2014年11月29日土曜日

2014年の国連YPP試験について

 全然書いてないが今年はHuman Rightsで呼ばれている。毎度毎度特に何もせずに呼ばれるので、案外この世界大会じみた試験は日本では全く人気が無いのかもしれない。一応国連職員というのは最高水準の能力を持っていないといけないことになっているので、毎回提出を求められるあの仰々しいアプリケーションへの審査などザルみたいなもので、世界中の勘違い野郎共をとにかく集めようという魂胆なのかもしれない。
 今年の特徴は俺がやるHuman Rightsの過去問が無いと明言されている点である。世界中の勘違い受験マニアの人々は「傾向も対策もないじゃん!!ふざきんな!!111」と言いたくなると思う。
 そもそも「人権」が飯を食うのに役立つ、というのも多くの日本人にとって不思議なことだろう。「あんた将来どうするの?」「俺?はぁ?ヒューマンライツオフィサーに決まってんじゃん。まあP3ぐらいには普通になっときたいよね」とか母親に言うと多分心配されることだろう。おそらく子供が将来なりたい職業ランキングの1位には永遠になりません。
 まあしかし他の国だとそうはいかない。なぜなら他の国は「人権」の巨大化に最も貢献するであろう人と人との違いが人種の違いとして日本より明確に表れているからである。これは個人的な見解だが、人と人の違いほど権利の主張という行為の動因として強いものはない。あの人は腕があるが私には腕が無い、あの人は男だが私は女である、あの人は金持ちだが私は貧しい、あの人の肌は白いが私の肌は黒い、あの人には家族が居るが私には家族が居ない、これらは全て「持たざる者」側が「持つ側」と対等にゲームをするための条件としての前提的なカード=人権を作りだす動因となった。そして、いつか書いた通り日本には他の国より「あの人の肌は白いが私の肌は黒い」などの動因が見えづらかった状況が長く続いたため、こんなカード創りを要求する背景が生まれにくかったのである。「いやいや、肌が黒くても何かを『持たざる』というのはおかしいだろ」というのは井戸の中の正論で、井戸の外では「肌が黒かったら『持たざる者』になる特定の流域が存在していた」という偶発した事実を見ていない。
 人権を商売にする、ということは、簡単に言えばこのカード創りに加担することである。上で述べた人と人との違いは、違う点が大きくなればなるほどカード創りを要する。腕が一本なくても片腕があれば野球はできるし守備もできる。しかし、両腕がなければバットは握れなくなる。両腕に加えて片足もなければ走塁は遅くなるし、四肢がなければバッターボックスには「立て」ない。「持たざる者」が「持つ者」と一緒にゲームをそのままさせられた場合、「持たざる者」は常に負け続けることになるだろう。そこで、人権というカードが必要になるのである。
 「じゃあもう全員にカードを配れよ」と思うかもしれないが、実際はカードを作るためにも原材料が必要なので、残念ながら全員にカードを配ることはできない。つまり、上で述べた「持たざる者」には、必ずしも全員にカードが平等に配られるわけではない。しかも、権利は特権とは区別されるので、既に「持っている者」に「持たざる者」と同じカードを配ると、結局ワンサイドゲームになる。人権を商売にするというのは、カードがある基準に則して適正に配られているか、奪われていないかをチェックし、場合によって新しいカード創りを提案する仕事だと言える。
 よって、Human Rightsの試験対策は、(1)カード創りの基準(e.g. 世界人権宣言、市民的及び政治的権利に関する国際規約)、(2)カード配給の監視(e.g. UPR、Special Procedure、)、(3)カードを取り返す方法(e.g. 人権裁判所の取り組み)、(4)新しいカード創り(e.g. 環境の権利、開発への権利)に精通することである。

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