2015年12月27日日曜日

MHX 感想(3)

 いつもより時間がかかっているが、HR6まで到達した。上位昇格試験の相手はオストガロアという、モンハンでは唯一と言えるぐらいのアンデッド系モンスターであり、しかもラオシャンロンポジションであった。
 また、下位は全ておなじみの無印ギザミシリーズで、達人、業物を発動させて乗り切った。上位での更新はナルガSを久しぶりに攻略用に使ってみるかという気になったのでナルガSを作ったが、HR6帯でディノバルド装備がパッケージモンスターでは珍しく匠を発動できることが判明したため、ディノS一式を作った。斬れ味レベル+1に加えて、剛刃研磨という新スキルが発動し、研ぐと一定時間斬れ味が悪くならないという、疑似業物の効果を持つ。当然俺は砥石使用高速化を発動させて、この段階で俺が求めるスキルの2つが埋まった。あと砥石使用高速化を維持させたまま聴覚保護を武器スロ無しで付けられればもう防具作りは終わりなのだが、流石にそこまではまだ無理らしい。以下印象に残ったこと。

1.骸龍オストガロア

 このオストガロアがラオシャンロンポジションであったことは述べた通りである。適宜バリスタを使う。また、粘液が飛んできて、当たってローリングすると地面の骨がくっついて団子状態になる、という新しい状態以上技を使ってくる。
 一応「古龍種」であるため、もちろん龍属性が弱点である。斬るのは大きい胴体は非常に硬いので、腕のように使ってくる頭部になる。しかし、全然斬っても手ごたえが無いので、本当に大丈夫かと不安になる。
 なお、上位昇格の緊急クエストの段階ではまだ倒しきることは不可能である。

2.Fからの参戦について

MHP2Gの時も同様の措置が取られていたが、Fを代表すると言っても過言ではないヴォルガノスが参戦した。モーションは変わっているし、乗ることも可能。個人的にはF特有だと言っても良いノノ・カム夫婦の参戦は欲しかった。このブログでは特に言及していないが、(本当はHR100以後の沼地のBGMではるものの)彼らの「専用」BGMの「底なしの畏怖」は、モンスターハンターシリーズの中でも個人的にはベスト5には確実に入る素晴らしい曲である。

3.復活したドボルベルクについて

ガムートに負けじと復活した萌えキャラである。以上。

4.獰猛化について

HR6でいろいろやっていると獰猛化したモンスターを狩ることができますよ!とか言われて狩ることになる連中。(目が無いフルフルなどは除いて)獰猛化するとどこかの漫画で見たような目になって、不気味なオーラを纏う。MH4 で起きた出来事が一切なかったことであるかのようにされた今作におけるモンスター側の強化手段である。この状態のモンスターは体力が増加して攻撃も痛くなる。もっとも、狂竜化と違ってこの状態は解除できないので、ある意味G級が無い今作における二つ名モンスターに続くハードモードと言える。

2015年12月19日土曜日

MHX 感想(2)

 とりあえず村最終以外の村クエは終わって集会所に来ていつも通りキークエを時間があったら潰している。最近になってやっと狩技はゲージを共有しているわけではない、ということを知った・・・。とりあえず印象に残ったことは下記。

 
1.ニャンターについて

 2年前にあったら良いと思っていた俺の願望が、ついに実現した。世界初の猫ハンティングアクションの登場であり、正直ニャンターへの切り替えが今作の価値を各段に上げていることは間違い無い。
 ニャンターの良さは何といっても猫であるこれに尽きる。しかし、敢えて良い所を挙げるとするなら、やはりハンターとの明確な違いが存在することであり、実はニャンターの方が初心者向きとも取れる気楽な内容になっていることである。具体的に言うと下記。


  • (条件付き)でほぼ無限復活可能
  • スタミナゲージ無しで無限に走り回れる
  • ピッケルの必要無しで無限に炭鉱猫ができる
  • 無限回復可能
  • かわいい
  • 猫である

 つまり、やはり猫である。これに尽きる。以上。


2.過去作のモンスターについて

 ハプルボッカに乗れる日が来るとは思っていなかった。なぜ彼は乗られたら潜らないのだろうか。

3.二つ名モンスターについて

 紫毒竜リオレイアとかが該当する、二つ名付きモンスターという、亜種や稀少種とも異なる新たな概念が初めて登場した。
 もっとも、発想としてはFのHC個体や特異個体に近い。シリーズではこの手の既存モンスターの強化個体としてはラージャンなどごく少数のものに限定されていたが、今後はこの手の強化個体でギルドクエストとかでやりこませることなくハードモードを実装していくのだろうか。

2015年12月15日火曜日

今年の大会も終了の件 2015

 今年の国連YPP試験の筆記試験が終了した。
 今年はとにかく俺たち選挙支援世界でやってます!パートナーシップ万歳!という話で、個人的にはGeneral Paperは史上一番簡単な内容だったと思う。Specialized Paperの方はLegal Affairsだと国家承継と条約法で嫌がらせみたいな条件設定がされていたことが印象に残った。ヘーゼルナッツがどうだってんだよ。

2015年11月29日日曜日

MHX 感想(1)

 とりあえず四天王ポジション4体を全員狩って村エンディング(という名のネコ嬢というモブ名前幼女のPV)を観るところまで進めた。以下印象に残ったこと。

1.狩技と狩猟スタイルについて

 正直太刀の場合はギルドスタイルと桜花気刃斬を使っていると別にこれまでのシリーズの操作がそのまま延長した程度の変化と言って良い。太刀の場合は地味に気刃ゲージの減少が(一瀬さんが製作に関わっているだけあり)MHP3時代の仕様に戻されたため、赤から無色に一気に戻るのではなく、赤から黄色と段階的に戻るようになった点が本当にありがたい
 この2年間ぐらい太刀を使っている人はとにかく大回転斬りを折を見て打ちまくる必要があったが、この仕様変更により、赤に頑張って戻すのを繰り返すというよりは、黄色を基本として、赤の状態を追加的な強化と捉えることができるようになった。
 なお狩技については、太刀の仕様上、個人的には桜花気刃斬を常に予備的に使い、ラッシュをかける時は円月斬りを使う。

2.過去作との関わりについて

 基本的に過去作の村はココットからユクモまで、MHP1~3で拠点になっていた場所に行ける。このため、ドンドルマやモガの村、バルバレは拠点としては(今のところ)利用できない。個人的にはユクモ村が歴代シリーズの拠点としては一番好きなので嬉しい。なお、過去シリーズの拠点に居た登場人物などはポータブルシリーズに限定されずに全シリーズから登場しまくる。
 また、過去作との関連で言うと、上記MHP3時代の仕様が武器の攻撃力表示にも表れており、各武器は既に倍率調整済みの攻撃力が表示される仕組みに戻った。
 MHP2や3などのシリーズがヒットしたきっかけになった作品の仕様が取り入れられていることを考えると、今後MHX系列は次世代のMHPシリーズとしてシリーズの節目で作られていくのかもしれない。

3.四天王ポジション4体の新モンスターについて

 なんか存在自体知らなかったフクロウとかも居たが、四天王ポジションの4体についての感想は下記。

(1)泡狐竜タマミツネ

 素晴らしいBGM。(結局まだ行けていないが)狩猟音楽祭が楽しみである。
 挙動については泡を吹きまくり、そこそこ速い。他方で一発が無いので手数を撃ち合う感じになる。

(2)電竜ライゼクス
 
 素晴らしいBGM.。こちらはベルキュロスと存在が類似しているだけあり、F系の曲。
 挙動についてはベルキュロスから威力と恐怖感を抜いた感じ。頑張って急降下はするが、ベルのような一発は無い。

(3)巨獣ガムート

 弱い。憐れな象である。彼はGが来て根本的にモーションを変えてあげないと炎武器のカモにされてしまう。

(4)斬竜ディノバルド

 イビルジョーにアビオルグの尻尾を追加した(ような)モンスター。こっちも別にあの必殺の回転技は持って無い。しかし、今作の四天王ポジションの中では間違いなく最高戦力。速くて痛いので、所謂強いモンスターの条件を備えている。
 攻略としては、赤熱した状態の尻尾が一番柔らかそうであるが、基本的に隙を見て頭を殴ってダウン(+落とし物)→さらに頭を殴る、という感じが良いと思う。イビルジョー系列の骨格であるため、尻尾は打点が高く、また常にふらふらしていて狙いにくい。
 弱点属性は水で次点で龍だが、俺のように太刀を使っているとあのタイミングで良い水太刀は無いので、村については、基本性能が高かったら何でも良いと思う。俺はウルクススの可愛い感じの氷太刀を持って行ったが、尻尾を落としてサブタゲを取っても10針で終わる程度。

2015年11月28日土曜日

祝!MHX発売!

MHXが発売された。めでたい。

2015年11月23日月曜日

清水寺に行ってきた話

清水の舞台を撮影したよくあるパターンの写真

 この前、彼女と一緒に清水寺に行ってきた。特に理由はない。清水寺については、小学生の時に修学旅行で行って以来2度目である。音羽の滝など、当時を思い出すものもあった。

清水の舞台の上から撮ったものだが、別に清水寺じゃなくても撮れそうな写真

 清水寺は、夜間拝観の企画が存在しており、異様に人が集まっていた。人がとにかく沢山居たため、音羽の滝などは30 分待ちぐらいの行列ができていたため、懐かしくても眺めるだけであった。
 個人に印象に残ったのが、隋求道の胎内めぐりである。真っ暗闇でダークソウルなどだと確実にたいまつが必要な場所を歩いて進んでいき、灯りに照らされた石を隋求石を回す、という場所なのだが、本当に真っ暗で高さも分からない場所であった。途中で曲がったりしているため、手を手すりのような場所から話してしまうと、何も分からなくなる。
 また、今回もおみくじを引いたのだが、前回の伏見稲荷に続いて2度目の大吉であった。とにかくよく分からんが全てを手に入れるらしい。よく分からんが。

2015年11月8日日曜日

気付いたら11月になっていた件

 今日気付くと11月になっていた。
 とりあえず生きるのに忙しい毎日である。全く書いていないが、今月はモンハンXに来月はYPPもある(今年はまたLegal Affairsで呼ばれている)。
 本は全然読む気にならないのが悩み。この前書店でカフカの新訳とか書かれている白黒の柄の表紙で千円ぐらいするやつを手に取ったが「絶対読まないだろう」と思って返してしまった。カフカの本は何度読んでも良いのでやっぱり買うべきだったのだ。今死んだらあの本屋に地縛霊として登場すると思う。

2015年8月27日木曜日

FFXIV 蒼天のイシュガルド 感想

 FFXIV初の拡張ディスクである蒼天のイシュガルドのメインストーリーをようやく終えた。またいつか書くかもしれないが、俺は新生エオルゼアはメインストーリーを終えて真イフリートに行く前に課金を止めて以後、1年近く起動していないような状態だったので、正確に言えばイシュガルドに行く前にもかなりやることがある状態であった。いわゆる「復帰勢」というやつである。
 今回の感想はイシュガルド到着後のものに絞って書くが、いつも通りかなり適当なあらすじを書くと、あらぬ疑いをかけられて指名手配された主人公と、指名手配される過程で崩壊した「暁」のアルフィノと共にイシュガルドで暮らし始め、やがてイシュガルドにおける1000年に及ぶ人間と竜との戦争に巻き込まれ、戦争の真実を知った後、帝国だろうが竜だろうが召喚するのに1000年もかけた蛮神だろうが、全員ぶっ飛ばしまくって、やがて敵側にすら引かれてしまうほどの戦闘力を手に入れてしまう・・・という話である。敵が可哀想になってくる
 今回のストーリーは新生エオルゼアよりも「戦争」というテーマを全面に出しているので重量で比較すると重い。ファイナルファンタジーシリーズはしばしば勧善懲悪ではないし、仲間も(フェニックスの尾やレイズでも不可逆な)死を迎えるのだが、今回のシナリオでもファイナルファンタジーっぽい展開で人が死ぬ。蒼天のイシュガルドへの導入の段階から腕を失った人が居たりアジトを失ったりしていたが、今回も失うのである。そしてややゴリ押し気味の猫耳女は視力を失って服やら杖やらジョブやら全部白くなる。是非サンクレッド君も復帰する際にあの冴えない短剣を新調してやって欲しい。
 今回のストーリーでピンポイントで良かった点は、「歴史のある戦争」という状況が種族設定を踏まえて説得的に解釈されていた点である。上記した通り今回は竜と人が戦争している状況があるのだが、戦争の根本的な原因になったのは月並な人間の強欲であった。しかし、月並な人間の強欲を謝罪することが戦争の解決にならないことが明示される。なぜなら、竜の寿命は1000年を超えるものであり、人間の戦争経験が世代交代で風化して二次的にも三次的にも四次的にもなっていくのに対し、竜の戦争経験は直接的で、常に一次的なものであるからである。常に当事者の記憶として戦争経験を保持する以上、そもそも戦争に対する捉え方がまるで違う。人間は寿命上二次的な歴史資料と宗教に依拠して戦争経験に対して共感しなければ、戦争の相手側に対する憎しみを1000年継続して抱くことができないのに対し、竜側は常に憎しみを直接的な原因に関する経験から再生産し続けることができ、戦争への強い動機を掴むまでの距離が人側に比較して近いのだ。
 このような憎しみへの距離の違いは、たとえエスティニアンのように家族を竜に殺された、という直接的な経験に基づく憎しみに依拠する場合でも例外ではない。結局は100年以内に寿命が尽きて大体の人間は死んで二次的な媒体に経験は埋没してしまうので、戦争に人間を継続的に動員するためには強い宗教で縛るしかなく、物理的な理由で軽薄な生でしかない人間の言葉は1000年生き続けて恨み続けている竜にとっては軽薄でしかなく、戦争の解決手段にはならない。イシュガルド国教と皇王の存在や彼の言葉は、一見イロモノめいて政教分離もない危ない国という印象を受けるが、上記の理由により終わりない戦争を演出して終わりない竜の恨みと攻撃から国を守らないと国を維持できない状況だったため、今回のシナリオにおいては説得力があった。
 なお、今回の拡張ディスクのみがもたらした状況ではないものの、日本で有数のギスギスの名所だったFFXIVの旧エンドコンテンツも、ILの上昇と詩学入手の緩和により、CFでも十分クリア可能なので、別に拡張していない人間もちょっと触ってみても良いかもしれない。

2015年8月2日日曜日

リーシーの物語 感想

 スティーヴン・キングの「リーシーの物語」を彼女から借りて読んだ。上下巻なので1日一冊だと2日はもつ。
 いつも通り適当なあらすじを書くと、作家(ピュリツアー賞とか受賞しているので大作家と言った方が良いかもしれない)のスコット・ランドンの妻であるリーシーは、夫の死後2年ぐらい夫の作業場の片づけが出来ておらず、ようやく姉のアマンダと一緒になって片づけようかとしていた際に、カスッドボディら、「インカン族」の黒太子なる変態野郎ジム・ドゥーリーに襲われたり、アマンダが永遠の海賊乙女になりにあっちの世界に行ったりして大変な中、その対処法として、実はスコットが「ブーヤ・ムーン」なる素晴らしい別世界へ飛ぶことができる能力者だったことを思い出し、その変態野郎やら、姉の問題やらを別世界の素晴らしいパワーで解決する話である。
 現実のクソを非現実のパワーで解決するという点、女性が変態野郎(今回は「ジュニアハイスクールのダンスパーティーで男の子たちに触らせなかったような部分」を痛めつけたい病のクソ)をぶっ飛ばす点などは、例えば「ビッグ・ドライバー」や、「ローズ・マダー」でも同様の展開があり、特に異世界に引きずり込んで殺す点で「ローズ・マダー」に近いものを感じる。しかし、今回は夫婦の関係が鍵になっている点、異世界の描写がより詳細に描かれている点で、キングの過去作とは異なる部分がある。
 個人的には特に「ローズ・マダー」では俺が本当に個人的に問題視していたデウス・エクス・マキナ的な非日常が、今作では唐突に感じられず、むしろ物語をより深くするために用いられていた点で素晴らしいと思った。そのような差異をもたらした要因は、やはり非日常的な異世界を日常に「近づけた」ことにあると考えられる。
 「ローズ・マダー」では、問題解決をもたらした異世界は、(1)主人公の力が及ばないものであった、(2)物語の後半で急に登場した、(3)現実世界では人を殺す以外に利益をもたらすようなものではない、という点で、(ある意味自然なのだが)異世界は現実世界の視点からすれば違和感の強いものとして描かれていた。結果として、異世界登場から現実世界からの退場後の描写について、俺は「日常と非日常の帳尻を合わせる」という表現で批判している。
 しかし、今作ではこの帳尻合わせが必要性を持っている。問題解決をもたらした異世界は、(1)主人公がある程度自発的に「行く」ことができる、(2)物語の前半からフランクが抱える病気のようなものとして登場していた、(3)現実世界では人を殺す以外に(最終的にキングの世界では登場人物にとって価値のある)傷を癒す利益をもたらす、という点で、異世界は現実に非常に近い。より正確な表現を使えば、今作の異世界は別次元の非現実ではなく、「現実が裏返った場所」に過ぎない。
 これらの点から、今作では異世界「ブーヤ・ムーン」は、物語にとって必要とされるポジションを占めている。今作では大きく分けて3つの回収しなければならない伏線があり、(1)変態クソ野郎の始末、(2)アマンダの問題の解決、(3)スコットによる「リーシーの物語」の発見がそれぞれ該当していた。正直紙片上回収可能なのかと不安に思っていたが、最終的には「ブーヤ・ムーン」というデウス・エクス・マキナ化を回避した世界を軸として、パズルが嵌るように全て回収されることとなった。物語として完成している作品と言える。
 最後に完全な余談だがスコットの死因は「おおかみこどもの雨と雪」の父親の死因ぐらい個人的なまぬけ感を感じた。完全な余談で申し訳ないがあの部分に異様なまぬけ感(「なんでそこで普通の病院に行かずに変なもん無理して拾い食いすんのかなあ~?」という感覚)があるものの、まあスコットのバックグラウンドの描写で彼が様々な業を背負って成長した人間で既に限界に達していたという可能性、実は病気が深刻だった可能性等を考慮して、「いや、スコットは自分の運命を知っていたんだよ・・・」と月並みな反駁を勝手にしておくとする。現実はラルフである。

2015年7月28日火曜日

姫路に行ってきた話

しろまるひめ

 この前彼女と一緒に姫路に行ってきた。姫路と言えば城である。

虎棒
 しかし、俺たちは動物園マニアなので、初日に城に行かずに姫路セントラルパーク(姫セン)というサファリパークへ行った。セントラルパークまではバスで30分ぐらいだった。姫路の良い所は都心部から観光地までが近いことである。

ライオン。なお姫センのパンフレットではなぜか虎とチーターのみ触れられていたが、ちゃんとライオンもワシントン条約の保護対象である。

 姫センでは動物にしか興味が無いというのに30分以上待ってやっと猛獣バスに乗れた。動物にしか興味が無いというのに。待っている間場末(としか形容のしようがない)遊園地をぶらぶらしていて暑かった。
 その後、猛獣バスに乗ってサファリパークをやっと観たのだが、何分暑すぎたため、動物たちのほとんどは木陰で上記の写真の虎のような状態であった。しかし、俺はこの棒のような虎が好きである。

姫路城

 結局1日目は姫センのみを観て回り、城に行ったのは2日目だった。
 しかし、俺たちが無知であったため、城に行くと(午前10時ぐらいだったが)既に天守閣へ入るのに1時間待ちの状態になっており、「いやいや、流石に整理券システムで、待ってる間にいろいろ観て回っても良いんじゃないか」と思ったら長蛇(としか形容のしようがない)列ができていて、絶望した。

あの右側のちょっとした城みたいなのが結局謎のままである・・・。

 そして、天守閣に登ることを諦めることにした。9時に開城後すぐにあの場所まで行かないと無理らしい。
 しかし、姫路城は広かったため、天守閣以外にも、お菊井戸や西の丸、千姫化粧櫓など、様々観るところがあり、やろうと思えばそこで1日潰せるようなコンテンツが盛りだくさんであった。姫路は正直ぱっとしない印象だと思うが、行ったら案外面白い場所だと思う。

2015年7月4日土曜日

京都水族館の話


大音量のBGMと映像によって強調されたクラゲゾーン

 この前彼女と京都水族館に行っていた。京都まで行って神社仏閣に何も関心を示さずにただ京都水族館のみを観る、という水族館好きしか成しえないことをやってきた。水族館好きなので何の問題も無い。実際さぞかし人は居ないんだろうと思っていたが、開館前に着くと既に家族連れが並んでいたし、何の問題も無い。
 京都水族館の全体的な感想としては、とにかくこの小規模の水族館の武器を活かそうという設計が施されていた。具体的には、上記した写真のように実際は大したことが無い展示物であっても展示の方法に工夫をこらしたり、内部で食べられるカフェ等をかなり現代的な感覚でアレンジしたりなどである。都市部の水族館の戦略としては非常に妥当な方法だと思う。
 特に目玉という展示物は、実際のところ少ないが、特にオオサンショウウオに関心がある人は入ってすぐのオオサンショウウオコーナーに気を引かれると思う。子供の頃は将来オオサンショウウオになりたいと思っていた時期が一時期あった筆者にとっても関心があるコーナーであった。ちなみにその前は「はぶくつかん」の館長になりたいと思っており、その前は卵焼きになりたいと思っていた。

2015年6月25日木曜日

酔って候 感想

 一か月ぐらい前に司馬遼太郎の「酔って候」という素晴らしい中編集を読んでいたので感想を書く。実は読んで気づいたのだが、「酔って候」は前に感想を書いた「幕末」と対になっているような作品であり、「幕末」で登場してきた維新の「実行部隊」より、延長線である戦争をさらに遡って、より政治的な駆け引きを行っている人々として、「幕末の四賢候」の姿が描かれている。「賢候」と言うがタイトルから分かる通りこいつらが別に異様に賢いわけでもない。というか、島津久光自体は「賢候」ではなく「賢候」だった斉彬の兄弟である。
 いつも通り適当に四編のあらすじを書くと、生まれる時代を間違えたかのような酒豪である土佐の山内容堂の姿を描いた表題作「酔って候」(維新後は飲酒を原因とする脳溢血で死亡)、利用されまくり西郷との仲も悪かった薩摩の久光を描いた「きつね馬」、宇和島藩で蒸気船の開発を市井の天才にさせた伊達宗城が登場する(主役ではない。「天才」の方が主役)「伊達の黒船」、多分四編の中では一番賢い松平春嶽を描いた「肥前の妖怪」から成る作品である。
 「燃えよ剣」の近藤勇などと同じく、司馬遼太郎は無骨な文体で馬鹿とみじめな人間をとことん馬鹿でみじめに描く。今回は上記した島津久光がそのターゲットであった。人間というのはどの時代も自分の外に自分の世界を無理やり作ろうとするとみじめで滑稽に映るらしい。
 

2015年5月25日月曜日

天才数学者の最期

 俺が物語を通じて関心を持ったばかりの天才数学者の最期は交通事故だった。享年87歳。明日俺も交通事故で死ぬかもしれないので、やっぱり好きなように生きた方が良いと思う。

2015年5月10日日曜日

幕末 感想

 司馬遼太郎の「幕末」を読んだ。最近読んだ短編集の中では一番良い。全然本を読んでいないのだが。
 いつも通り適当にあらすじを書くと、1860年に発生した桜田門外の変を皮切りに、幕末の日本で発生した倒幕運動の中で行われた暗殺事件を取り上げた作品である。文脈が共有されているので、斎藤一など、自然と司馬遼太郎の他の作品で取り扱われた登場人物が出てくる。
 司馬遼太郎が言うように、暗殺という行為は、ほとんどの場合は無駄に終わる。世直しが目的でも全然世の中はそれだけで良くならないし、政権転覆が目的だったとしても全然「転覆」と言えるまでの変化が起こらなかったり、転覆した直後にまた別の勢力に転覆させられたりする。しかし、日本でも他の失敗国家の歴史が抱えているような血で血を洗う殺し合いが幕末に発生していた。特に京都はやばい。テロ集団が雑居していたようなものである。当時の住人からすれば今の観光地の姿はあまり想像できないと思う。
 さて、本短編集の中で最も印象に残ったのは初代総理大臣となった伊藤博文の若かりし頃を描いた「死んでも死なぬ」と、桜田門外の変から8年後、幕末も幕末にイギリス行使を襲撃した三枝蓊らを描いた「最後の攘夷志士」であった。前者と後者は時代の変節というものが残酷であることをうまく対比させている。前者については、維新を成す殺人として正当化され、殺人者どころか権力を担う者となったのに対し、後者については謀反人として斬首され、「永遠の罪」を背負わされている。前者については、日本の初代総理大臣が歴とした殺人者であったことを描いている点でも面白いのだが、この対比が1860年以後の約10年間の日本の激変をうまく表現していると思う。「ほんの数ヵ月前なら、かれらは烈士であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は、叙勲の栄があったであろう。」という一文が、三枝ら報われなかった維新志士を表している。血に塗れて誕生した大日本帝国は、その後50年以上外国人と自国民の血を洗ったので、次は宇宙人とかゾンビとかの血を洗うようにならないで欲しいと願うばかりである。

2015年4月16日木曜日

ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡 感想

 数学者ジョン・ナッシュの半生を描いた「ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡」を呼んだ。「やっと読んだ」と言う方が正しい。なぜかこの本を読むのに1年かかったからだ。別にその間俺の読むスピードが極端に落ちて1日1ページ読むのがやっとだったとか、忙しくて全く本も読めない状態だったというわけではない。確かに本は昨年1年間極端に読まなくなったが、他の本についてはまあ読んでいた。おそらく俺の数学嫌いが影響したのかもしれない。嘘だが。
 いつも通り適当なあらすじを書くと、この本はジョン・ナッシュという、数学分野で「天才的」と呼ばれる業績を持つ学者が統合失調症に罹った話を描写した作品である。「天才数学者の半生」には特に価値は無いかもしれないが、この天才が統合失調症という、思考が要される学者にとって致命的と言える精神の病に罹り、そこから復活したことを描写している点で、この本には読む価値がある。
 ところで、俺は数学が嫌いである。もっと言うと、数の計算に関わるあらゆることに全く価値が見いだせない。面白くないのである。今は昔と違って「学問的な興味」みたいな、学問好きが持つフィルターみたいなものを通して数学を見ることができるようになったため、俺は数学を他の学問分野と同様に「尊重」して捉えることができるのだが、それは「好き」であることとは違う。小学3年生の頃に半年ぐらい俺は小学校に行かなくなったが、それはいじめや勉強ができないというのではなく、本当にピンポイントで「算数が嫌い」だったことが原因だったほどである。算数ドリルやワークブックという、全く価値の見いだせないクソのために「がんばり学習」とかで夕方4時ぐらいまで残され、あれができていない、これができていない、こんなのもできないの?とクソ教師(俺が付けたニックネームだと「眼鏡ババア」)に言われるのが我慢ならなかった。「うるせぇクソが!俺(様)を残すんだったら他の面白い理由で残せ!」と言いたかったが、(まだ)言えない小心者だったので、やらない、という選択をした。理由がピンポイントだったので、別に算数ができなくても俺を残さなくなった先生になった小学4年生以後のクラスでは、「何事も無かったかのように」学校に行くようになっている。
 このような筆者であったが、特にこの本に価値があると思わされたのは、前半部分のナッシュのよく「天才」にありがちな傲岸不遜と呼ばれる行動様式と、それでもやることはやって成功しましたという感じの描写ではなく、やはり後半部分の統合失調症の罹患状態と、そこからの回復にある、と思われる。
 とりわけ、「ノンフィクションもの」なので、半分歴史学的なリサーチが要される作業だったと思うが、各精神病院の施設状況や特徴まで、詳細な描写がされていて、それがナッシュが直面した絶望の描写を際立たせている。途中のカフカの作品や彼の作品を使ったナッシュの状態の描写の部分については、カフカ好きの人間からすれば的外れ感があったのだが、それ以外の後半の描写にはリアリティがあった。統合失調症からのナッシュの回復が、劇的にもたらされたものではなく、「なんとなく」治ったということ、そこからノーベル経済学賞受賞という学者にとっての最高の栄誉もまた、彼自身の生活に劇的な変化をもたらしたわけではなく、彼の学問的態度が継続した点に変わりがない、ということについては、かなり現実味のある書き方がされていると思う。俺のように数学や算数ができなくても、この本には読む価値があるだろう。「眼鏡ババア」も読んでいたら算数ドリルができないというどうでもいい理由で俺を残さず、さっさとお互い家に帰ってもっと生産的なことに時間を使えたかもしれない。

2015年3月15日日曜日

東京奇譚集 感想

 文庫版になっていた村上春樹の「東京奇譚集」を(また彼女に薦められる形で)読んだ。またお前は村上春樹の本を読んでいるのか、いい加減ハルキストとか自称して「ノルウェイの森」とかに感銘を受けた、やばい、ハワイに住みたいとか嘘を並べたらいいんじゃないのか、と思うが、前書いた通り人から(ほぼ100%彼女から)薦められないと全くと言って良いほど今では本を読まなくなったので、村上春樹の本が多くなるのは俺のせいではない。
 「東京奇譚集」は、多分1度読んだとか思っていたが、読み終わったあと多分「~奇譚集」とか、別の本のタイトルだったかもしれん・・・ということが判明した短編集だった。いつも通り「短編集」という形式になった段階で今の俺にとっての本への誘引力が3倍ぐらいになる。
 内容としてはまずいつも通り1本目の短編で主人公はセックスします。(原作:村上春樹、絵:矢吹健太郎とかにして、とにかく特定の主人公がモテまくる内容でジャンプで連載すれば良いんじゃないか。性描写が出てくるのでヤンジャンとかになるかもしれない)。書かれていなかったが、この類の主人公は多分長編になったらジャズも聴いているだろうし、お酒も飲んでいると思う。
 途中までこんな感じで別に引っかかりも何もなく、「ああ、(村上春樹が書きそうな)短編小説だな」と思っただけだったが、最後の品川猿という、記憶を盗み(かつ人語を解する)猿の話が、良い意味でリアルとかフェアとか度外視して珍しくただ不思議系の面白い話を書こうとしたんだな、と思わせる内容だった。村上春樹の作品で、SF(すこし、不思議)要素が出てくる場合、大体はSF(すこし、不思議)の元凶になっている本体そのものは見せない、あるいは本体そのものと対峙させない感じになり、あくまで「現実世界の中目立たない闇の部分」みたいな感じになるのだが、この品川猿では上記した不思議な猿がそのまま不思議な猿として登場するので、世界観そのものがやや非現実的になっている。まあ「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」みたいに、そもそも世界全体が非現実的な場合も昔はあったのだが。
 それでもまだ「品川猿」は「品川」と名前が付くように、「東京」の話なので、普段あまりに鼻につく主人公の設定と言動にうんざりしている方も、この珍しい不思議系の話だけは読んでみると良いかと思う。もっとも、内容そのものを「村上春樹」から切り離した場合は特段の価値は見いだせないのだが。

2015年2月21日土曜日

カフェオーレの話


カフェオーレがモンハンとコラボしていた・・・のを発見した。カフェオーレが良いのは甘過ぎて安いところだと思う。マウントレーニアが120円~140円ぐらい、ドトールのラテもそれぐらい。スターバックスは異様に高くて170円以上する場合があり、カフェオーレは100円ぐらいがこのサイズで売られているので、得である。これとメロンパンとか一緒に買うと漏れなく中学生みたいな気分になる。

2015年1月12日月曜日

また京都に行って伏見稲荷神社に初詣に行った話

時間が経つと更に人間の数が増大していった

 また彼女と京都に行った。今度は伏見稲荷神社に初詣するという目的のためである。

有名な千本鳥居。いや千本はないでしょとか思っていたが、ここから延々延々鳥居があり続ける。

 伏見稲荷神社はトリップアドバイザーの「行ってよかった外国人に人気の日本の観光スポット2014」で1位になったらしい。確かに千本鳥居とかを見てしまうとそう思う。他にもおもかる石などのアトラクションめいたものが点在していて、飽きさせない作りになっている。

お稲荷様。左に鍵、右に玉

 肝心の初詣であるが、俺が引いたおみくじは大吉で、とにかく全てを手に入れることになるらしい。よって今年も俺は俺が書きたいことを書くだろうし、YPPと戦うだろうし、ちゃんと税金を納めると思う。

2015年1月6日火曜日

淵の王 感想

 何か最近本屋で日本人作家の本が何も面白そうではなく、少数の面白いことを知っている司馬遼太郎などの作品は軒並みまだ読んでいないのが長編しかなく、長編は疲れるので読みたくなく、どうしよう、困った、と思って真面目な顔をして本屋を去っていたのだが、また彼女に舞城王太郎が『新潮』2015年1月号に掲載した「淵の王」という新作を薦められたので、読んだ。読むことになった。
 いつも通り適当な概要を書いておくと、3人の主人公がそれぞれの人生を過ごしながら、西尾維新の『鬼物語』で出てきたような「くらやみ」に遭遇して、2人目まで負けて、3人目で勝ったと思われる話である。いつも通りこの作者の作品の概要を真面目に書くと意味が分からないが、こんな話である。また、今回はそれぞれの主人公の1人称ではなく、それぞれの主人公と共にある文字通り「スタンド」みたいな存在の独白が、語り部の役割を果たす仕組みになっているので、正確には6人の主人公が「くらやみ」に遭遇して、5人目と6人目で「くらやみ」の正体と対決してなんとなく結末に至る話であった。
 実はこの「淵の王」を読む数日前に、半年前に買った文庫版の『イキルキス』に収められている「アンフーアンフー」と、「無駄口を数える」という書下ろしの短編を今更読み、「イキルキスもアンフーアンフーも正直面白くないが、『無駄口を数える』という短編については良いな。特に錯乱した主人公の友達が突然悪意によって主人公の子供を窓から投げ捨てる所の描写が優れている」と思っていたのだが、この「淵の王」も、共通する部分で秀逸だと思った。
 最近この作者は日常をぶっ壊して読者を焦燥させるのが上手くなっている、と思う。『煙か土か食い物』や『暗闇の中で子供』などの昔の作品は、「積み上げた日常で生み出すことのできる安心感をぶっ壊す」のではなく、「最初から最後までぶっ壊しまくる」という感じであった。ところが、最近はちゃんと人間の人生を常識的な範囲でちゃんと描くようになり、登場人物は必要な手段を講じ、努力をして、仕事をして、恋愛をして、セックスをして、結婚をするようになり、その上でぶっ壊されるようになった。今回の作品では、(5人目と6人目は物語を終わらせるために作られているので別にして)特に1人目と2人目、3人目と4人目はきっちり学生の頃からの成長の様を描き、「人生を歩んでいる姿」を描写した上でそれぞれの人生をぶっ壊す様を描く作業が行われている。その結果、「くらやみ」という人間の悪意に「敗北」した1人目と2人目、3人目と4人目の壊れる様は、非常に儚く、自然に残念に思える作りになっていた。
 また、5人目と6人目でおなじみの福井県警とか出てきて、またどうでもいい謎解き要素が描かれるのか、と思ったが、そういったことは全くなかった点も良かったのではないか。今回はどうでもいい謎解きを主人公がすることで勝利するのではなく、キング的な超自然的な手段を講じて、超自然的な対象を撃破する物語であった。

2015年1月1日木曜日

2015年の標的

1.自分が書きたいものをちゃんと書く

結局何かまじめな文章を書いて世に出したが、今年も結局ちゃんと文章を書く。ブログすら最近は書けない感じが続いているが、また何か書こうとしたいと思う。

2.YPPとの戦いの継続

もう年中行事みたいになってきたが、良い修行の口実であり、また目的でもあるという存在なので、とりあえず俺の人生においては付き合っていく。

3.ちゃんと金を稼いで税金を払う

国家という存在を手段として信奉し続ける限りは、お金を稼いで税金を払う。国民を茶番の選挙に行かせる国家は決して優れているとは思わないが。