留学中も俺はたびたびおなじみの「強制的なマルチタスク状況」に陥っていたのだが、日本に帰っても絶賛継続中である。つまりもう1年ぐらいずっと「強制的なマルチタスク状況」である。
この状況を継続することははっきり言って賢い方法ではない。レベルを上げる作業をしっかりやってからボスと戦った方がボスに勝てる可能性は明らかに上がる。このような順序を踏めない人間はRPGには向かない。
しかし、現実はゲームではない。RPGではレベル上げには(原則)無限の時間が与えられていて、ボスもレベル上げを行っている最中に消えてクリア不可能な状況になることはない。他方、現実はゲームではないため、レベル上げには制限時間があるし、レベル上げを行って戦う準備を整えているうちに戦う相手そのものが居なくなってしまったりする。例えば留学中の俺を例に挙げれば、論文をじっくり書く時間を確保していたら論文の提出期限は過ぎてしまっていたし、インターンは忙しくなるのでやらないという選択をしていればビザの期限が切れてアメリカでインターンできなくなっていたし、インターンと論文作成の邪魔になるので勉強をしないという選択をしていた場合は決められた期間内で学位を取ることはできなかった。
つまり、俺たちには「全力でぶっ飛ばす」ことよりも、「全力でぶっ飛ばすしかない」ことの方が多いのである。俺たちが現実に戦う80%ほどのボスは全員はぐれメタルのようなもので、メタル斬りを習得するまでその場でずっと待っていてくれるわけではないのだ。しかも現実のこの「はぐれメタル」は更に悪質で、一度逃げ出すともう出会うことができないものも居るし、俺たちの多くは次にまた会えるのか、それとも一期一会なのかを判断する能力を持っていないのだ。それ故、それぞれのボスに直面した際、俺たちが取り得る作戦は実質的には「ガンガンいこうぜ」一択しかないことばかりなのである。
この結果、全力でガンガンぶっ飛ばした俺たちは9割以上の確率でどこかで失敗してしまうのである。全てを100%満足のいく結果にすることができないのである。MPが途中で尽きてボコボコにされて力尽きたり、メダパニを食らって自滅したり、HPの回復を怠って死ぬのである。
今の所、俺にはまだこのような状況で「ガンガンいこうぜ」の作戦しか見えない。全力で今しか戦えないと思ったボスをガンガンぶっ飛ばすことしかできない。馬鹿だと思ってもそうすることしかできないのである。だから俺は全力でぶっ飛ばすことにする。
2012年8月29日水曜日
2012年8月26日日曜日
日本に帰ってきて改めて気持ち悪いなと認識したこと
日本に帰ってきて改めて俺が気持ち悪いなと認識したことは、NHK受信料である。
今更俺がNHK受信料を叩く必要は無いとは思うのだが、改めて気持ち悪いなと最近ダントツで思ったことなので書かざるを得ない。全部気持ち悪い。こんなことをわざわざ書いている俺も気持ち悪いわ。以下になぜ俺がNHK受信料を気持ち悪いと思っているか挙げてみる。
今更俺がNHK受信料を叩く必要は無いとは思うのだが、改めて気持ち悪いなと最近ダントツで思ったことなので書かざるを得ない。全部気持ち悪い。こんなことをわざわざ書いている俺も気持ち悪いわ。以下になぜ俺がNHK受信料を気持ち悪いと思っているか挙げてみる。
- 他の民放の放送局は受信料を徴収しないのに、なぜNHKだけ徴収するのか
- なぜNHKを見たくない人も徴収されるのか。
- なぜテレビ線を接続していない状態でテレビを置いているだけで徴収されるのか。
- なぜ日本の総理大臣、国会議員、官僚は「NHKが気持ち悪いことを長年やり続けているのでやめてください。」と言わないのか。
特に俺が理解不能だったのが3点目と4点目である。俺はアメリカに居た時に一応テレビ線は繋いでいたのだが、全然アメリカの番組を見ずに、結局PS3の外部ディスプレイみたいな使い方しかしなかったので、日本でもそうする予定であった。「流石にテレビ線を繋がなかったらそもそもテレビ放送自体視聴できないのだから、提供されるコンテンツの対価としての料金は徴収されないだろう」と思っていたのだが、完全な誤解だった。1Q84でおなじみとなったNHKの集金人の理屈によれば、「テレビを所有しているだけでNHK受信料の徴収対象となる」らしい。つまり、たとえ電源プラグ及びテレビ線を引っこ抜いて、オブジェとして室内に配置して毎日真っ暗な画面を眺めていたとしてもNHK受信料は徴収されるらしい。「は?」とNHKという時代遅れの会社で働いている人以外は思うだろう。
また4点目については本当の意味で「今更」の事柄である。いつまでこの問題は放置され続けるのだろうか?テレビ用の電波を利用して何らかのプログラムを受信する方法は、紙媒体を消費してコンテンツを提供する新聞などのサービスと同様、未来は無い。これはそれらの産業から収入を得ている人の気持ちとは無関係で、物理的な意味で「未来は無い」のだ。インターネット上でそれらと代替可能なコンテンツが再生産され続けているからだ。このような小学生でも分かるような単純な理由により、テレビは観なくていいし、新聞も取らなくて良くなってしまったのだ。そして、これらの産業が生き残るために採った手段は実に間抜けなものであった。提供されるコンテンツの「質」で代替可能なコンテンツと差異化を図ろうと試みたのである。これは(NHKの提供するコンテンツに関しては特に)無謀な戦略だと言わざるを得ない。NHKの提供するコンテンツの中に「唯一無二」と呼べるものは存在しない。相撲中継も甲子園の中継も語学などの教育番組も別にNHKが提供しなければ成り立たないコンテンツではない。NHKのしょうもない英会話プログラムを見なくてもTOEFLで100点は取れるし、国連英検で特A級は取れるのだ。
さらにこの自ら墓穴を掘ったようなものである馬鹿な戦略について批判すると、「質」で他の表現媒体と差異化を図れると主張するのであれば、NHK受信料を強制的に取るのではなく、各コンテンツごとに利用料金を取る形にして、民間が提供するコンテンツと競合すべきである。そもそも市場で競合していない「商品」に関して「質」がどうこう言われても全く説得力がないし、逆にこのように突っ込まれてしまうのである。
仮に俺がNHK社員だった場合、生き残るために採るまともな戦略は、(1)「放送法(という時代遅れの悪法)上受信料徴収は仕方ないんです」と馬鹿みたいに連呼する、(2)立法作業を「設定上」担当する国会議員、及び「実質的」に担当する官僚を金・女等で籠絡し、放送法(という時代遅れの悪法)を、自分がNHKを退職するまでは改定させないようにする、(3)できるだけパソコン操作に疎く、インターネットの利用方法を知らないような、いわゆる「高齢者」のみをターゲットにし、彼らから受信料を巻き上げる、というものである。NHK社員の人は「質」の高いコンテンツを作る無駄な努力をするより、上記戦略を着実に実行する、ある種の宗教団体のような生活をした方が良い。
そして、我々利用者が取るべき頭の良い戦略は、(1)テレビを廃棄する、(2)NHKと契約を解約する、という単純なものである。「NHKの提供するコンテンツは(上記したような理由により)全然面白くないし、金銭を支払う価値を見出せないものの、他の放送局が提供するコンテンツは観たい」という人は(多分圧倒的に)多いと思うが、その場合は諦めて、NHKという、全然面白くないし、金銭を支払う価値を見いだせないコンテンツを提供し続ける時代遅れな団体に受信料を支払うしかない。NHKという、全然面白くないし、金銭を支払う価値を見いだせないコンテンツを提供し続ける時代遅れな団体に受信料を支払いたくない人は、是非国家I種を受けるか、与党の国会議員として立候補して、上記立法作業に関わることができる立場に就いた後、「NHKが気持ち悪いことを長年やり続けているのでやめてください。」と発言して欲しい。現状このような手段を採ることは時間と金の浪費になるので、一般市民は日本社会に絶望して、テレビを捨てるしかない。
また4点目については本当の意味で「今更」の事柄である。いつまでこの問題は放置され続けるのだろうか?テレビ用の電波を利用して何らかのプログラムを受信する方法は、紙媒体を消費してコンテンツを提供する新聞などのサービスと同様、未来は無い。これはそれらの産業から収入を得ている人の気持ちとは無関係で、物理的な意味で「未来は無い」のだ。インターネット上でそれらと代替可能なコンテンツが再生産され続けているからだ。このような小学生でも分かるような単純な理由により、テレビは観なくていいし、新聞も取らなくて良くなってしまったのだ。そして、これらの産業が生き残るために採った手段は実に間抜けなものであった。提供されるコンテンツの「質」で代替可能なコンテンツと差異化を図ろうと試みたのである。これは(NHKの提供するコンテンツに関しては特に)無謀な戦略だと言わざるを得ない。NHKの提供するコンテンツの中に「唯一無二」と呼べるものは存在しない。相撲中継も甲子園の中継も語学などの教育番組も別にNHKが提供しなければ成り立たないコンテンツではない。NHKのしょうもない英会話プログラムを見なくてもTOEFLで100点は取れるし、国連英検で特A級は取れるのだ。
さらにこの自ら墓穴を掘ったようなものである馬鹿な戦略について批判すると、「質」で他の表現媒体と差異化を図れると主張するのであれば、NHK受信料を強制的に取るのではなく、各コンテンツごとに利用料金を取る形にして、民間が提供するコンテンツと競合すべきである。そもそも市場で競合していない「商品」に関して「質」がどうこう言われても全く説得力がないし、逆にこのように突っ込まれてしまうのである。
仮に俺がNHK社員だった場合、生き残るために採るまともな戦略は、(1)「放送法(という時代遅れの悪法)上受信料徴収は仕方ないんです」と馬鹿みたいに連呼する、(2)立法作業を「設定上」担当する国会議員、及び「実質的」に担当する官僚を金・女等で籠絡し、放送法(という時代遅れの悪法)を、自分がNHKを退職するまでは改定させないようにする、(3)できるだけパソコン操作に疎く、インターネットの利用方法を知らないような、いわゆる「高齢者」のみをターゲットにし、彼らから受信料を巻き上げる、というものである。NHK社員の人は「質」の高いコンテンツを作る無駄な努力をするより、上記戦略を着実に実行する、ある種の宗教団体のような生活をした方が良い。
そして、我々利用者が取るべき頭の良い戦略は、(1)テレビを廃棄する、(2)NHKと契約を解約する、という単純なものである。「NHKの提供するコンテンツは(上記したような理由により)全然面白くないし、金銭を支払う価値を見出せないものの、他の放送局が提供するコンテンツは観たい」という人は(多分圧倒的に)多いと思うが、その場合は諦めて、NHKという、全然面白くないし、金銭を支払う価値を見いだせないコンテンツを提供し続ける時代遅れな団体に受信料を支払うしかない。NHKという、全然面白くないし、金銭を支払う価値を見いだせないコンテンツを提供し続ける時代遅れな団体に受信料を支払いたくない人は、是非国家I種を受けるか、与党の国会議員として立候補して、上記立法作業に関わることができる立場に就いた後、「NHKが気持ち悪いことを長年やり続けているのでやめてください。」と発言して欲しい。現状このような手段を採ることは時間と金の浪費になるので、一般市民は日本社会に絶望して、テレビを捨てるしかない。
2012年8月21日火曜日
俺が日本に帰ってきて変わったこと
俺がアメリカから日本に帰ってきて変わった最も大きな点は、「ありがとう」が軽くなったことである。
なぜ変わったかと言うと、アメリカでは"Thank you"という、我々が「ありがとう」として習う言葉が非常に軽いからである。より正確に言えば、「軽い」というより「多義的」なのである。"Thank you"は英語圏では日本の普通の中学校・高校で教わる「ありがとう」のみを意味しない。感謝の意以外に、"Thank you"は、「どうも」、「やあ」、「よろしく」、「頼むよ」等の意味を持っている。それ故、感謝の意を表す以外に多様な用法があるので、日常生活での登場頻度が多くなり、必然的に軽くなるように見えるのである。
これに加えて、アメリカでは誰かに対する感謝の意は、たとえどれほど感謝の対象となる作業量が少なくとも、誰もがごく自然に"Thank you"と口に出して言う文化がある。例えばスーパーで買い物をした際など、日本のスーパーと異なり、アメリカでは客ではなく、店員が自らレジ袋に商品を詰める作業をしてくれるので、やってくれた店員に対して多くの人が"Thank you"と口に出して言う。これは意図的に言うというよりは、もはや習慣・文化として根付いているが故に、自然に口に出る、と言った方が正しい。
このような文化を経験した結果、俺も日本に帰ってからやたらコンビニの店員やファーストフード店の店員など、商品を袋に詰めてくれる人々に対して「ありがとう」と言ってしまうようになった。日本人の感覚からすれば「ありがとう」は"Thank you"に比べて言葉全体の流れが流暢であるわけではないので若干言いにくい上、無言で商品を置くだけで全ての売買手続きが完了する日本のコンビニ等でわざわざ「ありがとう」を連呼すると気持ち悪いのだが、しばらくこの習慣が続きそうである。
なぜ変わったかと言うと、アメリカでは"Thank you"という、我々が「ありがとう」として習う言葉が非常に軽いからである。より正確に言えば、「軽い」というより「多義的」なのである。"Thank you"は英語圏では日本の普通の中学校・高校で教わる「ありがとう」のみを意味しない。感謝の意以外に、"Thank you"は、「どうも」、「やあ」、「よろしく」、「頼むよ」等の意味を持っている。それ故、感謝の意を表す以外に多様な用法があるので、日常生活での登場頻度が多くなり、必然的に軽くなるように見えるのである。
これに加えて、アメリカでは誰かに対する感謝の意は、たとえどれほど感謝の対象となる作業量が少なくとも、誰もがごく自然に"Thank you"と口に出して言う文化がある。例えばスーパーで買い物をした際など、日本のスーパーと異なり、アメリカでは客ではなく、店員が自らレジ袋に商品を詰める作業をしてくれるので、やってくれた店員に対して多くの人が"Thank you"と口に出して言う。これは意図的に言うというよりは、もはや習慣・文化として根付いているが故に、自然に口に出る、と言った方が正しい。
このような文化を経験した結果、俺も日本に帰ってからやたらコンビニの店員やファーストフード店の店員など、商品を袋に詰めてくれる人々に対して「ありがとう」と言ってしまうようになった。日本人の感覚からすれば「ありがとう」は"Thank you"に比べて言葉全体の流れが流暢であるわけではないので若干言いにくい上、無言で商品を置くだけで全ての売買手続きが完了する日本のコンビニ等でわざわざ「ありがとう」を連呼すると気持ち悪いのだが、しばらくこの習慣が続きそうである。
2012年8月12日日曜日
帰りの機内で観た映画の感想
実は何も書いてないがもう日本に帰って来た。日本は素晴らしい。料理が安くて美味い。帰りの飛行機でモンハンもしたが2本映画を観たので感想を書いておこうと思う。
1.スタンド・バイ・ミー
世間的にはグリーン・マイルと並んで「スティーヴン・キングと言えばこの映画」とされている作品。少なくともクージョやミストやミザリーよりは誰か他の人と観に行ってもいい映画だと思う。このブログとしては今まで散々キングの作品の感想を書いてきたわけなので、この「恐怖の四季」にゴールデン・ボーイ(元ナチのおっさんを従属させてホームレス狩りをする作品)などの面白い短編と共に収められている作品の感想を別個に書くべきかと思うのだが、まあ世間的にはスタンド・バイ・ミーは映画であって小説の(「死体」としての)認識は薄いかと思うので映画の感想を書いておこうと思う。ちなみになぜか日本語字幕も吹き替えもなかったので、俺は英語でこの映画を観ざるを得なかった。
いつも通り適当にあらすじを書いておくと、キャッスル・ロックという、キングの作品を知っている人が「僕はキャッスル・ロックという田舎町で生まれた」とか聞くと、「何こいつ真面目に架空の町の話しちゃってんの?」とか思ってしまう町で育ったゴーディら、4人の少年達が行方不明となっていた人の死体を探しに行く・・・という話である。こんな話なのでキングは原作を「死体」と名付けている。
本作の見どころは子どもたちのどうでもいい冒険と、その最中に暗示させる「映画を観ている良識的な大人の願い」とは相反するろくでもない彼らの未来である。この作品は表面的には(初代ポケモンの主人公の家のテレビで流されていた意図そのままに)「子どもたちが自らの力だけで冒険をする話」で、まともに話を知らない人は特徴的な歌と線路を子どもが歩いている情景として理解していると思う。しかし、実際の所は上記した「まだ他の人と観に行ってもいい映画」方面の価値をキングによって半ば意図的に壊された作品である。冒険は日常から遠ざかる意味での彼らと「映画を観ている良識的な大人の願い」の理想であり、冒険を浸食している、彼らがキャッスル・ロックで体験している迫りくるろくでもない大人としての自分たちの姿こそがこの物語の価値だと思う。
とりわけ俺は4人の少年のリーダー格であったクリスこそが「アメリカの子どもたちの現実」を上手く体現したキャラクターとして位置づけられていたと思う。彼は有能で勇敢でどこまで行ってもリーダーなのだが、育った家庭は底辺中の底辺で、彼は(たとえゴーディより有能であっても)親友であるゴーディと共に進学コースに進むことはできない。彼にとって、この死体を探しに行くという冒険は、そういった「映画の中の大人たちが付きつけるろくでもない現実」から逃げるための手段であった。一見人間としてはテディという4人のうちの1人の少年の方が問題がありそうだが、設定上はクリスの方が悲劇的である。そしてこの設定こそが作者が付きつけたかった1つの「リアル」であり、「映画を観ている良識的な大人の願い」に対する確信犯的なアンチ・テーゼなのだ。普通の日本人がどこまで重くクリスの家庭背景を捉えるか分からないが、普通のアメリカ人にとっては多くの場合「重い」と思う。なぜならクリスのような状態で育った場合、多くの場合は(FFTの感想で用いた表現を使うと)出口なんて無くなるのだから。底辺は底辺を再生産し続けるのだから。彼は彼の物語として、キャッスル・ロックで延々酒と暴力と絶望にのたうちまわる生活を続けさせられるのだから。そして何よりそれを10代で理解させられてしまうのだから。だからこそ作者は大人になって(奇跡的に)ロースクールを卒業して弁護士となったクリスを無造作に殺害したのである。彼に出口を見つけられては困るのだ。
この映画(というか物語)が素晴らしいのは、そういった後の現実をくどくど描かずに、彼らが行っている12歳という限られた時間限定の冒険に限定して彼らを描写している所だと思う。だからこそ、彼らの冒険にはかけがえのない理想が体現されていると思わせることができるし、彼らの将来にはどうしようもない現実が待ち構えていると思わせることができる。他のキング原作の糞映画にうんざりさせられた人が観るべき映画だったと思う。
2.塔の上のラプンツェル
全然面白くなかった映画。一応この映画のあらすじを書いておくと、塔の上で永遠の若さと治癒を与える魔法の髪を持つ女の子が閉じ込められていて、よくある設定の男が偶然その塔に忍び込んで、一緒に塔の外へ彼女が見たいと言っていた祭りの行事みたいなものを見に行って、素晴らしい魔法の髪とご都合主義と悪役の接待プレーによってラブラブになって永遠幸せに暮らし続ける・・・という話である。
観ながら「いつ切ろうか」と考えさせられた。ご都合主義の連続、相変わらずの気持ち悪いキャラデザイン、ありきたりな展開、何より(悪意があったとは言え)育ての親をぶっ殺した後に主人公達がラブラブな情景をすぐさま繰り広げるという完全に理解不能な描写を展開してくれた。子ども会や中学生同士のデートとかで観に行けば「外す」ことは無いかもしれない。残念ながら俺はその会は途中で「つまんねぇから帰るわ」と言って大人達をうんざりさせてしまうだろうし、デートの場合は俺が女だったら相手の男を「つまんねぇ奴・・・」とか思ってしまうだろうが。
1.スタンド・バイ・ミー
世間的にはグリーン・マイルと並んで「スティーヴン・キングと言えばこの映画」とされている作品。少なくともクージョやミストやミザリーよりは誰か他の人と観に行ってもいい映画だと思う。このブログとしては今まで散々キングの作品の感想を書いてきたわけなので、この「恐怖の四季」にゴールデン・ボーイ(元ナチのおっさんを従属させてホームレス狩りをする作品)などの面白い短編と共に収められている作品の感想を別個に書くべきかと思うのだが、まあ世間的にはスタンド・バイ・ミーは映画であって小説の(「死体」としての)認識は薄いかと思うので映画の感想を書いておこうと思う。ちなみになぜか日本語字幕も吹き替えもなかったので、俺は英語でこの映画を観ざるを得なかった。
いつも通り適当にあらすじを書いておくと、キャッスル・ロックという、キングの作品を知っている人が「僕はキャッスル・ロックという田舎町で生まれた」とか聞くと、「何こいつ真面目に架空の町の話しちゃってんの?」とか思ってしまう町で育ったゴーディら、4人の少年達が行方不明となっていた人の死体を探しに行く・・・という話である。こんな話なのでキングは原作を「死体」と名付けている。
本作の見どころは子どもたちのどうでもいい冒険と、その最中に暗示させる「映画を観ている良識的な大人の願い」とは相反するろくでもない彼らの未来である。この作品は表面的には(初代ポケモンの主人公の家のテレビで流されていた意図そのままに)「子どもたちが自らの力だけで冒険をする話」で、まともに話を知らない人は特徴的な歌と線路を子どもが歩いている情景として理解していると思う。しかし、実際の所は上記した「まだ他の人と観に行ってもいい映画」方面の価値をキングによって半ば意図的に壊された作品である。冒険は日常から遠ざかる意味での彼らと「映画を観ている良識的な大人の願い」の理想であり、冒険を浸食している、彼らがキャッスル・ロックで体験している迫りくるろくでもない大人としての自分たちの姿こそがこの物語の価値だと思う。
とりわけ俺は4人の少年のリーダー格であったクリスこそが「アメリカの子どもたちの現実」を上手く体現したキャラクターとして位置づけられていたと思う。彼は有能で勇敢でどこまで行ってもリーダーなのだが、育った家庭は底辺中の底辺で、彼は(たとえゴーディより有能であっても)親友であるゴーディと共に進学コースに進むことはできない。彼にとって、この死体を探しに行くという冒険は、そういった「映画の中の大人たちが付きつけるろくでもない現実」から逃げるための手段であった。一見人間としてはテディという4人のうちの1人の少年の方が問題がありそうだが、設定上はクリスの方が悲劇的である。そしてこの設定こそが作者が付きつけたかった1つの「リアル」であり、「映画を観ている良識的な大人の願い」に対する確信犯的なアンチ・テーゼなのだ。普通の日本人がどこまで重くクリスの家庭背景を捉えるか分からないが、普通のアメリカ人にとっては多くの場合「重い」と思う。なぜならクリスのような状態で育った場合、多くの場合は(FFTの感想で用いた表現を使うと)出口なんて無くなるのだから。底辺は底辺を再生産し続けるのだから。彼は彼の物語として、キャッスル・ロックで延々酒と暴力と絶望にのたうちまわる生活を続けさせられるのだから。そして何よりそれを10代で理解させられてしまうのだから。だからこそ作者は大人になって(奇跡的に)ロースクールを卒業して弁護士となったクリスを無造作に殺害したのである。彼に出口を見つけられては困るのだ。
この映画(というか物語)が素晴らしいのは、そういった後の現実をくどくど描かずに、彼らが行っている12歳という限られた時間限定の冒険に限定して彼らを描写している所だと思う。だからこそ、彼らの冒険にはかけがえのない理想が体現されていると思わせることができるし、彼らの将来にはどうしようもない現実が待ち構えていると思わせることができる。他のキング原作の糞映画にうんざりさせられた人が観るべき映画だったと思う。
2.塔の上のラプンツェル
全然面白くなかった映画。一応この映画のあらすじを書いておくと、塔の上で永遠の若さと治癒を与える魔法の髪を持つ女の子が閉じ込められていて、よくある設定の男が偶然その塔に忍び込んで、一緒に塔の外へ彼女が見たいと言っていた祭りの行事みたいなものを見に行って、素晴らしい魔法の髪とご都合主義と悪役の接待プレーによってラブラブになって永遠幸せに暮らし続ける・・・という話である。
観ながら「いつ切ろうか」と考えさせられた。ご都合主義の連続、相変わらずの気持ち悪いキャラデザイン、ありきたりな展開、何より(悪意があったとは言え)育ての親をぶっ殺した後に主人公達がラブラブな情景をすぐさま繰り広げるという完全に理解不能な描写を展開してくれた。子ども会や中学生同士のデートとかで観に行けば「外す」ことは無いかもしれない。残念ながら俺はその会は途中で「つまんねぇから帰るわ」と言って大人達をうんざりさせてしまうだろうし、デートの場合は俺が女だったら相手の男を「つまんねぇ奴・・・」とか思ってしまうだろうが。
2012年8月3日金曜日
クソ荷物・・・・ッ!!
俺が今回の留学で最も後悔していることは、無駄な荷物をアメリカに送りすぎたことである。そもそも日本以外の国に行くのが初めてであったこともあり、完全にびびっていたので、本などを多量に送りすぎていた。完全に無駄だった。
なまじ学問をやっていると俺たちは本や論文に無駄に価値を置きすぎて大切にし過ぎる嫌いがあるのだが、留学に関してはこれは多くの場合無駄である。現地調達して現地で消費した方が手っ取り早い。俺は論文を書いたが、別にアメリカで調達可能な論文や本を使って十分書けた。以下アメリカに持って来なくていいもの。
なまじ学問をやっていると俺たちは本や論文に無駄に価値を置きすぎて大切にし過ぎる嫌いがあるのだが、留学に関してはこれは多くの場合無駄である。現地調達して現地で消費した方が手っ取り早い。俺は論文を書いたが、別にアメリカで調達可能な論文や本を使って十分書けた。以下アメリカに持って来なくていいもの。
- 論文、本
- 資料が入ったファイル
- 寝具
- 食器
上に挙げたものは全部現地調達しろ。フルブライト奨学生なら最初に貰う10万円でドルを買ってその資金で現地でぺろんぺろんのクソみたいな食器と寝具を買って入手しろ、と思う。逆にアメリカに持ってきとくと良かったものは下記。
- 傘(ダントツで持ってきた方がいい。アメリカの傘は質が悪くて高いので、適当なビニール傘か折りたたみ傘をスーツケースに忍ばせておくと助かる)
- 電池
- まだ使っていない生協で売っているような紙製のおんぼろファイル
- 文房具(アメリカのものは質が悪い上に高い)
- PS3(※ハンターに限る)
- モンハン(※ハンターに限る)
- PSP(※ハンターに限る)
- ハンティンググリップ(※変態に限る)
つまり一般人は少量の衣類と洗面器具だけ持ってアメリカに留学した方がいい。アメリカに着いたら近所のスーパーなりKマートなりで必要なものを買えばいいのだ。論文を書く予定があると「この本・・・使うかもしれんな・・・!!」、「この論文・・・役に立つかもしれんな・・・!!」とか脳内で言ってしまうかもしれないが、アメリカで入手してアメリカで処分して帰った方がいい。俺などは無駄な荷物を持ってきていたので今荷物の処理に困っている段階である。
しかもNYUの立地が非常にいやらしくて、USPSまでの距離が絶妙なのである。安く日本に荷物を送る常套手段がUPSやFedexを避けてUSPSを利用するということなのだが、それはUSPSが近くにある場合である。距離が遠いと流石に「そこら中にあるUPSやFedexで済まそうかな。はいはい俺の負けですよ」とか思えるのだが、NYUはその辺が嫌がらせとしか思えない立地なのだ。OISSの横の方にNYUが運営しているメールサービスがあるのだが、なぜか今年の5月21日から国際郵便はめんどくさい手続きを事前に済ませておかないと送れないようになっていて、突然持ち込んでも処理してくれなかった。
俺は一回本の多量に入った段ボールを(「くそったれがぁーーー(声:堀川りょう)と脳内で叫んで)USPSまで持って行ったのだが、ちょっともううんざりした。もう他のものは全部捨てて帰っちゃおうかなと思っている次第である。
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