形容して良いくらい各地の動物園に訪れていると思う。今回は大阪である。

2015年に天王寺動物園は100周年を迎えるらしい。
天王寺動物園はものすごく町の中にあるのに結構大きい動物園である。植物園と近接している。ニューヨークのアメリカ自然史博物館の感想を書いた時に言及していたことであるが、あの博物館もこんな感じに都会のど真ん中にちゃんと動いている動物を配置して欲しい。まあセントラルパークにも動物園があるらしいのだが。やっぱり動物は動いていないとダメ。

(見えにくいが)このカバのケツの方にある青いやつがカバの糞を食す共生関係にある魚。モンハンで言うと折れた角を治すために岩を食べるクシャルダオラぐらいレアな光景。ちなみに(全く関係ない話をするが)MH4では残念なことに省かれたが、クシャルダオラは初登場時から水を飲む姿を見せるなど、古龍の中でも動物的な動きを見せる。

  天王寺動物園で印象に残ったのは動物園全体の方向性として、生物が共生している姿を描こうとしていたことである。特に写真のカバについては印象に残ったし、他の動物園ではなかなか配慮されていない展示の方法が採用されていた。写真では見えないが、このカバの展示スペースは下が水槽みたいになっていて、カバと共生関係にある魚を観察することができる。

これも鳥類の共生を表した展示方法。

ペンギン4匹組。ペンギンとしてはありがちな種だがこいつらは動きが大体シンクロしていたので印象に残った。

 ただやたら自然保護を訴える(大体人間が悪いというパターン)看板やら掲示やらが園内に配置されていたのが目につくので、そういう教科書じみた主張にうんざりしている人はうんざりさせられると思う。

2014年4月14日月曜日

フラニーとズーイ 感想

 またもう読んだことのあるJ.D.サリンジャーの「フラニーとズーイ」を衝動的に買ってしまった。村上春樹による新訳だというのは抜きにしても、実家に置いておいたもう捨てられたであろうサリンジャーの本が売られているという事実が目に入ると、俺は買ってしまうのだ。サリンジャーについては以前紹介したし、この「フラニーとズーイ(多くの場合は村上春樹が指摘している通り「ゾーイー」と呼ばれる)もその際に登場したが、俺は特にズーイの方の話が好きである。
 いつも通り一応あらすじを記述することに特に意味が無いこの物語のあらすじを紹介しておこう。「フラニーとズーイ」はシーモアを長男とするグラース家の他の兄弟である「フラニー」と、「ズーイ」を主要な登場人物とする話である。ここで「以上」とか書いて終わりにしてしまってもよいくらいタイトルから中身までその通りである。特段言及しておくべきは、「フラニー」と「ズーイ」は他のシーモアやバディーと言った「サヴァンじみた連中」でもなく、ブーブーのような「(割と)ちゃんとした大人」でもなく、一家の中でも珍しい役者としての才能を持った人々である。当然グラース家の人間なので何もしていなくても知識の獲得と思索を重ねてしまうが。「フラニー」はフラニー(女の子である。女子大生)とそのフラニーとは何もかもがすれ違った彼氏の会話の話。「ズーイ」の方は「叡知へと至らない知識」に溢れている大学と世の中にうんざりしてまいってしまったフラニーをズーイが慰める話である。
 この本に関しては、「ライ麦畑でつかまえて」の感想の際に匂わせたように、(ものすごく最後の方に登場するのだが)「太ったおばさん」の話が一番好きだし、何より重要だと俺は思う。フラニーが抱えていた悩みとは「叡知へと至らない知識」で満足して(中身が何もない知識を持ったまま)卒業していく大学の大学生、タッパー教授、彼氏、ルームメイトと、彼らに投影している聖書の中の自身の宗教的理想とは異なるキリストの姿の存在である。「宗教的」と言うと何か色が付いていそうで気持ち悪いかもしれないが、まあ平たく言えば「馬鹿ばっかりの世の中に辟易している女の子」がフラニーと言って良い。このような考えは誰しもが抱くだろうし、多くの場合は悩みにはならずに「落胆」程度で終わるのだが、彼女の場合はこの意味での「馬鹿」に聖書の中のキリストの姿を投影していたので、「悩み」になった。
 このような彼女の悩みを解決する方法としてズーイが呈示したのは、「太ったおばさん」を尊重するということである。「太ったおばさん」じゃない人間など(キリストを含めて)一人もいない。見世物にされている自分達をビールを飲みながらにやにや眺めている「太ったおばさん」、演劇の持つ芸術性など理解できる可能性も有していないのに真面目ぶった顔で劇を眺めている「太ったおばさん」、彼らのためにシーモアは靴をみがき、見世物を見世物として見せるべきだと述べた。
 「プロ意識」とは種類が違う。「愛」も対象が存在しないのでこの場合は妥当な解釈ではないだろう。別にシーモアもズーイも「太ったおばさん」を愛しているわけではないし、彼らのために見世物を見世物としている自分達を愛しているわけでもない。愛には対象が必要である。
 それではこれは何なのか、というと、「尊重」という言葉が適切だと思う。これはサリンジャーのものの見方が表れている部分で、「ナイン・ストーリーズ」の「テディ」の内容とも通ずるものがあるのだが、大切なことは、事実として存在する事実を事実として尊重し、行動することであり、それが人間が生きることだと、作者は考えていると思う。見世物を見ている者がキリストであれ「太ったおばさん」であれ、事実としてその場には見世物を提供する者とされる者が存在しているに過ぎない。大学にはただ知識を持っていることに満足している「太ったおばさん」ばかりだし、教授連中はそのような「太ったおばさん」を再生産し続けて社会に放出し続けていることに何の疑念も抱いていないし、付き合っている男もまさにそのような「太ったおばさん」みたいな奴だし、どうにもならないのだ。
 しかしながら、それが人間であり、人間が作る世界なので、(自分自身も例外なく「太ったおばさん」である)人間が生きていくということは、その事実を尊重することに他ならないということである。「太ったおばさん」のために、やっていくのである。

2014年4月1日火曜日

「人間性を捧げよ」→「絶望を焚べよ」

 俺の中の3月31日に関する出来事が全て終了したので、やっと俺が博士号を取得したという事実と、俺が人間性を捧げまくって別の論文も並行して書いたという事実と、そして俺が28歳になったという事実を実感することができるようになった。
 俺はもう名前にDrを付けたり(Ph.D.)にしたりできるようになったらしい。既にこのブログで述べた通り、NYUを卒業した辺りからもう俺は学校で得るものがなくなったとか思い始めていたので、まあ今更という話である・・・とか思っていたのだが、普通に大変だった。どこでも良いので博士号を取ろうとしたら分かる。そうすれば冒頭20ページをコピペした人間がいかにダメかも分かる。
 博士号に加えて、YPPを受けたり別の論文を書いたりいつも通り亡者状態でのたうち回る日常が半年近く続いたので、流石にくたびれた。毎年思っているのだが、今年こそは1つのことに集中できるように過ごしたい。

2014年2月21日金曜日

モンハンにおける「地雷が地雷を呼ぶ現象」に関する考察

 いつか書こうと思っていたのだが、長年モンハンをやっていてある一つの現象が存在することを認識するに至った。その現象とは、「地雷が地雷を呼ぶ」ということである。
 この現象の内容を簡単に言うと、地雷が一人居るとなぜか地雷ばかり部屋に集まってくるというものである。
 例えばMH4を例に挙げれば、オンライン集会所を検索して、HR5ぐらいのホストが1人の部屋に入り、そのホストが装備バラバラ、意味不明なSP配分、中途半端な強化段階の武器で、しかも実名ひらがなの名前で、さらにいきなり一言も会話をしていないのにフレンド登録申請をしてくる地雷の役満を揃えた存在みたいな奴だったとする。まあ今更こんなんが居ても珍しくないと思って暫く待っていると、不思議なことに、同じような地雷の役満みたいな奴が入ってきて「よろ」とか言い出す。そしてまあ2人こんな奴らが操虫棍を持って跳ね回っても別に(これはこれで問題だと思うが)今更・・・とか待っていると、さらに何を考えてプレイしているのか意味不明みたいな明らかな地雷が入ってきて、ホストでもないのにクエストを貼り出す・・・という状況がしばしば生まれるのである。
 実はこのような現象はMHP3やMHP2の頃から存在していたことであり、驚くべきことに、現在まで継続して発生し続けている。観察者としての俺の主観が偏っている可能性は否定しないが、なぜか「地雷は地雷を呼ぶ現象」はシリーズが変わっても一貫している。なぜこのような現象が発生するのか。実は俺の主観があまりに偏っていて、あらゆるプレイヤーを地雷認定する性格地雷だった、という可能性はあるかもしれない。それにしても「明らかな地雷」が地雷の下に集うのである。オンラインマナーを全て無視しているような人間が集うのである。実に不思議だ。
 理由をいくつか挙げてみよう。第1に、(地雷が)自分と同じ臭いをかぎ分けて互いに迷惑をかけあうのかもしれない。入った部屋のホストが実名系で、タメ口で話してきて、防御力がガンナー以下のような奴だと「取り入り易い」と考えるのかもしれない。その結果、俺以外の3人が全員クエストを貼って部屋の進行が麻痺することになるのだ。
 第2に、第1の理由の逆で、地雷側がまともなプレイヤーを避けているのかもしれない。非常に単純な図式を描くと、自分は地雷で「よろ」、「はやく」、「ギルクエ下さい」しか話せないのに、入った部屋の人がまともな人でまともな突っ込みを入れて「迷惑(目障り)ですので退出して下さい」とか言われると、地雷側は耐えられないのかもしれない。しかし、現行最新作のMH4は意固地になって地雷が居座り続けることができるゲームなので、やろうと思えばクエストを貼って、延々「よろ」、「はやく」、「ギルクエ下さい」を連呼することができるのだ。そもそもオンライン上の抽象化された他者を害する目的を持った地雷である場合、「地雷」の如くその抽象化された他人に迷惑をかけて自己満足に浸ることもできるわけで、この第2の理由の説得力については疑いがある。
 第3に、実は観察者である俺自身の運の悪さが原因で、実際他のプレイヤーはこんなに地雷と遭遇しないのかもしれない。まあ「プロハン」は地雷の装備と態度を見てすぐさま出ていくわけだから、同じ部屋にとどまらない以上、実害を認識しない可能性もある。過去作でも同様の現象に行き当たった俺は、今作で地雷を蹴ることができない故に、過去作と比較してより「地雷が地雷を呼ぶ」現象を認識する頻度が増えているのかもしれない。というわけで、以上3点の理由を考えたが、未だに「地雷が地雷を呼ぶ」現象の謎は深まるばかりである。
 反対に「プロハンはプロハンを呼ぶ」のか?という疑問が湧くと思うが、これに対する個人的な回答は、「地雷が地雷を呼ぶ」よりも「プロハンがプロハンを呼ぶ」方が少ない、ということになる。実際、HRが500を超えていても集まってくるメンバーが500を超えていて最適な発掘装備を担いでいる連中ばかりになるわけではないし、地雷を許容するゲームシステムがMH4という最新作で確立されている以上、プロハンは寄生する地雷の食い物にされるしかないのである。高レベルギルドクエストを貼るとキャンプ待機する寄生、遠くを逃げ回ってタゲだけ散々取りまくる寄生などとは簡単に遭遇してしまうし、それに対する対応策が我々には無いのだ。したがって、「プロハンは地雷を呼ぶ」という法則の方が具体化しつつあると思う。

2014年2月5日水曜日

山月記 感想

 高校の教科書以来だが、最近山月記を読んだので(今更)感想を書く。
 いつも通り、作者の中島敦はこのブログで初登場となるので、作者について書いておく。中島敦は、その作風から大体推察できるように、漢学塾を営んでいた家庭に生まれた。「漢学」とは漢文で書かれた書籍を紐解き、そこから物語中に込められた思想などを学ぶ学問である(らしい)。このブログの筆者と世界が違い過ぎるので「漢学者」と呼ばれる人々が毎日何をして過ごしているのかは完全に想像の世界の産物だが、まあ漢字(それもちょっと難しい)で書かれた文書を読み漁る生活を送っているのだと思う。
 このような家庭に生まれたたため、自然と中島敦の文学作品のモチーフとなったのは漢書である。中でも「山月記」は、真面目に学校に通って真面目に現国の授業が面白くなくなった場合に多くの人間が先取りして読む作品かと思う。一応中島敦は大学院に真面目に進学した(漢学がモチーフだったので作家の中でも当時のアカデミズムに迎合しやすかったのかもしれない)。33歳という若さでこの世を去っている。
 いつも通り(いつもに比べて更に適当な)あらすじを書くと、唐の時代にぱっと公務員試験を受験して主人公は公務員になったが、「俺はこんなところで終わる人間じゃねぇ」と一念発起し、妻子が居るのに公務員を辞めて、詩人デビューするも、鳴かず飛ばずで思い描いていた理想からはほど遠い生活を強いられてしまい、再度公務員に戻るものの、昔同期で役人になった自分より馬鹿な連中が順調に出世していて、そいつらに顎で使われるのに耐えられなくなったために虎になって野山を駆け巡る生活を送るようになった、という話である。普通の人間は「顎で使われるのに耐えられなくなった」ことで発狂して虎という別の哺乳類になることは無いが、この主人公はなった。しかも伊達直人のようにマスクをかぶるわけではなく、「ブレス・オブ・ファイア」の虎人のように自在に人間に戻れるということでもなく、不可逆的に虎として生きる運命を享受したのが主人公である。この作品の一番良いところは短いところだと思う。
 一応この作品の主題めいたことを書くと、この主人公は自尊心が高く、他者と競合して傷つくのが嫌だった(もっと言うと「本当は才能ないじゃんお前」とか判明してしまうのが嫌だった)ため、もともと自分が持っていた非凡な詩人としての才能を磨くことができないまま、中途半端に俗世の生活を選んでしまい、寂寥とした気持ちを抱いたまま虎になった=人間を害するものになった、ということを伝える話である。簡単に言うと、人類の宝を生み出す可能性を持った者が、人類を害する者になってしまった話である。現代的な感覚からすれば「言うほど不可逆的な変化で完全に人の生き方として間違いか?」と思ってしまうが、まあそういう感情を抱くことができるのも古い作品を読む意義だと思う。
 なお、そもそもこのように自尊心が高い男がどのように告白して妻を得たのかが気になるが、妻の方から「この人は将来すごい人になる」と思って声をかけてきた可能性もある。
 上で述べたものと同じく、現代的な感覚からすれば「最後の詩もいい感じだったみたいだし、いっそのこと短期でもいいから虎としてデビューしろよ」と軽薄な気持ちを抱いてしまうと思うのだが、中島敦がこの作品を書いた1942年当時は「人外の者になる」というのはショッキングな変化として受け入れられていたのだと思う。この種の話を人類の歴史上、一番直截簡明なタイトルで表したカフカが「変身」を書いたのが1912年である。
 (俺の想像の中では)「変身」に登場する虫はでかいゴキブリなのだが、あの虫になったグレゴール・ザムザは人語もまったく話せなかったためリンゴやらをどすどすぶつけられて「辞世の句」めいたものも残せずに唐突に死ぬ。このような違いを認識すると、やはり海外作品の変身ものの話の方が「寂寥」、「寂寞」といった後に引く感情を抱かせずにさっぱり終了できるのかもしれない。もっと言うと感情を描くのではなく、事実を描く点で違いがあるのかもしれない。ザムザ君の家族も「友を想って泣いた」りせず、何かそれぞれの新しい「虫」の居ない生活にガンダム00二期後期のOPの最後みたいな感じで歩み出すわけだし、人外になった奴が居なくなってさっぱり読み終えたいなら「変身」を、夜風呂に入ってから寝るまで延々べっとりした寂寥感を味わって芋焼酎でも飲みたい人は「山月記」を読んだら良いかもしれない。インセクター羽蛾のような人は別にして。

2014年1月12日日曜日

リアル 13巻 感想

 本当は昨年末に上げる記事だったが、とある事情により今頃上げることになったリアル13巻の感想を書く。
 このブログで俺が書いている様々な勝手な感想は、基本的に俺がどうしても書きたいという気持ちにならないと書かれないのだが、リアル13巻により俺はそういう気持ちにさせられた。なぜなら、去年俺が読んだ漫画の中でこの年の瀬に読んだリアル13巻が、間違いなく最高傑作だからだ。ヤンジャンのこのサイズの漫画は基本的に定価600円だが、俺はリアル13巻が1500円で売られていたとしても買う。
 さて、そもそもこのブログで井上雄彦の「リアル」を取り上げるのは初めてなので、この漫画の基本的な筋をいつもの超適当あらすじで紹介しておこう。この漫画は、簡潔に行ってしまえば、バスケットに何らかの形で関わっている3人の若者が、それぞれの人生で直面する「現実」を描くものである。若者の内の1人は元は高校のバスケ部だが、高校を退学して自身の進路を模索している男。もう1人は、元陸上競技選手だが、先天性の病により脚を切断して陸上を止め、現在は車椅子バスケに人生を賭けている男。そして最後の1人は、最初の1人と同じチームでバスケットをプレイしていたが、交通事故により下半身不随になってしまった男である。これら3人の若者がそれぞれ直面する現実を描くのが、リアルという漫画の基本的な筋である。
 今回の13巻は、上で紹介した最後の1人の若者が直面する「現実」の中で出会った、1人の悪役プロレスラーの壮絶な戦いを描いている。最後の若者がリハビリの最中に出会ったこのプロレスラーは、自身と同様に下半身不随であった。
 俺が(他の巻も好きで、正直2012年に読んだ最高の漫画も「進撃の巨人」や(久しぶりに出版された)「HUNTER×HUNTER」を抑えてリアルだったが)13巻が好きな理由は、この1巻のみという短い巻だったとしても「プロレスラー白鳥の物語」として楽しめるからである。13巻は210ページだが、この210ページの中に、プロレスラー白鳥の始まりから終わりまでが非常に分かり易く描かれていると思う。単純に分かり易いというだけではなく、井上雄彦という漫画家の真骨頂だと思うが、登場人物の清濁併せた感情が、非常に克明に描かれている。そのため、特に何も考えなくても、たとえこの巻以外の巻を読んでいなくても、自然にプロレスラー白鳥という人物に共感できるようになっている。
 何より素晴らしいと思ったのが、「プロレスラー白鳥の物語」を通じて、上述した最後の1人の若者に未来へ向けた一歩を歩ませる決意をさせたことで、「プロレスラー白鳥の物語」もまた、単純な終わりではなく、受け継がれていくものだという、広がりのある納得のいく場面で13巻が終わったところである。シリーズものの漫画は、必ずしもこのような「きりの良い」展開で終わることができるわけではない。しかし、この13巻は、まさに理想的な巻の終わり方だったと思う。読者の多くは、無駄な悲壮感など抱くこともなく、充実した満足感を持ってこの巻を読み終えることができると思う。
 「バガボンド」のように、宮本武蔵という1人の男の人生における思索を追った話について、「まだ斬り合ってんのか」、「まだ変な農業やってんのか」、「まだぐだぐだ考えてんのか」と思う人が(もしかしたら)居るかもしれない。是非そう思った人にはリアル13巻を読んでみて欲しい。井上雄彦という漫画家が、話の長短に関係なく、読者の感情に揺さぶりをかけるような物語を書く能力を持っているということに、感嘆させられると思う。このように、1つ1つの始まりから終わりまでを無駄なく描ける者を「職人」と呼んだり、「プロ」と呼んだりするのだろうと思う。

2014年1月7日火曜日

2014年度の標的

毎年恒例の年度毎の標的設定の時間がやってきた。今年の標的は下記

(1)ちゃんと生きる

2014年はとにかくちゃんとご飯を食べて、ちゃんと部屋を片付けて、ちゃんと挨拶して、ちゃんと仕事して、ちゃんと寝て、ちゃんと遊んで、ちゃんと恋愛をして、ちゃんと借金を返して、ちゃんと税金を払おうと思う。

(2)フランス語を勉強する

NYUに居た時はスペイン語を勉強したいとか言っていたが、なぜか最近フランス語の文章を読まざるを得ない状況になって、クラウン仏和辞典とか買っちゃったので、もう勉強するしかないのだ。だから俺はフランス語を勉強するのだ。

(3)打倒YPP

多分負けたけど、そんなのいつものことなので俺が折れることはない。