太宰治の「斜陽」を読んだ。
適当に物語の筋(筋なんてあるのか)を説明しておくと、田舎で生活していた没落貴族であるかず子と、そのかず子が「崇拝」している母の下に、かず子の弟であるヤク中の直治が戦争から帰ってきて、ろくでもない生活を送っている作家の上原を含めて、(この文脈だったらまあある意味順当に)皆それぞれ苦悩を抱えていく・・・という話である。
太宰治はいい意味でも悪い意味でも純粋な目を持っている。彼は本当に透き通った真実を描くことに長けているが、描き出される真実は全然人を喜ばせる類のものではない。「普通」に生活している人が必死で隠そうとしている類の真実である。彼の目にはおそらくこの世界はそういった喜ばせる類のものではない真実が満ちているように見えていて、物を書く力があるが故にそれをほとんどそのまま「透き通った真実」として読者に見せることができる。彼の本を読むと、本当に文章を書くことということは、村上春樹が指摘したように「救い」にはならないということが分かる。彼は書かなければならない物語を書き、書いた物語で多くの人間に「欲しかったもの」を与え、(多分)彼の「欲しかったもの」を彼は手に入れられないまま、命を絶った。
さて、「斜陽」は、(少なくとも多くの読書家には)説明する必要のないほど有名な太宰治の小説である。「斜陽族」という現象が起きたように、多くの人間がこの本で描かれている「真実」を欲しがった。登場人物の数は少ないが、読んだ本の解説にも書いてあったように、俺はこの本を読んでドストエフスキーの作品を想起した。全く違う国の話で、ドストエフスキーの方は登場人物も多いが、それでも描いている「真実」には通底する「寒々しさ」がある。特に上原や直治のような役割の人物を見ると、スヴィドリガイロフを筆頭に、ドストエフスキー作品で登場する、どうにもならない現実を別の「現実」を与えてくれるようなもので誤魔化すものの、結局誤魔化した方が、より「良く」どうにもならない現実を見てしまう人々を思い出させる。
また、この作品の中でかず子をどう理解するか、という点は非常に興味深い。読む人によって、彼女がこの物語の中で辿り着いた結論が「破滅」なのか「再生」なのかという点で解釈が分かれると思う。俺が凄まじい文章だなと思ったのは、「この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないのでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。」という部分である。こういった終盤の彼女の考えが、上原など、自分から去って(滅んで)行った人々との決別を意味しているのだとすれば、彼女は自分を「再生」したのかもしれない。
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