S・キングのデスペレーションを読んだ。超簡略したあらすじを書くと、頭が狂っていてさらに(物理的に)腐っているネヴァダ州のデスペレーションという町の警官エントラジアンが、町内の人々を(ある意味)1人で虐殺し、さらに近くを通りかかった人々を拉致し、謎の理由でその町の警察署内の留置所に監禁したが、囚われた人々はどうにか協力して脱出を図ろうとする・・・という話である。
この小説は前回紹介したレギュレイターズと対になる作品で、登場人物の名前がほとんど同じ点に特徴がある。もちろん全く同じというわけではなく、向こうの世界で生き残った人間が、デスペレーションでは死んだりする。また一部登場しない固有キャラクターも存在する。
さて、感想であるが、個人的には今まで読んだキングの作品の中では、長編ではミザリーに継いで素晴らしい作品だと思った。レギュレイターズと同じく、日常が非日常に侵食されていく様が描かれるが、向こうがよりエンターテイメント性を重視した作品だとすれば、こちらはより文学性を重視した作品である。特に、この作品においては「神に愛された少年」デヴィッドを通じて、キングが「神」をどのようなものとして描き出すのかが見所である。少なくとも今まで読んだ作品の中ではもっとも作者自身の「神」に対する考え方が述べられていたように思われる。
この点に関連して、印象に残ったのはタックという「デヴィッドの神」と対峙する神の存在が、キングによってアニミズム的な多元性を持って描かれている点である。これはキングの世界観、すなわち「世界は1つではなく、多元的であり、それに従って存在する『神』も多元的である」という態度が表されている整合性ある態度だと思う。そして、神の間に「強弱」があることが「僕の神は強いんだ」というデヴィッドの言葉で表されている。これは、キング小説の根本的な世界の多元性、もっと言えば「多層性」と非常に親和的な考え方である。すなわち、キング世界においては、全てのキング小説の世界を包括するメタフィジカルな次元としてダークタワーで描かれた様々な「世界」とそこに住まう神々がある種の上位層として存在しつつ、我々の住まう実社会はその世界とは異なる次元のものとして存在している。そして、ダークタワー世界(「アウトサイダー」が住まう世界)と我々の住まう実社会は、カ(=運命、宿命)によって相互的な連関を有し、互いに影響を与え合っているものとして理解されているのである。レギュレイターズやデスペレーションで登場したタックは、まさにキング作品の世界観に従って見れば、次元超越的な「アウトサイダー」として考えることができる。
しかし、個人的にはこういった作者自身の世界観に対する補完以上に、より素朴な神に対する作者の理解を見ることこそ、この小説の真髄であると考える。作者は、(勿論これまでもそうだったが)宗教行為と神の存在についてのある意味醒めた現実的な理解をデヴィッドを通じて示している。神は悪や善を超越した存在として理解される。それは残酷であると同時に慈悲深く、全てを与え、全てを奪うものとして存在している。神は宗教上のある種の目的ではなく、各層を包括する力そのものである。
ところが、キングは神は単に人間の上位にある存在として理解しているわけではない。キングにとっては、人間もまた「神」に与え、奪う存在として理解されるのである。実際、この作品においては、確かに神の力によって多くの奇跡が起きた。しかし、その全てを神のみの力が起こしたのではない。実はその全ての人間の活動というものが必要となっているのである。タックも「デヴィッドの神」も共に人間を求めた。タックは「全てを奪う者」として人間を用い、「デヴィッドの神」はそれに抗うために人間を用いた。神の配置した(カ・テットともいえる)「デスペレーション生き残り組」という1つの「輪」も、1人が自分の意思で離脱するだけで簡単に崩れてしまう。結末部分で描かれる、「それでも神を愛してやってくれよ」というマリンヴィルの訴えは、単に多層的な世界観に甘えて上下関係的に「与える者」・「奪う者」として神を理解するのではなく、相互的・相補的なものとして神と人間の関係性を理解すべきではないかという、作者の考え方が表れている。一方では親友の命を救い、一方では自分以外の家族が皆殺しにされることを容認する残酷な神を、人間はどのように受け止め、どのように付き合っていけば良いか、ということを、キングはこの作品を通じて描き出していると思う。
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