9.11の飛行機墜落事故現場である「グラウンド・ゼロ」近辺に、大きなモスクが建設されようとしていることを巡る議論でAnderson Cooperがここ3ヶ月ぐらいで最もぶち切れていた。アンカーの役目を忘れているかのごとくイスラムを過剰に擁護していたコメンテーターに食ってかかっていた。
「信教の自由」は、憲法の議論においても人権の議論においても極めて重要なテーマの一つである。つい昨日も安部という途中で日本国総理大臣の職を投げ出した人が、民主党閣僚が終戦記念日に靖国神社を参拝しなかったことについて、この「信教の自由」という言葉を持ち出して批判していた。
個人的には俺が民主党閣僚だったらお前に言われたくないとか思いそうだが、それ以前にそろそろ「信教の自由に基づいて正当化されているように見える行為が、他人を傷つける場合、なお傷つけることによって損なわれる他人の心情を越えて、当該行為が正当化され得るのか」という問題について直截簡明に言及する国会議員が1人ぐらい居てもいいんじゃないかと思う。
この「信教の自由」というのは、他人を傷つけてまで尊重されるべき概念なのだろうか?おそらく、普通に日常生活を送っている多くの日本人はNOと答えるだろう。なぜなら、「信教」という定義するのも困難で曖昧な概念を守ることより、目の前で怒っている人や泣いている人々の「感情」という、目に見える平穏な日常を乱す要因へ対処することの方が、具体的にイメージされ得るからである。直接見える平和への脅威への対処の方が皆が仲良くする方法として用意に理解でき、少なくとも曖昧で多義的な「信教」という目的の要保護性よりも、具体的な結果への対処の方がイメージしやすく、また「優先される」と考える人が多いのではないだろうか。
しかし、他人を傷つけていることを認識しても、なお「信教の自由」を主張する人にとっては、話はそう簡単ではない。なぜなら、こうした対立する概念が簡便性故に優先されるという考え方は、功利主義的な価値判断に近づくものであるものの、この考え方は彼らにとっては意味をなさないからである。彼らは合理性・簡便性・有効性といった功利主義に親和的な価値基準以外の基準、例えば「過去の大戦を戦った英霊への尊敬の念の絶対性」に基づいて行動しているからである。皆が仲良くするために最善の行動ではなく、「人間」が「誇り」や「尊敬されるべき信念」を持ち生きていくことに不可欠な「何か」が「絶対的に大切」だと感得され得るがゆえに、「信教の自由」に基づく参拝が、隣の国の人が明らかに嫌な顔をしても優先されるのである。
こうしたメタ基準とも呼べる価値基準の対立故に、議論は平行線である。というか、個人的にはこうした議論が議論という手続きによって解決されるのか極めて疑問である。むしろ議論をすることで紛争が助長されてしまう典型的なハードケースのように思えてならない。政治哲学的に何かしらの統一した、合理的な判断基準を構築することで、両者を歩み寄ることができるようにする作業は、知的なトレーニングにはなるかもしれないが、それが最も合理的で効果的な手段であるかどうかは別である。マイケル・サンデルのように「物語的」な文脈の共有可能性に何かしらの糸口を見出す方法があるかもしれないが、そもそも家族的紐帯が薄れている現代で彼の言う「物語」がどれほど日常生活の中で意識され得るのか疑問である。やはり強いリーダーが全ての人々に可能な限り分かり易い言葉で彼の「決定」を伝える政治力による解決しかないのだろうか。
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