僕は他人が嫌いで嫌いでしょうがないって思ってた。高校に入学した僕は入学前は成績も中の上でぱっとしない僕の顔に拍車をかけてぱっとしなくて僕と同じ中と上くらいの友達となあなあの付き合いをしてたんだけど、入学して中学校とかで遊んでた友達とかが疎遠になると、なんだよあいつら結局俺とかそういう扱いかよって感じになって、だんだん無口になって入学して1週間弁当とかも一人で食べてると自分って痛くて、学校が嫌になっていきなり3ヶ月間引きこもってみると最初の数日間はモンハンとかやってて僕って社会のゴミだなと思ってたけど、でもそればっかりやってると超うまくなってアドパとかに行くと他の人が逆にこのコミュニティではゴミみたいに下手糞で、「どうやったらそんなにうまくできるんですかw」「練習かなwwwww」とか平日の10時とかにやり取りしてるとまた痛くなってきて、僕はふざけてるだけだよwって装うために集会所に入室したままゴーストを残して部屋を出るっていう定番の嫌がらせをやってると、次第にコミュニティっていう概念自体が多元化してるのが現実なのかもしれないと思って「コミュニティ」をググってみてもウィキペディアの共同体の項目が最初に出てきて、winnyで落とした貧乳の少女が触手で蹂躙される同人誌でオナニーばっかりしてる大学生の兄のレポート作成と同じ作業をしてる自分がちょっと嫌になって、こんな馬鹿な自分やロリコン野郎を根絶やしにするためにも僕は偉くなろうと思って勉強を始めた。勉強を始めると以外に集中できて、僕は高校(まだ1週間しか行ってないけど)入学3ヶ月で数ⅡBと仮定法から不定詞と間接話法まで完全に理解して多分そこら辺の高校生よりは賢くなってしまって、それが自分自身のある種の全能感を増大させた結果、他人を社会的にゴミ扱いしたくなった僕はひきこもりを止めて使ってなかったお年玉で駅前の代々木ゼミナールに公開模試を受けに行って家族を喜ばせる。別にお前らクソのためじゃないよ?とか思いながら僕もまんざらでも無くて、そういう自分がちょっと嫌になってきて、というか何も自分を貫徹させてない自分が嫌で、他人に加えて本格的に自分も嫌になってきて、自分が嫌になっちゃうと僕の世界って何だろうっていうスパイラルに巻き込まれて、代ゼミに行く前に自殺することにした。でも何か僕だけ自殺するのも結局僕がゴミでしかなかったことを認めるみたいで許せなくて、とりあえず世間で起こっている事件を模倣してやっぱりなって感想をいろんな人に与えて、でもそのやっぱりなっていう感想は実は僕の思い通りなんだよ?って優越感に浸るために線路に人を突き落として電車で轢かせようと思って全然電車に乗ったことない僕が渋谷駅までふうふう言いながら歩いて行って、そういえばお父さんはいつも品川品川って言ってたことを思い出して、品川駅までの切符を買って、山手線のホームで誰を殺そうか物色してると、丁度いいことに僕と同い年ぐらいで学校をサボってたDQNらしき男子を発見してこいつを殺すことに決める。
そのDQNは顔は横顔を見た感じだとそこそこジャニーズに居そうなむかつく顔をしてて、髪は真赤に染めてて僕の通ってた高校と同じような学ランを着ていた。こいつで全然いいと思った僕は乗降マークの直ぐ上に直立して電車を待っていたDQNを突き落とすためにDQNの後ろに立った。僕は心臓がばくばくしててちょっと泣きそうになって、足もちょっと震えてきて、こんなこと何の意味があるのかとか思うけど、でももう考えるのも嫌になってきて、しばらく待ってるとだんだん昔小学生の頃ソフトをやってた時に代走で一塁に立って二塁まで盗塁のサインが出た時のことを思い出した。あの時はそう言えば失敗してあれー?みたいな、他人事みたいな顔でベンチに帰ってるとコーチだったお父さんがぐんにゃりした表情をしてたんだって思ってると電車が来てることに気付いて、あせった僕はよろけるようにしてDQNの背中に体あたり「こ う かは ば つ ぐん だ !」→潰れたトマトの完成という展開!と思ってたんだけど、体あたりした勢いのままアスファルトが見えてきて、あれ?当たらないって思った瞬間僕の腹にブロックが衝突したような何かがどひゅんってぶつかって僕はがばっ!!って漫画みたいな声を出してホームの後部に後頭部から吹き飛ばされて柱にそのまま直撃してしまう。
2010年8月27日金曜日
ソード・ダンス (1)
刀彌舞姫は鞘から刀を抜き払い、透き通った刀身に見入った。刃紋は乱れの無い直刃。舞姫は自分が手にしている刀が自分自身に似ていると思い込んでいた。しかしそれは自覚された自己欺瞞であり、彼女の宿望の投影された姿に過ぎない。舞姫は自分の中の乱雑で対他的な暴力性を、抑えられないことを知っていた。彼女にとっては暴力こそが自己規範であり、それを客観的に否定するような環境を、これまでの人生の中で持ったことが無かった。
彼女は浅く肩で呼吸しながら、ゆっくりと刀を鞘に収めた。刀身の光がしゃらしゃらとした音と共に消えていく様を見ながら、彼女は昨日と、そして昨年の4月5日と、同様の諦観を覚えていた。
舞姫が出勤すると助手の男性が既に研究室に出勤していた。彼の名前を舞姫は覚えていない。「おはようございます、刀彌先生。」「おはようございます。」舞姫はコートを脱ぐと椅子の背もたれに掛け、そのままデスクトップパソコンのスイッチを入れた。「先生、暑くないんですか。今日は最高気温が確か20度を越えるらしいですよ。」舞姫はデスクトップの画面が出ると、画面を埋め尽くしている無数のフォルダの中から、今日精神鑑定を行う殺人者の情報に関するファイルを開いた。殺人者の名前は不死原快楽。3ヶ月前に新潟県柏崎市にある研修所で合宿を行っていた「ゆうゆうダンス倶楽部」のメンバー、85名を日本刀で惨殺した後、市内にある自宅への帰り道に立ち寄った保育園の児童と教師、及びたまたま園芸会で撮られた写真を園長に渡しに来ていた写真屋の男性、そして、たまたま現場を通りかかった人々、合わせて73名の首を斬って殺害し、殺人罪の容疑で逮捕されている男である。
ここまでの情報を5分ほどで閲覧した舞姫は、半ば義務的に今日の彼との面談の時間を確認した。面談予定時間は4月5日午前10時30分。意味の無い作業である。彼女は更に機械的に先日行った精神鑑定の結果のリライトを行うことにした。面談の時間まであと1時間もある。
10時15分頃に、不死原が警察官に連れられてやってきた。不死原は思ったよりも背が低く、まだ若いと言っていい顔をしていた。彼からはトイレの芳香剤のような香りがしていたが、髪は洗っておらず、髭と同様、伸ばし放題であった。じっと寝惚けたかのような顔で床を見つめている。
不死原を左右から押さえ込むようにして連れている捜査官の一人は、珍しく舞姫の見覚えのある人間であった。「本日はお世話になります。新潟県警捜査第一課刑事部長の不死原苦です。どうぞよろしくお願いいたします。」「どうぞよろしくお願いいたします。ではこちらにどうぞ。」苦は早足で、他の2人の警察官と引き摺るようにして快楽を連れて舞姫と彼女の助手の後を追った。彼女以外の者は快楽に触れるたびに無表情のまま鼻から息を吐いた。
不死原苦は不死原快楽の妹であり、快楽を逮捕した張本人である。快楽と苦は、10年以上、彼らだけで柏崎市にある一軒家で二人きりで暮らしていた。彼らの両親は快楽と苦が小学生の頃、交通事故で死亡している。親戚は彼らを自分たちの家に招き入れようとしたものの、親戚の家に何度連れて行っても、数時間すると苦が生家に戻ってしまい、誰が何を彼女に言っても彼女はその行動を繰り返したため、結局兄である快楽が1人で妹の面倒を見つつ、二人きりで生活をすることとなった。数学が得意であった快楽は塾で教鞭を取りながら、給金で苦を養いつつ、高校、大学と通った。彼と苦が18歳になるまで遺族年金が支払われていたし、幸い保険金も下りたので、彼らにはたとえ贅沢ができなくとも、毎日過ごすだけの蓄えがあった。
快楽は大学卒業後、アルバイトとして勤務していた塾にそのまま就職した。彼は大学の成績も良かったため、周囲の人間は彼が都市の大企業に就職するか、そのまま数学の研究のために大学院に進学するものとばかり思っていた。しかし、彼は当時高校3年生であった妹の苦が、将来新潟県警で勤務することが夢であったことを知っていたため、新潟に残って彼女との生活を続けることを選んだ。
事件当日、血に塗れた姿で日本刀を手に、自身が刈り取った首を、保育園の小さなグラウンドに足でサッカーボールのように転がして整列させている快楽の姿を見た、たまたま保育園の前を通りかかった主婦は、彼の姿を認めるなり絶叫し、瞬時に抜き放たれた刃によって絶命した。快楽が保育園児に比べて大きな彼女の頭部を、彼が整列させている首の方へ蹴り飛ばそうとしていると、再びたまたま通りかかった老婆が絶叫し、刹那、抜き放たれた刃によって首が切り離され、もう1つ蹴り転がされるボールとして、快楽の足下に目を見開いたまま転がった。この首も蹴ろうとしていると、再び駅から自宅へ帰ろうとしていた就職活動帰りの大学生が通りかかり、切断され、快楽の足下に臥した。快楽は、通りかかる人々が彼の姿を見て驚嘆する度、次々と絶叫→切断→キック→絶叫→切断→キック→絶叫→切断→キックというサイクルで殺人を1時間ほど繰り返した。
最初は整列されていた頭部までの距離が遠く、また快楽が思っていたよりも人間の頭部が重かったこともあり、つま先でのトゥキックを用いていたが、列が近づいてくるとコントロールを付けるため、足の腹でインサイドキックを行った。時々キックの力が強すぎて、並べられていた頭部が転がされてくる頭部に衝突し、列をはみ出てころころと前に転がってしまい、その度に列をはみ出た頭部を柔らかなインサイドキックで再び列に戻す作業が生じたため、快楽は、中学や高校でちゃんとサッカー部にでも入っておけば良かったと思った。
彼女は浅く肩で呼吸しながら、ゆっくりと刀を鞘に収めた。刀身の光がしゃらしゃらとした音と共に消えていく様を見ながら、彼女は昨日と、そして昨年の4月5日と、同様の諦観を覚えていた。
舞姫が出勤すると助手の男性が既に研究室に出勤していた。彼の名前を舞姫は覚えていない。「おはようございます、刀彌先生。」「おはようございます。」舞姫はコートを脱ぐと椅子の背もたれに掛け、そのままデスクトップパソコンのスイッチを入れた。「先生、暑くないんですか。今日は最高気温が確か20度を越えるらしいですよ。」舞姫はデスクトップの画面が出ると、画面を埋め尽くしている無数のフォルダの中から、今日精神鑑定を行う殺人者の情報に関するファイルを開いた。殺人者の名前は不死原快楽。3ヶ月前に新潟県柏崎市にある研修所で合宿を行っていた「ゆうゆうダンス倶楽部」のメンバー、85名を日本刀で惨殺した後、市内にある自宅への帰り道に立ち寄った保育園の児童と教師、及びたまたま園芸会で撮られた写真を園長に渡しに来ていた写真屋の男性、そして、たまたま現場を通りかかった人々、合わせて73名の首を斬って殺害し、殺人罪の容疑で逮捕されている男である。
ここまでの情報を5分ほどで閲覧した舞姫は、半ば義務的に今日の彼との面談の時間を確認した。面談予定時間は4月5日午前10時30分。意味の無い作業である。彼女は更に機械的に先日行った精神鑑定の結果のリライトを行うことにした。面談の時間まであと1時間もある。
10時15分頃に、不死原が警察官に連れられてやってきた。不死原は思ったよりも背が低く、まだ若いと言っていい顔をしていた。彼からはトイレの芳香剤のような香りがしていたが、髪は洗っておらず、髭と同様、伸ばし放題であった。じっと寝惚けたかのような顔で床を見つめている。
不死原を左右から押さえ込むようにして連れている捜査官の一人は、珍しく舞姫の見覚えのある人間であった。「本日はお世話になります。新潟県警捜査第一課刑事部長の不死原苦です。どうぞよろしくお願いいたします。」「どうぞよろしくお願いいたします。ではこちらにどうぞ。」苦は早足で、他の2人の警察官と引き摺るようにして快楽を連れて舞姫と彼女の助手の後を追った。彼女以外の者は快楽に触れるたびに無表情のまま鼻から息を吐いた。
不死原苦は不死原快楽の妹であり、快楽を逮捕した張本人である。快楽と苦は、10年以上、彼らだけで柏崎市にある一軒家で二人きりで暮らしていた。彼らの両親は快楽と苦が小学生の頃、交通事故で死亡している。親戚は彼らを自分たちの家に招き入れようとしたものの、親戚の家に何度連れて行っても、数時間すると苦が生家に戻ってしまい、誰が何を彼女に言っても彼女はその行動を繰り返したため、結局兄である快楽が1人で妹の面倒を見つつ、二人きりで生活をすることとなった。数学が得意であった快楽は塾で教鞭を取りながら、給金で苦を養いつつ、高校、大学と通った。彼と苦が18歳になるまで遺族年金が支払われていたし、幸い保険金も下りたので、彼らにはたとえ贅沢ができなくとも、毎日過ごすだけの蓄えがあった。
快楽は大学卒業後、アルバイトとして勤務していた塾にそのまま就職した。彼は大学の成績も良かったため、周囲の人間は彼が都市の大企業に就職するか、そのまま数学の研究のために大学院に進学するものとばかり思っていた。しかし、彼は当時高校3年生であった妹の苦が、将来新潟県警で勤務することが夢であったことを知っていたため、新潟に残って彼女との生活を続けることを選んだ。
事件当日、血に塗れた姿で日本刀を手に、自身が刈り取った首を、保育園の小さなグラウンドに足でサッカーボールのように転がして整列させている快楽の姿を見た、たまたま保育園の前を通りかかった主婦は、彼の姿を認めるなり絶叫し、瞬時に抜き放たれた刃によって絶命した。快楽が保育園児に比べて大きな彼女の頭部を、彼が整列させている首の方へ蹴り飛ばそうとしていると、再びたまたま通りかかった老婆が絶叫し、刹那、抜き放たれた刃によって首が切り離され、もう1つ蹴り転がされるボールとして、快楽の足下に目を見開いたまま転がった。この首も蹴ろうとしていると、再び駅から自宅へ帰ろうとしていた就職活動帰りの大学生が通りかかり、切断され、快楽の足下に臥した。快楽は、通りかかる人々が彼の姿を見て驚嘆する度、次々と絶叫→切断→キック→絶叫→切断→キック→絶叫→切断→キックというサイクルで殺人を1時間ほど繰り返した。
最初は整列されていた頭部までの距離が遠く、また快楽が思っていたよりも人間の頭部が重かったこともあり、つま先でのトゥキックを用いていたが、列が近づいてくるとコントロールを付けるため、足の腹でインサイドキックを行った。時々キックの力が強すぎて、並べられていた頭部が転がされてくる頭部に衝突し、列をはみ出てころころと前に転がってしまい、その度に列をはみ出た頭部を柔らかなインサイドキックで再び列に戻す作業が生じたため、快楽は、中学や高校でちゃんとサッカー部にでも入っておけば良かったと思った。
2010年8月16日月曜日
「信教の自由」から見える他人を傷つけないことの難しさ
9.11の飛行機墜落事故現場である「グラウンド・ゼロ」近辺に、大きなモスクが建設されようとしていることを巡る議論でAnderson Cooperがここ3ヶ月ぐらいで最もぶち切れていた。アンカーの役目を忘れているかのごとくイスラムを過剰に擁護していたコメンテーターに食ってかかっていた。
「信教の自由」は、憲法の議論においても人権の議論においても極めて重要なテーマの一つである。つい昨日も安部という途中で日本国総理大臣の職を投げ出した人が、民主党閣僚が終戦記念日に靖国神社を参拝しなかったことについて、この「信教の自由」という言葉を持ち出して批判していた。
個人的には俺が民主党閣僚だったらお前に言われたくないとか思いそうだが、それ以前にそろそろ「信教の自由に基づいて正当化されているように見える行為が、他人を傷つける場合、なお傷つけることによって損なわれる他人の心情を越えて、当該行為が正当化され得るのか」という問題について直截簡明に言及する国会議員が1人ぐらい居てもいいんじゃないかと思う。
この「信教の自由」というのは、他人を傷つけてまで尊重されるべき概念なのだろうか?おそらく、普通に日常生活を送っている多くの日本人はNOと答えるだろう。なぜなら、「信教」という定義するのも困難で曖昧な概念を守ることより、目の前で怒っている人や泣いている人々の「感情」という、目に見える平穏な日常を乱す要因へ対処することの方が、具体的にイメージされ得るからである。直接見える平和への脅威への対処の方が皆が仲良くする方法として用意に理解でき、少なくとも曖昧で多義的な「信教」という目的の要保護性よりも、具体的な結果への対処の方がイメージしやすく、また「優先される」と考える人が多いのではないだろうか。
しかし、他人を傷つけていることを認識しても、なお「信教の自由」を主張する人にとっては、話はそう簡単ではない。なぜなら、こうした対立する概念が簡便性故に優先されるという考え方は、功利主義的な価値判断に近づくものであるものの、この考え方は彼らにとっては意味をなさないからである。彼らは合理性・簡便性・有効性といった功利主義に親和的な価値基準以外の基準、例えば「過去の大戦を戦った英霊への尊敬の念の絶対性」に基づいて行動しているからである。皆が仲良くするために最善の行動ではなく、「人間」が「誇り」や「尊敬されるべき信念」を持ち生きていくことに不可欠な「何か」が「絶対的に大切」だと感得され得るがゆえに、「信教の自由」に基づく参拝が、隣の国の人が明らかに嫌な顔をしても優先されるのである。
こうしたメタ基準とも呼べる価値基準の対立故に、議論は平行線である。というか、個人的にはこうした議論が議論という手続きによって解決されるのか極めて疑問である。むしろ議論をすることで紛争が助長されてしまう典型的なハードケースのように思えてならない。政治哲学的に何かしらの統一した、合理的な判断基準を構築することで、両者を歩み寄ることができるようにする作業は、知的なトレーニングにはなるかもしれないが、それが最も合理的で効果的な手段であるかどうかは別である。マイケル・サンデルのように「物語的」な文脈の共有可能性に何かしらの糸口を見出す方法があるかもしれないが、そもそも家族的紐帯が薄れている現代で彼の言う「物語」がどれほど日常生活の中で意識され得るのか疑問である。やはり強いリーダーが全ての人々に可能な限り分かり易い言葉で彼の「決定」を伝える政治力による解決しかないのだろうか。
「信教の自由」は、憲法の議論においても人権の議論においても極めて重要なテーマの一つである。つい昨日も安部という途中で日本国総理大臣の職を投げ出した人が、民主党閣僚が終戦記念日に靖国神社を参拝しなかったことについて、この「信教の自由」という言葉を持ち出して批判していた。
個人的には俺が民主党閣僚だったらお前に言われたくないとか思いそうだが、それ以前にそろそろ「信教の自由に基づいて正当化されているように見える行為が、他人を傷つける場合、なお傷つけることによって損なわれる他人の心情を越えて、当該行為が正当化され得るのか」という問題について直截簡明に言及する国会議員が1人ぐらい居てもいいんじゃないかと思う。
この「信教の自由」というのは、他人を傷つけてまで尊重されるべき概念なのだろうか?おそらく、普通に日常生活を送っている多くの日本人はNOと答えるだろう。なぜなら、「信教」という定義するのも困難で曖昧な概念を守ることより、目の前で怒っている人や泣いている人々の「感情」という、目に見える平穏な日常を乱す要因へ対処することの方が、具体的にイメージされ得るからである。直接見える平和への脅威への対処の方が皆が仲良くする方法として用意に理解でき、少なくとも曖昧で多義的な「信教」という目的の要保護性よりも、具体的な結果への対処の方がイメージしやすく、また「優先される」と考える人が多いのではないだろうか。
しかし、他人を傷つけていることを認識しても、なお「信教の自由」を主張する人にとっては、話はそう簡単ではない。なぜなら、こうした対立する概念が簡便性故に優先されるという考え方は、功利主義的な価値判断に近づくものであるものの、この考え方は彼らにとっては意味をなさないからである。彼らは合理性・簡便性・有効性といった功利主義に親和的な価値基準以外の基準、例えば「過去の大戦を戦った英霊への尊敬の念の絶対性」に基づいて行動しているからである。皆が仲良くするために最善の行動ではなく、「人間」が「誇り」や「尊敬されるべき信念」を持ち生きていくことに不可欠な「何か」が「絶対的に大切」だと感得され得るがゆえに、「信教の自由」に基づく参拝が、隣の国の人が明らかに嫌な顔をしても優先されるのである。
こうしたメタ基準とも呼べる価値基準の対立故に、議論は平行線である。というか、個人的にはこうした議論が議論という手続きによって解決されるのか極めて疑問である。むしろ議論をすることで紛争が助長されてしまう典型的なハードケースのように思えてならない。政治哲学的に何かしらの統一した、合理的な判断基準を構築することで、両者を歩み寄ることができるようにする作業は、知的なトレーニングにはなるかもしれないが、それが最も合理的で効果的な手段であるかどうかは別である。マイケル・サンデルのように「物語的」な文脈の共有可能性に何かしらの糸口を見出す方法があるかもしれないが、そもそも家族的紐帯が薄れている現代で彼の言う「物語」がどれほど日常生活の中で意識され得るのか疑問である。やはり強いリーダーが全ての人々に可能な限り分かり易い言葉で彼の「決定」を伝える政治力による解決しかないのだろうか。
2010年8月13日金曜日
聖剣伝説 Legend of Mana 感想
実はこの夏一番の大作だと個人的に思っているのが最近ゲームアーカイブスで600円で配信された聖剣伝説 Legend of Manaである。
このゲームは1999年にプレイステーション用ソフトとして販売されたものである。10年以上前のものにも関わらず、他のゲームがまだこのゲームのシステムに追いついていないように見えてならない。世界を自分で広げるシステム、ゲーム史上に残るほどの無意味とも言えるやり込み度を持つ武器防具作成システム、そして、何より個人的に素晴らしいと思ったのが各シナリオの台詞、キャラクターの設定等である。
このゲームにはメインシナリオと呼べるものが存在しない。全68のシナリオは基本的に一話完結型で、長編となるシナリオ3本のうち、1本をクリアすることで最後のシナリオへと進めるようになっている。特に素晴らしいと思うシナリオは長編では宝石泥棒編とエスカデ編、サブシナリオでは「夢の檻の中へ」や「サボテン」である。
特にエスカデ編は中学生のときにやったときには結局何が言いたかったのか分からなかったが、最近やってみるとこれが他者同士が理解しあうことの関係内在的な要因の不安定さと、時代が変動する状況という関係外在的な要因の複雑性を描いていることが理解できる。言葉が相互理解を導かず、関係は破綻し、誰も救われない状況が時として存在するものの、関係外在的な他者からすれば、物語的に描かれることで時代の変化という正の価値判断を抱かせる事象となっている「状況」や、「環境」が描かれている。
中学生の時はエスカデという存在がどう考えても相互理解を妨げる「悪」にしか見えなかったが、時代の変動という事象を物語的に感得させるという目的においては、彼はむしろ「正義」であった。彼を仲間にせずにルシェイメアに向かうと、ラスボス直前で彼が「英雄になれ」と言い残して息絶える姿を見ることになるが、アーウィンやダナエへの単純な関係内的な憎悪ではないこの言葉が彼が単なる「悪」ではないことを象徴している。本作品のシステムのあり方と若干抵触するものの、作品内に一定の時代の流れをもっと描写することができればこのシナリオはまだ良くなった。
残念なことに、現在では「聖剣伝説」ブランドは完全に凋落していると言ってもいい。ウィキペディアに詳しく経緯が書いてあるが、これだけの物語を作る能力を持った人材がこの作品をもって全員当時のスクウェアから退職してしまったことが1つの大きな要因であろう。スクウェアは彼らを手放すべきではなかった。その後のスクウェア系列の作品は、ファイナルファンタジーという看板を盾に「物語」を欠いた美しい映像を垂れ流す「映画」になってしまった。RPGはプレイヤーが参加できる「物語」でなければならない。どれだけ綺麗な映像でごまかしても、登場人物が空っぽの言葉を喋り、プレイヤーが自分を投影し、何かを得ることができないRPGは駄目である。
このゲームは1999年にプレイステーション用ソフトとして販売されたものである。10年以上前のものにも関わらず、他のゲームがまだこのゲームのシステムに追いついていないように見えてならない。世界を自分で広げるシステム、ゲーム史上に残るほどの無意味とも言えるやり込み度を持つ武器防具作成システム、そして、何より個人的に素晴らしいと思ったのが各シナリオの台詞、キャラクターの設定等である。
このゲームにはメインシナリオと呼べるものが存在しない。全68のシナリオは基本的に一話完結型で、長編となるシナリオ3本のうち、1本をクリアすることで最後のシナリオへと進めるようになっている。特に素晴らしいと思うシナリオは長編では宝石泥棒編とエスカデ編、サブシナリオでは「夢の檻の中へ」や「サボテン」である。
特にエスカデ編は中学生のときにやったときには結局何が言いたかったのか分からなかったが、最近やってみるとこれが他者同士が理解しあうことの関係内在的な要因の不安定さと、時代が変動する状況という関係外在的な要因の複雑性を描いていることが理解できる。言葉が相互理解を導かず、関係は破綻し、誰も救われない状況が時として存在するものの、関係外在的な他者からすれば、物語的に描かれることで時代の変化という正の価値判断を抱かせる事象となっている「状況」や、「環境」が描かれている。
中学生の時はエスカデという存在がどう考えても相互理解を妨げる「悪」にしか見えなかったが、時代の変動という事象を物語的に感得させるという目的においては、彼はむしろ「正義」であった。彼を仲間にせずにルシェイメアに向かうと、ラスボス直前で彼が「英雄になれ」と言い残して息絶える姿を見ることになるが、アーウィンやダナエへの単純な関係内的な憎悪ではないこの言葉が彼が単なる「悪」ではないことを象徴している。本作品のシステムのあり方と若干抵触するものの、作品内に一定の時代の流れをもっと描写することができればこのシナリオはまだ良くなった。
残念なことに、現在では「聖剣伝説」ブランドは完全に凋落していると言ってもいい。ウィキペディアに詳しく経緯が書いてあるが、これだけの物語を作る能力を持った人材がこの作品をもって全員当時のスクウェアから退職してしまったことが1つの大きな要因であろう。スクウェアは彼らを手放すべきではなかった。その後のスクウェア系列の作品は、ファイナルファンタジーという看板を盾に「物語」を欠いた美しい映像を垂れ流す「映画」になってしまった。RPGはプレイヤーが参加できる「物語」でなければならない。どれだけ綺麗な映像でごまかしても、登場人物が空っぽの言葉を喋り、プレイヤーが自分を投影し、何かを得ることができないRPGは駄目である。
2010年8月6日金曜日
「帰ってきたぜ!!お待ちかねの竜がなぁ!!」
一昨日と昨日と2日を俺の今年の夏休みとしていた。朝4時20分に起床して出勤して勤務して勉強するというサイクルを意図的に崩したのだ。このように意図的に自分を崩すことで自分のバランスを取っていると勝手に位置付けている。
さてこの2日間の「夏休み」で朝から酒を飲みながら俺が何をやっていたのかと言うと、タイトルで分かる人もいる通り、戦国BASARA3をやっていた。とりあえず織田信長でクリアするところまでやって、もうあと1週間ぐらいこれに触れなくてもいいかなという具合である。
というかステージの仕組みを覚えてしまうと特別恩賞の取り方とかが機械的な作業みたいになってしまうので、飽きてしまう。このゲームの致命的な点はストーリー性を持たせてRPGみたいにしようと努力はしているが、やはり操作が簡単すぎる点であろう。実際□をずっと連打し続けているだけで十分できてしまう。ボスとなる武将も固くてスーパーアーマーが付くくらいでボコボコ殴り合っていれば結局アイテムを取れる分こちらが勝つように基本的にはできている。この簡単な操作性は逆にこのゲームの根本的なセールスポイントの1つでもあるが、多分1日ずっとやり続けることができるゲームではない。ライトユーザー的にたまにやって爽快感を味わう程度で済ませておく方が楽しめるつくりだと言える。
しかしそれでも個人的には映像が大分ましになっている点と、持ちキャラである伊達政宗の技が強化されている点は十分楽しかった。特に六爪状態でのMAGNUM STEPが全部当たるとすごく敵のライフを削れるので、難易度を究極の状態にしてもその技を連発するだけで戦局を掌握してしまう。今回はHELL DRAGONの出が早くなっているためそっちに目が行きがちだが、六爪状態のMAGNUM STEPとCRAYZY STORMもオススメである。六爪状態でバサラ技が変化したり、各キャラの戦刻ブースト中の究極バサラ技が変化したりすればもっと楽しかったのになあと思う。熱唱びわと「奥」「州」「筆」「頭」を全部装備して出陣すると気分は神。
さてこの2日間の「夏休み」で朝から酒を飲みながら俺が何をやっていたのかと言うと、タイトルで分かる人もいる通り、戦国BASARA3をやっていた。とりあえず織田信長でクリアするところまでやって、もうあと1週間ぐらいこれに触れなくてもいいかなという具合である。
というかステージの仕組みを覚えてしまうと特別恩賞の取り方とかが機械的な作業みたいになってしまうので、飽きてしまう。このゲームの致命的な点はストーリー性を持たせてRPGみたいにしようと努力はしているが、やはり操作が簡単すぎる点であろう。実際□をずっと連打し続けているだけで十分できてしまう。ボスとなる武将も固くてスーパーアーマーが付くくらいでボコボコ殴り合っていれば結局アイテムを取れる分こちらが勝つように基本的にはできている。この簡単な操作性は逆にこのゲームの根本的なセールスポイントの1つでもあるが、多分1日ずっとやり続けることができるゲームではない。ライトユーザー的にたまにやって爽快感を味わう程度で済ませておく方が楽しめるつくりだと言える。
しかしそれでも個人的には映像が大分ましになっている点と、持ちキャラである伊達政宗の技が強化されている点は十分楽しかった。特に六爪状態でのMAGNUM STEPが全部当たるとすごく敵のライフを削れるので、難易度を究極の状態にしてもその技を連発するだけで戦局を掌握してしまう。今回はHELL DRAGONの出が早くなっているためそっちに目が行きがちだが、六爪状態のMAGNUM STEPとCRAYZY STORMもオススメである。六爪状態でバサラ技が変化したり、各キャラの戦刻ブースト中の究極バサラ技が変化したりすればもっと楽しかったのになあと思う。熱唱びわと「奥」「州」「筆」「頭」を全部装備して出陣すると気分は神。
2010年8月3日火曜日
INCEPTION 感想
7月に女の子とINCEPTIONを観た。全体的な点を言うと、物語の構造はしっかりしていたが、キャラ設定が曖昧な(わざと曖昧にしている?)部分があった。例えばコブが死ぬほど追われている具体的な理由や、夢の世界に入ってアイデアを盗むことがどう企業利益に結びつくのか、そういった文脈が描かれていないため、サイトーが突然効果とかが不明のままにINCEPTIONをやって欲しいと依頼して来たかのように見える点があった。
最近村上春樹の小説を読む機会があったので、読み手や観客のあり方として、こうした描かれていない部分は、例えば登場人物の不気味さとか底知れない何かを描くための手段と捉えるべきなのかなという気もするが、夢の中に入って他人のアイデアに触れることの有用性や、どうビジネスに活かされている世界なのか、を伝えきれていなかったように思われる(その「危険性」はストーリーの主題たるミッションによって描かれていたが)。
また、登場人物が「調合師」や「設計士」など、その道のプロで裏社会で生きている人々ということは分かるのだが、大学で仲間にした女の子以外、ほとんど全員の戦闘能力が高い点も謎だった。夢の世界で何かしら作為を行うと、夢を見ている人の防衛本能が働き必然的に戦闘になるから、その道のプロである以上はある程度戦う技術を持っていないとダメということだろうか。
個人的にはもう主演のレオナルド・ディカプリオが家庭があって子どもが居る役を演じることができるようになったんだなあ・・・という感想もあった。ロミオとジュリエット、タイタニック、ザ・ビーチ、仮面の男、ブラッドダイヤモンドなど、彼はこれまでの映画の中では、どちらかというと「好き放題やっている若者」を演じる傾向があったんじゃないかなと思っていたので、いやー俺もちゃんと年を取っているんだと思った。彼の英語は割合はっきりしているので、リスニングの勉強にもなるだろう。
結論として、映画それ自体の作りや設定は、上述した作りの甘い部分を除いて非常に観ている側に分かりやすくなっていて、観客を引き込んだと思う。無駄に設定の説明をせずに、こうした映画の仕組みを分からせる点は卓越していた。個人的にはアバターよりこっちの方が面白い。
最近村上春樹の小説を読む機会があったので、読み手や観客のあり方として、こうした描かれていない部分は、例えば登場人物の不気味さとか底知れない何かを描くための手段と捉えるべきなのかなという気もするが、夢の中に入って他人のアイデアに触れることの有用性や、どうビジネスに活かされている世界なのか、を伝えきれていなかったように思われる(その「危険性」はストーリーの主題たるミッションによって描かれていたが)。
また、登場人物が「調合師」や「設計士」など、その道のプロで裏社会で生きている人々ということは分かるのだが、大学で仲間にした女の子以外、ほとんど全員の戦闘能力が高い点も謎だった。夢の世界で何かしら作為を行うと、夢を見ている人の防衛本能が働き必然的に戦闘になるから、その道のプロである以上はある程度戦う技術を持っていないとダメということだろうか。
個人的にはもう主演のレオナルド・ディカプリオが家庭があって子どもが居る役を演じることができるようになったんだなあ・・・という感想もあった。ロミオとジュリエット、タイタニック、ザ・ビーチ、仮面の男、ブラッドダイヤモンドなど、彼はこれまでの映画の中では、どちらかというと「好き放題やっている若者」を演じる傾向があったんじゃないかなと思っていたので、いやー俺もちゃんと年を取っているんだと思った。彼の英語は割合はっきりしているので、リスニングの勉強にもなるだろう。
結論として、映画それ自体の作りや設定は、上述した作りの甘い部分を除いて非常に観ている側に分かりやすくなっていて、観客を引き込んだと思う。無駄に設定の説明をせずに、こうした映画の仕組みを分からせる点は卓越していた。個人的にはアバターよりこっちの方が面白い。
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