(あり得ないが)俺が仮に西尾維新の「物語シリーズ」のみで読書感想文を書けという課題を解く場合、俺は迷わず「猫物語(白)」を選ぶ。いつも通り俺の勝手な評価だが、今まで読んだ中では「猫物語(白)」が「物語シリーズ」において最も優れていると思う。少なくとも「猫物語(黒)」や「偽物語」や「鬼物語」に千円以上払う価値ははっきり言って無いが、この「猫物語(白)」には千円ほどは払って読む価値があると思わされた。
いつも通り極めて簡単に「猫物語(白)」のあらすじを紹介しておくと、私立直江津高校3年の羽川翼という「本物」の才女が、夏休みが明けて学校へ行く途中に虎の怪異と出会い、「自分の家」が火事で全焼して知り合いの家を転々とする内に、その虎の怪異が火事の元凶で、しかも障り猫と同様自分が生み出した化物だと言うことを知る・・・という話である。
俺が「猫物語(白)」を優れているとする理由は、単純にこの本が羽川翼という1人の人間を描くことに純粋に向き合っているからに他ならない。一応他の「群像劇中における劇的な人々による喜劇」でも、それぞれ主要人物の背景等は描写されているのだが、今作ではいわゆる語り部が描写されるべき当人になっている点と、おそらく本来は作る予定の無かった「第2シリーズ」を能動的に作った結果、自然に今までより目的的に文章が構成されていることでメリハリがある点が要因になっているのだと思われる。千石撫子を語り部とした「囮物語」よりも優れているとしたのは、羽川翼の本シリーズへの登場回数から分かる通り、おそらく作者自身が羽川翼という登場人物を千石撫子よりもより良く理解していて、その分「羽川翼を描く」という今回の物語の展開が至極まっとうでフェアだからだと言える。より具体的に言えば羽川翼という人間が作られた文脈の描写(家族、主人公との関係、他の「劇的な登場人物」との関係、外部との関わり)がこちらの方が手厚く、説得力を持っている。
さて、本編の感想であるが、何より羽川翼という「化物語」の世界では特異なキャラクターに言及しなければならない。本編では何度も「本物」という言葉で彼女が描写されている通り、彼女は天才として描かれている。「めだかBOX」や「戯言シリーズ」を読めば分かるのだが、西尾維新は(劇的な登場人物による物語を書くので自然と)天才や異能者を物語に登場させることが多い。これほど天才を多彩に書き分ける作家も珍しいと思うのだが、彼の物語にはやたら天才やらアブノーマルやら人類最強やら最終やらが登場する。むしろ「群像劇中における劇的な人々による喜劇」を書いている以上登場させる必要があると言っていい。羽川翼もはっきり言って他のシリーズにおいてすら天才の1人として理解されても良い存在で、他の作品であれば別に「猫物語(白)」で「問題」として扱われている彼女の「問題」は、天才であるが故の「個性」として処理されていたかもしれない。
この羽川自身の天才性を「問題」としたのが彼女の境遇である。簡単に言えば彼女はネグレクトされていた。彼女は(どこまで行っても括弧付きの意味でしかない)「家族」からほとんど他人のように15年以上扱われていた。しかし、これは彼女にとって何の「問題」でもなかった。彼女の天才性がそれを「問題」とさせなかったのである。戦場ヶ原ひたぎの言う「闇に鈍い」というのは、客観的に見れば(他の「普通」の人々からすれば)問題であることを、自身の能力としての許容範囲の広さから羽川翼は「問題」とせずに生きてきた結果作られた彼女の性質であった。彼女は自身の天才性を遺憾なく発揮し、ネグレクトや恋によって生じる感情的なストレスを自身の他の人格に押しつける方法を確立したのである。その結果障り猫はネグレクトと恋を、苛虎は「両親」への嫉妬をそれぞれ彼女に代わって代弁するものとして生み出された。
個人的には正直怪異が存在しなければこれはやはり「問題」ではなく「個性」として処理されうる行為だなと思う。「物語シリーズ」は劇的な登場人物が怪異との遭遇を通じて成長する物語なので、こういった自身の感情に潜む「不正」、「ずる」といったものを実は登場人物のほとんどが行っているとされている。具体的に言えば、戦場ヶ原ひたぎは母親との確執から逃げ、神原駿河は戦場ヶ原ひたぎへの想いから逃げ、千石撫子は自分の夢から逃げ、阿良々木火憐は偽善から逃げ、そして羽川翼もまた自分のストレスから逃げていた。「逃げ物語」である。このように考えると「物語シリーズ」のキャラクター設定が案外安易だったという気もしないでもない。俺は自分の本心から逃げる行為が絶対的に悪かったり未熟なことだとは個人的には思わないし、はっきり言って個人の性格が持つ差異の一部だとしか思えないのだが、青少年が成長する物語として「逃げている自分と向き合う」というのは妥当な帰着点なのかもしれない。そう考えると羽川を描いた「猫物語(白)」は、その帰着点へと辿り着く純粋さにおいて、同シリーズの他の作品より秀逸だったと言える。「囮物語」+「恋物語」や「花物語」と比較すれば分かりやすいのだが、羽川翼がここで言う「帰着点」に辿りつくまでの道のりは、千石や神原のそれと比べて明確で合理的なのだ。千石撫子や神原駿河が「問題」を抱えるのは文脈的な必然性を有さないが、羽川翼が「問題」を抱えるのは十分過ぎるほどの理由がある。実際彼女は主人公と同様、傷物語という最初の話からほぼ出ずっぱりなので、彼女が「おかしい」という描写は他の人間に比べて自然と多くなっている。
翻って考えてみれば、なぜ彼女の描写が他の劇的な登場人物より多くならなければならなかったのかというのも自然と分かる。なぜなら、貝木のような明確な「悪」よりも、羽川翼という「絶対的な正しさ」こそが「物語シリーズ」における阿良々木暦という主人公の対となる存在だからである。おそらく作者自身も「傷物語」で羽川翼を主要登場人物にした段階で既に考えていたことだと思うのだが、羽川翼と阿良々木暦は戦場ヶ原が指摘するように同一カテゴリーに属しながら対照的な存在である。阿良々木が何の不自由もない家庭で育ち、家族が居て、自分の本心と向き合い、怪異関連以外は能力的に平凡で弱いキャラクターであるのに対し、羽川翼は自分の部屋も無いような家庭で育ち、家族がおらず(「家族」しか居ないと言った方が良いのかもしれない)、自分の本心から逃げ続け、怪異を必要としないほどの力を持つ能力的に非凡で強いキャラクターだった。羽川翼と阿良々木暦は互いに互いの影と光だったのである。「こよみヴァンプ」で最初に吸血鬼に出遭う主要登場キャラクターが羽川翼だった場合、おそらく彼女は阿良々木が抱えた問題を「問題」とすることなく吸血鬼の眷族になる道を選んだのではないかと思う。
ついでだが、おそらくこういった対の関係にある以上、なぜ阿良々木暦は羽川ではなく戦場ヶ原を選んだのかと思う人も多く居るかもしれない。恋愛感情と言うものは究極的には火憐や月火の言う「なんとなく」だと思うので、最初に告白したのが戦場ヶ原だったということで阿良々木にとってすれば十分な説明になっているのかもしれない。他方で、戦場ヶ原や羽川サイドにとってすれば、戦場ヶ原が羽川翼に本当に阿良々木暦のことが好きだったのか聞いているように、おそらく阿良々木暦に対する感情には差があったのではないか(作者としてはそう位置づけているのではないか)と思う。つまり他人との繋がりそのものが無かった戦場ヶ原にとって阿良々木の存在が唯一無二だったのに対し、羽川翼にとってすれば「助けてくれる誰か」でしかなかったのかもしれない。もっともこの辺はそれほど明確に描き分けられているわけではなく、結局羽川翼を助けに来るのも主人公だし、「帰着点」に辿りついた後も主人公のことが好きだった結果告白しているわけなので、両者の恋愛感情に実質的な差があったのかという点は不明瞭ではある。俺個人としては誰かを好きになる感情というのは、設定上の論理性を超越した特別枠にあって問題無い心情だと思うので、最初に戦場ヶ原が告白して主人公側も「なんとなく」好きになったということで良いとは思う。
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